Macの新TVコマーシャル

 最近オンエアされているMacのTVコマーシャルはかなり笑える。日本で流れているかは知らないけど、Appleのウェブサイトで公開されている。
http://www.apple.com/getamac/ads/
 WindowsとMac役の二人が「やあ、ボクはマック。」、「やあ、ボクPC。」と並んで出てきて掛け合いをしながら、Windowsの不便さをネタにして小バカにするという、MacのイメージCM。
 PC役のキャラクターが太めのさえないビルゲイツ風で、Mac役もGeek系だけどちょっとクールなMacユーザー風の若者。PCがフリーズしたり、ウィルスで風邪ひいたり、パッとしなさがどれも笑えて、特に「Network」編がいちばん可笑しい。
 二人が手をつないで「PCとMac同士のネットワークセットアップも簡単。お互いの言葉をわかるんだよ」と話していると、Macの隣に日本人の女の子がやってきて、Macと手をつなぐ。それを見てPCが「おいおい、誰よそれ?」というと、「日本のデジカメだよ」とMacが答えて、女の子と日本語で話し出して、、という流れ。
 このCMでの日本製品と日本語の使われ方は、アメリカで電器店に行くと日本製品がかなりの割合を占めているということと、最近のアメリカの日本ブームの影響があるように見える。Geekな若者の間では、日本のことを知っているのは「クール」で、日本の知識はファッションのようになっている。日本の製品と相性がよくて、日本語もかっこよくしゃべれちゃうMacはカッコいい、というイメージなのだろうか。とにかく、ここでもPC役のボケ具合がいい味を出していて、見るたびに笑える。
 Appleは昔からTVコマーシャルの使い方がうまくて、ブランド確立に貢献している。とはいえ、この部分だけ上手いというのではなくて、トータルのブランド戦略の精度が高いからこそ、その流れでTVコマーシャルも面白いものを連発できるのだと思う。

経験やカンに頼って何が悪い?

