日本のインストラクショナルデザインを取り巻く状況は、私が留学する前と比べて、進んだ面もあれば、ほとんど変わってない面もある。日本のID推進者の人たちがよく使う売り文句で、以前から違和感を持っていたのは、「経験やカンに頼った教育への批判」と「科学的アプローチとしてのID」というところである。
そこで唱えられるのは、教育の質を高めるには、経験やカンだけに頼っていてはダメで、きちんと系統だった方法論を用いて適切にコースや教材をデザインしないといけない、アメリカではインストラクショナルデザインという方法論が普及していて云々、という感じである。ここでのメッセージは、経験やカン「だけ」に頼って教育を組み立てることや、それを評価改善せずに作りっぱなしにしていることが問題だということなのだが、「経験やカン」の部分が浮いてしまって、経験やカンに頼って教育することがいけないことのように曲解されているところがみられる。情報の出所たるIDの教科書などでは、経験やカン「だけ」に頼るのが問題、と言及されているはずだが、生かじりな知識でIDを単なる売り文句として使っている人たちは、この「だけ」の部分が消えてしまっていて、経験やカンに頼ることが悪いことのように誤解してしまっている(グーグル検索すると、ほんとにいろんな教育機関や企業でそういう言及がされている)。
また、IDが科学的アプローチだという理解についても大きな誤解がある。ID自体は諸科学の知見を取り入れて系統だてて確立された方法論ではあるけれども、実践の場においては専門的な知識を専門家としての「経験やカン」を駆使しながらデザインするのであって、実践面においては科学というよりも、アートに近い技術の面が強い。なのに、何やら定められた手順に沿ってデザインすれば、効率よく質の高い講座が出来上がるんです、何しろ科学的ですから、という変なニュアンスで捉えられているところがある。そんなわけはない。これも売り文句としてIDを利用している人に共通する曲解である。
こういう誤解が広まってしまうことの一つの理由として、IDのプロセスモデルばかりが注目されていて、その先になかなか進んでいないことがあると思う。IDプロセスモデルというのは、例のAnalysis-Design-Development-Implementation-Evaluationのいわゆる一般的なADDIEモデルのことを指していて、これに沿って教育をデザインすること=インストラクショナルデザインである、という風に捉えられても仕方がないような扱われ方をしている。これはあまり正しくない。IDプロセスに沿ってデザインするというのは、IDの「イロハ」、基本中の基本であって、それを習得したからといって、いい教育がデザインできるわけではない。
いうなれば、IDプロセスモデルは、パイのパイ生地の焼き方の手順のようなものである。生地だけ上手に焼いて、はい、パイですよ、と出しても、誰もうまいパイだとは思わない。食べる人(学習者)にしてみれば、パイとはブルーベリーやパンプキンやアップルなどの具(コンテンツ)のでき具合の方が気になるのであって、具が美味ければ、生地をどう焼くかはあまり問題ではない。たとえ生地の出来が多少悪くても、具と合わせてトータルで美味ければそれでいいのである。しかし現時点での日本のIDの知識は、パイ生地を焼く手順のところしか教えていないので、スーパーで売っている出来合いのもの以上のものは焼けず、そこから先は作り手の属人的能力に頼ることになってしまう。当然ながら肝心なのは、パイの具、コンテンツをどう料理するか、である。プロセスモデルの表面だけなぞって、「IDってツマンネ」などと考える人がいたら、その人は生地だけを味見して、パイを評価しているのと変わらない。具の料理の仕方、具にあわせた生地の焼き加減の調整が、インストラクショナルデザイナーの技の部分であって、そこがデザインワークの一番楽しいところである。
日本のIDの普及状況は、進んでいるところとそうでないところの濃淡はあれ、全体としてみると、最近の構成主義や学習科学の知見を取り入れて変化しつつある米国のID分野の状況からは大きく遅れているように見える。日本で理解されているIDは、構成主義登場以前の、行動主義の影響の強い頃の知識が最新のもののように理解されているところがまだある。おそらくおおざっぱに言って、これはライゲルースの緑本の第二作出版以前の状況、つまり日本のIDは米国よりも10年遅れていると考えると、当たらずとも遠からずだと思う。米国でも構成主義以前は、IDを手順に沿って設計すれば高品質の安定した教育を開発できると考えられていた面はあったし、今もたぶんある(基本的にIDは、高品質の教育ではなくて、質の安定した教育開発を可能にするものである)。当時はデザインといっても、エンジニアリング的な発想の方が強かった。この頃の考え方が日本に広まっているために、経験やカンを否定したり、科学的であることを重宝がったりする面が見られると考えると合点がいく。
