先日、酒屋に行ったとき、たまには違うものを飲んでみようとふと思い立って、あちこちの棚を見てまわっていたら、ポルトワインが目に留まった。これは!と一番に心ひかれた。というのも、最近プレイしている大航海時代オンラインで出てくるオポルト産のポルトワインというのがやたら美味そうな感じがして、いつか飲んでみたいと思っていたのだ。ポルトガル産の輸入物はちょっと高かったので、とりあえず今回はニューヨーク産のポルトワインという意味不明な安いやつを試してみることにした。うちに帰ってさっそく飲んでみると、これがまた、美味かった!幼い頃にアニメなど見てて、海賊たちや貴族なんかが美味そうに飲んでた「ぶどう酒」の味って、きっとこんなだろうなぁ、と想像していた味そのものだった。ルビー色で、口に含むと香りと甘さが広がって、すごく飲み易くて、もうちょっと、もうちょっとと飲みたくなる味。酒を飲める歳になって、その甘くておいしいぶどう酒の味を期待して赤ワインを飲んで、なんか違う。。と思ったものだが、それからずいぶん経って、幼い頃に想像したぶどう酒は、ただの赤ワインではなくて、実はポルトワインだったんだなと知った。しかも5ドルのむちゃ安いやつで十分美味い(アルコール濃度の高いブランデーを混ぜている(発酵を止めて甘さを残すために入れる)ので、普通のワインよりも強い。飲みすぎには注意)。同じ甘いワインでも、むちゃ高いアイスワインより断然こっちの方がいい。なんだか世界が少し広がった気がして少しうれしかった。
ところで、この大航海時代オンライン、出てくる酒も料理もやたら美味そうに見えて、なんだか嗜好がヨーロッパづいてくる(大航海時代のヨーロッパが舞台なので)。ラム酒もシェリー酒もウィスキーも、パエリアもコロッケもきのこのパスタも、どれも美味そうで、プレイしててやたら食への欲求を刺激される。最近ようやくリスボンから北欧まで行けるようになって、北欧産のアクアビット(ジャガイモの蒸留酒だそうだ)というのが出てきたのだが、この酒はこのゲームで初めて知って、これもなんだかすごく美味そうに見えて、試してみたくなった。
こういう経験の延長線上に、バーチャルなゲーム世界とeコマースのクロスオーバーがあるのだろうなと思う。アドバゲーミングという分野が最近盛り上がりつつあるが、そこで起こっているゲーム内の看板広告みたいなせこいアプローチではなくて、もっとユーザーの心に深くアピールする、壮大なインフォマーシャル的なアプローチが可能だと思う。ゲームの世界観の中で自然にユーザーの心に届いている商品について、少しだけその気持ちを現実の商品に向けさせれば、購買に結びつく確率は高いと思うし、ブランドイメージにもプラスになる。品のないマス広告をバーチャル世界に持ち込もうという発想ではなく(まあ、それもニーズがあるのでビジネス上は大いにやるべきなんだろうけど)、ゲームの世界観を活かした方向でのマーケティングを確立していく必要がある。
その際に活躍するのは、ゲームの世界を熟知したマーケティングプランナーである。それもちょっとかじったくらいでも、オタク過ぎてもダメで、つかず離れず、分析的な目でゲームの世界と現実世界の接点を見定めることのできる人材がベストである。さあマーケティング職志望の若者たち、今のうちにしっかりゲームで遊んでおいて、その経験を将来仕事に活かせ。
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ニンテンドッグス
昨年夏に日本に帰った時、ニンテンドーDSを購入して一緒に「ニンテンドッグス」の「チワワ」を入手した。なにも考えずに秋葉原の中古屋で買ったのだが(任天堂の皆さん、ごめんなさい)、実はこのソフトの中古版には新品にはない楽しみがあることを知らされた。どの犬飼おうかな♪とソフトを立ち上げてみると、チワワに出迎えられた。あれ?と思って情報を見てみると、前の持ち主の飼ってたチワワ「ゆきの(メス)」だった。最初は、えーどうしよう、、とか思っていたが、5分もたわむれていたらもう情が移ってしまってデータを消すのが気の毒になり、そのまま愛犬「ジョーイ(ビーグル・オス)」と一緒に飼うことにした。
