インタビュー記事掲載

 年末に受けたシリアスゲームのインタビュー記事が掲載されました。
シリアスゲームジャパン藤本徹氏インタビューと今後の展望(株式会社シナジーWebサイト)
http://syg.co.jp/seriousgame/gfh4_1.html
記事の内容は、インストラクショナルデザインとシリアスゲームを絡めた内容になっていて、たぶんそんなのは他では読めない楽しい内容になっていると思うのだが、なにより顔写真デカすぎ。想定外、という言葉はこういうシチュエーションで使うんだなと、このページを見た時思った。でも世の中的にはたいしたことではないなと気を取り直した。こういうシチュエーションには慣れていないので、今いち居心地が悪くて困るけど、シリアスゲームが次の段階に進んでしまった感があるので、そうも言っていられないのかもしれない。
 あまり関係ないのだけど、ふと、徒然草の説経を学びそこねた法師の話(第百八十八段)を思い出した。その男は法師になったらあちこちに呼ばれるので、馬の一つもうまく乗れないと恥ずかしいと、乗馬を習い、酒席に呼ばれて芸の一つもできないと恥ずかしいと、早歌を習った。それらが上手くなった頃には説経を学ぶには手遅れなほど歳を取ってしまっていた、という話。ちなみに徒然草は好きなエピソードが結構ある。学校で古典を学んでよかったと思う数少ないことの一つだ。
 何かをやろうとするとあれこれ雑念が入って、本来やろうとしていることがおろそかになりやすい。うまくいきはじめて状況が変わってくると、なおさらそうなのだろうと思う。ちょっと取り上げられだすと、お肌や髪型なんかが気になりだし、いい服もほしくなる。金が入れば車やら家やらも気になり始める。それはそれでいいことなのだろうし、そもそも身なりくらいはちゃんとしておけよという話なのだけど、それでも何が一番重要なのかを忘れてしまうと、この法師みたいに、肝心なところにたどり着けないで終わってしまう。馬に乗れて歌が歌えれば、法師としては平凡でも十分幸せな人生には違いないし、うまくやればそうしたものが本業の深みを増すということもあると思うけど、バランスを失ってしまって、肝心なことがダメになったら残念だろうなと思う。
 たぶんこの話を思い出したのは、自分自身にそういう雑念の気配を感じたからなのだろうと思う。
 これからいろんなことが動いていきそうですが、そんな中でも引き続き、一番大事なことに注力して、弛まず精進して仕事に励みたいと思います。

シリアスゲームサミットGDC終了

 サンノゼで開催されたシリアスゲームサミットGDCに参加。もうシリアスゲームサミットも5回目。昨年のGDCはちょうど春休みと重なっていたし、スピーカーパスでGDCのセッション全部見れたので最後まで参加したが、今年はシリアスゲームパスしかなかったのと休みではなかったのもあって、シリアスゲームサミットのみ。もともとGDCでのシリアスゲームサミットは、ゲーム開発者向けの内容になっていることもあるが、今回は研究面での発表はやや物足りない感じがした。その代わり、ビジネス関連のセッションは活気があった。ゲームの事例も増えてきて、ビジネスとして成功する企業や新たに挑戦する企業が出てきたことで、自信と重みが出てきた感がある。詳しくはシリアスゲームサミットレポートで後日。今回はゲームニュースサイトのSlash gamesへ寄稿予定です。
 サミットが終わって、帰宅したところでスクエニと学研がシリアスゲームの会社を立ち上げるというニュースが入ってきた。
スク・エニと学研、学習・職業訓練ソフト開発で提携(Nikkei NET)
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20060322AT1D200DA21032006.html
今までのシリアスゲームのニュースはゲーム関連メディアにとどまっていたが、今回はこの日経や毎日のような一般メディアでも取り上げられていて、「シリアスゲーム」がこうした形で日本の一般メディアのニュースとして広く取り上げられたのはおそらくこれが最初だと思う。次の普及段階へ進むには、何かを仕掛ける必要があると思っていたが、その必要はなくなった。こちらから流す情報も、今までよりずいぶん伝わりやすくなると思う。
 タイミングというのは、その兆候は読めても、実際にいつやってくるかわからないものだとつくづく思った。そしてそのタイミングをチャンスとして活かせるかどうかは、それまでに準備ができているかどうかにかかっていて、幸運なことに今回はその準備ができている。今やっていることのペースを少し速めて、計画通りに仕事を進めれば、かなり面白いことになる。来年はどういう状況になっているかとても楽しみだ。少しゆっくりクラゲのように緩んでいようと思っていたが、そんな気分でもなくなってきた。

