先日、You Tubeにアクセスしたら「ALL YOUR VIDEO ARE BELONG TO US」という変な表示が出るだけでアクセスできなかった。ダウンしたのかメンテ中なのかと不思議に思っていたら、そのことを書いた記事が出ていた。どうやら表示されていたメッセージは、以前流行ったEngrish(「日本人が使う変な英語」を意味するスラングで、EnglishのLがRになっているのは、RとLの発音の区別ができない日本人の特徴を示しているとのこと)のフレーズ「All your base are belong to us」をアレンジしたジョークだということだった。
笑える半面、なんだかこういうのを見ると日本人として、「むかー!バカにすんな!」という気もする。それに加えて、そういう間違いを日頃重ねている自分への皮肉もこもった苦笑がこみ上げてくる。
LとRについて言えば、普段何気に手が覚えていて間違えないで済むスペルでも、ある日急に「これLだったかな、Rだったかな??」とあやふやになることが結構ある。パソコンで作業していればスペルチェックや辞書サイトでカバーできるし、Googleも「これのことですか?」とスペル間違いを指摘してくれる。
しかし、手書きで何かやらないといけない時は、そうもいかず、適当に書いて後で違っていたのに気づいて恥ずかしい思いをしたりとか、そういうことを数えていたらきりがない。それに、間違っていれば教えてくれるスペルチェックも、たまたまその間違えたスペルの単語も存在する場合は、スルーされてしまって機能しない。そしてそういう時に限ってひどい間違いだったりする。
前にコース課題で簡単なオンラインテスト教材を作った時にそんなことがあった。「空欄を埋めなさい」の意味で「Fill in the brank」と表示させた。クラスのプレゼンでその教材を見せながら説明して、席に戻ったらクラスメートがすました顔でメモを渡してくれた。そこには「からかうつもりではないのだけど、brankというのは、大昔の拷問の道具のことだよ。」と書いてあった。一瞬何のことかわからなかったけど、”Blank” と書いたつもりで、何度も”Brank” を使っていたのに気づいた(Googleのイメージ検索をして見ると、どんな道具か出てくる)。気づいた時は恥ずかしさ以上に、可笑しくてしょうがなくて、その後ずっと笑いをかみ殺して授業を受けていた。
このBrankをGoogleで日本語ページ検索してみると、66200件もヒットする。そのほとんどがBlankのつもりで間違って使っていて、拷問道具のことを書いているページというのは見当たらない。あぁ、これぞEngrish。。なわけだが、こんなことで脱力している場合でもない。
どの言語圏にも苦手な発音というのはある。韓国人も「ふ」が全く発音できず、全部「ぷ」になってしまうし、同じ英語圏でもそれぞれの地域のアクセントの特徴をからかってみたり揚げ足を取ったりということはいくらでもやっている。日本語でも、中国人の日本語を「。。ナイアルヨ」と誇張してみたり、「インディアン、ウソつかない」みたいなステレオタイプなことで遊んでいることはいくらでもやっているし、田舎の方言をまねて遊んでみたりすることは普通なので、それと同じことである。
LとRの混同の話は、日本人英語の話ではまず出てきて、これが直らないと英語はいつまでたっても上手くならない、みたいなことがよく言われるけれども、決してそんなことはない。もちろん、きれいな英語を使わなければならない職業につくのであれば、直す必要があるだろうし、直した方が英語の吸収も早くなるのかもしれない。でも多くの場合は、直せないままでもなんとかやっていけるし、慣れていく中で自然と直っていく部分もあるので、考えすぎないのがいいと思う。
「日本人のヘンな英語」については、これもGoogle検索するといろいろ出てくる。Tシャツの意味不明な英語とか、お菓子やジュースのカタカナ英語が実はすごい変な意味だったりするとか、笑いのネタは果てしない。でも同じようなことをアメリカ人もいっぱいやっていておたがいさまなので、これもあまり気にしなくてもいいのかなという気もする。日本食レストランのヘンなインテリアとか、若い兄ちゃんのヘンな漢字のイレズミとか、これも笑いのネタが果てしなく続く。
日本人は「恥の文化」なので、からかわれるとマジにキレる人とか、恥ずかしさの余りトラウマになってしまう人とか、そういう恥ずかしい目に合わないようにガードが固くなりすぎる人とか多くなりがちだけど、アメリカ人の文化として(これもアメリカに限った話ではないけれど)、親しくなるために人をからかったり、揚げ足を取ったりするところがあるので、その辺の文化の違いを考えて、あまりシリアスに受け取りすぎないのがいいんじゃないかと思う。からかわれるのは自分が集団の中で認められてきた証拠、くらいの気分で楽しんでいくくらいの方がよいと思う。
私自身、そういう風に捉えられるようになったのは、こちらに来てずいぶん経ってからなので、それまでは何かあるたびに恥ずかしくて立ち直れないような思いをしたことは数知れない。でもだんだんどうでもよくなってくる。それが慣れということなのかもしれないし、それが学習を阻害している面もあるかもしれないけど、全てを完璧に学べるわけでもないし、どこかの部分の学習を安定させるためには、他の部分をある程度切り捨てるというか、ある種の割り切りも必要なのだろうと思う。
英語を学ぶための環境