しばらく二匹を適当に世話しながら飼っていて、ある日あれこれ機能を見ていて、ドッグホテルを見てみたら、なぜか一匹預けられていた。引き取ってみると、それも前の持ち主の犬「インメルマン(ラブラドールレトリバー・オス)」だった。なんだかでかくてあまりかわいくないなぁとか思いつつ、他の二匹と遊ばせていたら、やっぱり情が移ってかわいくなってしまって、そのまま世話することにした。中古版を買ったおかげで、思いがけずして二匹の犬たちを養子に引き受けることになったのだ。
現代の科挙試験
修了試験の合間に、テスト理論の専門家のDr. Suenが中国の科挙試験の歴史についての講義をやっていたので聴きに行ってきた。科挙試験というと、狭い土蔵のようなところに閉じ込められて、数日間ぶっ通しで丸暗記してきた四書五経を解答用紙に書き続けるとか、カンニングのテクニックがすごかったとか、断片的な知識しか持っていなかったが、今回の講義でテストのシステムから会場の作り、テスト社会化の影響など、かなり体系に理解できた。面白かったポイントをいくつかメモしておく。
・隋の7世紀から清の20世紀初頭まで(元の時代に空白あり)、科挙試験は面々と続いて、現在の中国のテスト社会の文化はその流れにある
・科挙試験をモデルにアジア各国はもとより、ヨーロッパ各国でも試験制度が整備された
・各地の試験会場は数千人から数万人収容の施設で、カンニング防止のための厳しい監視体制が施されていた
・省レベルの試験では(科挙試験は大きく分けて県、省、首都レベルの3階層あった)、受験生は9日間に、四書五経、作詩、政治分析の3科目をそれぞれ3日間(それぞれ間に一日休み)受験して小論を書く。
・数千人から提出された小論は、数万枚にものぼるが、各会場の試験官はたったの14人で、15日以内に採点を終えないと罰せられたため、試験官たちは四書五経の試験の結果を残りの科目にも適用した。そのため結局は四書五経の出来が結果を左右した。
・その時々の政権で、答えに書いてはいけないNGワードがあって、それを使った受験生は打ち首になったり、試験資格停止になったりした。問題のあった試験会場の試験官も罰せられた
・試験に受かるかどうかで人生が左右され、受かれば郷里へはパレードで凱旋だったが、落ちればうちに帰る金もなく、落ちぶれた日々を過ごさなければならかなった
・3階層の試験全てにトップ合格した人は三元と呼ばれ、科挙の長い歴史でも十数人しかいなくて、とても稀なことからマージャンの大三元の由来となった
・文官試験と同じく武官試験も整備されたが、受験してきたカンフーマスターたちの多くは字が読めなかったので、実技はできても筆記試験が機能せずに廃れていった
・唐や宋の時代には作詩がテスト科目に入っていたのでみんな詩の勉強をして、その頃に偉大な詩人が多く輩出されたが、元以降には科目から外されたためにその後はさっぱり偉大な詩人が現れなかった
・医療は科挙の初期の頃は、試験に関わらず志される職業だったが、後期は試験でダメだった人が志す職業になった
・工業や商業は卑しいものの仕事だとされたために、長い間停滞した(紙の発明や医療技術などの中国の優れた発明はみんな科挙以前)
・西洋の物語のヒーローは、騎士や戦士などのアクションヒーローが主流だが、中国のヒーローは科挙試験の優等生
・明や清の時代の小説家(三国志、水滸伝、西遊記などの作者)たちは試験でうまく行かなかった人たち
・厳しい対策にもかかわらず、収賄やカンニングが横行してさまざまな事件が起きた
・模範エッセイを小さな字で書き込んだシャツや豆本を作るカンニンググッズの専門会社が繁栄した
・途中で受験をあきらめて地方で家庭教師をやったり、下級官吏で雇ってもらったりする人もいたが、何十年も試験を受け続ける人もいて、「プロ受験生」化したり、受験勉強だけで人生を送る多年浪人生は社会のパラサイト化していた
・科挙試験のおかげで、教育を重んじる文化が形成されたが、試験の準備=教育だった
・科挙試験の文化は現代のテスト社会に色濃く残っており、過度な受験戦争の弊害が続いている
など、面白いエピソード盛りだくさんで話してくれた。講義を受けているのはみんな大学院の博士課程も後半の人たちなので、Dr. Suenも大学院の試験制度と科挙試験の共通点を引き合いに出しながら、笑いを取っていた。
もし自分が科挙の時代に生まれていれば、受験もほどほどに、何か適当に金になることをやって過ごしていたかもしれない。自分はテストでうまくやるスキルはあまり高くないし、テストのための勉強は好きな科目でも苦痛でしょうがないので、これで人生の評価が決まる社会では自分はちと厳しい。何の因果か、やむなく科挙試験みたいなのをあくせく受験していたりするわけだが、もうこれ以上は勘弁である。