「写経」の効果

 日本の機関から依頼が入って、シリアスゲームについての論文を書いているのだが、書いていて一つ気づいた。以前は書き進めるのがたいへんと感じていた内容を書くのがすごく楽になっている。もう2年もこの分野をメインにしているわけだから知識の蓄積が増えてきたという面もあるのだが、それ以上に、最近やっている翻訳作業によるところが大きいように感じている。翻訳している本はこの分野について書いているものなので、知識自体を吸収しているということはもちろんある。だがそれ以上に、翻訳作業というのは一文一文をかみしめながら、その意味を念入りに吟味しつつ読むことによる効果を感じている。丁寧に訳しながら読み進め、翻訳がある程度進むと、その著者の思考の流れとシンクロするようになり、自分の思考の一部になったような気がしてくる。単に本を読んだだけなのとは知識の吸収の状態が異なり、思考力もその過程でついているようである。よく駆け出しの研究者が自分の専門分野の翻訳出版に取り組むのはこういう意味があるのだなと理解した。
 大学受験のときの英語の勉強で、速読やパラグラフリーディングのようなテクニックばかり追っていたら力がつかなくて、精読をきっちりやることで基盤になる力がついて、大幅にレベルアップができた経験をしたのも、たぶん関連がある。寺の坊さんが修行の一環で写経をするのも、宗教的な意味がなんらかあるにしても、おそらく学習の側面としては、落ち着いて一字一字かみしめながら経を読むことで、より理解が深まるという効果を期待する面があると思う。
 一般的にISDの世界で追い求められる学習効率とは発想の異なる学習方法だが、専門家を育てるための方法として昔から経験則的に利用され、有効に機能していると言える。一文一文訳しながら読むのは語学学習方法としては非効率と考えられがちだが、難しい文献を読み解く訓練や、思考訓練の上ではむしろ効率的な面があるようである。「急がば回れ」ということか。駆け出しの研究者の一人として、きっちり力をつけつつ翻訳をやり遂げようと思った。

試験終了!

 無事パスしました。しかもコンディションなしの完全合格。
 会場の予約がなぜかできてなくて、途中で部屋を移動するハプニングもあったけど、試験自体はとてもいい雰囲気で終始した。コミッティーの教授たちのコメントとかアドバイスとかいろいろうれしかった。何も追加課題なしでパスできたのは、コミッティーに恵まれたおかげ。その場で引き続き博士論文のコミッティーになってくれと頼んで快諾をもらえた。いい流れになってきた。
 さあ次は論文のプロポーザル。とりあえず力抜けたので、週末のサンノゼ出張まではちょっとクラゲのように浮遊していようと思ったら、この間受けた仕事の原稿があった。。なのでクラゲはとりあえず来週末までお預け。

子どもたちへのゲームの影響が心配な方のための本

シリアスゲームジャパンのエントリと同じものですが、こちらでもご紹介します。
デジタルゲームベースド・ラーニング」の著者マーク・プレンスキ氏の新刊 “Don’t Bother Me Mom — I’m Learning” (「ママ、勉強してるんだからジャマしないでよ」)が発売されました。
この本は、子どもがゲームで遊ぶのを心配する大人のための、ゲームとポジティブに、かしこく付き合うための解説書です。ゲームは有害ではなく、むしろ子どもたちや若者たちの成長を助け、能力を高めているという研究事例を引用しながら、ゲームを子どもの学習環境の中にうまく取り込むことで、子どもたちがデジタル技術の進化した社会でよりよく生きていくためのリテラシーを身につけながら成長していくことができるという考え方を提示しています。
ゲームで遊ぶ子どものことを心配する大人たちの多くは自分でゲームをプレイしないため、ゲームプレイを通して子どもたちが身につけているリテラシーについてを理解できず、そのためにゲームが有害であるとする誤った二次情報によって翻弄されています。
この本ではそうした情報がいかに誤っているかを指摘しながら、ゲームの持つポジティブな効能を実際の事例に基づいて解説し、ゲームについて子どもたちとよりよい関係を築いていくための考え方や方法を紹介しています。
ゲームの世界がどんな感じで、子どもたちがその中でどういう経験をしているのか、子ども達の身につけているスキルがどんなもので、どんな風に社会で役に立っているのか、子どもたちがゲームを通した経験を学習に活かしていくには子どもたちとどういう会話をすればよいのか、といったことに関心のある「非ゲーム世代」の方にお勧めの一冊です。
過去の関連エントリ:親と教師のためのゲームガイド