 日本のインストラクショナルデザインを取り巻く状況は、私が留学する前と比べて、進んだ面もあれば、ほとんど変わってない面もある。日本のID推進者の人たちがよく使う売り文句で、以前から違和感を持っていたのは、「経験やカンに頼った教育への批判」と「科学的アプローチとしてのID」というところである。
 そこで唱えられるのは、教育の質を高めるには、経験やカンだけに頼っていてはダメで、きちんと系統だった方法論を用いて適切にコースや教材をデザインしないといけない、アメリカではインストラクショナルデザインという方法論が普及していて云々、という感じである。ここでのメッセージは、経験やカン「だけ」に頼って教育を組み立てることや、それを評価改善せずに作りっぱなしにしていることが問題だということなのだが、「経験やカン」の部分が浮いてしまって、経験やカンに頼って教育することがいけないことのように曲解されているところがみられる。情報の出所たるIDの教科書などでは、経験やカン「だけ」に頼るのが問題、と言及されているはずだが、生かじりな知識でIDを単なる売り文句として使っている人たちは、この「だけ」の部分が消えてしまっていて、経験やカンに頼ることが悪いことのように誤解してしまっている(グーグル検索すると、ほんとにいろんな教育機関や企業でそういう言及がされている)。
 また、IDが科学的アプローチだという理解についても大きな誤解がある。ID自体は諸科学の知見を取り入れて系統だてて確立された方法論ではあるけれども、実践の場においては専門的な知識を専門家としての「経験やカン」を駆使しながらデザインするのであって、実践面においては科学というよりも、アートに近い技術の面が強い。なのに、何やら定められた手順に沿ってデザインすれば、効率よく質の高い講座が出来上がるんです、何しろ科学的ですから、という変なニュアンスで捉えられているところがある。そんなわけはない。これも売り文句としてIDを利用している人に共通する曲解である。
 こういう誤解が広まってしまうことの一つの理由として、IDのプロセスモデルばかりが注目されていて、その先になかなか進んでいないことがあると思う。IDプロセスモデルというのは、例のAnalysis-Design-Development-Implementation-Evaluationのいわゆる一般的なADDIEモデルのことを指していて、これに沿って教育をデザインすること=インストラクショナルデザインである、という風に捉えられても仕方がないような扱われ方をしている。これはあまり正しくない。IDプロセスに沿ってデザインするというのは、IDの「イロハ」、基本中の基本であって、それを習得したからといって、いい教育がデザインできるわけではない。
 いうなれば、IDプロセスモデルは、パイのパイ生地の焼き方の手順のようなものである。生地だけ上手に焼いて、はい、パイですよ、と出しても、誰もうまいパイだとは思わない。食べる人(学習者)にしてみれば、パイとはブルーベリーやパンプキンやアップルなどの具(コンテンツ)のでき具合の方が気になるのであって、具が美味ければ、生地をどう焼くかはあまり問題ではない。たとえ生地の出来が多少悪くても、具と合わせてトータルで美味ければそれでいいのである。しかし現時点での日本のIDの知識は、パイ生地を焼く手順のところしか教えていないので、スーパーで売っている出来合いのもの以上のものは焼けず、そこから先は作り手の属人的能力に頼ることになってしまう。当然ながら肝心なのは、パイの具、コンテンツをどう料理するか、である。プロセスモデルの表面だけなぞって、「IDってツマンネ」などと考える人がいたら、その人は生地だけを味見して、パイを評価しているのと変わらない。具の料理の仕方、具にあわせた生地の焼き加減の調整が、インストラクショナルデザイナーの技の部分であって、そこがデザインワークの一番楽しいところである。
 日本のIDの普及状況は、進んでいるところとそうでないところの濃淡はあれ、全体としてみると、最近の構成主義や学習科学の知見を取り入れて変化しつつある米国のID分野の状況からは大きく遅れているように見える。日本で理解されているIDは、構成主義登場以前の、行動主義の影響の強い頃の知識が最新のもののように理解されているところがまだある。おそらくおおざっぱに言って、これはライゲルースの緑本の第二作出版以前の状況、つまり日本のIDは米国よりも10年遅れていると考えると、当たらずとも遠からずだと思う。米国でも構成主義以前は、IDを手順に沿って設計すれば高品質の安定した教育を開発できると考えられていた面はあったし、今もたぶんある(基本的にIDは、高品質の教育ではなくて、質の安定した教育開発を可能にするものである)。当時はデザインといっても、エンジニアリング的な発想の方が強かった。この頃の考え方が日本に広まっているために、経験やカンを否定したり、科学的であることを重宝がったりする面が見られると考えると合点がいく。
 今日の米国のID教育・研究は、90年代以降に構成主義や学習科学の影響を色濃く受けて、よりエンジニアリング発想からデザイン発想にシフトしており、ID教育において行動主義的なIDアプローチは基礎として学ぶけれども、むしろライゲルースの緑本に取り上げられているような構成主義的アプローチをデザイン実践にどう取り入れていくか、ということに力点が置かれてきている(少なくともペンステートやインディアナ等のID分野主要校のプログラムでは)。
 IDが使えないという批判や議論は、以前から米国でも散々されてきており、「ISDへの攻撃」と題した記事が出たりして、手順がまどろっこしいとか、世の中の優れた教育は、IDとは関係ない人たちが生み出している、といった手厳しい批判が繰り返されてきた。また、方法論的なシフトについても、ライゲルースやメリルといったリーダー的研究者を中心に、激しい議論が重ねられてきて、現在に至っている。
 日本でのIDの知識普及が遅れていて、なかなか進んでこなかった理由として、知識創造の担い手が余りにも少なかったことがある。ゆえにこれまではある意味仕方がない面はあった。しかし幸いなことに、この春から熊本大学にID教育・研究の拠点が誕生し、IDの知識を創造し、蓄積していくための砦ができた。たとえ今、日本が10年遅れていたとしても、日本が米国と同じ道をたどる必要はなくて、米国なりヨーロッパなりの動向をきちんと追っていけば、数年は圧縮してキャッチアップし、独自のID研究に基づいた知識創造も可能である。
 何年後かに日本で「ISDへの攻撃」のような記事が出るのを見たくはない。米国で試行錯誤されてきた部分をショートカットするには、プロセスモデル以上の知識の普及を早めていくことである。学習者は、構成主義的アプローチや学習科学の知見もどんどん取り入れながら、デザイン実践の数をこなして、経験を積み、その経験をよりどころにした専門家としてのカンを磨いていくことが必要だ。それによって、その分野の長年の経験やカンを持った専門家と対等に議論しながら、デザインを主導していくことができるようになる。逆に言えば、経験もカンもないインストラクショナルデザイナーは現場のプロ教師や主題専門家に一蹴される。知識ばかり持っていてデザインをしないインストラクショナルデザイナーは、陸サーファーみたいなもので、肝心なところではあまり役には立たない。頼りにする経験やカンを持っていないデザイナーは当てにならないし、経験やカン「だけ」の「だけ」が見えないような人の言うIDは、単なる売り文句なので、そういうところとは一緒に仕事をしないことである。
過去の関連記事:
「IDやってます」の有効期限