講義を聞いていて、テストというのは教育のためではなくて、時の権力を維持するための機能としての意味の方が強いのだなと考えさせられた。中世の日本では中国の文化は何でもCoolなもので、制度や文化と共にこの試験制度も日本に持ち込まれたが、世襲制度が強かったために形骸化して、テストでがんばっても意味ないジャンということですぐに廃れていったそうだ。テストでがんばりさえすれば社会階層をのし上がれるというメリットはあっても、テストですべてが縛られた社会というのは生きづらい。しかも昔も今も同じく、やはり裕福な家の方が有利なのは変わらず、建前で言われているほどには実際には可能性は高くない。そして今の日本は、「いい大学にいけば、人生の成功をつかめる」という幻想も崩れてきており、テスト中心の教育システム自体が機能しなくなっている。しかしその教育システムは、テストで成功した人々が支えており、その人々はそのシステムを維持する方向にしか進めない。今さら自己否定につながることはできないし、基本的には自分がうまくやれる今のシステムが好きだから変えたくないのだと思う。
Dr. Suenは香港人で、テスト理論研究の分野では優れた実績をもつ研究者だ。アメリカのNo Child Left Behind政策の影響でのアメリカのテスト社会化傾向を危惧して、これまでに進めてきた中国の科挙試験の歴史研究を本にまとめて出版するそうだ。その研究からの今回の講義のポイントは、テストが社会にどのような影響を与えるかということを歴史的に考察することだった。そのための題材を提供してくれつつ、聞きながら大いに楽しんだ。彼のような仕事が学者としての優れた仕事だなと思う。学問をエンターテイメントにもでき、社会問題解決への拠りどころにもできる。そう考えると、自分は研究者たりえても、勉強嫌いが災いして、学者としては厳しいなと思う。まあ、外の世界の人々からすれば、学者も研究者も同じなんだろうけど。
オーバーフローしました
ノートPCに研究用のソフトウェアをインストールしようとしてCD-ROMを入れたら、ブィ~~ンと激しい回転音がして、「オーバーフローしました」とエラー表示が出る。なんか調子が悪いらしい。自分の頭もなんかそんな感じでやばい。車に乗れば鍵挿したままロックして詰め込んでしまうし、やかんを火にかけたらそのまま忘れて空焚きするし。何か勉強しすぎで、まさにオーバーフローしました状態。自分の能力に追いつかないことを背伸びしてやりすぎるとこういうことになる。座右の銘「無事これ名馬」を肝に銘じつつ、しばらくは怪我しないように気をつけて生活します。
バトルフィールド2
ところで、何でそんなにバトルフィールド2をやっているかというと、以前スウェーデンのゲーム研究者とメールをやり取りしてて、「北欧はそんなにゲーム作ってないのに何でゲーム研究が盛んなのか」と聞いたところ、「日本やアメリカほどではないが、いいゲーム出してる会社は結構あるよ」と言って示された例がダイスという会社。この会社の代表作にはバトルフィールド1942があり、最近リリースされたのがバトルフィールド2。せっかくなので北欧産のゲームも試してみようと思ってやってみたところ、かなり面白くてハマっているという次第。
題材はよくある戦争シューティングゲームなのだが、設定がカザフの油田をめぐるNATO軍と中国軍の紛争という現代的なものになっていて、出てくる兵器は多岐でハイテク。徒歩だけでなく、ヘリや戦車や揚陸ボートも駆使する。特徴的なのは、プレイするキャラクターの切り替えができて、途中で他の場所にいるキャラクターに切り替えて、そのままそいつをプレイできるというゲームシステムになっている。他のシューティングゲームのように、単独のキャラクターを操作して、そいつが死んだら振り出しに戻る、というのではなく、一人が死んでも、他のキャラクターに切り替えてミッションを継続できる。視点切り替え、という感じではなく、魂が転移して、乗り移るようなプレイ感覚なのが新鮮。オンライン対戦はまだ試してないが、やってみるとまた違ったものが見えてくるだろうと思う。こういうゲームを幼い頃からやって育つと、世界の見方が違うだろうなと思う。