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土壇場の集中力

 修了試験の口答試験が明後日に迫ってきたので、論述試験の時に自分が書いた回答を読みながら、最終調整をしている。読んでてやれやれと思う部分もあるのだが、ところどころにどうやってこんな言い回しを思いついたんだろうというような、素の自分では思いつかないことを書いていたりする。時間制限のある中で持てる知識を総動員して必死になって書いているので、火事場力というか、土壇場の集中力のなせる業なのだろう。試験であれ舞台であれスポーツの試合であれ、成功をかけた勝負の場というのは、よく言われるように水ものである。その場面でタイミングよく力を出し切れるように心身を調整して、コンディションをちょうどよいところに持っていかないといけない。運も作用する。たまたま出掛けに階段で躓いてこけたとか、朝のコーヒーで口の中をヤケドしたとか、そんな些細なことで集中力というのは簡単に削がれてしまう。その誤差というのが結構大きい。テンションの差一つで結果は大きく変わる。実力十分と思ったのに結果が芳しくないこともあれば、望み薄だったのが結果は大金星となったりする。
 この試験の結果で、今後の予定がうんと変わってしまうので、なんとか一発でパスしたいものだが、こればかりはなんとも言えない。自分自身の感触としては、実は知識的にはあまり足りてなくて、その場のテンションとか、土壇場の集中力に頼らないといけないところがかなりある。論述試験の時はそれがある程度うまく行っていたのだなと、自分の回答を読んで理解したが、さて今度はどうだろう。