晩ご飯時に、何となくテレビのチャンネルをザッピングしていたら、ゴルフチャンネルで全米女子プロ選手権の二日目をやっていた。宮里藍がスコアを伸ばして首位タイにつけ、ちょうどホールアウト後のインタビューが始まるところだった。インタビュワーが冒頭で気遣って、通訳無しのインタビューは3回目ですか、という質問から入っていたが、彼女の受け答えはたいしたもので、(米ツアー参戦前にどうだったかは知らないけれど)、英語でのコミュニケーション力は相当に高まっている様子だった。決して難しいことは言っていなくても、期待される答え方をしていたと思う。
彼女の受け答えを聞いて感じたのは、彼女は英語を使いながら身につけていて、変に頭でこねくり回して学ぶんでなく、耳から吸収したもので消化できたものを使っている感じで、そのため発音もよかった。
若いので吸収が早いということもあると思うけど、彼女の場合、多分に英語力というよりは、コミュニケーションに対する姿勢からくる面が大きくて、英語ができるというよりは、人の話を聞いて、きちんと自分の言葉で答えようする意志や態度からきているという印象を受けた。別の言い方をすれば、英語に対するコンプレックスがない、ということによる面が大きいと思う。逆に彼女の英語について、すごいすごいともてはやす日本のメディアの様子は、英語コンプレックスの裏返しな気もする。
彼女自身、言葉の壁を意識しているそうだが、単に日本ツアーで強くなるための修行やハク付けとして米ツアーを捉えるのでなく、本格的に自分のフィールドとしてやっていこうと考えているところで、英語に対する姿勢や準備も他の日本人プロ達と違っているように思う。
周りから入ってくる英語は、いわゆるホンモノの英語であって、コミュニケーションをとるには自分もスキルを身につけなければならないという環境は、言うまでもなく英語を学ぶにはよい環境だ。その中でわからないことを気兼ねせずに聞いて、次々学んでいくのが一番はやい。彼女はキャディーや周りのプロたちからそうやって学んでいるらしい。
そういう環境があるとしても、英語でコミュニケーションすることが自分にとってどれだけ必要で重要なことかを認識しているかどうかで、その環境の活かせ方も変わってくる。また、そういう環境がなかったとしても、目的意識が高ければ、自分で環境を作り出す方向に動くことは可能である。
人に教材を与えてもらった範囲で受身に学んで、できるようになってから使おうという姿勢では、環境があろうとなかろうと学習成果はなかなかあがらない。趣味のお勉強であればそれでも構わないし、英語教育をビジネスにする人たちは、英語ができない人ができないままで学び続けてくれる方が好都合な面があるので、英語ビジネスのマーケティングの売り文句は、100%鵜呑みにはしない方がよい。
自分に必要な英語力というのは、目的に応じてそのレベルや内容が変わってくるので、それを身につけるための学習環境も、そのニーズに合わせて自分仕様に組み立てていくことが必要になってくる。人にお膳立てしてもらったレッスンや、市販の教材だけでは、自分のやりたいこととずれが出てくるのは必然で、そのずれをどうやって調整するかを考えていくことが、自分仕様の環境作りの第一歩となる。
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ところで、この全米女子プロは上位に韓国勢が目立っていた。優勝した朴セリを筆頭に、上位に韓国人プロが数人、タイガーウッズ並みの注目を集めている16歳のミッシェル・ウィーも韓国系アメリカ人だ。ESPNの中継を見る限りでは、韓国勢はすっかり米女子ツアーの主力選手として扱われていた。その中で、宮里もアメリカでのメディア受けがよい様子で、この調子で行けば米ツアーの人気選手として活躍できそうな勢いだ。停滞気味の日本男子ゴルフの方も、丸山茂樹選手に米ツアーでがんばってもらいたいなと思う。
Windfall – Everything Bad Is Good for You
NBCがこの夏一番力を入れているっぽいドラマシリーズ「Windfall」の初回が放送された。このドラマは、グループで買った宝くじが大当たりして、大金を手にしてしまったがために起こるさまざまな人生の変化、特に身を持ち崩して不幸になっていく様子を描いたお話。タイトルの「Windfall」とは、風で落ちた果実、予期せぬ収穫という意味。日本語で言う「棚からぼたもち」。
出てくる登場人物は、貧乏だったり、不倫してたり、離婚前だったり、前科があったり、親との関係が悪かったりして、それぞれの立場で微妙な不幸さを抱えながら日々を生きていて、「宝くじが当たったらなぁ」と考えて宝くじをグループ購入しているありふれた友だちやご近所さんたち。それがグループ買いした宝くじで386百万ドルも当たって、その大金が転がり込んできて夢が叶うのだけど、そこから先に待ち受けているいろんな不幸を予感させつつ、続きをお楽しみに、という一回目の内容だった。
大金を手にすると、それまでは謙虚に抑えていたタガが外れたり、浮き足立った人や分け前に預かろうという人が集まってきたり、さまざまな欲望が渦巻く様子がリアルに描かれていて、嫌な気分にさせられるけど、続きを見ずにはいられないという感じにさせられ、この辺はアメリカの主力TVドラマのストーリーテリングの上手さを本領発揮している。
メインの登場人物がたくさんいて、速い展開で複数のストーリーが同時進行で進むところは、「ER」とか「ザ・ホワイトハウス」、「24」、「デスパレートな妻たち」などの他の人気TVドラマシリーズと共通している。このストーリーの展開の速さと複雑さは、刺激の要素の一つにもなっていて、単線的で丁寧にストーリーを追う昔のドラマのストーリーテリングの手法から進化した形となって定着している。ストーリーライティングの技術としては、かなり高度なのだろうと想像するが、それが毎シーズン複数タイトル出てくるというのだから、アメリカのTVドラマ作家の層の厚さは結構なものだと思う。