「IDやってます」の有効期限


追記:過去の似たような記事をひいてみたら、驚いたことにちょうど一年前だった。何か変な周期があるのかもしれない。2007年版をお楽しみに。

スクール・オブ・ロック

 先日、夕食の後、テレビで映画「スクール・オブ・ロック」をやっていたので久しぶりに観た。ジャック・ブラックの演じるバンドマン崩れのさえない男(デューイ)が、肩書きを偽って代行教員になって小学校でクラスを受け持ち、子ども達をロックに洗脳しながらバンドを始めさせ、コンテストに参加する、という筋書きのコメディ映画である。
 作り手のロックへの愛情が注がれていて、クスッと笑えるマニアックな小ネタがたくさんちりばめていることもあり、ロックファンには評価が高い映画だが、「学校教育風刺もの」の映画としてもかなり興味深い点が多い。ロックの小ネタと同じように、教育学の小ネタがちりばめられている。実験的な教育を行なう主役の名前からして「デューイ」である。この手の学校ものではお約束の、お堅い校長や親たちとのやり取りにも、現代の学校教育の問題への風刺が効いていて、愉快である。メリル・ストリープ主演の「ミュージック・オブ・ハート」やジュリア・ロバーツの「モナリザ・スマイル」、それとロビン・ウィリアムスの「いまを生きる」と同様、学校教育や教師のあり方をテーマを扱いながら、感動の質では同等、笑いや風刺の鋭さが加味されて、これらを凌ぐ作品と言ってもよいと思う。
 学校教師や教育に関わる人たちにはぜひ観てもらって、何が語られているかをよく考えてほしい映画です。「いまを生きる」に感動した人は、この映画からも同質の感動を笑いと共に得られるし、ここに挙げた4作品を見比べてみるととても面白いでしょう。また、教育学や教職課程の授業を持っている方には、教材として利用するのにもってこいの映画です。
 
 

