早く学位取りたかったら他の教授んとこ行けよ

 これは僕のアドバイザーDr. Brian Smithが言い放った言葉。前にも少し書いたように、彼はいろんな意味でユニークで、非常に大学院生泣かせな存在だ。
 彼のあまりの素行の悪さに周囲が心配していたテニュアもこの夏に無事取得でき、職が保障されてからの彼のゆかいな言動や奇行はさらに充実し、以前にも増して周囲に話題を振りまいている。先日など、大統領選挙の前にサラ・ペイリンの等身大パネルをどこからか仕入れてきて、オフィスに人を招いては見せびらかして喜んでいた(フェイスブックの彼の写真はその等身大ペイリンをジョークネタにして遊んでいる写真だったりする)。
 日ごろの素行や言動があまりに職人の棟梁や親方的なので、もうここではアドバイザーではなく、敬意を持って彼のことを「親方」と呼ぶことにする。面白い日々が続いているので、少し彼からの指導の様子を少し記録しておこうと思う。

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研究者のトレーニング

 ここ3ヶ月ほど、論文執筆、パイロット実験、データ集計、論文修正、再実験のサイクルを短期間で回し続けてきた。
 以前よりも論文を読む速度が格段に上がり、消化できなかった文献が消化できるようになった。制作したウェブ教材も、最初は理論とつなぎきれてなくて経験則で作っていた部分が理論的な整合性の精度が上がってくるなど、作業のあちこちで、数ヶ月前と比べてさまざまな研究スキルがついてきたのを実感している。というか、数ヶ月前の自分の知識の量やスキルがやろうとしていることに対してあまりにも足りてなかったのを痛感した。これでは思うように進まないわけだと今さらながら思い知らされた。

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ペンステートの図書館はあなどれなかった

 今日は新学期初日。キャンパスの景色はがらりと変わってものすごい人だかり。バスは激混み、道路は渋滞。こういう日は用事を済ませてさっさと帰るに限ると思いつつも、用事が多かったので午後一杯キャンパスにいた。
 先に雑用を済ませて、今やっている研究のコンテンツのアドバイスを受けに、歴史学部の東アジア研究プログラムで日本史を教えているDr. Smitsのオフィスアワーを訪ねた。この研究では、春に日本で行ったパイロット研究で開発したアプローチを改良して、日本史教育用の歴史的思考スキル習得支援教材の開発と評価を行っている。研究の進捗や苦労については、また改めて書くことにするが、今日は専門家の助けのありがたさをしみじみと味わった。教授には、今開発している教材や研究のねらいとするところについては気に入ってもらえたようで、引き続き内容面の改良や実験の参加者募集に協力してもらえることになった。

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「英語ができる」感覚と素人の専門家観

 引き続き、不用品処分セールの話に関連して、今回は英語力の話。
 ここ数日、中国人学生たちから毎日数本電話を受け、そのうち何人かは引渡しのために直接会った。まだ来て1年とかそれくらいの若い大学院生が中心。英語でのコミュニケーションがまだ小慣れてなくて、意思疎通がスムーズに行かない。一生懸命話すのだが、伝わったのか伝わってないのかわからないような微妙な感じで会話が進む。その人の知性の高さと語学のスキルとのギャップが大きい分、なおさら文脈がつかみにくくなってしまい会話が弾まない。話そうとする内容のレベルに語学のスキルが追いついていないのだ。本人も相手をしている側ももどかしい。でもそんな彼らも、何年もしないうちに自然に話せて会話が弾むようになる。

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中国人留学生のモチベーション

 最近、引越し前に不用品を処分しようと告知をしてせいもあって、いろんな人と電話で話す機会が増えた。その多くはまだアメリカに来てすぐか、2~3年目のアジア系留学生からの問い合わせだ。
 問い合わせの仕方にそれぞれにお国柄というか、買いたいというモチベーションに違いがある。日本人留学生からは問い合わせがあっても買えたら買うよ、という程度の反応でいたってのんびりしている。一方で中国人たちの安いものを手に入れようという意欲はものすごい。人数自体が多いというのもあるのだが、中国人留学生のメーリングリストに告知メールを出して何分もしないうちに問い合わせがひっきりなしに来るし、すぐに引き取りたいと言ってくる。おかげで出品していたものは大体売れた。

