最近、「インストラクショナルデザイン」という言葉もだいぶ普及してきたようで、「IDやってます」を売り文句に掲げる教育会社や、「高等教育でもIDを導入しよう」と声高に主張される大学人の方も増えてきた感がある。ロジャースのイノベーション普及過程の概念を借りれば、アーリーアダプター(初期採用者)からアーリーマジョリティ(初期多数採用者)の段階に入りつつあるところだろうか。Web上で得られる日本語のID関連情報も私が日本にいた3年前と比べて量的にはずいぶん増えてきたし、教科書類も、片手で数えても指があまるくらいだったのが、今では両手が必要になるほどに増えた。ID学習者の基礎本であるDick & Careyの The Systematic Design of Instructionの訳書もいつの間にか出ていた。こういうのが何冊か出揃うことで、ようやく日本でもIDを学習できる環境が整いつつあると言えるようになる。
「IDやってます」の看板には、留学以前から何となく違和感を覚えていた。その看板から連想されるのは、「パーマ屋」と呼ばれていた頃の美容院のことである。私が子どもの頃、田舎だったせいかもしれないが、美容院は通称「パーマ屋」であった。「パーマネントやってます」という看板を掲げていたかどうかはよく覚えてないが、美容院とは近所のお母さん達がパーマをかけにいくところであった。パーマだけでなくて当然カットもシャンプーもセットもやってくれるのだが、メインはパーマで、カットだけしてもらうというのは、メインのサービスを利用してないという感じだった。今ではパーマ屋というのはものすごく古臭い感じがするし、「美容院」というのもおしゃれじゃないようで、ヘアサロンだかなんだか響きのよさげなカタカナの名称が好んで使われるようになった。
では、教育会社にとってのIDが、美容院のパーマのような位置づけなのかというと、そうではない。インストラクショナルデザインというのは、実はそれ自体にさほど付加価値があるわけではない。教育コンテンツをデザインする際には必ず行なっているはずのものであり、我流であれなんであれ、論理的にインストラクションをデザインしていれば、立派に「インストラクショナルデザイン」である。この点は東大の中原さんが以前に述べられていたが、私も同意見である。いわゆる「IDやってます」というのは、米国流のID技法を使ってますよ、という意味が言外に含まれていて、それ自体は「はあ、そうですか」という感じがして、本来はわざわざ売りとして掲げる性質のものではないと思う。
それに、米国流のIDを使うことで何がいいのか、という点について、誤解されている面がある気がする。IDを使うことで「すごい講座」が作れる、という印象がどこか一人歩きしているような感があるが、そうではない。基本的にIDを使うことのメリットは、ヘボい講座を作らないことにある。手順を標準化することで、どんな場合でも7割程度の出来栄えまで持っていけるようにすることがその付加価値であって、IDを使ったからといって、それだけでものすごく魅力的な講座が作れるようになるというわけではない。「IDやってます」とうたうことへの私の違和感は、このあたりから来ている。
先ほどのパーマ屋のたとえを使えば、教育会社にとってのIDとは、パーマではなくてカット技術に類するものである。「パーマネントやってます」が売り文句になったとしても「カットきちんとやってます」というのが売り文句になるかといえば、そんなのやって当たり前やん!という突込みが入るか、看板の写真を取られてVowに投稿されたりとかするような性質のものだろう。
そう考えていくと、「IDやってます」という看板は、せいぜい「米国仕込みのスタイリストを揃えてお待ちしております」という感じなのかなという気がする。一見、何かすごそうな感じがするけど、何がすごいのかよくわからない。分析、設計、開発、実施、評価(ADDIE)を系統立ててやりますよと言われても、そんなこと今までやってなかったんですか?という気もしてくる。要はいわゆるPlan-Do-Seeのことであって、なんら目新しいことでもなんでもない。
ADDIEを体系だってやるというのは、ヘアカットの技術で言えば基礎中の基礎で、それが使えるということは、「虎刈りにせずにきれいなカットができ、担当者間の技術のばらつきが少ない」ということと同義だと私は思う。虎刈りにしないというのを売りにしていると考えると、何だかさえない話になってくる。とはいえ、IDを使っている、というのを売り文句にすること自体は、IDの重要性の社会的認知を広める上で有効である。しかし、その売り文句のもとでやっていることを見ると、実はIDの基礎的なことだけでした、ということでは、急に底の浅さが露呈してしまうことになってしまう。米国仕込みのスタイリストだというので来てみたら、実は海兵隊カットしかできないのを「効率よく、効果的にできます」と言ってるだけで、こんなのなら日本の床屋の方がぜんぜんましじゃんか、というような話になるかもしれない。海兵隊カットしかできないアメリカ仕込みよりも、アイデア豊富で、どんなくせっ毛であろうと、どんな客のリクエストであろうと、柔軟に応えて仕上げることのできる職人の床屋の方がよほど付加価値が高いのである。
IDの基礎だけ知っていても、カットのバリエーションを知っていることにはならない。カットのバリエーションとは、インストラクションを状況や条件にあわせてデザインするための技法やアイデアのバリエーションのことであって、それらを充実させるのは、多様な学習理論やID理論、そしてそれらに基づいた諸技法への理解を深めることと、それらを取り入れたデザインプロジェクトの数をこなすことにほかならない。ID技法というのは一つではなくて、長年にわたって開発されてきている。20年以上も前に作られた基礎的な技法をもって、「アメリカ仕込み」とやっているのでは長く持たない。あと半年とか一年は今のペースでいけるかもしれないが、その先のことを考えると、もう少しネタを増やしていかないと目新しさだけでは持たなくなるだろう。
などとつらつら述べてきたが、日本でIDを学ぶというのは、今はまだすごい大変なことで、原書を紐解いて独学されたり、勉強会を開いたりして学ばれている方々にはほんとうに頭が下がる思いである。小難しいライゲルースやメリルらのID理論をきちんと読み解いて自力で理解されているというのはすごいことで、私にはそんな根気も学力もない。日本でがんばろうとしていたらとっくに挫折していたことだろう。自分の能力で独学はこりゃ無理だと思ったので、学習のためのリソースも環境も整った米国の大学院へ留学してきた次第である。幸いにして私は、IDのより詳しくて面白いところを学べるところに身をおいているだけのことであって、自分が優れているわけでも何でもない。
今はまだ、日本でIDを学ぶには相当にモチベーションの高い方でないと実用レベルまで学ぶのは困難なのが現状ではないかと思う。かたや、アメリカの大学院の専門過程においては、私くらいに学力も普通で根気強くもない人間でも、そんなに苦闘せずともIDが学べる。モチベーションの高い人しか学べない環境というのは、整備された学習環境とはいえない。今私が経験しているような、普通にIDを学べる学習環境が日本でも必要だし、それが実現できないと、IDも他のカタカナ用語と同じように没落の一途をたどるだろう。それは日本の教育システムのさらなる衰退にもつながるのであって、それは断じて避けねばなるまい、というわけで私は、日本でIDを普通に学べる環境の実現に向けて、学習と実践に励む日々を送っているのであります。
IDをもっともっと学びたい
アメリカでIDを学ばれている藤本さんのブログAnother Wayで、IDについて触れられていました。藤本さんには実は面識がありませんが、シリアスゲームジャパンのMLでもお世話になっています(最近、ROMしていますが…) GREEを見ていると、大学の先輩で、共通の知り合いの方…