なお、ドラマだけでなく、リアリティショー番組、アニメやゲームなど、日常の中で触れるエンターテインメントはどんどん複雑になってきており、その複雑さに触れていく中で、人々の認知的なスキルは高められている、と Steven Johnson が著書「Everything Bad Is Good for You」で指摘している。この本は、日常生活における学習、あるいはインフォーマルラーニングに関心がある人にはオススメ。
Everything Bad Is Good for You: How Today’s Popular Culture Is Actually Making Us Smarter
Steven Johnson 著
Windfallに話を戻すと、「宝くじでも当たんねえかなぁ」と誰もが何気なく考えていることが現実に起こると、どんなことが待ち受けているか、ドラマを通して事例提供していると捉えることもできる。ドラマではあっても、お話だからとバカにはできないリアルさがあって、そのリアルさが視聴者をひきつける要素にもなっている。実際問題として、普通の庶民が大金を手にしたら、多くはこんな風に身を持ち崩していくんだろうな、自分の身に起こったらどうなんだろうか、と考えさせられる。宝くじが当たる夢をナイーブに持っていて、本当にそれが急に起こった時に、このドラマを見てわが身に寄せて考えたかどうかで、その時の幸不幸の縄目の状態が多少なりとも変わっていくんじゃないかと思う。そういう意味でも、「Everything Bad Is Good for You」というのは当を得ていて、掘り下げていけばいくほど面白いものが見えてきそうな奥深さがある。
不便さが方向付ける学習
最近、うちのデスクトップマシンの自動データバックアップがうまく作動しないので、少し設定を変えて手動でバックアップを取った。古いデータを消したので、一からデータを取り直すためにやたら時間がかかる様子。走らせながら作業してもいいのだが、うまくバックアップが取れてなかったら嫌なので、そのまま放置して待つことにした。ラップトップの方に必要なデータを移して作業するという手もあったが、余計な手間が発生するので、とりあえずコンピュータ無しでできることに時間をとることにした。
いざコンピュータ無しの作業をやろうとすると、選択肢が激減していることに気づく。日常的にこなしている暗黙のToDoリストの上位にあるもののほとんどは、「メールの返事を書く」「ブログを書く」「XXの文書をまとめる」「ネットで調べ物をする」など、いずれもコンピュータとインターネットが必要なもので占められている。音楽やゲームやスポーツの結果を見たりするのも、コンピュータを使う。それらのうちで、疲れていてもできるやり易いものや、気の向き易いものをこなしているうちに一日が終わるので、リストの下の方にあるものはいつも下の方でそのままたまっている。
時々プロバイダーがダウンして、インターネットが使えなくなることがあるのだが、その時はネットがないとできないものがToDoリストから消える。さらにコンピュータそのものが使えないとなると、ToDoリストの下の方でおとなしくしている項目が選択肢の上位に入ってくる。それでもモチベーションの低い日は、普段見ないテレビを観るとか、書類の整理をするとか、とりとめなく時間を消費することになる。今回は夕方少し寝てしまったこともあって、何かをやろうという元気が多少残っていた。
日ごろやらなきゃと思っていてタイミングを逃していた作業の中から、「日本の学会誌の論文をチェックする」というのを選んで、うちに届いたまま本棚に眠っていた学会誌を積み上げて、今進めている研究に関連しそうなものに一通り目を通した。論文というのは、面白い研究について書いてあっても、読むとなると非常に労苦が伴う。端的に言えば、面倒くさい。
英語の論文は、急いでチェックしようにも字面を追っているだけでは意味がなくて、結局じっくり読まないといけなくなり、ものすごい時間がとられて一向にはかどらない。日本語の論文は拾い読みというのが可能で、要らない情報はザクザク飛ばしていけるのでまだましだが、それでもすぐに興味を失って、投げ出したくなる。普段はそういう時に「ちょっとメールを」なんてコンピュータに向かってしまい、それっきり戻ってこなくなるのだが、今回はそれができない。それが幸いして、4時間半ほどは論文読みの作業に集中でき、積み上げた学会誌の山はだいたい片付いた。
テクノロジーやメディアには、人の行動を方向付ける性質があり、学習行動も人の行動の一部なので、テクノロジーやメディアの影響を受ける。調べ物という作業は、いまやネットがないとできない作業になり、部屋の本棚には立派な事典のようなものは並んでいない。原稿書きという作業も、メモや概念図は手書きで作ったりもするけど、最終的に文章にする作業は、コンピュータなしにはできなくなってしまった。
コンピュータに向かっていて、メールで飛び込んでくるリンクや添付ファイルの方がアクセスし易く、本棚に並んでいる書籍や論文は、いかに手がすぐ届く位置にあっても、すぐには手が伸びない。いつでも読みたいときには読めるという安心感からくる面と、自分の情報行動がコンピュータによって規定されていることによって生じている面がある。