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日本の英語教育の呪い

 今学期は二つの授業を聴講している。そのうち一つの授業は、「デザインベースド・リサーチ」と呼ばれる研究手法について、主要な論文を徹底的に読んで、研究計画を書いてこの研究手法を身につけようという内容。授業の内容については改めて書くことにするが、この分野の主要論文を毎週3~4本読んできて、クラスでディスカッションする。授業のスタイル自体はオーソドックスな大学院の授業という感じなのだが、議論の中身が濃くて得るものが多い。
 課題文献は抽象的な内容も多く、学期の最初の頃は、読んでわかったようなわからないような状態だったが、毎週食らいついて読んでいくうちに、理解できるところが増えてきて、読みこなせる量も増えてきた。読書で知識を得ながらディスカッションを重ねるにつれて、受講者全体の理解が深まり、議論の密度や高まっている。
 留学5年目も後半に入った今期になってようやく、普通の大学院生ができる程度の予習量がこなせるようになった気がする。ちゃんと論文が読めるようになると、授業も面白くなり、身につくものも多くなる。知識的に追いついてきたという面もあるが、最初の頃は英語力の低さの性で取りこぼしがとても多かった。予習が間に合わないままで授業に出る、予習が十分でないから授業で得られるものも少ない、授業の内容を消化できないから次の予習はさらに遅れる、という悪循環で半分オチこぼれかけながらどうにか乗り越えてきた感じだった。
 3年目くらいから少しずつ理解できる部分が増えてきて、予習と授業のサイクルは徐々に改善された。でも今思えば、最初の2年間はどうしようもなくわからなくて、何をいったいやっていたんだろうという暗澹とした気にさせられる。ほんとに当時は英語力不足に足を引っ張られた。それはまるで日本の英語教育の呪いをかけられたかのようで、時間をかけて少しずつ無力化して、最近になってやっと呪いが解けたかなというところ。それでもまだやっとまともなスタートラインに立ったような心境だ。
 全てを英語力不足のせいにするつもりはなく、新しいことを学ぶのは英語でも日本語でも大変なのは間違いない。とはいえ、英語力がもう少しましであれば、現在のレベルまで到達するのもまだずいぶん早かっただろうこともまた間違いない。今となっては何を悔やんでもしょうがないのだが、やはり英語がものすごいネックになったことによるロスがとても大きいのが残念でならない。
 これが自分だけならまだしも、日本の多くの研究者たちが同じように留学してきて英語で苦労しているわけだし、英語が苦手なせいで海外で活躍する機会を逃してしまっている人もすごく多いだろう。そんな状況がもう何十年も延々と続いているのだから、この国家的なロスは膨大だろう。言ってみれば、日本の英語教育の呪いが国全体を覆っているようなものだ。英語ができればなんでも解決するわけではもちろんないが、少なくとも英語で膨大な量の知識創造と流通が行われている中で、その流れから外れた状態を余儀なくされているのは問題だと思う。
 自分自身、英語教育を自分の主要テーマとしようとは考えてないのだが、この英語教育の呪いに苦しめられた身、しかも教育分野の研究者の身としては、後の世代の人々がいつまでもこの苦しみを味わっているのを見過ごすことはできない。教材になるかサービスになるか、そのどちらでもない形態のものかはまだ明確ではないが、自分のキャリア人生の間にこの呪いに対して何か一矢報いるものを作りたいと思う。

通じないのは英語力のせいとは限らない

 アメリカに来て4年半、英語で苦労した経験は数知れず、今も拙い英語で日々の生活をどうにか送っていることには変わりはない。
 ここに至りつくづく思うのは、外国語の修得に関しては「ここまでできるようになったから言葉には苦労しなくなった」という絶対的な境地など存在せず、どのレベルにいてもそれなりに苦労や悩みがあるということだ。少し高度なコミュニケーションができるようになれば、そのレベルに見合ったチャレンジをするようになる。もっとうまくなりたいと思う限り悩みは尽きない。その限りにおいて常に学習は継続し、もう学習しなくてよい、という状態になることはない。そのような状態があるとすれば、それはその人が自分の状態に満足した時か、向上を諦めた時だ。
 以前は、何か通じないことがあると自分の英語力のせいだと思うばかりだったが、最近必ずしもそうでないことも多いのではないかと感じるようになった。英語のリーディングやリスニングの力の不足は、文脈を読み取る力でかなりの部分カバーできる。ライティングやスピーキングの力不足は、相手に文脈を掴んでもらえるような表現の仕方をすることでかなり補える。英語のフレーズを知っていることは大事だし、たくさん知っているに越したことはないが、結局のところ英語という言語の問題だけでなく、コミュニケーション力そのものに影響されるところが大きい。
 知識の不足による影響も大きい。たとえば、読書課題で英語の文献を読んでいて、英語が難しいわけではないのに???となることはよくある。先日たまたま同じ文献の日本語訳が手元にあって、同じところを読んでみたら、やっぱり???だった。この場合、どれだけ英語を勉強してもその部分を理解できるようになるとは限らない。
 日常会話の場合、相手に問題がある場合もある。いかにネイティブスピーカーとはいえ、カンの悪い人というのはたくさんいる。カンの悪い人と話すときに通じないのは、多分に英語のせいではない。相手がこちらの言っていることの文脈を拾えるように話してあげる必要がある。そのことに気づかないでどんなに正しい発音の練習をしても、それだけで通じるようにはなかなかならない。
 英語の勉強をした方がよいのはもちろんだが、ポイントを外すと徒労が多く、効率的でない勉強を延々と続けることになる。実践の文脈から抜き出した形で英語だけを勉強すると、あまり効率的でないことが多い。特によく学校でやっている「学んでから練習する」というスタイルは、テンポが悪くなりがちで練習が意味を成さないことが多い。テレビで「使える英語」のフレーズばかり覚えても、肝心な時には使えない。
 あなたが英語教育の提供者であれば、ある文脈の中でコミュニケーションをとる練習をいかに積ませるかが重要で、その考え方が欠落した教育は時間とコストの浪費なのでやめた方がよい。
 あなたが学習者であれば、通じないのを何でも英語のせいにしていると、ストレスになるし、学習の的を外すこともあることに気をつけた方がよい。逆に少し目先を変えることで通じるようになることも多い。英語の力をつける、という漠然とした目標よりも、「パーティトークを磨く」とか「医者に自分の状態をきちんと説明できるようにする」など、何でもいいので自分の関心に合った具体的なテーマを持って臨んだ方が結果的に上達は早いし、文脈の中でコミュニケーションをとる力も一緒に身につけやすい。

