最近、ブログを書くノリが非常に悪い。思い当たる理由としては二つある。一つ目は、思考の流れがブログを書く流れにチューニングできない感じが続いていること。少し前までは、その日のネタを決めて思うに任せて書いているうちに、思考の流れができていって、ある種の自分の型に沿った形でアウトプットができるようなイメージで書いていた。最近それが、アイデアのチャンクの断片を書いた時点で、その質の低さというか、キレの悪さが気に入らなくてボツにしてしまう。原稿用紙であれば、クシャクシャの紙くずがゴミ箱に渦溜まっている状態だ。
もう一つの理由としては、おそらくこれが一つ目の理由を生み出しているのだが、自分のブログを書く時のスタイルを変えようとしていて、それがうまくいっていないことだ。自分で書いたものにはある種の型があって、思うに任せて書いていると大体そのパターンに収束する。書いているうちにあれこれ調べ、思考を掘り下げて、その時点での自分の思考の一番先まで持っていって、まとめることができた分だけアウトプットになる。そのため、ブログを書く作業が能力開発の一環になっていて、自分のためにはなっているのだけど、その分時間をとられる。型ができてきたおかげで作業は楽になったのだけど、しばらく続けているうちに、費やす時間に対して、実になっている分が逓減してきた感がある。
そんな事情から、ブログに対する自分の最近のテーマが変わりつつあって、その移行期の試行錯誤をしているという感じだ。以前にも似たようなことはあった。その時は、日常の出来事を書いてとりあえず何となく更新するパターンに飽きが来たので、日記的な要素を減らして、より自分の思考に根ざしたものを書こうとしていた。そのコツを掴むまで、しばらく書けなくなった。
今回は、書き方よりもむしろ、自分の思考のキレの部分に関係している。まだ自分で何が目標なのかはっきりしていないが、できるだけ説明的な部分を減らしつつ、端的にコンセプトを伝える文章を書きたいと思っている。だとすると、今までの書き方を踏襲したのでは、おそらく破綻する。今まで身につけてきた技術は活かしつつも、型自体は壊して一から作り直すべき性質のものだと思う。ここしばらくは、今までのスタイルで書いたり、他のやり方をためしたりしながら試行錯誤が続きそうである。
以前から一つだけ変わらないのは、ブログを書くという行為が、自分の癒しになっているということだ。書く作業自体が、貴重な振り返りの時間となっていること。そして、一つのアウトプットを完成させることで、ささやかな達成感が得られること。これらが癒しをもたらしている。たぶん私がこうして書き続けている理由の一つは、それが自分の精神的な調子を整える時間として機能している面があるからだと思う。ただ、ブログを書くことの意味が変われば、書き方も内容も変わる。もしかしたら、その癒しを自分が以前ほど必要としなくなっているか、以前ほど効かなくなっているのかもしれない。今はそうした状況で、自分の中でのブログの位置づけに変化が起きるかどうかのところにいるようである。
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Last Comic Standing
アメリカのテレビは、夏がクールの谷間で、短めのシリーズや春や秋よりはやや低予算めの企画ショーなどが目立つ。NBCのLast Comic Standingもその一つで、毎年夏のこの時期にやっている。この番組はスタンドアップコメディアンのオーディションショー。スタンドアップコメディは、日本で言えばピン芸人の漫談みたいなものかな。細かい定義は違うのかもしれないけど、要は一人で舞台のマイクの前に立ってお笑いネタをしゃべり倒す芸能のこと。
このオーディションでは、地方予選で選ばれたコメディアン達が毎週何人かずつ落とされながら、最後に残った人が「ラスト・コミック・スタンディング」に選ばれる、という内容。フォーマットはアメリカンアイドルや他のオーディション系のリアリティショーとほぼ同じ。
今年がシーズン4だが、ちゃんと観るのは今シーズンが初めてだ。というのも、スタンドアップコメディの英語は基本的にみんな早口で、かなり文化的な理解をしていないと文脈がつかめないネタが多いので、非常に難しい。今までは観てもちっとも楽しめなかったのでスルーしていた。
今の時期、見たい番組がいくつもないこともあり、試しにこの番組を観てみた。すると字幕なしで観て笑えるところが増えて、字幕があればだいたい理解できるようになっていた。いろんな英語に耳が慣れてきたのと同時に、文化的な知識も増えたおかげだと思う。少し前まで全く歯が立たなかったものを観て楽しめるようになっていたので、ちょっと嬉しくなった。
テレビの英語では、スタンドアップコメディショー、スポーツの試合、ローカルニュースあたりが一番難しいと感じる。スタンドアップコメディは早い上にスラングが多くて、文脈が掴みにくい。スポーツの試合も早くて専門用語が多いのと、話がぽんぽん飛ぶので文脈が掴みにくい。選手へのインタビューも早口だったり省略が多かったりして難しい。ニュースはフォーマットに慣れれば楽になるが、やはり文脈を掴みにくい。一方、シチュエーションコメディやドラマは、視覚的な文脈情報が多く、ストーリーの流れがあるものは慣れることが比較的容易だと思う。
