英語教育の足を引っ張るマスメディア

 アメリカ生活ももうすぐ丸4年というところで、ようやく最近「英語で考える」とはこういうことなのかなと実感できてきた気がする。日本語から英語に変換せずに話せることが増えて、ボーっとしている状態で頭に入ってくる英語の量が増えた。英語の夢を見ることも増えた。あいかわらず、英語が上手くなったとは思えないが、英語力不足のせいで会話の流れを壊す場面はあまりなくなった。
 今の自分には、英語ができるというのは、生活上の必然であって、なんら特別なことではない。これは日本にいる時の英語に対する態度とは明らかに変わった点だ。日本にいる頃は、おそらく多くの日本人が持っているのと同じく、英語を使うということ自体に畏怖の念というか、気恥ずかしさというか、不自然な感覚を持っていた。その心理的な阻害要因を減らすリハビリ期間にずいぶん時間をとられた気がする。そのような状態から始めなければならなかったことには、日本で受けてきた英語教育の方法や技術の拙さによるところも大きいと思うのだけど、それ以上に、日本で受けてきた文化的、環境的な影響の方が問題が大きい気がしている。学校の英語教育の場もその環境を形成している要素の一つだが、マスメディア、特にテレビがもたらす悪影響が案外大きいのではないかと思うようになった。
 テレビの悪影響の性質は今思いつく限りでは二つあって、一つは「日本人の英語アレルギー的態度の拡大再増幅」と、もう一つは「英語できる=カッコいい、的な過剰演出」である。前者の代表は、ズームイン朝の「ウィッキーさんのワンポイント英会話」とさんまのからくりTVの「セインカミュのファニエストイングリッシュ」で、後者は「巨泉の使える英語」やバイリンガルタレントの番組での使い方や、英語産業の英語できる=カッコいい的な売り込み方などがある。
 おそらく私が物心ついた頃に最初に英語というものを認知したのは、ズームイン朝の「ウィッキーさんのワンポイント英会話」ではなかったかと思う。毎朝、朝ごはんを食べて身支度をして、ウィッキーさんを見て、「朝のポエム」が始まる頃に学校へ向かう毎日を送っていた。番組内で、道行く日本人がウィッキーさんに話しかけられて、ごく簡単な英語の応答もできなかったり、逃げまくったり恥ずかしがったりするのを毎朝毎朝10年くらい見ているうちに、自然と「英語を話すというのは大変なことなんだなぁ」という意識が刷り込まれ、子ども心に大人たちの英語力の標準の低さを理解させられた。一回3分程度でも、毎朝見れば蓄積も大きくて、自分もウィッキーさんに遭遇したら、テレビに出ている不運な人たちとおそらく同じような反応をしていただろう。この番組は日本人の英語への態度を正直に映し出しているだけで、ウィッキーさんには善意こそあれ悪意はなかったにしても、視聴者が多い分だけ、この番組の悪影響は相当に大きかったと思う。「ファニエストイングリッシュ」も、日本人がいかに英語ができないかをパロディ化して描くことで、多くの視聴者に同様の影響を与えている。テレビを見て笑いながら、英語できなくてもOK、どうせみんなできないし、という態度が強化される。この弊害は案外大きいのではないかと思う。
 同様に、テレビに出てくる「英語のできる人」たちにも問題がある。テレビの英語ができる人たちは、英語をファッションの一部のように扱い、やたらカッコつけていたり、あるいは番組の作り手がそういうかっこよさを過剰に演出していたりする(バイリンガルタレントが取ってつけたように英語でイントロしてみたりとか)。あるいは、大橋巨泉のように、日本の英語教育がいかになっていないかをとうとうと説経して、日本にいて知っていても余り足しにならないようなワンフレーズ英会話を「使える英語」と称して大げさに扱っていたことも、英語に対する人々の特別な態度を強めていると思う。