当サイトでオンライン版を運営している、生涯学習通信「風の便り」の編集長、三浦清一郎氏の新刊「子育て支援の方法と少年教育の原点」が学文社よりめでたく上梓された。
この本は、九州四国中国地方を中心に生涯学習研究者として活動されている氏のこれまでの講演、執筆、自治体等へのコンサルティング活動の成果をまとめたものである。タイトルの通り、子育てと少年教育に焦点を当てつつ、高齢化問題、男女共同参画、家庭保教育、学校の地域貢献、ボランティア振興など、地域が抱えている課題を分析的に捉え、状況改善の方向性を提示している。
とても参考になるのは、「教育学者としてどう社会に関わり、社会のために貢献していくか」という課題に、一つのモデルを示してくれていることである。三浦氏は社会教育の分野で長年研究を続けていて、社会教育行政にも、社会教育事業デザインにも明るい。最近の学校教育に関わる問題についても、そこらの教育書のようにごにょごにょと論点をにごしたりせずに、非常に明快に論じている。自治体での事業実践においては、教育システム変革論で言うところの、システミックなアプローチを取っていて、教育システムを全体的に捉えながら、システムの中の諸要素が調和して機能していくような形で改善策を導入している。「寺子屋」というコンセプトで導入された事業が、子育ても学校開放も高齢化対策も地域コミュニティ形成も、さまざまな問題に対応したパワフルなソリューションとして機能している。同書で紹介された寺子屋事業のその後は、生涯学習通信「風の便り」で継続的に紹介されている。
私も教育分野の研究者として今後の活動を考える上で参考にしているし、研究者としての専門性を活かして、こういうパワフルな仕事をいずれはぜひやってみたいと思う。
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ツンデレなシェリー
もう授業はほとんど取り終わったので、今学期は授業らしい授業を取っていないのだが、水曜の夜にゲームデザインを教えているMagyのゲームデザインセミナーに出ている。先学期までは、ゲームデザインについて語るインフォーマルなミーティングだったのが、今期から授業化された。毎週、デザイン分析のフレームワーク、物語手法、ゲーム音楽、といったテーマでディスカッションやワークショップをやる。参加者は学部生と院生が半々くらいで、私以外は情報科学、コンピュータサイエンス系の人たちである。
先週はゲームにおける物語手法のセッションで、グループに分かれたワークショップをやった。課題は、「ギリシャ神話のペルセポネの話をもとに物語を作って発表する。手法は自由。制限時間50分。」というもの。私は学部生のジェームズとシェリーと一緒のグループになって作業を始めた。
ディール・オア・ノー・ディール
オリンピックが終わって、テレビも通常編成に戻ってきたが、今週はNBCではゲームショー「ディール・オア・ノーディール」を一週間連続特番でやっている。
このショーは、一般参加の挑戦者が、1セントから250万ドルまで26種類の金額が入った26個のスーツケースのうちから一つをキープしておいて、残りの25個のうちから安い金額だと思うスーツケースものから選んで外していく。途中でバンカーから金額のオファーがあり、その金額を受けるか、さらにスーツケースを選んで外していくかを選ぶ。オファーされる金額と、残された金額の価値のバランスを見ながら、どこでストップしてディールするか、というゲームである。番組ウェブサイトにこのゲームのルールそのままに作られたミニゲームがあるので、これを試してもらった方がわかりやすいだろう。
ゲームの原理はロシアンルーレットの派生形で、当たり外れの大きな賭けでの一か八かのスリルが、ゲームを盛り上げる要素になっている。ショーの演出は「ミリオネア」の延長線上にあって、番組のホストが一回一回の意思決定の過程を煽ったりもったいぶったりしながら盛り上げていく。クイズ要素をなくしたミリオネアをイメージしてもらえばだいたいそんなイメージだ。そのような構成で、一般参加の挑戦者とその応援の人たちが、大金への欲と理性のせめぎあいで盛り上がっている様を見て楽しむ番組である。この手のゲームショーのお約束で、スーツケースを開けるのはアシスタントの女性なのだが、スーツケース一個に一人ずつ派手なモデルのおねえさんたちがついてずらっと並んでいて、無駄に豪華さを演出しているのが笑える。