なので、コンピュータやケータイなど、日頃頼っているテクノロジーが使えない状態で、自分の行動がどう変わり、何をしようとするかをモニターしてみると、そのテクノロジーが持つ強みや、どういう使われ方をしているかといったことが見えてきて面白い。
たとえば私の場合、ブログを書くことは、面倒な作業をやっている途中で嫌になって、ある種の現実逃避としてやっている面が結構ある。なので、ブログが書けなくなると、面倒で後回しにしている仕事が進むという面もある一方で、書くという行為によって生じる気分転換の機会が失われて、長期的には生産性が下がりそうだ。
そうなってくると、一概に封印すればいいわけでも、野放図に使わせればいいわけでもない。どちらでもなく、「ほどよい不便さ」というところに、案外ちょうど良い落としどころがありそうな気がする。
名言のストック
先日、本家のシリアスゲームML上で、「ゲームと学習に関わる名言をシェアしようぜぃ」という呼びかけがあって、何人かが自分のお気に入りの名言ストックを提供していた。
英語で書かれる著作では、その文章の伝えようとすることを端的に表したり例えたりするような、昔の偉人や専門家の名言がよく引用される。翻訳書などを読むとよく見かけると思う。大学院生なんかでも、ライティングのトレーニングを受けたアメリカ人はそうしたスタイルを身につけていて、見事な引用を駆使するのを目にすることがある。アメリカで作家や学者のような物書きを業とする人にとっては、この引用のスキルは標準装備のようなものだ。この引用の技の切れ具合で、教養の高さの示し、自分の文章の格調の高さを演出するというわけだ。その引用が見事だと、それだけで文章が格調高く見えて印象が良くなる(鼻につき過ぎると、キザっちくて嫌だけど)。そういう文化で育っていない身としては、よくまあこんなのをうまく引っ張ってくるなぁとか、こんなにたくさんよく知っているなぁと感心するばかりだ。
しかし、みんなどうやってそんなにちょうど良いタイミングでいい名言を引っ張ってこれるのかと言えば、このMLでのやり取りのように、普段から引用ネタのストックを増やす努力をしているのであって、パッと急にできるものではない。何事においてもいい仕事をしている人は、日ごろのネタ仕込の大切さを理解して、地道に実践しているのだから、感心してばかりいてもしょうがない。ただ、そういうことに関心が高い中にいるかどうかというのは大きいなと感じた。
ゲームとは関係ないけれど、私のお気に入りは、ドラッカーの次の一文で、ネタが少ないのでいつも使いまわしている。
「できない子などありえない。お粗末な学校があるだけである。しかし、そのような学校があるのは、教師が愚かであったり、能力がないからではない。正しい方法と正しい道具が欠けているからである。」
– Peter. F. Drucker
次の言葉は普遍的過ぎてピンポイントには使いにくいけれど、格言としては、同じくらい気に入っている。
‘There is nothing so practical as a good theory’(よい理論ほど実践的なものはない)
– Kurt Lewin
最近見かけて気に入ったのは次の二つ。
“One does not discover new lands without consenting to lose sight of the shore for a very long time.” (視界に陸が見えない長い長い時間を経る覚悟無しには、新しい大陸を見つけることなどできない)
– Andre Gide (1869-1951) French Novelist
こちらはシンプルなので、英語のままで(原文は英語じゃないけど)。
“I am always doing what I cannot do yet, in order to learn how to do it.”
– Vincent Van Gogh
自分史上最高の親子丼
晩御飯に親子丼を作った。もう親子丼はたぶん100回以上作っていて、自分の作り方のパターンが決まっていたのだけど、味的に何かもう一つフックが足りず、伸び悩みを感じていた。
いつもは、始めからゆでるタイプの作り方でやっていたのを、今回は何気に先日作ったカレーの手順が頭に思い浮かんで、炒めから始めてみた。少し玉ねぎがこげたけれど、ほどよく茶色で、玉子のとろみ具合も最適で、色も香りも従来品をはるかに凌ぐクオリティの親子丼が出来上がった。味も見た目にたがわず、今までのものにはない深みが加わっていて、新境地に達したといえる一品が完成した。
物足りない状態から微調整を加えても、60%のものが65%になっても、90%になることはない。一回その慣れ親しんだやり方を壊して作り直すことで飛躍的なレベルアップができるのだなと、ささやかながら実感できた。
きちんと基礎を習っておけば、たぶんもっと早くにこのレベルに達していたのだと思うけど、自分でたどり着いたという手ごたえがあると、学んだ実感も強い。しかし所詮は自分史上で最高なだけであって、世の中に出れば、もっと旨い親子丼を作る人はたくさんいるわけで、親子丼界(?)でどこまで通用するかはわからない。まあ、通用したいわけでもなくて、自分が食って旨くて、周りの人が旨いと思ってくれればそれで十分なのだけど。
考えようによっては、こういう手ごたえから、さらにその道を深めたくなる人もいるだろうし、ほかの人がどんなモノを作っているのか関心を高めて、学習のアンテナが高まる人もいるだろう。なので、こういう「日常の中で感じる手ごたえ」というのは学習の観点から見て、あなどれない存在だと思う。
