いちどに全ては得られない

 最近、知らない人から急に連絡が入って、食事に誘われたり、電話でインタビューされたりする機会が増えてきた。わざわざコンタクトしていただいているので、こちらも都合がつく限りお応えしている。頼まれたことに対しては手を抜かずに対応するのがいいと考える点については以前に書いた。これを書いた当時と状況が変わったのは、何で私にそんなことを頼んでくるかなぁ、とぼやきたくなるような、変な問い合わせが減ったことだ。以前は魚屋に野菜を買いに来るような的外れな人や、アメリカにいるという理由だけで頼んでいるだろうそれは、というような問い合わせもあったので、やや対応が面倒だったりしたのだが(とんちんかんな人ほど余計な時間を取られたりする)、そういうのが減ったのは、こちらの看板や軒先に並べてるものが明確になってきた効果かなと思う。
 食事でも電話でも、一回の懇談でせいぜい一時間程度で、その中でシリアスゲームの動向やら研究の話やらいろいろと質問される。こちらも駆け出しなので、エライ人のようにもったいぶったりせずに、知っていることはできる限り相手の腹に落ちるような形で説明するよう心がけている。質問者との相性というか、その場のケミストリーの作用で、いい形でこちらの伝えたいことが伝えられ、普段整理し切れてないことがすっと整理された形で説明できたりすることがある一方で、どうもかみ合わずに、こちらの説明したいことの半分も伝えきれないままで終わることもある。特に最近は英語での懇談の方が多くなったので、なおさらやり取りの質のばらつきは大きくなる。
 そんなにしょっちゅうこのような機会を持てるわけではないので、懇談やインタビューの相手の姿勢は、自然とこの一度の機会で、この対談相手(私のこと)の専門分野の状況をまるごと把握してしまおうという姿勢になる。それは大事なことなのだが、その目論見が必ずしもうまく行くわけではない。何かの調査の目的で話を聴きに来る人は、報告などをまとめる際には、自分の集めた情報が意味のあるものであるという前提でまとめることになるわけで、こちらの答え方がいまいちだったりしたところを、これがこの分野の現状である、みたいな捉え方をされてしまうのはあまりうれしくない。こちらの答え方に不備がある場合は仕方がないが、聞き手の方に知識が足りなくて浅い理解しかできないということも少なからずある。どんなに予習をしっかりしたとしても、その場のケミストリーで良くも悪くも結果は変わるし、聞き手のスキルで精度を高めることはできても、一度の機会で重要なことを吸収しきってしまうのは不可能だ。別の言い方をすれば、ランチ代や一時間の懇談に費やす労力で得られることは高が知れているのであって、それで全部吸収できるのであれば、たいした専門分野ではないし、取材者はみんな専門家になれる。大事なことを知りたければ、少し時間をとって継続的にその分野を追っていかないと、見えることも見えてこないものである。
 これは同時に、インタビューのような動的な状況でのデータ収集に頼る質的研究(特にインタビュー主体でやるフェノメノロジー研究)の難しさでもあるなと認識した。質的研究は、自分自身をいかにデータの中に漬け込んで自分のマインドセットをチューンしていくか、というところにかなり依存するので、訓練の足りない人や、事前データの読み込みが足りない人の集めたデータは、肝心なことを集め切れていない可能性が高くなる。この点では、質問紙に頼ったサーベイ研究や、ウェブをちょこっと検索しただけの調査研究は、さらに大きな不確実性を抱えている。ワンショットのアンケート調査だけではたいしたことはわからないし、勘所のない人が収集した情報というのは、これがネット上で集まるものを全て調査した結果です、と言われても、本当かそれは?と言いたくなるような穴がすぐに見つかるので当てにならない。よほど設計がしっかりしていて、その分野の情報にある程度勘所のある人が調べて、集めた情報をしっかり吟味した結果でなければ、説得力のある結果は得られない。
 普段は研究する側、情報を集める側の立場でものを見ているが、こうしてたまには調査される側、情報を集められる側に立ってみると、、気をつけないといけないことにも気づかされるし、違ったことが見えてきて面白い。