研究者とポリティクス

 先日のエントリに対し、さらに東大の中原さんからコメントをいただいたので、こちらもさらにコメントを続けます。
中原さんの記事:研究の場ではたらくポリティクス
http://www.nakahara-lab.net/blog/2006/03/post_110.html
> 「あるものがポジティブなものなのか、ネガティヴなものなのか」ということを、
> 根拠をもって判断する基準はないんじゃないかなと思うんですね。そこでいう
> <ポジティブ>は、「藤本さんの考えるポジティブ」という意味で、まさに藤本さん
> 自身も、政治力学の渦中にいますね。
それはご指摘の通りです。
完全無欠なポジティブとか100%客観的な中立などあり得ないですし、僕自身が政治力学のどこかにプロットされるのは避けられないと思います。良かれと思ってやったことが誰かにとっての不都合になることもあるでしょう。でも、そこは自分の信念やビジョンに基づいて、ベストエフォートでやっていくしかないと思っています。いろいろ考え出してもきりがないので、ごく単純に、お天道様に顔向けできないような仕事の仕方はしないということと、自分の意図に対して常にリフレクティブであり続けながら、自分の判断のブレを抑えていく、くらいで考えています。僕がポリティクスを意識するのは、自分が大事だと思う仕事を、自分の納得のいくレベルでやるために必要な範囲においてで、それを超えることには関心はありません。そうは言っても、間違うことや壁にぶち当たることもあると思います。でも、その時々で全力で考えて最善と思うことをやっていくしかないと思います。中原さんの研究に絡むポリティクスへの考え方にはとても共感しています。
> で、いわゆる「振り付け」をされたり、ポリティカルな悪意をもった人々に利用される
> 可能性が格段にあがる。正直に「自分にわからないことは、データがないのでわからない」
> というべきです。
 これはとても身につまされる話です。自分がどうでもいいと思うことや嫌いな相手に対しては、「そんな話をオレに振るな(怒)」というニュアンスを込めて遠慮なく「わからん」と言えますけど、「これをわからんと言い切ってはちょっと気まずいな」という局面はいろいろ出てきます。気をつけてはいても、その場のノリで言い過ぎてしまうこともあります。たぶんコミュニケーションのとり方の問題で何とかできることが多いだろうと思っていて、僕はこの点はちょうどよい身の処し方を求めて試行錯誤しているところです。
> ともすれば、世に流布する言説は、何でもかんでも、クソミソ一緒にして、教育のせいに
> します、教育が何でも解決出来ると持っている。「教育にできること」「教育にできない
> こと」の線引きは、必要だと思っています。
まったくおっしゃるとおりだと思います。苅谷剛彦先生あたりがずっと前に指摘されていたのを読んで以来、そう考えてきました。大学院のクラスでも、事例を聞いて「そもそもこれは教育問題なのか?」を議論する機会が何度かありました。そういう議論をする機会は必要だと思います。少しずれますが、日本の一般的な風潮は、万能薬か魔法のような解決法を専門家に期待するところがありますよね。あるいは、誰かすごい人が何とかしてくれるよ、オレ負け組だからシラネ、みたいな体のいいあきらめというか。普通の人たちの地道な努力で成果を積み上げていって、状況を変えていくしかない、ということを理解していない。そういう中で自分がどうやっていくべきなのかなと考えています。
> 上位の教育システムのリデザインですか。
> このあたりは、いわゆる学習科学(learning science)でも似たようなところがあって、
> WISEのグループとか、ノースウェスタンのグループとか、もっとマクロレヴェルの教育
> システムのリデザインに着手しているようですね。
学習科学の研究者の方が、Scienceという名前がついていながらも、デザイン重視でアプローチが柔軟なところがあるなと思います。ISD研究者の方が逆にサイエンスを意識しすぎて柔軟さに欠ける(そんなことやって何の足しになるかわからないような)研究をしてたりするのが時に気になったりします。最近では、学習科学とISDの研究者の間のコラボレーションやディベートがやや盛り上がっています。まあ、もはやどちらがどうだという話でもなくて、実質的にはかなりクロスオーバーが進んでいて、お互いの優劣を云々しているのは保守的な人とラディカルな人たちだけのような印象です。その辺の話は前に少し書きました。日本にはそもそもディベートが盛り上がるほどこの分野に人がいないというのが寂しいところですが。
http://www.anotherway.jp/archives/000609.html
> 結論からいうと、大学研究者と現場のあいだをつなぐ媒介的な組織がなければ、
> なかなか教育システムの変革まで手がまわらないと思うのですね。
>  いったん教育学者が普及ということを意識した場合には、どうしたってマンパワーが
> 必要です。でも、そのマンパワーをどう獲得し、どういう仕組みで、その「マンパワー」を
> マネージしていくかについては、議論がナイーブすぎると思っています。
同感です。日本の大学組織だとどうしても、研究者にかかる負荷が大きくて、失敗するか無茶して身体壊すかで、そういうのを避けて大部分は尻込みして動かない、みたいな世界になるのも仕方がないと思います。アメリカの大学組織の強みは、専門教育を受けたスタッフの層が厚いところかなと思います。何かやろうとした時に頼れるスタッフがいる。大学院生も経済的支援があるおかげで、プロジェクトにしっかりコミットできる。そういうところがあります(もちろん、いい面ばかりではないですが)。
アメリカの教育システム変革論では、システム思考をベースとした組織変革のアプローチを中心に教えています。研究者と実践者だけでなく、新しいテクノロジーや教え方を導入する際に、その変化がその組織や周辺に及ぼす影響をシステム的に捉えて、全体のバランスを取って最善の状態に持っていくためには何をしていく必要があるのかをセオリーとして学びます。Hutchinsの「Systemic Thinking」や、Havelock & Zlotolowの「Chenge Agent’s Guide」などは長年、基礎文献として読まれていて、そうした知識を持った人が学区レベルや学校レベルで働いているというのはずいぶん違うだろうなと思います。
> 今度ぜひご帰国なさったときは、ゲームのことならず、ISDの研究動向などご教示
> いただければと思います。ポリティクスについてもお話ししましょう。
それはぜひとも。書き出したらきりがなくて、だいぶはっしょって書いてますので、また続きをじっくり議論できればうれしいです。それにこちらこそ日本の事情をいろいろお伺いできればと思います。
帰国の楽しみが一つ増えました。