33歳になりました
新年や誕生日というのは、自分のことを振り返り、将来を考えるよい節目になる。私の誕生日はちょうど一年の半ばあたりにあるので、その一年の中間点として自分の状況を見るのにちょうどよかったりする。
今年の新年に考えた、一年の目標は次の3つだった。
・博士課程の修了試験をパスする
・シリアスゲーム本出版
・博士論文研究を仕上げて、来年早々にディフェンスできるようにする
一つ目は無事にクリア。二つ目と三つ目は地道に進行中で、ひたすら前に進むだけの状態なので、だまってやるだけである。ありがたいことに、これらの自主プロジェクト以外に、あれこれ仕事の依頼をいただいており、それらを一つ一つ成果につなげていくうちに、今年も終わってしまいそうな勢いになっている。
一年前と比べて、何か心境の変化があったかといえば、今感じている、開き直りのような妙な覚悟のような気分は、一年前にはなかった気がする。微妙な心理的差異なのだけど、何かを考える時に、それによって以前にはない、幅の広さや奥行きを感じている。そう感じるようになった理由の一つには、今まで学んできたことが、自分の中でいろいろとつながってきて、血となり肉となって役立ち始めたことがあるし、もう一つには、来年前半をメドに次の一歩を踏み出そうとしていることがあると思う。
インプットしたものは、ある程度の蓄積ができてはじめて、ひとかたまりの知として機能するし、アウトプットするあてがあることで、より意味のある形で構成される。渡米して4年経って、ようやくその状態になってきたんじゃないかと思う。
自分がこうありたいと思うイメージがより明確になってきて、それに沿った現時点でのキャリアプランやライフスタイルのイメージもだいぶはっきりしてきたので、あとはその実現可能性が高まるように、目の前にあることをきちんとやりきることかなと思う。また進んでいけばわからなくなったり迷ったりすると思うので、それはそれで、その時また立ち止まって考えればよいことだろうと思う。
メッセージなど送ってくださった皆さん、どうもありがとうございます。何もなく平凡な一日として過ぎていくところだったのが、おかげで何となく特別な日のような気になりました。Thanks a lot!!
You know who you are
先日も少し書いた、歌手オーディション番組「アメリカンアイドル」は、とても29歳には見えないテイラー・ヒックスが優勝して、シーズン5が終了。テイラーは歌唱力では他の挑戦者よりもやや見劣りする感があったが、キャラクターのよさに加えて、ショッピングモールで被り物をしたりしながら、バーで歌っていたというところで、他の挑戦者よりも「アメリカンドリーム」度がやや高く見られていたことも人気の一つだったかなという印象だった。
テイラーだけでなく、このアメリカンアイドルの挑戦者たちは、ウォルマートやファーストフードの店員とか、郵便配達員とか、地方の営業マンとかいったそこらにいる普通の若者たちで、彼らがこの番組で勝ち残ることで生じる人生の変化も、番組の素材の一つとなっている。今も基本的にアメリカ人は、「アメリカンドリーム」が好きで、普通の人が一夜にしてスターになる、といったストーリーは常に歓迎される。日本ではともすると「成り上がり」として捉えられて嫌がられたり、成功した本人も遠慮して隠したりするが、アメリカ人は概ねサクセスストーリーは大好きで、成り上がりも歓迎される。なので、何か夢が叶うことをテーマにした番組も多い。このアメリカンアイドルも、優勝して人生が変わった人たちに自分の成功を投影できる、あるいは自分に身近だから応援できる、ということも人気の要素の一つになっているようである。
番組の素材の一つとして、ジャッジの3人も重要な位置を占めている。3人そろって、地方予選から一人一人にコメントしていくところは、番組の主な特色となっている。その彼らがよく使うコメントとして、「You know who you are」というのがある。直訳すれば「あなたは自分を知っている」ということだが、「自分の持ち味や長所短所をよく理解している」ということを意味していて、個性的パフォーマンスをした時の褒め言葉である。
ジャッジたちは、いかにその挑戦者の歌そのものが上手くても、個性が出てなければ「退屈だ」「カラオケパフォーマンスだ」と酷評する。歌そのものは同じようなクオリティだったとしても、本人の個性が出ていれば、「You know who you are」という言葉と共に絶賛される。だが逆に、その持ち味に頼りすぎると「安全策すぎてつまらない」、「オマエはずっと同じことばかりやってる」とこれまた批判の対象となる。
歌のパフォーマンスに限った話ではなく、なにごとにおいても、自分の強みと弱みを知って、強みをうまく活かしたやり方をすることで、その人の持ち味やパフォーマンスは向上する。逆に弱いところで勝負を余儀なくされれば、その人の持ち味は出ずに、期待通りの成果は出しにくい。その意味で、自分のどこが強みで弱みで、どこが他の人と違うユニークなところなのかを自身で理解することは、それ自体がその人の強みとなる。この「You know who you are」が褒め言葉なのには、そういう背景がある。
当然ながら、自分を知っただけでは十分ではなく、「自分を知った上でどう動くか」が重要な点になってくる。競争の厳しい環境では、自分の強みに頼りすぎ、その枠の中にこもっていると、周囲はすぐにそれに気づいて、前ほどよさを感じてもらえなくなったり、対策を打たれて強みを無力化されたりする。自分の弱みだからといって迂回するようなことばかりしていると、後でどうしてもそこを避けられないような事態に直面して、抜き差しならない状況に陥ったりする。