グーグルでこのショーのことを調べたら、ウィキペディアにやたらと詳しい解説があった。この番組はオーストラリアで最初に放送され、その後38カ国で各国のバージョンが制作されていて、ルールはそれぞれ若干違うそうだ。この番組の面白さは、意思決定のリスク変動をエンターテイメント化した点にあって、そのリスクの動きと挑戦者の行動を分析した論文まで出ている。
番組のフォーマットはいたってシンプルであり、クイズすらやらず、単純に大金をかけて箱を開けるだけである。それだけでゴールデンの時間帯で視聴者を集め、スポンサーも広告に大金を払う。いかにもテレビ的な大衆向けコンテンツなのだが、変にゴテゴテ盛り込まず、シンプルでわかりやすく、切れ味のあるフォーマットを作れるのは、テレビ業界のクリエイターのすごさだなと思う。
記憶の引き出し
最近、ふと何でこんなことを思い出すんだろうというようなことを、変なタイミングで思い出すことが結構ある。あまり生産的でない時間が増えただけなのかもしれないが、歳を重ねれば、それだけ記憶の引き出しに入っているものも蓄積されていて、何かのきっかけでその引き出しを開けているのだろう。楽しいことを思い出す分には楽しくていいのだが、どうでもいいことだったり、あまり楽しくないことだったりすることもある。家の押入れのように、たまに大掃除して物を捨ててしまえるのであればいいのだが、頭の中というのはなかなかそうもいかない。思い出そうとしている時には思い出せず、どうでもいいタイミングでどうでもいいことが記憶の引き出しから飛び出してくる。
昼飯のラーメンをゆでている時、何の弾みでスイッチが入ったのか、ふと高校の頃バンド絡みで知り合った人のことを思い出した。その人の名は、ここでは斉藤さんとしておこう。高校2年の時に知り合って、彼は二十歳くらいの色白の小柄な男で、地元の高校を卒業して、近くの工場で働いていた。何のきっかけだったかは忘れたが、どこかで知り合って、いつの間にか高校の同級生で組んでいたバンドの練習に顔を出してくるようになっていた。
インストラクショナルデザイン関連書
日本語で読めるインストラクショナルデザイン関連の書籍も少しずつ増えてきた。
日本の著者が最近書いたものはほとんど読んでいないが、翻訳されたものは英語版で読んだ。IDが普及して、すべてフォローできなくなるぐらいに充実していくことを願いつつ、お勧めの書籍をご紹介。
当面は、だいぶ前に整備しかけていたリソースページをアップデートしつつ、新しい情報を追加していきます。
プロフィール更新
やらなきゃいかんなと思いつつ、放置状態だった日本語のプロフィールページをようやく更新した。英語の方は必要に迫られてたまに更新していたが、日本語の方は3年近く放ったらかしにしていた。最近なぜかプロフィールページへのアクセスが増えていたこともあって、必要最低限だけでもと思って更新した。手をつけ始めると他のページもあちこち直したいところが出てきてきりがない。こういう作業はたまにしかやらないので、ちょっとしたテンプレートの修正もいちいち調べながらになってしまって、やたら時間がかかる。今日のところは、古いページの整理と、トップページの微調整のみで終了。うーむ、中途半端だ。
試験長引く
修了試験の口答試験のコミッティーたちのスケジュールが合わなくて、なかなか試験の日を設定できず、あと一ヶ月は先になりそうな状況になってきた。集中力がだんだん途切れてきて、厭戦ムードになってきた中、スタディグループで集まって試験対策ミーティングを開いた。論述試験で書いたそれぞれの回答を読んで、質問しあいながら、準備の必要なところを洗い出した。他のメンバーに様子を聞いたら、みんな同じような状況で結構くたびれていたので、今回はあまり根を詰めず、夕飯を食べて、談笑して、息抜きの合間に作業するような感じで進めた。論述試験が終わった後しばらく燃え尽きていて何もする気がしなかったとか、他の連中の就職活動の様子がどうだとか、そんな近況を伝え合うだけでもずいぶんとモチベーションが回復した。
最近なんか昼はダルいし、夜は眠いんだか眠くないんだかわからない状況で、ぼやぼやと遅くまで作業する日がここしばらく続いた。時々頭がさえて仕事がざくざくはかどることもあるのだが、それ以外の時間は何が仕上がるわけでもなく、無為に過ぎていく。いつからこんなムラのあるワークスタイルになったのかなと思いつつ、試行錯誤の日々が続く。早く試験終われ。
大学院生という肩書き