英語教育の足を引っ張るマスメディア

 アメリカ生活ももうすぐ丸4年というところで、ようやく最近「英語で考える」とはこういうことなのかなと実感できてきた気がする。日本語から英語に変換せずに話せることが増えて、ボーっとしている状態で頭に入ってくる英語の量が増えた。英語の夢を見ることも増えた。あいかわらず、英語が上手くなったとは思えないが、英語力不足のせいで会話の流れを壊す場面はあまりなくなった。
 今の自分には、英語ができるというのは、生活上の必然であって、なんら特別なことではない。これは日本にいる時の英語に対する態度とは明らかに変わった点だ。日本にいる頃は、おそらく多くの日本人が持っているのと同じく、英語を使うということ自体に畏怖の念というか、気恥ずかしさというか、不自然な感覚を持っていた。その心理的な阻害要因を減らすリハビリ期間にずいぶん時間をとられた気がする。そのような状態から始めなければならなかったことには、日本で受けてきた英語教育の方法や技術の拙さによるところも大きいと思うのだけど、それ以上に、日本で受けてきた文化的、環境的な影響の方が問題が大きい気がしている。学校の英語教育の場もその環境を形成している要素の一つだが、マスメディア、特にテレビがもたらす悪影響が案外大きいのではないかと思うようになった。
 テレビの悪影響の性質は今思いつく限りでは二つあって、一つは「日本人の英語アレルギー的態度の拡大再増幅」と、もう一つは「英語できる=カッコいい、的な過剰演出」である。前者の代表は、ズームイン朝の「ウィッキーさんのワンポイント英会話」とさんまのからくりTVの「セインカミュのファニエストイングリッシュ」で、後者は「巨泉の使える英語」やバイリンガルタレントの番組での使い方や、英語産業の英語できる=カッコいい的な売り込み方などがある。
 おそらく私が物心ついた頃に最初に英語というものを認知したのは、ズームイン朝の「ウィッキーさんのワンポイント英会話」ではなかったかと思う。毎朝、朝ごはんを食べて身支度をして、ウィッキーさんを見て、「朝のポエム」が始まる頃に学校へ向かう毎日を送っていた。番組内で、道行く日本人がウィッキーさんに話しかけられて、ごく簡単な英語の応答もできなかったり、逃げまくったり恥ずかしがったりするのを毎朝毎朝10年くらい見ているうちに、自然と「英語を話すというのは大変なことなんだなぁ」という意識が刷り込まれ、子ども心に大人たちの英語力の標準の低さを理解させられた。一回3分程度でも、毎朝見れば蓄積も大きくて、自分もウィッキーさんに遭遇したら、テレビに出ている不運な人たちとおそらく同じような反応をしていただろう。この番組は日本人の英語への態度を正直に映し出しているだけで、ウィッキーさんには善意こそあれ悪意はなかったにしても、視聴者が多い分だけ、この番組の悪影響は相当に大きかったと思う。「ファニエストイングリッシュ」も、日本人がいかに英語ができないかをパロディ化して描くことで、多くの視聴者に同様の影響を与えている。テレビを見て笑いながら、英語できなくてもOK、どうせみんなできないし、という態度が強化される。この弊害は案外大きいのではないかと思う。
 同様に、テレビに出てくる「英語のできる人」たちにも問題がある。テレビの英語ができる人たちは、英語をファッションの一部のように扱い、やたらカッコつけていたり、あるいは番組の作り手がそういうかっこよさを過剰に演出していたりする(バイリンガルタレントが取ってつけたように英語でイントロしてみたりとか)。あるいは、大橋巨泉のように、日本の英語教育がいかになっていないかをとうとうと説経して、日本にいて知っていても余り足しにならないようなワンフレーズ英会話を「使える英語」と称して大げさに扱っていたことも、英語に対する人々の特別な態度を強めていると思う。カッコいいから英語をやろうかという人には機能したとしても、それ以外の多くの人たちには、英語を学ぶことが過剰に特別なこととして捉えられて逆影響だという面が強いだろう。実際、高校の時のクラスメートに、英語ができる子がいたのだが、冷やかされるのが嫌で、わざわざベタな日本語アクセントに直して発音していたし、英語ができる人を冷やかしたり、冷やかされるのを避けて遠慮したりというのをいろんな場面で目にしてきた。それ以外にもマイナーなところでは、松本道弘が英語学習を「英語道」のように修行のような扱い方をしていたことも、英語を学ぶことへの心理的な敷居を高めることに影響していると思う。
 日本の英語教育の改革において重要なのは、英語教育の技術的な問題ではなく、「英語ができることで特別視される文化的風土」をいかに変えていくかという点に尽きると思う。技術的な問題や英語教員の質が改善されたとしても、文化的風土の問題がそのままである限り、日本人が道で外国人に遭遇して道を聞かれて、物怖じせずに教えることができるようにはならないと思う。逆に言えば、学校の英語教育改革にコストをかけるよりも、文化的風土の改善にコストをかけた方が効果がある。
 では、文化的風土を変えるためにはどうすればよいか。学校にこだわらなければいくらでも方法はあるし、そもそもシステム的な問題の変革には、いくつもの方法を併用して行なうことが必要である。方向性としては、わざわざ英語を教えるのではなくて、英語を使う機会を増やすことであり、日常生活の中で英語を学びやすくすることである。現在の英語補助教員招聘制度と、最近高まってきている日本文化学習熱とリンクさせるとか(おそらく今はほとんどリンクしてない)、英語圏からの観光者の長期滞在しやすい優遇区域を設置する事業に補助金を出して、各自治体に英語学習特区のようなエリアをあちこち作るといったことは有効かもしれない。現在の英語補助教員制度は、聞いた限りでは無駄が多く、コストに比してリソースが有効利用できてないようなので、若者たちの英語力を学校の英語の授業だけでなく、地域でも有効に利用できる形で再構成した方がよい。
 テレビに話を戻せば、わざわざ英語を学ぶためのテレビ番組を制作するのではなく、人気の海外の映画やドラマに、吹き替えではなくて、英語字幕を標準的に利用できるようにするだけでも英語の学びやすさはずいぶん変わる。日本語字幕や二ヶ国語放送も、多少は足しにはなるが、英語字幕によって何を言っているかを目で追えることの補助効果はそれらよりも格段に高い。DVDではすでに利用できるが、日常的に視聴するテレビでも利用できるようになれば、英語を聞くことが、より身近な存在になるし、そこで得られる英語は、教室の英語ではなくて、リアルな英語である。これだけでも、これまでに変な英語学習観で作られた番組がもたらした英語アレルギーをかなり癒すことができると思う(個人的には、子どもの頃に観ていた「ナイトライダー」とか「冒険野郎マクガイバー」とか「大草原の小さな家」などを英語字幕で見れたらだいぶ違っただろうなと思う。二ヶ国語放送はあったけど、それでは難易度にギャップがありすぎて学べなかった。中学の時に「コンバット!」のサンダース軍曹がかっこよくて、英語音声でがんばって観たりしたけど(もちろん再放送ですよ)、難しくてすぐ挫折したのを思い出した)。
 英語教育は学校の英語教育カリキュラムをいじるだけで完結する仕事ではなく、学習者の環境そのものを変えていかないと有効に機能しない。マスメディアの影響は、その環境要因の中でも重要度が大きいので、メディアから摂取できる情報の質を変え、英語を特別視せず、自然に学べるように方向付けていくことが重要になってくる。これは自分の経験からくる「ワタシの英語教育改革論」でしかないのだけど、教育システム変革論や社会学習理論を学んだワタシが、学術的な知見をベースに考えているので、多少はあてにしてもらっていいと思う。