かたや自分のことにだけ目を向けていれば良いわけでもなく、大局的には、時流や運のような要素も絡むので、一概にどう対処すれば成功につながるとかベストであるとかいう性質の問題ではない。みんな一生かけて自分に合ったやり方を編み出そうとしているのであって、教訓的なものは学べても、この手順に沿ってやればOKなどという方法はない。いろいろ考えすぎても、場当たり的な行動だけでも、うまくいかない。多面的な見方が必要だからと言って、闇雲に多面的に見ようとしてもかえって物事が見えなくなるのと同じく、バランスが大事だと言って、バランスをとろうとし過ぎると、硬直的になってかえってバランスは悪くなる。口の小さなヒョウタンにどうやってナマズを入れるか、というような問題に近く、理詰めでは到達できないどこかに、一つの境地がありそうなのだが、それがどこかは全く見当がつかない。
そんなことを考えながら、明日で33歳になる。年齢なりに成長していることを願いたい。
ファンタジースポーツな徒弟制
先月からずっと、NBAバスケットボールのプレーオフをほぼ毎晩見ている。あっという間に終わってしまう日本プロ野球のパリーグのプレーオフと違って、NBAはチームも多くて、4月下旬に始まって、長々とトーナメント戦をやっている。
今までほとんど関心もなかったところを、今年に入って急に見るようになったきっかけは、現在参加している研究プロジェクトである。私の指導教官であるDr. ブライアン・スミスが、ファンタジーバスケットボールコミュニティにおけるインフォーマルラーニングに関する研究で、結構な額の研究費を獲得してプロジェクトが始まった。
ファンタジーバスケットボールとは、与えられたポイントの範囲内で、各ポジションの選手を選んで自分のチームを作り、実際の試合結果をもとに各選手の得点を計算して、その合計得点を競うというゲーム。ゲームと言っても、ビデオゲームのようなグラフィックや音のあるゲームではなく、Webデータベース上で、試合結果のデータや選手リストなどの数字と文字情報をだけで行なわれる。
ファンタジースポーツのプレイグラウンドは、スポーツ放送局のESPNやYahooなどがウェブサイトの呼び水として提供している。バスケだけでなく、野球やアメフトやサッカーやゴルフなどの各スポーツのファンタジーゲームが提供されている。日本でも、Yahooがファンタジーサッカーを、どこかの企業がファンタジープロ野球を提供しているのを見かけた。
ESPNファンタジースポーツ
http://games.espn.go.com/frontpage?&lpos=globalnav&lid=gn_Fantasy_Fantasy
プロジェクトの研究対象は、このゲームをプレイしている一般プレイヤーたちで、彼らがオンライン掲示板上で交わすコミュニケーションの中に含まれる、数学や統計のスキルの使い方、意思決定の仕方、相互学習のプロセス、といったものを質的に分析して、プレイにおける情報処理や意思決定の支援ツールのモデルを作る、というのがこのプロジェクトの方向性である。
ここしばらくは、実際にファンタジーゲームをプレイしながら、膨大なオンライン掲示板の質的データをひたすら読み込んで、インタラクションのパターンやアクションの性質を抽出していく作業をやってきた。その過程で、ファンタジーゲームをプレイするだけでなく、NBAの試合を見ていないと文脈がつかめないところが多く、もっと深く理解するために、可能な限りNBAをテレビ観戦するようになった。研究のためにオンラインゲームをプレイして、さらにまた別の研究のためにバスケの試合を見るという、なんともお得なような野暮ったいような微妙な身分だ。
このプロジェクトは、Dr. スミスの研究者としての創造性と聡明さあってのプロジェクトとして推移している。彼はノースウェスタン大時代のロジャー・シャンクの直弟子で、学習科学のPh.Dを取得した後、MITメディアラボに研究員として身をおいて、その後ペンステートにやってきた。インフォーマルラーニングにおけるテクノロジーデザインを研究関心としており、ユビキタスラーニングに関してはかなりの見識を持っている。毒っ気の強いお笑いトークが得意で、どこに行ってもひたすらバカ話をして油を売っているだけかと思えば、学習科学の分野の知識の引き出しは豊富、着眼点も創造的で、アウトスタンディングな研究者というのは良くも悪くもこういう人なのだなという感じの人である。
このプロジェクトは、周囲からはかなりイロモノ扱いされている。周りの人間に話をすれば、興味は示しながらも、何でそんな研究でNSFが75万ドルも出すんだという反応をされる。Dr. スミスも周りの教員のあきれる様子を話のネタにしているので、彼自身もそういう風当たりを受けているのだろう。プロジェクトメンバーの我々も、時々こんな調子で何か成果が出るんかな、と不安になることもあったが、Dr. スミスは毎回手ごたえを感じている様子で、最近やっと彼の目に何が見えているのかがおぼろげながら見えてきた。
私は以前に質的データ分析の授業で学んだフォーマットを踏襲して、手順に沿って作業を進めようとするのだが、Dr, スミスはフォーマットにはこだわらず、彼のセンスのままに必要なところは立ち止まり、不要なところはどんどんはしょって作業を進める。質的研究のフォーマットに沿わなければ、と考えながらやっていたらかみ合わなくてややストレスだったのだが、よく考えたらこのプロジェクトは質的研究のプロジェクトではないことに気づいたのと、最近は、彼の考え方を少しずつ吸収できているのか、ペースが飲み込めてきて、やりやすくなってきた。