今日の米国のID教育・研究は、90年代以降に構成主義や学習科学の影響を色濃く受けて、よりエンジニアリング発想からデザイン発想にシフトしており、ID教育において行動主義的なIDアプローチは基礎として学ぶけれども、むしろライゲルースの緑本に取り上げられているような構成主義的アプローチをデザイン実践にどう取り入れていくか、ということに力点が置かれてきている(少なくともペンステートやインディアナ等のID分野主要校のプログラムでは)。
IDが使えないという批判や議論は、以前から米国でも散々されてきており、「ISDへの攻撃」と題した記事が出たりして、手順がまどろっこしいとか、世の中の優れた教育は、IDとは関係ない人たちが生み出している、といった手厳しい批判が繰り返されてきた。また、方法論的なシフトについても、ライゲルースやメリルといったリーダー的研究者を中心に、激しい議論が重ねられてきて、現在に至っている。
日本でのIDの知識普及が遅れていて、なかなか進んでこなかった理由として、知識創造の担い手が余りにも少なかったことがある。ゆえにこれまではある意味仕方がない面はあった。しかし幸いなことに、この春から熊本大学にID教育・研究の拠点が誕生し、IDの知識を創造し、蓄積していくための砦ができた。たとえ今、日本が10年遅れていたとしても、日本が米国と同じ道をたどる必要はなくて、米国なりヨーロッパなりの動向をきちんと追っていけば、数年は圧縮してキャッチアップし、独自のID研究に基づいた知識創造も可能である。
何年後かに日本で「ISDへの攻撃」のような記事が出るのを見たくはない。米国で試行錯誤されてきた部分をショートカットするには、プロセスモデル以上の知識の普及を早めていくことである。学習者は、構成主義的アプローチや学習科学の知見もどんどん取り入れながら、デザイン実践の数をこなして、経験を積み、その経験をよりどころにした専門家としてのカンを磨いていくことが必要だ。それによって、その分野の長年の経験やカンを持った専門家と対等に議論しながら、デザインを主導していくことができるようになる。逆に言えば、経験もカンもないインストラクショナルデザイナーは現場のプロ教師や主題専門家に一蹴される。知識ばかり持っていてデザインをしないインストラクショナルデザイナーは、陸サーファーみたいなもので、肝心なところではあまり役には立たない。頼りにする経験やカンを持っていないデザイナーは当てにならないし、経験やカン「だけ」の「だけ」が見えないような人の言うIDは、単なる売り文句なので、そういうところとは一緒に仕事をしないことである。
過去の関連記事:
「IDやってます」の有効期限
追記:過去の似たような記事をひいてみたら、驚いたことにちょうど一年前だった。何か変な周期があるのかもしれない。2007年版をお楽しみに。
私は専門学校で教育技術導入の立場に居るので、やはりIDについていろいろ情報を収集したり、学内の教員に伝道(?)したりすることがあります。
そのような私には今回の内容は大変参考になりましたし、実際IDを取り入れて教育コンテンツのデザインを行う場合に「科学的じゃなくアート」であることを改めて考える機会になりました。
アートとなるとやはり「センス」ですから、やはりIDも経験を積んだり技巧や道具の使い方を身に付けたりといった地道なことで「センスを磨くこと」が必要なのですね。今後も精進したいと思います。
藤本さんはアートだとは書かれておらず「アートに近い技術の面が強い」と書いておられます。私が経験したソフトウエア開発にも、ADDIEそっくりの工程雛型がありますが、技術概要編とかプロジェクト管理用の工程雛型のように認識しています。各工程段階の中ではUMLなどの系統的記述技法やオブジェクト指向設計技法などの実践技術を使います。その時に勘や経験やセンスを併用します。技術の部分は教育可能です。また、技術の定義には集合論などの科学が使われます。
> dewcla さん
知識習得の過程では、センスを磨くこと「も」重要、といった方がよいかもしれません。
知識習得によって、経験やセンスの不足をある程度補うこともできますし、知識に頼りすぎず、センスに頼りすぎず、自己モニターをしながらバランスを働かせることが必要なのかなと思います。
> 君島浩 さん
エンジニアリングの世界で確立された教育のよいところは吸収していくべきだと思います。
それだけではカバーできない、よりソフトな部分の対応が日本ではまだ浸透していないのかなという印象を持っています。もっとも、米国でも確立されているわけではないので、うまくやれば日本が追い越すこともできると思います。