メダルオブオナーをやったときは、ノルマンディ上陸作戦の(あるいはプライベートライアンの)兵士の視点でゲームをプレイする感覚が新鮮だったが、このゲームの新鮮さはこのゲームシステムから来ている。中国軍とNATO軍の両方を交互に進めるシナリオもよくできてるし、シナリオごとの目的も、敵掃討に、基地爆破に、司令官暗殺と、多岐にわたっている。そんなところにいちいち感心しながらプレイしている。ゲームデザイナーの創造性と、そのアイデアを実現するゲーム会社の開発力には驚かされるばかりである。
論述試験終了
16時間にわたる論述試験は無事終了。4科目中一つだけ、問題選択を誤って、やたらできの悪いものになってしまったけども、書いたものが今の自分の実力であって、それ以上のものを期待してもしようがない。そもそも短時間に英語でこんなものを書けるようになっただけでも上出来だし、今できる以上のものを求められていれば、それはそれで仕方がない。いろいろ考え出すと欲が出て、もっとできたのにとか、もしこうだったらどうしようとか、自分の至らなさに気の滅入る思いがしてくるが、これ以上は逆さにして振っても出てこないのだし、自分のできるものでやっていくしかない。
とりあえず解放されることをしようと、論述を一緒に受けたスタディグループの連中と一緒に、映画を観に行ってきた。映画はブロークバック・マウンテン。ゲイのカウボーイのラブストーリー。お祝い気分で観る映画ではなかったが、なかなかいい映画だった。夜中に帰ってきてさあたっぷり寝るぞーと思っても、神経が疲れすぎてて逆に眠れない。かといって生産的なことをする気にはなれないので、やりかけのバトルフィールド2をひたすらやって、疲れたところで寝た。
翌朝(昼)起きて、朝飯を食おうとしてキッチンに行ったら、ルームメイトの奥さんの手作り餃子が置いてあった。そういえば今週末は旧正月で、日本人以外のアジアンはみんなお祝い気分で過ごしてるのだった。中国人はみんなで餃子作って食べて年越しを祝うそうだ。きっとあちこちの家に集まってみんなパーティしていることだろう。そういうアジアの隣国の人々の様子を見るにつけ、日本人は不思議なほど旧正月って祝わないよなと思う。ともかく、美味い餃子を分けてもらったのだし、テストの終わった土曜の午後だし、ということで天気のよい外の景色を眺めながら、昼間から餃子をつまみつつビール飲み、くつろいだ至福のひとときを過ごした。
あと二日
最初の試験の日まであと残り二日を切った。今日寝て明日寝て起きたら、二日間で計16時間の論述試験が待っている。今まで読みきれなかった論文の中で重要そうなものを読み漁っているのだが、いかんせんスピードが遅くてはかどらない。息抜きにやっているバトルフィールド2の方がよっぽどはかどっているというのは、我ながらどうかと思う。でもアイトーイキネティックのおかげで、不健康な生活の中、運動はコンスタントにできていたりする。
今回は、一緒に試験を受ける仲間たちとスタディグループを組んでいて、過去問をやったり、一緒に議論しながらノート作ったりしている。同じ頃に博士課程に入った連中で、インド人、中国人、台湾人、ガイアナ人、と日本人の多国籍部隊だ。みんなそれぞれ得意分野が違うので、準備を分担しつつ、知識を共有して、お互いにカバーし合っている。そのおかげで独りで準備するよりも格段に質の高い準備ができつつある。もしうまく一回でパスできたら、このスタディグループのおかげだと思う。学習コミュニティの重要性を改めて認識した。
アメリカンアイドル-シーズン5
大人気ドラマ24に引き続き、こちらもFOXの看板番組として名高い、歌手オーディションリアリティショー「アメリカンアイドル」のシーズン5が始まった。十万人以上が全米各地の予選会場に詰め掛けたというのはすごい。このオーディションでは、トップ12の最終オーディションで視聴者の電話投票で結果が決まるのが売りだが、その投票数が100万を超えるというのもすごい。初回放送の推定視聴者数が5500万人というのは、いくらなんでもサバ読み過ぎだろと思うが。
このオーディション番組は、プロセス自体がプロモーションを兼ねていて、最後に優勝者が決まる頃にはもう露出十分で、CDを出せばヒット間違いなしの状態になっている。そして、それに応えられるだけの実力を備えた歌手が優勝する。優勝できなくてもトップ12のうちの数人はCDを出せるし、残りの人たちの人生もそれまでとは別の道が開ける。それを見て憧れた人たちが我も我もと参加する。人が集まるので地元メディアも取り上げる。みんな注目して、地元からの参加者が勝ち残ると盛り上がってみんなで応援する。その盛り上がりを見てまた憧れる人が増える、という感じで好循環で盛り上がっている。マーケットの大きさがその受け皿になっているし、そこで育ってプロになる素質を持つ人の層も自然と厚くなる。どの分野にしてもアメリカの産業は、このマーケットの大きさというのがものを言っている。