ちなみにこのプロジェクトは、Research Apprenticeshipという名称の演習科目として進められている。文字通り、徒弟制的に教員のもとでプロジェクトに従事しながら、研究者としてのものの見方や思考の仕方を身につけていくことをねらいとしている。徒弟制的な考え方をカリキュラムに組み込もうという実験的な取り組みで、すでに3年目に入り、うちのプログラムの各教員の個性を活かしたプロジェクトが展開されている。そこでは、日本の大学院で繰り広げられているような、閉鎖的で、時に理不尽な徒弟制ではなく、徒弟制の学習面の効果に注目し、フォーマルな学習の場にそうした師弟の関係を持ち込もうという発想が基本にある。日本の大学院に関する議論でも、徒弟制は悪だから一掃、という短絡的な見方ではなく、徒弟制の学習面での効果を考慮した方がよい。徒弟制という関係自体の問題ではなく、講座制の制度問題に起因するところが多いように思われるのだが、報道を目にする限りは、少し焦点を取り違えている気がする。
Dr.スミスのプロジェクトは、他のプロジェクトに比べても、彼のユニークさが抜群に現れており、単なる教育目的での演習科目では作れない学習環境が形成されている。教員が自分のプロジェクトとして進めていることで、その持ち味が出やすいという点も大きいと思う。天才の天才たる部分は学べないのだが、思考やものの見方の型のようなものであれば、ある程度は吸収できる。その型は、授業のような「教える人と学ぶ人」という関係性の中ではなかなか掴みにくく、教員と学生が同じ方向に向かって一緒にチャレンジする中で、繰り返しその考え方に触れていくことで徐々に吸収できる性質のものである。半期でさくっと学べることというのは限りがあって、こうやって腰を据えて長期間にわたって時間を共にして、ようやく学べることも多いことにも目を向けていくべきだと思う(合宿のような機会は、短期間でそうした効果を出すために有効)。
プロジェクトのミーティングでは、NBAの選手の話やオンライン掲示板上のおかしな用語の話にかなりの時間が費やされていて、いわゆる学習の場とは違ったユニークなノリで進んでいる。Dr. スミスのプロジェクトに最初に参加したのは2年前になるが、当時はチンプンカンプンだったことが、いろいろとつながってきて、ようやくわかることが増えてきた。プロジェクトがどういう成果を出していくのかということと共に、自分がDr. スミスからどんなことを吸収していけるかを楽しみにしている。
作り手のモチベーション
テレビは各局とも先週今週がシーズンエンドで、「ウェストウィング」「ボストン・リーガル」「プリズン・ブレーク」は先週で終了で(ウェスト・ウィングは残念ながら今シーズンで打ち切りで、ボストン・リーガルは継続決定、プリズン・ブレークは、こんな変なところで区切るなよという感じ)、「24」「アメリカン・アイドル」は来週まで。「アプレンティス」(ちょっとマンネリ気味)もファイナル4まで来た。他にも見てないけど、いろいろと主だった人気番組が一区切り。
その中で、発明家発掘リアリティショー「アメリカン・インベンター」も、大成功のうちに第1シーズンを終えた。このショーのことは前に少し触れたけど、アメリカンアイドルのフォーマットを使った発明家オーディション番組で、優勝賞金の100万ドルと、発明品の商品化と、初代アメリカン・インベンターの栄誉を目指して一般参加者が競う。一次予選を通過した発明家達の二次プレゼンで上位12人に絞られて、この12人は5万ドルを元手に、発明品をより完成品に近いプロトタイプを開発し、最終プレゼンに望み、最後の4人が選ばれる。
ここまでは、ジャッジが選考するが、最終選考は、生放送の視聴者投票で優勝者が選ばれる。視聴者投票の結果、安全性の高い振り子式のチャイルドシートの発明家が優勝者に選ばれた。決勝で敗れた残りの3人も、それぞれ商品化を目指すチャンスを得た。前乗り式の二人乗り自転車を発明した少年は、自転車製造大手企業がインターンシップを提供した。アメフトのトレーニングツールを開発した発明家は、歴史上のNFLプレイヤー、ジェリーライスが全面的支援を申し出た。子ども向けの単語学習ゲームを開発した発明家も、ボードゲーム大手メーカーが支援を買って出た。
この手のオーディション番組は、挑戦者の質いかんで番組の流れが良くも悪くも変わるが、今回のこの番組は、その点挑戦者の質が高く、ジャッジや作り手側も、挑戦者達の発明にかける熱意や発明品の可能性の高さに引きつけられて、回を追うにつれて盛り上がっていった様子が伺えた。ジャッジたちは本気で楽しんでいる様子で、番組の演出も、ひとりひとりの挑戦者たちの熱意あふれる様子と、その背景にあるストーリーが豊富で、良質な素材に恵まれていた。
最終回の投票結果発表ショーは、その作り手たちが成功を確信して、その成功を楽しみながら作られた様子が伝わってきた。ジャッジたちは興奮して「アメリカは発明家スピリットを忘れていないことをこの番組が証明した!」とか、イギリス人のジャッジが「この素晴らしい発明家たちに出会えてほんとによかった。こんなこと言うとちょっと病気っぽいけど、アメリカのこういうところは大好きだ」とかちょっとクサめなコメントを連発していた。「ぼくらはほんとに楽しんだし、来年もまたこの機会を作ることにした」と早々に番組継続のアナウンスもされた。他のリアリティショーは、いかに成功裏に終わっても、次のシーズンのことは言わないで終わるのが通常なので、作り手たちがそれだけこの番組の成功を気に入ったということなのだろう。