この番組についてもう少し書こうと思ったけど、どうも今日は思考が冴えないので、なんだか英語の話に逸れたまま帰ってこなくなってしまった。今日はここまででまた今度。
イチゴとブルーベリー
ここしばらくスーパーで売ってるイチゴが安くて、ひとパック2ドル~2ドル50セントくらい、さらに安いときは1ドル50セントで売ってたりするので、買い物の度に買っている。毎朝ヨーグルトに放り込んだり、ワッフルやパンケーキにのせたりして食べている。
アメリカのイチゴは、日本の豊の香イチゴのような品の良いイチゴと比べると、一粒が巨大で味も大味。それでも季節の時期には非常に安いので、日常的に食べられる。去年と比べて、今年はイチゴが安い時期がやたら長いような気がして、毎日イチゴばかり食べている気がする。去年どうだったかはよく思い出せないが、3倍以上消費している気がする。
先週あたりから、安売りしているイチゴの横で、ブルーベリーも安いのが並ぶようになってきた。ブルーベリーは通常薄いパックに50粒くらい入って2ドル50~3ドル50くらいで売っていて、季節になると同じ値段でそのパックの厚みが増すので買い易くなる。昨日ウォルマートに行ったら、通常の3倍のサイズ(ざる一杯分あった)で1パック1ドル25セント(約150円)で売り出していた。あまりの安さに2パック買ったので(ざる二杯分だ。。)、今度はブルーベリーも毎朝食卓に並ぶことになった。たぶん、こういう安売りのブルーベリーはパイやマフィンを作るために買う家庭も多いんじゃないかと思うけど、新鮮な生ブルーベリーは普通に食べておいしい。
ブルーベリーは眼に効くというのはよく言われているけれど、確かに効くと思う。2ヶ月くらい前にやたら眼の疲れを覚えていて、マッサージとかして、お茶をにごしながら作業していたのだけど、手ごろな値段になり始めた先月あたりから、ブルーベリーを食べ始めて、眼の疲れを覚えることが明らかに減っている。この夏の不健康な研究生活を改善する食べ物の一つとして活躍してくれそうだ。
オンラインゲーム世界で模索の日々
この週末は、人生でも一番と言っていいほど長時間ゲームをプレイした。疲労がたまった。手もやや痛い。
今研究フィールドとして取り上げているゲームは、MMOG(Massive Multiplayer Online Game)というジャンルで、何千、何万ものプレイヤーがバーチャルなゲーム世界で同時にプレイしている。プレイヤーたちが形成するコミュニティの中で起こっている学習と、そのゲームのデザインの関係に関心があって、前に別のゲームでやった研究をさらに推し進めるべく、今回は日本の大手ゲーム会社が出している海洋アドベンチャーなMMOG(と言えばどのゲームかわかってしまうけど、別に隠しているわけではないので)を対象にしている。
この手のテーマの研究は、日本ではほとんど聞かないのだけど、欧米ではだいぶ数が増えてきた。他の研究者がカバーできていることと、できていないことがあって、そこは研究の視点の違いなのだけれども、自分的にはうまくいけば、かなりオリジナルな成果が出せるんじゃないかと期待しつつ準備を進めているところだ。
熟練研究者の域には程遠いので、毎回研究のセットアップから最後のアウトプットまで試行錯誤が続くのだけど、今回もセットアップのところで難航している。これまで準備的にゲーム世界でテストプレイのようなことはしばらく続けてきたのだけど、ゲーム内での自分の立ち位置があまりに周辺的過ぎて、熟練プレイヤー同士のやり取りの意味が深いところで理解できないで推移していた。
忙しさもあってプレイ時間も少なく、たまにしかやらないので、人々とのやり取りも少なくなりがちだった。一緒にプレイしている人たちとも、ジョギングしてて公園で出会う顔見知りのような関係でしかなく、「こんちは」「おつかれ」みたいな簡単なやり取りしか発生しなかった。しかも、研究のためにプレイ記録だ振り返りだと、プレイ以外のことにも時間を費やす必要があるので、何かと停滞しがちだった。
あまりに埒が明かないので、研究作業は全部ほっぽり出して、とにかく他の人がやっているようにプレイしてみることにした。自動的に残るプレイログと、時々面白い場面でスクリーンショットを撮る以外は、完全に一プレイヤーとして、使える時間を全て投入してひたすらプレイしてみることにした。
このゲームの特徴は、モンスター征伐や冒険ばかりの他のゲームとは違って、地域間交易や、調理、鋳造、縫製などの生産もプレイの主要な位置を占めているところで、ロンドンで仕入れたウィスキーをアムステルダムに持って行って売って、帰りにジンを仕入れてまた他所で売る、といったことを利益が上がるように考えながら進めていく。街の道具屋でレシピを買って、仕入れた材料を使って料理を作り、それをバザーで他のプレイヤーに売ったり、他のものと物々交換することもできる。職業もさまざまあって、軍人と冒険家と商人の3タイプから複雑に枝分かれした職業システムがあり、スキルも前提スキルや必要レベルが複雑に入り組んだシステムが構成されている。プレイヤーたちは、自分のプレイした職業を目指して、一番適切なキャリアパスを見つけて転職を繰り返しながら、効率よくレベルを上げ、必要なスキルを身につけていく。