東大の中原さんが「人は見かけで」というエントリを書いていて、そうだよな、と納得しつつ、人は見かけの次に肩書きで判断するという話で返歌を。
私の今の肩書きは、あれこれ工夫してつけることはできても、大きな括りでは「大学院生」である。うまくいけば、あとちょっとで「博士課程修了」の身分にはなるのだけども、それでも学位をとることを主目的に大学院にいる限り、とりあえずは大学院生である。
学会のような仕事とは関係ないところで、日本の主に中高年男性、特に地方の人と話をする機会があると、ありがちなのが、アメリカの大学院で研究している、と聞いて、なんだかエライ先生なのかもしれないがよくわからない人だなと、腫れ物の周りをそっと触るような感じで居心地悪そうに接せられる。そしてどこかのタイミングで、大学院生=学生さん、あぁ学生さんね、とその人の中で腹に落ちた瞬間に、急に態度がえらそうになったり、中には、学生たるもの云々、と説教を始めてくる人がいたりする経験を何度もしている。最初はこちらもその度にムカッとかしていたのだが、最近はそういうものだと思って笑いながら相手をしている。
この話は、ネット上の方がわかりやすい。Mixiなんかをやっていると、とりあえずプロフィールは「大学院生」とでるだけなので、相手は自分の持っている大学院生のステレオタイプなイメージでもって、こちらと接してくる。多くの場合そのイメージは「学部を出てとりあえず院に進んだ、世の中を知らない未熟な若者」というものなので、相手はこちらがサラリーマン経験のある30過ぎのおっさんいい大人であるということなどまるで想定していない。20代後半くらいの人から偉そうな態度で接してこられることも珍しくない。「大学院生には、ちょっと厳しい突込みを」なんていう態度で無礼なことを言ってくる人もいる。そういうのをいちいち相手にしているときりがないので放置しているのだが、たまにはあまりにムカッときて皮肉のひと言も言いたくなることもある。私は海外にいるのでその被害は少ないが、日本にいて社会人を経て大学院で学ぶ人たちには、この社会的な大学院生に対する未熟者イメージは嫌な感じだろうなと気の毒に思う。
この問題は、「見た目や年齢や肩書きで相手を判断して、上下関係を決める」という日本の文化的な習慣に対して、大学院生という肩書きが学生という枠の中でしか捉えられていないことから生じていると思う。もちろん、大学院生の側にも社会から低く見られてしまう原因はある。いわゆる学生気分で、プロとして貢献する意識が低かったり、成果に対する甘さがあったりすることが、社会的な「所詮は学生だから」という評価に甘んじる理由であったりもする。社会からの評価が低いので、大学院生もそれに甘んじる、甘んじているから社会からの評価は低いまま、という悪循環が存在する。それは寂しい話で、大学院生は単に学ぶだけの存在ではなく、専門家コミュニティの一員であって、一人の専門家だという認識を社会的に共有できた方がメリットは大きい。
役割が人を育てるという面はおおいにあって、若くても社長やマネージャーになれば、下っ端社員として扱われるよりもずっと力強い人材に育つし、受け持つ責任の度合いや役割の性質に応じて、成長の仕方や速度も変わる。大学院生は修士一年でも博士3年でも未熟な学生、という扱いでは、後半に行くほどデメリットは大きいし、修士一年でも扱い方によってはうんと育つものが育たない。社会人が大学院で学ぶ際には、今まで育ってきたものを打ち止めにして負の成長を引き起こしてしまうことにつながる。なのでこういった大学院生の肩書きに対する社会的イメージは何らかの形で変えていく必要があるなと思うし、少なくとも自分が日本で大学院生と関わる立場になった場合は、そうした意識を持って臨みたい。
アメリカの大学院で生活することの気楽さは、見た目や年齢や肩書きに縛られる窮屈さから解放されていることによるところが大きいなとあらためて感じている。大学院生の肩書きがすごいものではないにせよ、専門家の一員であることに対して、敬意を持って接してくれる。この点だけでも、コミュニケーション面での窮屈さを補って余りあるくらいな気がする。
とまあ、返歌のつもりで書き始めたのだけど、なんだか少し長くなってしまってすみません。超字余りというところで。
熊本大学御一行様来訪
修了試験のラストの課題を片付けたタイミングで、熊本大学の教授システム学プログラムの皆さんがペンステートを来訪。キャンパスツアーを間に挟みつつ、ペンステートの教授システム学プログラムの教授陣や院生とのミーティングを通して、こちらの様子を見ていただいた。