DIS 2006 Day 3

 「Designing Interactive Systems 2006」の最終日。学会に出ると、学者仕様でない私の頭は、いつも3日目くらいで情報量が満タンになってしまって、だんだん頭に入らなくなってくる。それでも面白いところをがんばって吸収してきた。
 ユビキタスコンピューティングのデザインツールに関する研究や、社会性を伴うインターフェースのデザイン、デザイナー教育におけるデザインメソッド教授法など、今日も実践例やデザイン理論の研究などの発表が行なわれた。
 特に、デザインメソッド教授法のセッションは会場での議論を呼んでいた。デザイナー教育で教えられるデザインのアプローチや方法はさまざまあるが、現場のデザイナーはどれか一つだけを使っているのではなく、目的に合わせて自分の知識の中にある方法を使い分けている。なのでそうしたマインドセットを習得させるためには、教育段階からいろんな方法を使い分ける練習をさせることが有効だ、といった趣旨の発表だった。
 発表者からは、「科学的アプローチ」と「デザインアプローチ」のコンセプトの違いを対比した表が示され、科学の発想に縛られてデザインの質を損なうべきではないという意見が示された。この点に対して、会場からの質問が集中し、議論となった。肝心の教授法のところよりも、科学を狭く定義しすぎているとか、昔はそうだったが、最近はそうでもないとか、科学的アプローチのよさも見落としてはならない、といった形の反論が質問者によって出されていた。
 この学会に参加して得た収穫は、デザインづくしで、デザインの対象、アプローチ、方法、コンセプト、などに関する理解が深まったということだ。質的研究の取り組み方についても、もいいお手本が幾つもあった。研究について近い関心を持って話のできる人たちとも知り合うことができた。最近、博士論文の研究が予定通りに終わらせられる気がだんだんしなくなってきていたのだが、この学会に出たおかげで、予定通りに終わらせる意欲とアイデアがわいた。データだけ集めて面倒になって止まっていた小プロジェクトについても、論文を書く気になった。うちの中にこもって作業するだけでなく、外に出ていい刺激を受ける方が生産性が高いことをあらためて認識できた。

DIS2006 Day2

 「Designing Interactive Systems2006」の二日目。今日も終日、ひたすらデザイン、デザイン。
 ipodのシャッフル機能に対するユーザーの反応に関する調査をして、「ランダム性をデザイン資源として活かせる」というまとめ方をした発表や、テトリスの名人の操作時の動きの研究からだんだん深めていって、「インタラクションデザインにおいて身体をどう捉えるか」という展開をさせた発表など、テーマを見つけるときの発想自体からして違う。おしなべて、デザインの質についての意識も高い。実証研究の結果を説明する際にも、デザインの質をどう解釈しているかという言及がなされる。
 かたや教育工学分野の実証研究は、デザインの質に対する感度の鈍い研究が多い。リサーチデザインは型どおりのことをやっているからOKだとしても、その変数を具現化した教材のデザインがお粗末で、「実験の結果、独立変数AとBは統計的に云々」という結論を示されても、その教材の質が低いからそういう結果なんじゃない?と言いたくなるような研究がよく目に付く。
 デザインベースドリサーチのようなアプローチが認められてきたおかげでデザインの質への関心も高まっているとはいえ、いまだに悪しき科学信仰が根強く、デザインへの意識は低い。統計的有為を示すために研究対象を小さく区切って、現実の文脈とは関係なく抽出された変数を比較する世界では、リサーチデザインの質が関心事で、試している教材のデザインの質は二の次にされている。たとえば、オンライン教材にアニメーションを使うと、学習効果を高めるか、という問いは意味がないのに、そのような問いを立てて行なわれる研究はいまだに多い。アニメーションの質が低かったり、使う場所がおかしければ、学習効果は高まりようもない。
 そういうことがずっと気になっていたのだが、一歩外に出てみれば、ちゃんとデザインの質を考えて研究しているたちがいるということを知って、心強く感じた。HCIの研究者には、アート系の人も多いことに起因するのだろう。いいものにたくさん触れて、力が湧いてきた。