市民の参画と地域活力の創造: 生涯学習立国論

 当サイトで運営している生涯学習通信「風の便り 」の編集長、三浦清一郎編著の新刊「市民の参画と地域活力の創造: 生涯学習立国論」が学文社より上梓された。3月に上梓された「子育て支援の方法と少年教育の原点」に続いての作品である。
 本書は、三浦氏が代表世話人と毎年行なわれている、中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会の25周年を記念して出版されたもので、これまでの三浦氏の論文や、紹介された事例をテーマごとにまとめた形で構成されている。
 三浦氏は、中四国九州地方の生涯学習分野ではカリスマ研究者とでも形容できるような人気講師である。生涯学習機関、PTA、学校、非営利グループなどに招かれて講演して回って、地域の教育行政変革の主導者として活躍している。毎月配信されている生涯学習通信と、生涯学習フォーラムの論文で、教育行政に対する容赦のない辛口な、ブレのない筋の通った論理が評判となって広がった。論じたことを自治体へのコンサルティングなどを通して実践し、その評価を通してさらに新たな論を展開するというオンゴーイングな生涯学習変革の過程が綴られてきた中から、本書はそのエッセンスを凝縮した、地方から全国に向けた提言となっている。
 生涯学習行政関係者や、生涯学習分野に関心がある人向けのやや固めの本だが、教育分野における事業の立て方、実践の仕方、という点では、広く教育問題、高齢化問題、少年教育に関心のある人には得られるところの多い本だと思う。

学習メディアとしてのアメリカンアイドル

 全米ナンバーワン視聴率の歌手オーディション番組「アメリカンアイドル」も、いよいよ上位3人まで絞られて、今シーズンもあと少しで終わる。毎シーズン、レベルがあがっていて、今シーズンはさらにハイレベルになった。シーズン1で優勝したケリー・クラークソンはセカンドアルバムが大ヒットして、ほんもののアメリカンアイドルに成長したが、今シーズンの挑戦者たちも、それに続く素質を持っていると思う。何といっても歌がうまい。これだけ何度もやれば、そろそろ歌のうまい人も尽きてきて頭打ちになるだろうと思えば、そこはさすが市場のでかいアメリカ、次々とアイドルの素質を持った若者が現れてきて、競争のレベルアップによって、番組のマンネリ化を防いでいる。
 レベルアップしている理由として、この番組自体が挑戦しようとする人々の学習メディアとして機能していることが大きいと思う。番組は地方予選から最終選考までオーディションの模様をドキュメントして、トップ12に絞ったところでライブショーとして、視聴者投票で毎週一人ずつ落としていく形で展開する。サイモン・コーウェル、ポーラ・アブドゥル、ランディ・ジャクソンの3人のジャッジが、それぞれの持ち味を出しながら挑戦者にコメントする。オーディションでは、上手い人、下手な人、それぞれクローズアップされて、勝ち残る人や残れない人の歌い方、立ち振る舞い、ジャッジの目のつけどころなどが描写される。予選を通過した挑戦者たちの人となりや、勝ち残ることでその人に起こる生活の変化の様子など、この番組を通して起こっている人間ドラマがお茶の間(とはアメリカでは言わないのでリビングルーム)に届けられる。地方予選には10万人以上参加するので、やたらにぎやかだが、下手な人も多い。視聴者はその様子を見て、これなら自分の方がましだと思うかどうかは知らないが、番組の盛り上がりにやる気づけられ、応募する。参加したら、その先何が起こるか、勝ち残る準備をするためにどんな準備をすればよいか、といった情報は番組の中で豊富に出てくる。誰もが、シャワーを浴びながら毎日歌ったり、ボイストレーニングを受けたり、教会で歌ったりという形で、歌が生活の中で占める割合が大きくなり、結果、才能のある人は才能を開花させ、オーディションのレベルが上がる、という好循環がおそらく生まれている。似た例を出すとしたら、「アメリカ横断ウルトラクイズ」が感覚的には近い(リンクはWikipedia)。若い人にはこの例が機能しないのだが、このクイズ番組は当時は超人気クイズ番組で、多くの視聴者はこの番組に憧れ、クイズ王になることがステータスとなるなど、日本のクイズ熱を高めるのに大きく貢献した。題材を歌に代えて、それと同じような盛り上がりが全米のあちこちに広がっているとイメージすれば、だいたい近いと思う。
 このアメリカンアイドルも、ウルトラクイズも、大衆向けの娯楽番組である。しかし、非常に多くの人々の心に届き、その中のかなりの人々に学習の動機と目標を与え、行動に変容を起こしている。強いられて行動を変えるのではなく、自発的にトレーニングしたり、実践の機会を持ったりしている。すべては学校や公的教育の外の世界、教育関係の人々が嫌いだったり無関心だったりする、大衆向けの娯楽の世界で起こっている。しかも、教室の中での「生徒のやる気の起こし方、注意のひき方」なんていう小ネタレベルの話とは比較にならないダイナミックな話である。人々がよりよく生きるためのきっかけや経験を提供する手段は、教育的である必要はなく、結果的に意図したものが人々のもとに届けば、表向きは娯楽であれお笑いであれ構わないはずである。教育という表面的な体面にこだわっている場合ではなく、もっとよい意味でずるくなって、いろんな手段を使うことを考えていく必要があると思う。