ところで、この番組はそんな規模なので、おそらくこの日のコカコーラのCMで、グラスにアイスクリームを入れて、その上からコーラを注ぎこむのを見て、試してみたくなった人も何十万人もいることだろう。購買行動に直結する美味そさ感満点のCMだった。
24 シーズン5
24のシーズン5が始まった。2時間特番を2日連続で、4時間分が放送された。これを観てしまった人は完全に今シーズンも虜となってしまったことだろう。よくもまあこんなにテンションの高さが続きっぱなしのストーリーが書けるなと感心させられる。日本での放映はしばらく先だと思うので、内容については書かないけど、24ファンの皆さん、期待してていいよ。
強みの落とし穴
何においても自分の得意なことや強みを持つことは基本的にはよいことだ。それは特定分野の知識や技術、芸、身体的能力などの形式で示され、いざという時に頼りになる武器になったり、勝ちパターンとなる自分の型を形成したり、心理的な安定をもたらしたりと、いろいろな効用がある。
しかし強みというのは、時に自分の弱みや問題から目をそらす誘因となってしまって、自分の状態を正しく認識する目を曇らせ、その強みのせいで足をすくわれることにもつながる。圧倒的なトークの才能を持った人は、そのトークを軸にした仕事の仕方をするし、ルックスや肉体が自慢であればそれを活かした形でうまくやろうとする。腕っぷしの強い人はケンカに持ち込んで勝とうとするし、細かい作業が得意な人はその細かさを売りにする。基本はそれでよい。ところが、安易にその強みに頼る姿勢が身についてしまうと、その強みが足かせになってしまい、伸び悩んだり、その人の持つ潜在能力を出し切れなかったりすることになる。トークに頼らない方がよい局面で、他の手段を準備するのを面倒くさがってトークで乗り切ろうとしたり、ケンカはまずい局面でケンカしたり、新たなネタを仕込む手間を惜しんで、安易に自分の使い古しの得意ネタでお茶をにごしたり、そういうことをやっていると、自分を伸ばせない状態から抜け出せない悪循環に陥る。自負心や、ここまでできるはず、という自分のパフォーマンスへのイメージが邪魔して、新しいものを身につけにくくなる。そうなると何も強みのない人が一から何かを身につけるよりもしんどい状態になる。
一方で、これぞという強みのない人というのは日々なかなか浮かばれないが、逆に強みのないことが強みになることもある。強みがない中で何とかしようと工夫することで、思いもつかないようなユニークな強みを見出すことになったり、気がついたらほどほどの強みがいくつもできていたりといったことも起こる。強みのある人が負けだすと脆かったり、チヤホヤされない状態に耐えられなかったりする一方で、強みのない人は、ある意味負け慣れていて、多少の負けはまるで平気だったり、注目されなくても気にならなかったりと打たれ強いことが多いのではないかと思う。なので特に強みのないこともうまく活かせば強みにもなる。
この強みとは、能力的なことだけでなく、「慣れ」とも言い換えられる。慣れた仕事の仕方、慣れた言語、慣れた環境、慣れた人間関係、慣れ親しんだ中で生きていく方がうまくやっていくのは容易で、成果も出し易い。しかし、その慣れの外に何か可能性を感じたとしても、その慣れを捨てて新しい状況に飛び込むのは誰にとっても不安だし、面倒である。それはその慣れに自分の強みを見出す状況であればあるほどその不安や面倒さは高まる。停滞を避けるには、ある局面でその慣れへの見切りが必要だが、その見切りのタイミングを見定めるのはとても難しい。
なので、よって立つ強みを持っている人の方が逆に躓いた時はダメージが大きかったりするので気をつけたほうがいいということと、人に誇れるような強みを持ってない人も嘆いてないでいろいろ試行錯誤していけば、ありきたりの強みなどどうでもよくなるようなはるかにユニークで、誰も及ぶところでない強みを持つチャンスはあるよ、というところに話は落ちてくる。
忙しい時に限ってまったく関係ないことがいろいろ頭をよぎってくる。このエントリーもその全く関係ないことの一つだったりする。書いて満足したのでもう寝る。