アイトーイ:キネティック12週メニュー終了

 運動不足解消のために12月の後半から続けていた「EyeToy:Kinetic」の12週メニューをめでたくクリアした(キネティックの評価は以前のエントリ参照)。最後のところでごほうびに、インストラクターのお姉さん(またはお兄さん)のお色気サービスカットが。。。あったりはしない。終わったところで、また12週間のメニューを始めるかと聞かれて、はいと答えると少し回数とボリュームが増えたメニューが提供されて、また翌日から新たなメニューで坦々ととエクササイズが続く。この坦々さがキネティックのいいところでもある。おかげで日々のエクササイズが見事に習慣化した。最初は週3日でも面倒な感じだったのが、今では週5日でもへいちゃらで、やらないと何か物足りない気がするくらいである。
 体重は1.5キロくらいしか落ちてないのだが、上体の筋肉のつき方が明らかに変わった。肩の筋肉がモリっとなるくらいになった。もう少しがんばれば、胸筋も動かせるようになるかも。でもお腹周りのコーティングは取れない。。それは運動することで飯が美味くなって、もりもり食べたりしているからだ。やはり食べる量を調整しないとダメらしい。以前は軽くウェイトダウンできていたんだけどね。。これも歳のせいか。。
 エクササイズの習慣化にはかなりの威力を発揮するので、日本でも発売されたら、ぜひお試しあれ。

シリアスゲームと教育学研究の政治性

 昨日の教育工学とシリアスゲームのエントリについて、東大の中原さんからコメントをいただいたので、またそれをネタにしつつ、関連するところを書きます。
 中原さんの記事:ゲームと教育工学
 http://www.nakahara-lab.net/blog/2006/03/post_108.html
> まぁ、僕は学習研究者なので、上記のようなテーマを聞くと、あいかわらず「それは学習だよなぁ」
> と思ってしまいますが(笑)。「箸が転がっても」、「それは学習の問題だよなぁ」と思ってしまう、
> 「学習バカ」の僕は、このさい、放っておきましょう。なるほど、了解しました。
いや、その点では僕も相当なバカものなので、意味するところはわかります。
この場合は、学習も密度の濃さや状況の違いによっていくつかレイヤーがあって、それを「経験」と呼んだり、「認知」や「態度変容」や「動作習得」、あるいは「刷り込み」のようなものもあると思います。それを僕らのような教育研究者の側からすると「学習」と捉えればしっくり来るし、マーケティングの人は「宣伝」だったり、社会活動家のような人からすれば「啓蒙」なのかも知れないですが、そういう形でそれぞれの立場で別のくくり方をしてシリアスゲームを捉えていることも、コミュニティにおける相互の学習にはプラスに作用している面は大きいし、学習という概念についての理解を深める上でもプラスに働くと見ています。
> 要するに、「ポリティカルなもの」をそのまま伝達しても、子どもや大人には獲得できない。だから、
> ゲームという形式をつかって、彼らが楽しんでいる間に、獲得させちゃおう、正当化させちゃおう、
> という開発者のねらいみたいなものを感じます。
これはおっしゃるとおりで、教育的意図で作られたゲームであっても、扱う題材によっては政治的な意図が含まれることを避けられないと思います。シリアスゲームのメーリングリストでも、政治的な意図をユーザーに楽しませながら伝えられるという効果に対して、懸念する意見や慎重論も出ていて、継続的に議論されています。
たとえば、このことを考えるちょうどいい例として、September12というゲームがあります。
September 12th