いちどに全ては得られない

 最近、知らない人から急に連絡が入って、食事に誘われたり、電話でインタビューされたりする機会が増えてきた。わざわざコンタクトしていただいているので、こちらも都合がつく限りお応えしている。頼まれたことに対しては手を抜かずに対応するのがいいと考える点については以前に書いた。これを書いた当時と状況が変わったのは、何で私にそんなことを頼んでくるかなぁ、とぼやきたくなるような、変な問い合わせが減ったことだ。以前は魚屋に野菜を買いに来るような的外れな人や、アメリカにいるという理由だけで頼んでいるだろうそれは、というような問い合わせもあったので、やや対応が面倒だったりしたのだが(とんちんかんな人ほど余計な時間を取られたりする)、そういうのが減ったのは、こちらの看板や軒先に並べてるものが明確になってきた効果かなと思う。
 食事でも電話でも、一回の懇談でせいぜい一時間程度で、その中でシリアスゲームの動向やら研究の話やらいろいろと質問される。こちらも駆け出しなので、エライ人のようにもったいぶったりせずに、知っていることはできる限り相手の腹に落ちるような形で説明するよう心がけている。質問者との相性というか、その場のケミストリーの作用で、いい形でこちらの伝えたいことが伝えられ、普段整理し切れてないことがすっと整理された形で説明できたりすることがある一方で、どうもかみ合わずに、こちらの説明したいことの半分も伝えきれないままで終わることもある。特に最近は英語での懇談の方が多くなったので、なおさらやり取りの質のばらつきは大きくなる。
 そんなにしょっちゅうこのような機会を持てるわけではないので、懇談やインタビューの相手の姿勢は、自然とこの一度の機会で、この対談相手(私のこと)の専門分野の状況をまるごと把握してしまおうという姿勢になる。それは大事なことなのだが、その目論見が必ずしもうまく行くわけではない。何かの調査の目的で話を聴きに来る人は、報告などをまとめる際には、自分の集めた情報が意味のあるものであるという前提でまとめることになるわけで、こちらの答え方がいまいちだったりしたところを、これがこの分野の現状である、みたいな捉え方をされてしまうのはあまりうれしくない。こちらの答え方に不備がある場合は仕方がないが、聞き手の方に知識が足りなくて浅い理解しかできないということも少なからずある。どんなに予習をしっかりしたとしても、その場のケミストリーで良くも悪くも結果は変わるし、聞き手のスキルで精度を高めることはできても、一度の機会で重要なことを吸収しきってしまうのは不可能だ。別の言い方をすれば、ランチ代や一時間の懇談に費やす労力で得られることは高が知れているのであって、それで全部吸収できるのであれば、たいした専門分野ではないし、取材者はみんな専門家になれる。大事なことを知りたければ、少し時間をとって継続的にその分野を追っていかないと、見えることも見えてこないものである。
 これは同時に、インタビューのような動的な状況でのデータ収集に頼る質的研究(特にインタビュー主体でやるフェノメノロジー研究)の難しさでもあるなと認識した。質的研究は、自分自身をいかにデータの中に漬け込んで自分のマインドセットをチューンしていくか、というところにかなり依存するので、訓練の足りない人や、事前データの読み込みが足りない人の集めたデータは、肝心なことを集め切れていない可能性が高くなる。この点では、質問紙に頼ったサーベイ研究や、ウェブをちょこっと検索しただけの調査研究は、さらに大きな不確実性を抱えている。ワンショットのアンケート調査だけではたいしたことはわからないし、勘所のない人が収集した情報というのは、これがネット上で集まるものを全て調査した結果です、と言われても、本当かそれは?と言いたくなるような穴がすぐに見つかるので当てにならない。よほど設計がしっかりしていて、その分野の情報にある程度勘所のある人が調べて、集めた情報をしっかり吟味した結果でなければ、説得力のある結果は得られない。
 普段は研究する側、情報を集める側の立場でものを見ているが、こうしてたまには調査される側、情報を集められる側に立ってみると、、気をつけないといけないことにも気づかされるし、違ったことが見えてきて面白い。