カッコいいから英語をやろうかという人には機能したとしても、それ以外の多くの人たちには、英語を学ぶことが過剰に特別なこととして捉えられて逆影響だという面が強いだろう。実際、高校の時のクラスメートに、英語ができる子がいたのだが、冷やかされるのが嫌で、わざわざベタな日本語アクセントに直して発音していたし、英語ができる人を冷やかしたり、冷やかされるのを避けて遠慮したりというのをいろんな場面で目にしてきた。それ以外にもマイナーなところでは、松本道弘が英語学習を「英語道」のように修行のような扱い方をしていたことも、英語を学ぶことへの心理的な敷居を高めることに影響していると思う。
 日本の英語教育の改革において重要なのは、英語教育の技術的な問題ではなく、「英語ができることで特別視される文化的風土」をいかに変えていくかという点に尽きると思う。技術的な問題や英語教員の質が改善されたとしても、文化的風土の問題がそのままである限り、日本人が道で外国人に遭遇して道を聞かれて、物怖じせずに教えることができるようにはならないと思う。逆に言えば、学校の英語教育改革にコストをかけるよりも、文化的風土の改善にコストをかけた方が効果がある。
 では、文化的風土を変えるためにはどうすればよいか。学校にこだわらなければいくらでも方法はあるし、そもそもシステム的な問題の変革には、いくつもの方法を併用して行なうことが必要である。方向性としては、わざわざ英語を教えるのではなくて、英語を使う機会を増やすことであり、日常生活の中で英語を学びやすくすることである。現在の英語補助教員招聘制度と、最近高まってきている日本文化学習熱とリンクさせるとか(おそらく今はほとんどリンクしてない)、英語圏からの観光者の長期滞在しやすい優遇区域を設置する事業に補助金を出して、各自治体に英語学習特区のようなエリアをあちこち作るといったことは有効かもしれない。現在の英語補助教員制度は、聞いた限りでは無駄が多く、コストに比してリソースが有効利用できてないようなので、若者たちの英語力を学校の英語の授業だけでなく、地域でも有効に利用できる形で再構成した方がよい。
 テレビに話を戻せば、わざわざ英語を学ぶためのテレビ番組を制作するのではなく、人気の海外の映画やドラマに、吹き替えではなくて、英語字幕を標準的に利用できるようにするだけでも英語の学びやすさはずいぶん変わる。日本語字幕や二ヶ国語放送も、多少は足しにはなるが、英語字幕によって何を言っているかを目で追えることの補助効果はそれらよりも格段に高い。DVDではすでに利用できるが、日常的に視聴するテレビでも利用できるようになれば、英語を聞くことが、より身近な存在になるし、そこで得られる英語は、教室の英語ではなくて、リアルな英語である。これだけでも、これまでに変な英語学習観で作られた番組がもたらした英語アレルギーをかなり癒すことができると思う(個人的には、子どもの頃に観ていた「ナイトライダー」とか「冒険野郎マクガイバー」とか「大草原の小さな家」などを英語字幕で見れたらだいぶ違っただろうなと思う。二ヶ国語放送はあったけど、それでは難易度にギャップがありすぎて学べなかった。中学の時に「コンバット!」のサンダース軍曹がかっこよくて、英語音声でがんばって観たりしたけど(もちろん再放送ですよ)、難しくてすぐ挫折したのを思い出した)。
 英語教育は学校の英語教育カリキュラムをいじるだけで完結する仕事ではなく、学習者の環境そのものを変えていかないと有効に機能しない。マスメディアの影響は、その環境要因の中でも重要度が大きいので、メディアから摂取できる情報の質を変え、英語を特別視せず、自然に学べるように方向付けていくことが重要になってくる。これは自分の経験からくる「ワタシの英語教育改革論」でしかないのだけど、教育システム変革論や社会学習理論を学んだワタシが、学術的な知見をベースに考えているので、多少はあてにしてもらっていいと思う。