ミーティングのセッティングは知恵の使いどころだったのだが、日本初のISDプログラムを立ち上げる人たちがわざわざやってくるということにどういう意味があるか、やぼな説明をせずともみんな理解してくれるので、さほど苦労せずにセッティングできた。どんな内容になるかなとやや気をもんだが、手前味噌ながらこれ以上は想像できないくらいにいい内容になった。教授陣や院生達の一言一言に、ペンステートのINSYSプログラムのよさが凝縮されていた。熊大の皆さんに、このプログラムのノリの一番いいところに少しでも触れてもらえた点だけでも、セッティングした甲斐があった気がしている。
ISDは技術や手順な部分ばかりに目を向けられがちだが、ISDの専門家の持つ気合いというのがあって、ISDの専門知識が思考の奥深くに根付いている人には、表面的にISDを学んだ人だけの人にはない気合いのようなものがその言葉にのっている。まあこれは、ISDに限らずどんな分野でも専門家全般に共通する類のものではある。ミーティングの中で「インストラクショナルデザイナーにとって重要な能力は」という話になり、柔軟性や理解力がその中の要素の一つとして挙げられていた。たしかに、私がISDを学んできた中で、これらは特に重要な要素だなと実感した。これらは、インストラクショナルデザイナーに限らず、人の間に立って仕事をする性質の専門家に共通する要素である。ISDは認知領域のインストラクションが主で、態度や意志の形成のような情意領域については、さほど研究が進んでいない。米国のISDの専門教育においても、情意領域は考慮されていないか、学習の過程で自然に身につくことを期待しているところがある。そのような中では、そういう気合を持った人のもとで学ぶことが最も有効であり、そういう人がいない場では学習者の属人性に頼ることになる。ペンステートには、意志と気合を持った善意ある専門家が研究コミュニティを形成していて、そのもとで学ぶことで院生たちもそうした情意領域が高められる。ここで言う気合というのは、精神論的な話ではなく、専門性や経験に根ざした自信や自己効力感といったものから形成される。気合だーと叫ぶのは、一時的なモチベーション高揚をもたらす。それも部分的な局面では有効だが、継続的に維持できる気合というのは、そうした気合のモデルに触れながら、技術の習得や場数を踏むことによって形成される。知識の詰め込みや、受身の学習では身につかない。そういう意味において、熊大のプログラムがLearning by Doing的アプローチを重視していることは重要で、そのアプローチがどういった形で具現化されるかをとても楽しみにしている。難度が高くて一朝一夕にはいかない課題だが、粘り強く少しずつ形にしていって、熊大独自のISD教育方法論のようなものが確立されることを期待している。
夕飯とお土産ごちそうさまでした。
敵を欺くには..
修了試験の最後の課題だったサポーティングフィールドのペーパーをまとめあげて、提出した。提出した時にスタッフアシスタントに「あんたが一番最初だわよ」みたいなことを言われたので、おかしいなと思いつつ、一緒に受けてる同僚と連絡を取ったら、実は〆切はその翌日だということがわかった。
私は〆切ものに遅れないように、一日早めに自分の中での〆切を設定するようにしているのだが、時々本物の〆切を忘れて、その一日早い〆切を本物だと思い込んでしまうことがある。今回がそのパターンで、「敵を欺くにはまず味方から」ならぬ「敵を欺くにはまず自分から」という状況になってしまっている。自分が欺かれてしまっているので、本人はその偽の〆切を守ろうと必死になる。それで一日早く仕事が仕上がるので、あまった一日でブラッシュアップすればいいじゃないかと思うのだが、それがうまくやれるかやれないかが、一流の仕事人とそれ以下の分かれ目である。自分は残念ながら後者で、いったん自分の中で終わったものは、書いてる途中でダメなところが見えていたとしても、書き上げたとたんに輝き始め、直すモチベーションが非常に下がってしまう。ぐずぐずしているうちに一日が過ぎてしまって、結局は一日短い〆切に合わせてできたものがほとんど最終アウトプットになってしまう。今回は非常に重要な課題だっただけに、その一日を有効に使いきれなかった自分のふがいなさへの憤りもまたひとしおである。
不満はあれ、まあとりあえず終わった!あとは口頭試験を残すのみ。早くパスして、博士論文研究に進みたい。