シリアスゲーム論文公開

 年度末に急に依頼がまわって来た論文寄稿の仕事が一区切りして、最終版が出来上がったので、報告書への掲載とは別に、シリアスゲームジャパンでも公開の運びとなった。
藤本徹(2006) 「シリアスゲームと次世代コンテンツ」、財団法人デジタルコンテンツ協会編「デジタルコンテンツの次世代基盤技術に関する調査研究」第四章(PDFファイル)
https://anotherway.jp/seriousgamesjapan/archives/Fujimoto-SeriousGames.pdf
 現時点での、シリアスゲームの概念的な整理が主な内容で、シリアスゲームっていうのを耳にしたけど、実際にはどんなものなの?という疑問にできるだけ答える形で論じてみた。
 読んでみてまだわからないところとか、ここはどうなのよ?という疑問があれば、次の機会にはフォローしますので、ぜひ感想や質問などお寄せください。

博士誕生の季節

 春の穏やかな晴天が続く中、みんな期末の課題に追われている。幸いなことに私は授業を取り終えて、修了試験も終えたABD(All But Dissertation)の身なので、この4年間で最も平和な期末を送っている。とはいえ、手放しで平和なわけでもなく、相変わらず空いた時間は片っ端から埋まっていき、仕掛かり仕事の待ち行列が積みあがっていく。一番厄介なのは、デザインしたゲームのプログラミングで、空いた時間の全てを投入してもさっぱりはかどらない。英語やプログラミングのようなスキルものは若いうちに学んでおくに限るなとつくづく思う。それに博士論文のプロポーザルも手がついていない。油断しているとすぐに時間は過ぎていく。周りにも昨年修了試験を終えたのにまだプロポーザルが通ってない人々が結構いる。
 そんな中、先週から今週にかけて、うちのプログラムから3人の新たな博士が誕生した。来週再来週でもう2人、ディフェンスが入っているので、その2人が無事にパスすれば、今学期は計5人の博士が誕生することになる。みんな一緒に授業をとっていた連中で、台湾人2、中国人1、ドイツ人1、アメリカ人1、アメリカ人だけ男で、あと4人は女性、という内訳である。うちのプログラムは教員も院生も女性が多く、男女比は3:7くらいになっていて、全体でアジア人留学生が6割以上を占めているので、アジア人女性がいちばん目立つ。
 博士研究と並行して、就職活動をすることになるのだが、留学生たちの多くは、米国内のテニュアトラック(テニュア-終身在職権、を取得できる可能性がある)の大学教員職を第一志望にしている。その次に米国内の大学や企業のインストラクショナルデザイナーなどの専門職が人気である。ひも付き奨学金などで留学してきた院生たちや、自分の国の大学などから職のオファーがあった人たちは自分の国に帰る。米国に残る人も国に帰る人も、みんなそれぞれにいい仕事を見つけている。大学院生の就職というのはタイミング次第で、年によってポジションの空きが多かったり少なかったりするし、ぎりぎりになって急にいいポジションがアナウンスされたりする。そんな不安定な中でも幸いなことに、ペンステートのインストラクショナルシステムズは、全米でも評価の高いプログラムで、教員達もこの業界では名の通った人たちなので、就職活動は比較的しやすいらしいのはありがたい。
 私自身も順調に行けば、来年の今頃には博士論文のディフェンスを終えて、なんらかの進路が決まっている状態になっているはずだ。修了試験を終えて以降、身の振り方を考えてきたのだが、自分の能力に対する評価など、軸として考える要素が日々変わっているので、これだ!という形ではまだ定まっていない。数ヶ月前くらいまでは、米国内どこかの大学でポスドクのようなポジションを見つけてもう数年研究修行したいなと思っていたのだが、最近は思うところあって、日本に帰って仕事することを前提に身の振り方をあれこれ思案している。
 でもまずは博士研究をきっちり進めて、終わるめどを立たせないと話が進まない。春の気候のよい時期に卒業したいなぁと強く思う。夏だと暑いし、冬まで引っ張ってしまうとむちゃ寒いし、ビザが切れるので更新するのが面倒だし。

