小学校の英語教育導入について

 小学校の英語教育必修化の議論があちこちで盛り上がっているようなので、何が問題になっているのか、少し考えてみた。まずどんな経緯で今のような導入案になったのかを知るために、中教審の議事録や資料を読んでみた。たとえば、公開されている最新のものは次のページに掲載されている。
中央教育審議会初等中等教育分科会 教育課程部会 外国語専門部会(第14回)議事録・配付資料
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/015/06032708.htm
 議事録を読むと、いろいろと面白いことがわかってくる。何よりも、そもそも現状認識としてものすごく間違っているところも散見される。たとえば、「外国語専門部会におけるこれまでの主な意見(論点ごとに整理)(第10回まで)」という資料の中に、次の記述がある。
「○ 教育課程実施状況調査のアンケート調査でも,英語が嫌いな子どもは他の教科に比べて少ないという結果が出ており,日本の英語教育は比較的成功していると考える。過去の学習指導要領の改訂,入試についても,望ましい形に改善されてきている。
○ 様々な社会的な要素などを考えれば,日本の英語教育は成功してきていると考える。それであれば英語教育の基本的な方向性について急激な変更をする必要はない。子供たちにいかにして豊かなコミュニケーションの場面を体験させるかが重要な課題である。」
 会議の委員たちは、英語教育業界のエライ人たちなので、現状の英語教育を批判することは自己否定につながるにしても、これはいくらなんでも自画自賛しすぎである(実際、第12回の資料から、この部分の表現は丸められて通りのよい表現に修正されている)。
 会議では、現状分析や必要性の是非の部分は、他国の例や、先行的に導入されている小学校へのアンケートなど、導入すべき、という意見をサポートするデータを丁寧にあげて議論されているようである。しかし詳細を見ていくと、「英語学習によって、言語能力自体があがる」といったようなポジティブな面ばかりが詳細に取り上げられてて、ネガティブな部分は「。。といった課題がある」とさらりと言及されているだけである。
 導入の方法論や具体的な施策の検討の議論はさらにひどくなって、非常にスカスカなむにゃむにゃした議論になっている。「・・・が重要である」「・・・でなければならない」のような文言が並び、たいして詰めて考えてないんだなということがよくわかる。しかし、エライ人を集めた諮問会議なんてのはそういうものである。猪瀬直樹氏が道路公団民営化でやったように、データをもとに反証したり、具体的な施策案のシミュレーションをやったりということを本来やるべきなのだが、そういうことはまず起こらない。単なるエライ人の「私の教育論」談義を2年間も毎月やる必要はなく、そんなのはざっくり減らして、その分教育方法の開発や教員支援の施策の詳細を整備する作業にリソースを充てる必要がある。それが欠落しているのは、教育行政の改革論議の方法論的な問題によるところが大きいと思う。
 別な観点としては、そもそもこの議論は2年前から進められていて、すでに議論の入口の時点で、小学校に英語教育を導入する、ということが方針として存在している。委員の人選もおそらくそれを推進するのに都合のよい人で構成されていると考えるのが自然である。そしてこの2年間に会議で「ぜひやりましょう」という議論が進行しているので、報道だけを見ると急に出てきた話のように見えるかもしれないが、主導する側からすれば、「入念に議論を尽くした状態」なのである。議論が終わったところで報道されて、その報道をもとにあれこれ巷で議論したところで、残念ながら何の変化も起こせない。教育行政に限らず行政の動きというのはこういうやり方なのであって、総合的学習やゆとり教育も同じようなプロセスで決められている。本気で反対する気があれば、議論の最初のところであやしい動きをキャッチして、綿密な作戦のもとに議論の方向を修正していくしかない。教育行政の愚策に対して、反対の人々が手遅れになってから毎度同じような反応を繰り返すのを見るにつけ、みんな本気じゃないのか、失敗から学んでいないかのどちらかなのだろうという気がしてくる。
 小学校の英語教育導入自体の是非については、普通に考えればやった方がいいことだと思うが、今出されている案のような形では目指す効果はまずあげられないだろう。週一時間では何の練習にもならないし、学習経験の強度も弱すぎて、やっている意味がない。英語教育を担任が担当するべきだという考え方はありでも、実際に教えられるかは全く別の話である。「教員の支援には十分に配慮する必要がある」という方針は、何の具体性もなく、ここから一段階も二段階も展開して、やっと導入可能な施策になる。総合的学習の時間や情報科目の導入でもそうだったが、そこまで落とし込む作業が抜けたままになっている。
 この問題は、教育行政の進める改革活動のシステム的な欠陥を露呈していると共に、反対者側の無策さ、ナイーブさも同時に露呈している。こうした行政の動きに反対するには、ただ口を開けばいいというのではなく、綿密な戦略に基づいた、手足を使った面倒な作業が必要なのであって、それが伴わない反対は、実効性のある反対とはなり得ないと思う。

小学校の英語教育導入について」への2件のフィードバック

  1. 会社員をやって、協会活動で経済産業省とつきあって、そして役人に転換した私には、ご指摘のことの裏表がよく分かります。今ちょうど教育システム情報学会研究会用に「教育システム工学2006」と題するサーベイを書いています。文部科学省系のビジネス・コンピテンシー施策、経済産業省系の社会人基礎力施策、人事院の公務員面接試験技法改定の三つを俎上に乗せます。人事院のは私にもうまく説明できるのですが、あとの二つはうまく説明できません。この二つは米国・英国の類似の施策を参考にしたというのに、米国・英国の施策の説明は私にもよく分かるのです。この違いを他省庁の役人としてどこまで批評するかが今日の任務の一つです。

  2. 経済産業省の施策を察知して、IT業界側がやめるように説得した、という話題がメーリングリストで紹介されたことがあります。役人がわざわざ会社の方へ出張してきたとか。要するに陳情は足を使う行為だという実例です。
    経済産業省の肩を持つわけではないですが、審議会レベル・経営者レベルの人脈のほかに、作業部会レベルの人脈が形成されています。私も部課長時代に参加したので、ボトムとの橋渡しも結構できました。製造業分野の学協会人脈の特徴が出ているのかも知れません。

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