http://www.newsgaming.com/newsgames.htm
 数分プレイすれば、このゲームが伝えんとするメッセージが伝わってくると思います。これを「テロに対するミサイル攻撃がいかに無意味か」と理解するか、「たちの悪い政府批判だ、けしからん」と理解するかは、それぞれの政治的立場で解釈が変わってきます。また、米陸軍が志願兵のリクルート用に作ったシューティングゲームもあります。これもプレイしているうちに、就職先として軍も悪くないなと若者たちに考えさせることを意図して作られたマーケティングツールです。他にも、中国の政府系機関がスポンサーになって、南京大虐殺のゲームを作ったというあからさまな例もあります。
 こういう微妙なテーマを扱えば扱うほど、そのゲームの持つ政治的な意図が問題になってきます。これは昔からいかなるテクノロジー、メディアにおいても同じような議論がされてきていますが、ゲームもそのインタラクティブな特性によって、他のメディアとは異なるパワーを持ったメディアとして避けられない問題だと思います。そういう意味では、たしかに社会学とかメディアスタディとか、いろんな立場の人が研究テーマとして取り上げて、理解を深めていくのが望ましいと思います。
 僕個人は、この問題については「いかにポジティブや中立であろうとしても、悪意や利己心を持った受け手がメッセージを歪めて捉えようとするのは避けられない」という前提で、そういうセコい悪意など無力化できるくらいにポジティブさを維持していこう、というスタンスを取ります。自分たちのやることが影響力を持てば持つほど、権力やオカネの問題が絡んできて、積極的に自分たちの立場を守らなければ、悪用されてしまうケースも出てくると思います。そう考えた場合に、メディアとしてのゲームの使い方についても、慎重に進んでいくよりは、どんどんトライアルを繰り返して試行錯誤する中で、十分な経験や知識を獲得しておく方向で進む方が、あとあと助かるだろうなと。
 関連する話で、インストラクショナルシステムデザイン(ISD)の研究者達が、教育システム変革論に関心を持つようになった、という流れがあります。ISDは教育現場のデザインが主要な関心なのですが、それをうまくやろうとしたり、学校全体やさらに広範に普及させようと考えた際には、どうしても学校や学区、より上位の教育システムといったマクロなシステムの動きを考慮した取り組みが必要になります。ISD分野きっての理論家であるライゲルースはISD研究における教育システム変革論の第一人者でもあるし、ペンステートのISD研究者カイル・ペックは、地域のチャータースクール開設の際に重要な役割を果たしました。日本で「インストラクショナルデザイン入門」という訳書が出ているウィリアム・リーも、「企業は研修の改革で組織も改革できるような幻想を抱いているけど、ISDのアプローチだけではそういうニーズには応えられない。より上位の教育システムへのアプローチ手法を身につけないといけないことを後になって理解した」と指摘しています。「より上位の教育システムへのアプローチ」には、そのシステムにおける文化的、政治的な状況把握と、それに基づいたある種の政治的な動きというのは当然含まれてきます。政治的動きというと、何やら怪しげな感じがしますが、状況を望ましい状況に持っていくため手段の一つとして捉えればいいと思います。
(建前は政治的でない日本のアカデミックな世界が、その中での各自の行動は、暗黙の政治的配慮とかルールに縛られていて、エライ人ほどすごく政治的だったりするわけですし、その中で研究の中立性を保つには、時には積極的な防御手段も必要になってくるのかなと懸念してます。)