小学校の英語教育導入について

 小学校の英語教育必修化の議論があちこちで盛り上がっているようなので、何が問題になっているのか、少し考えてみた。まずどんな経緯で今のような導入案になったのかを知るために、中教審の議事録や資料を読んでみた。たとえば、公開されている最新のものは次のページに掲載されている。
中央教育審議会初等中等教育分科会 教育課程部会 外国語専門部会(第14回)議事録・配付資料
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/015/06032708.htm
 議事録を読むと、いろいろと面白いことがわかってくる。何よりも、そもそも現状認識としてものすごく間違っているところも散見される。たとえば、「外国語専門部会におけるこれまでの主な意見(論点ごとに整理)(第10回まで)」という資料の中に、次の記述がある。
「○ 教育課程実施状況調査のアンケート調査でも,英語が嫌いな子どもは他の教科に比べて少ないという結果が出ており,日本の英語教育は比較的成功していると考える。過去の学習指導要領の改訂,入試についても,望ましい形に改善されてきている。
○ 様々な社会的な要素などを考えれば,日本の英語教育は成功してきていると考える。それであれば英語教育の基本的な方向性について急激な変更をする必要はない。子供たちにいかにして豊かなコミュニケーションの場面を体験させるかが重要な課題である。」
 会議の委員たちは、英語教育業界のエライ人たちなので、現状の英語教育を批判することは自己否定につながるにしても、これはいくらなんでも自画自賛しすぎである(実際、第12回の資料から、この部分の表現は丸められて通りのよい表現に修正されている)。
 会議では、現状分析や必要性の是非の部分は、他国の例や、先行的に導入されている小学校へのアンケートなど、導入すべき、という意見をサポートするデータを丁寧にあげて議論されているようである。しかし詳細を見ていくと、「英語学習によって、言語能力自体があがる」といったようなポジティブな面ばかりが詳細に取り上げられてて、ネガティブな部分は「。。といった課題がある」とさらりと言及されているだけである。
 導入の方法論や具体的な施策の検討の議論はさらにひどくなって、非常にスカスカなむにゃむにゃした議論になっている。「・・・が重要である」「・・・でなければならない」のような文言が並び、たいして詰めて考えてないんだなということがよくわかる。しかし、エライ人を集めた諮問会議なんてのはそういうものである。猪瀬直樹氏が道路公団民営化でやったように、データをもとに反証したり、具体的な施策案のシミュレーションをやったりということを本来やるべきなのだが、そういうことはまず起こらない。単なるエライ人の「私の教育論」談義を2年間も毎月やる必要はなく、そんなのはざっくり減らして、その分教育方法の開発や教員支援の施策の詳細を整備する作業にリソースを充てる必要がある。それが欠落しているのは、教育行政の改革論議の方法論的な問題によるところが大きいと思う。
 別な観点としては、そもそもこの議論は2年前から進められていて、すでに議論の入口の時点で、小学校に英語教育を導入する、ということが方針として存在している。委員の人選もおそらくそれを推進するのに都合のよい人で構成されていると考えるのが自然である。そしてこの2年間に会議で「ぜひやりましょう」という議論が進行しているので、報道だけを見ると急に出てきた話のように見えるかもしれないが、主導する側からすれば、「入念に議論を尽くした状態」なのである。議論が終わったところで報道されて、その報道をもとにあれこれ巷で議論したところで、残念ながら何の変化も起こせない。教育行政に限らず行政の動きというのはこういうやり方なのであって、総合的学習やゆとり教育も同じようなプロセスで決められている。本気で反対する気があれば、議論の最初のところであやしい動きをキャッチして、綿密な作戦のもとに議論の方向を修正していくしかない。教育行政の愚策に対して、反対の人々が手遅れになってから毎度同じような反応を繰り返すのを見るにつけ、みんな本気じゃないのか、失敗から学んでいないかのどちらかなのだろうという気がしてくる。
 小学校の英語教育導入自体の是非については、普通に考えればやった方がいいことだと思うが、今出されている案のような形では目指す効果はまずあげられないだろう。週一時間では何の練習にもならないし、学習経験の強度も弱すぎて、やっている意味がない。英語教育を担任が担当するべきだという考え方はありでも、実際に教えられるかは全く別の話である。「教員の支援には十分に配慮する必要がある」という方針は、何の具体性もなく、ここから一段階も二段階も展開して、やっと導入可能な施策になる。総合的学習の時間や情報科目の導入でもそうだったが、そこまで落とし込む作業が抜けたままになっている。
 この問題は、教育行政の進める改革活動のシステム的な欠陥を露呈していると共に、反対者側の無策さ、ナイーブさも同時に露呈している。こうした行政の動きに反対するには、ただ口を開けばいいというのではなく、綿密な戦略に基づいた、手足を使った面倒な作業が必要なのであって、それが伴わない反対は、実効性のある反対とはなり得ないと思う。