元気の出る学会

 今週は、ペンステートで開催されている「Designing Interactive Systems2006」というヒューマン・コンピュータ・インタラクション(HCI)系の学会に参加している。
 昨日は1日ワークショップをやっていて、ゲームデザインワークショップに参加した。実際に簡単なゲームをデザインするハンズオンセッションに始まり、ユーザーインターフェース研究や、インタラクションデザイン研究、ユーザーエクスペリエンス研究など、それぞれの立場からのゲームデザイン研究に関する発表とディスカッションが終日行なわれた。ゲームデザインと同じ言葉を使っていても、研究分野によって切り口が違っていて、その違いの部分には、多くの刺激の素が含まれていた。
 カンファレンス本編初日の今日は、デザインアプローチの研究、インタラクションデザイン、感覚的インターフェース、デザイン評価、などのセッションがあった。HCI分野の学会に出るのはこれが初なので、この分野の「デザイン」に対する捉え方の多様さをとても新鮮に感じた。これだけさまざまなデザインのアプローチや切り口を見せられると、教育分野でデザインと称しているものは、「デザイン」の「デ」の字もカバーできていないんじゃないかという気にさせられた。みんなビジュアルやアニメーション効果の使い方が普通にうまかったりするし、観察研究なんかもフットワーク軽くちゃっちゃとやっている印象だった。特に、ヨーロッパの研究者たちの発表を見ると、デザインという概念がよりオープンで、より参加的な意味を持っているようで、そういうところはぜひ現地で肌に触れて学んでみたい気にさせられた。
 どのセッションもそれぞれ得るところがあって、いいヒントをたくさん含んでいたが、エスノグラフィ研究のセッションで出てきた、カナダ人女性研究者の「ナイトクラブにおけるDJのインタラクションに関する理解」という発表には、他のことが全て吹き飛ぶくらいのインパクトを受けた。その発表は、質的研究の王道のような見事な発表だった。質的研究は、フォーカスが甘かったり、仕事量が足りなかったりすると、非常にヘナチョコなものになりやすい。だが、よくデザインされて、よく解釈整理された研究は、説得力にキレが増して、聴く人に強烈な印象を残す。この研究は、こういう研究やりてぇな、と心からうらやましくなるような研究だった。
 夜はレセプションがあった。こういう社交の場はすごい久しぶり。ヨーロッパやカナダや全米あちこちから来た研究者たちと交流できた。特に、エスノグラフィセッションの研究者たちとじっくり話ができたのは収穫だった。教育分野で質的研究というと、定量研究しか認めない人々との対立なんかもあって、逆風が前提の陰のある雰囲気がある。だが、ここで会ったHCI分野の質的研究者たちは、そういう暗さは全く感じられなかった。質的研究が一つの研究アプローチとして受け入れられているようで、客観性に対するコンプレックスのようなものを持っていない。この人たちの研究に対する柔軟な考え方が、話していてとても心地よかった。
 今回の学会参加費は275ドルで、やや厳しいなと思いつつも、何かいいことがありそうで思い切って参加してみた。この初日でもうもとが取れて、それ以上のものを得た。最近はどうも研究への気合が弱りがちだったので、その気合を回復して余りある元気をもらった。何かいいことがありそうだという予感は正しかった。
 最近、自分の研究でオンラインエスノグラフィをどう正当化しようか、とかセコイことを考えていたのがバカバカしくなった。フィールドに出て、うんとインタビューした方がデータも豊富だし、何よりやっていて断然楽しい。そもそも自分が話すよりも、人の話を聞く方が好きな性分なので、インタビューは一番好きな活動だ。学部の卒論でグループインタビューをやった時も、去年やったオンラインゲーム研究でやったインタビューも、面倒くさがりながらも、結局はむちゃくちゃ楽しんでやったことを思い出した。そして今進めている研究には、その楽しい作業が待っていることを再確認できた。がんばろー。