教育工学とシリアスゲーム

 東大の中原さんがフードフォースとシリアスゲームについて書いていて、教育工学とシリアスゲームについてを掘り下げて考えるのにちょうどよいなと思ったので、呼応したエントリを書きます。
 フードフォースについては、シリアスゲームジャパンの方にいくつか関連エントリがあるので、ゲームの内容や開発の経緯などの詳細はこちらを参照のこと。
シリアスゲームサミットDCダイジェスト:フードフォースによって飢餓と闘う国連
https://anotherway.jp/seriousgamesjapan/archives/000641.html
Food Force紹介記事
https://anotherway.jp/seriousgamesjapan/archives/000634.html
 私も教育分野、中でも教育工学の領域で研究をする立場なので、基本的にはシリアスゲームを教育メディア、あるいは教育方法として捉えている。そういう人間がシリアスゲームを語ると、どうしても教育的側面が中心になるが、もともとシリアスゲームは「教育をはじめとする社会の諸領域の問題解決のために利用されるデジタルゲーム」がそのコンセプトになっている。なので、教える・学ぶためのゲームというだけでなく、啓蒙のためのゲーム、広報・宣伝のためのゲーム、政治的メッセージを伝えるためのゲーム、治療のためのゲームなども含まれる。教育工学において、ゲームを使った教育が(すごく小さな)一つの領域であるように、シリアスゲームにおいては、学校で使える教育ゲームの研究は、シリアスゲーム全体の中の一つの領域である。
 中原さんの記事で述べられている中に、二つの興味深い指摘がある。「ゲームを使った教育は、ずいぶん昔から取り組まれてきたテーマだ。」ということと、「教育ゲームを批評したりするのは簡単だけど、開発はすごい大変で、ものすごいエネルギーが要る。」ということだ。
 ゲームを使った教育、教育のためのゲームの開発は、たしかに別に新しいアイデアでもなんでもなく、ずいぶん昔から取り組まれてきている。20年も前に初代ファミコンをプラットフォームに、東京書籍や福武書店(現ベネッセ)が学習ゲームのタイトルを出しているし、エデュテインメントというコンセプトが盛り上がったのも少し前の話で、教育ゲーム自体はずっと世に送り出されている。ただ、そのほとんどは子ども向けのコンテンツだった。「MBAビジネスゲーム」みたいな対象層が上めのコンテンツも中にはあったが、主流は子ども向け。全米教育工学会(AECT)でも、教育ゲームへの関心が高まっているところなのだが、そこでも学校教育でゲームをどう利用していくか、という議論が中心。一方、シリアスゲームのコミュニティにおいては、子ども向けのコンテンツはさほど主流な存在でもなく、むしろマイナーな存在といってよいかもしれない。
 2点目の指摘も涙が出るくらいよくわかる。私も自分で開発プロジェクトをやる時には、毎度鼻血が出そうなしんどい日々を過ごして、やっとできたプロトタイプを他の人にデモして見せたら、こちらの苦労も知らずに容赦なくここが悪い、あそこが変だと注文をつけられる。直したら直したで、受け手もアイデアが刺激されたりして、もっとこうした方が面白くなる、みたいな話になってまた泣く思いをして修正する。概してそんなことの繰り返しである。
 残念なことに、昔から取り組まれ、多くの人の苦労がにじむ歴史を経てきた割には、教育メディアとしてのゲームは、プレゼンスが弱く、研究分野としても定着していない。その大きな理由として、3つほど考えられる。
1.ゲームに関心のある研究者がいろんなコミュニティに分散していて、それぞれの勢力が弱いままで推移してきたこと。
2.しっかりした研究成果がでるまで研究が継続されてこなかったこと。
3.教育デザインのスキルとゲームデザインのスキルは、互換性がありそうで実はそれほどないという点を理解されずにきたこと。
1.については、教育工学研究者のコミュニティだけでなく、他にもたとえばシミュレーション&ゲーミング学会という歴史ある学会があり、教育ゲームの研究の蓄積もあるのだが、デジタルゲームの研究をしている人は多くない。ゲーム学会というゲーム研究者のコミュニティもあるが、そこでも教育のためのゲームというのはマイナーな存在である。医学や経営学やその他それぞれの研究者コミュニティにそれぞれゲームに関心がある人がいたにせよ、一人二人か、せいぜい数人である。
2.については、研究費が尽きたとか、たまたま研究室にいた開発担当の院生が卒業したとか、年度内に成果が出せなかったとか、研究者のモチベーションが下がったとか、さまざまな理由で研究がストップしてしまい、理論や方法論を成果として出す前に終わってしまうことが問題となる。Anchored Instructionを生み出したJasperのようなプロジェクトは、相当な研究費と優れた研究者チームが複数年取り組んだプロジェクトで、あれだけの成果が出せたのである。小額の研究費で、研究室のサブプロジェクト的な規模でやったとしても、後に続くような成果を出すのは難しい。
3.は教育工学者やインストラクショナルデザイナーからよく誤解される点である。テクノロジーの知識があって、教育をわかっていても、アイデアをゲームのメカニズムに落とし込んで、イメージどおりに動作するものを必ずしも開発できるわけではない。教育ゲームといえどゲームなのであって、ゲームとしてのよさを出すためにはそれ相応にゲームデザインについても知識と経験が必要となる。多くの場合、それがないままに開発する状況になってしまうので、苦労の割には成果が出なかったり、途中で疲弊して挫折してしまったりする。
 シリアスゲームのコミュニティは、これまでのエデュテインメントや教育ゲーム研究が乗り越えられなかった上記のような問題点に対応した、研究と実践のコミュニティである。シリアスゲームのコンセプトで、これまで各分野に分散していた研究者や開発者、ユーザーとしての教師、プロジェクトのスポンサーたちが結集し、お互いの知識やリソースを共有して、成果をあげようとしている。今までそれぞれマイナーな存在だった開発会社も研究者も、中心的存在としてモチベーションを高めて活動している。コミュニティを形成することによって、勢力としてプレゼンスが高まり、資金や人材の流れも生まれた。ゲーム開発者が知識を提供するので、教育工学の研究者達もゲームデザインの知識を理解したうえで開発プロジェクトに臨めるようになってきた。欧米においては、こうした流れの中でここ数年のうちに基盤が形成されて、今の盛り上がりに至っている。
 日本のシリアスゲームは、シリアスゲームという言葉自体はここ最近、人の口の端に上るようにはなってきてはいるが、いまだ一つの分野というところまではきておらず、欧米の勢いには程遠い。しかしゲーム業界からの関心は高まっていて、あといくつかのきっかけを作れば、欧米並とはいかずとも、研究やビジネスの領域の一つとして定着するくらいのところまではいけるだろうという手ごたえを、最近感じているところである。