この様子に、「作り手のモチベーション」について考えさせられた。どんな分野においても、この「作り手のモチベーション」は、案外見落とされているけれども、実はいいモノを作る上で非常に重要な要素だと思う。顧客志向とかユーザー志向とか学習者中心とか、近年は受け手のことに気を遣う傾向が高まっているが、それはこれまであまりに作り手がユーザーを見てなかったことによる反動で、自然なことではある。しかし、「作り手のモチベーション」を大事にしないプロジェクトは、いかにユーザー志向にしてもうまくはいかない。
エンターテインメント業界は、少数の「アーティスト」や「クリエイター」、「作家」たちの生み出すコンテンツへの依存度が高いので、この問題が見えやすい。音楽業界は、レコード会社の担当が、アーティスト達に売れ筋の曲を書かせて売り出そうとプレッシャーをかけて、それでかき乱され、迷走して短命に終わった人たちは数知れない。他の業界の作家やクリエイターと、編集者やプロデューサー側の関係も同様である。うまく行くプロジェクトというのは、それら作り手側の関係が良好で、周りにのせられて、価値がどんどん生み出される。逆にその作り手の関係が良好でなければ、いかにいいテーマを追っていても、アウトプットは人の心を動かさないものに終わる。
ユーザーを無視した「作り手中心主義」では、いかに作り手がやる気に満ちていてもその矛先は成功に向かうことはない。しかし過度なユーザー志向を作り手に押し付けることで、作り手のモチベーションを無視しても、結果はよい方へは向かわない。このバランスは量的な尺度で測れるものではなく、今何%ユーザー志向だからこれでよし、などという性質のものではない。判断基準は過去の事例や理論を引けば知識として得られるが、それ以上のことは、文脈の中で微妙な変化を読み取りながら判断するしかない。このあたりのバランス感覚のようなものは実践の中でしか磨けない。
この点について、教育面について考えると、学校的な「うそ臭さ」が残る演習の中では、こうした感覚は磨けない。「だりぃ」とか「うぜぇ」とか言いながらやった作業は、いかに「プロジェクト型演習」や「実習」などというお題目で何かを作っても、将来いいものを作る作り手となるための土台となる経験は得られない。学校的な環境で工夫するとしたら、単に「演習っぽく」課題を与えるだけでなく、気を弛めるとケガをする環境とか、うまくいったらホントにすごい何かを勝ち取れるチャンスなど、演習の中に何らかの「リアリティ」を取り入れる必要がある。そういうリアルな文脈で、何かを作ったり実践したりする中で、湧き上がるモチベーションを感じて仕事をする経験が重要で、その経験から、その後にも継続的に学習を続けてスキルを身につけたり、何かを完成させようという態度が形成されていく。
ではモチベーションがあればいいのかというと、そうでもなくて、知識やツールの足りない状態でのモチベーションは空回りするだけで、成果にはつながらない。やる気があるからと言って、必要な支援無しに仕事を任せてもうまく行かないのは言うまでもない。何を投入すればモチベーションがうまく回りだすかを把握するには、やはりそういう場面に直面する前につけた知識や経験がものをいってくるのであって、モチベーションだけでは乗り切れない。
しかし、そういう知識や経験がない時に、何が切り札になるかというと、逆説的だが、実はモチベーション、あるいは「気合」だったりする。気合などを持ち出してくると、まったく科学的でも理論的でもない話になってきて、インチキくさくなってくる。しかし肝心な場面では、下手な理論よりも気合の方がよっぽど有効なのである。たたき上げの経営者が、学者の言うことを戯言扱いして耳を貸さない傾向があるのは、このことを経験則として持っているからであり、「人間力」とかうんちゃら力なんていう、尺度ともなんともつかないような言葉が流行っているのも、学校で作ったような下手な理論はいいから、この気合の部分を活かす方向でなんとかして、という社会的なニーズのようにも見える。
気合や人間力を高めるには、受身の姿勢で寒げい古や遠足のような「生きる力」風の活動をやらせるよりは、「ホンモノの作り手」となって、本気で何かを作ったり、パフォーマンスをする経験をする機会を与える方が有効である。ただこれも、その機会の作り手の教師のモチベーションが低ければ機能しないし、受身な学校社会に馴らされて、「いかにやり過ごすか」にモチベーションが高まってしまった学習者は、スタートラインがずっと後ろにあって、素直な学習者と一緒に活動させるのは難しい。
何から手をつけていけばよいか非常に悩ましい課題ではあるけれど、少なくとも間違いないのは、「学校」というカテゴリーでひとくくりにして、多様な変数や文脈の違いを無視して、一元的に「こうしなさい」と指導するスタイルは機能するはずがない、ということだ。すべての状況を考慮するのは不可能でも、いくつかのモデルを想定して、取れる選択肢を充実させることで、柔軟性を高めていくことは可能である。
作り手のモチベーションを最も阻害する要因の一つは、作り手に与えられた工夫の余地のなさ、柔軟性のなさである。逆に言えば、作り手たる教師、あるいは教師から見れば学習者に、適切なサポートをしつつ、工夫の余地を与えることで、管理する側が想定しないような価値が生み出されることが期待できるのである。