知識の蓄積の仕方もとても高度な活動が行なわれている。ネット上には、プレイヤーたちが自発的に制作した、さまざまな知識リソースが提供されている。初心者向けのガイド、交易品や名産品のデータベース、地域別の交易ルートと必要スキル習得場所の一覧、情報交換のための電子掲示板、作業支援ツール、など膨大な量のリソースが日々形成されている。
それらのゲーム内外の情報は、ある程度その世界に慣れていないと、ありがたみもわからないし、深いところでその意味するところを解釈できない。ちょっとかじった程度で研究しようなどという当初の姿勢は相当に甘かったと反省した。
ここひと月ほどで、総プレイ時間は100時間以上に達し、レベルもだいぶ上がってきた。最初の探検家から、食品商を経て薬品商になって、調理も工芸もスキルがあがった。個人的に冒険や海事活動よりも生産系の活動が好きで、魚介のピッツァを作ったり、小麦から酒を造ったりする作業を何時間も続けたりしていた。自身のプレイを振り返ると、リアルの自分の行動傾向にかなり重なるところが見えてきた点も興味深かった。
この週末は、ゲーム内イベントで、月例の大海戦があった。開催時間が日本時間夜で、こちらは早朝からプレイする必要があるため、今までは敬遠していたのだけど、今回はがんばって参加した。最初の集合地点での艦隊結成から反省会まで全てフル参加したら、朝の6時起きで昼過ぎまでかかった。金曜から日曜まで、特に日曜はワールドカップの日本戦の影響で一時間繰り上がったので朝5時起きで参戦したおかげで疲労困憊だったが、面白い現象を山ほど観察できた。
ここまで突っ込んでプレイしたおかげで、だいぶいろんなことを理解できるようになった。でもまだレベル的には初級からやっと中級に上がった程度なので、上級の熟練プレイヤーたちのやり取りでわからないところは多い。それらをどこまでフォローした上で研究の区切りをつければいいのかはまだわからない。同様のアプローチで行なわれた他の研究は、2年から3年かけてまとめられたものばかりなので、この調子で行くと、自分もそれくらいかかってしまいそうだなとやや途方に暮れつつも、適切な区切りとなる落としどころを模索している。
部屋にこもって、資料を読み、ゲームをやり過ぎて運動不足になりがちなところを、また別のゲームが運動不足解消を助けてくれて、さらにはテレビを見て気分転換をする、という奇妙なルーチンで、隠遁生活のような日々が続いている。夏が終わる頃には、この模索状態から抜け出して一歩進んでいれば良いなと願うばかりだ。
日本人英語:Engrish
先日、You Tubeにアクセスしたら「ALL YOUR VIDEO ARE BELONG TO US」という変な表示が出るだけでアクセスできなかった。ダウンしたのかメンテ中なのかと不思議に思っていたら、そのことを書いた記事が出ていた。どうやら表示されていたメッセージは、以前流行ったEngrish(「日本人が使う変な英語」を意味するスラングで、EnglishのLがRになっているのは、RとLの発音の区別ができない日本人の特徴を示しているとのこと)のフレーズ「All your base are belong to us」をアレンジしたジョークだということだった。
笑える半面、なんだかこういうのを見ると日本人として、「むかー!バカにすんな!」という気もする。それに加えて、そういう間違いを日頃重ねている自分への皮肉もこもった苦笑がこみ上げてくる。
LとRについて言えば、普段何気に手が覚えていて間違えないで済むスペルでも、ある日急に「これLだったかな、Rだったかな??」とあやふやになることが結構ある。パソコンで作業していればスペルチェックや辞書サイトでカバーできるし、Googleも「これのことですか?」とスペル間違いを指摘してくれる。
しかし、手書きで何かやらないといけない時は、そうもいかず、適当に書いて後で違っていたのに気づいて恥ずかしい思いをしたりとか、そういうことを数えていたらきりがない。それに、間違っていれば教えてくれるスペルチェックも、たまたまその間違えたスペルの単語も存在する場合は、スルーされてしまって機能しない。そしてそういう時に限ってひどい間違いだったりする。
前にコース課題で簡単なオンラインテスト教材を作った時にそんなことがあった。「空欄を埋めなさい」の意味で「Fill in the brank」と表示させた。クラスのプレゼンでその教材を見せながら説明して、席に戻ったらクラスメートがすました顔でメモを渡してくれた。そこには「からかうつもりではないのだけど、brankというのは、大昔の拷問の道具のことだよ。」と書いてあった。一瞬何のことかわからなかったけど、”Blank” と書いたつもりで、何度も”Brank” を使っていたのに気づいた(Googleのイメージ検索をして見ると、どんな道具か出てくる)。気づいた時は恥ずかしさ以上に、可笑しくてしょうがなくて、その後ずっと笑いをかみ殺して授業を受けていた。
このBrankをGoogleで日本語ページ検索してみると、66200件もヒットする。そのほとんどがBlankのつもりで間違って使っていて、拷問道具のことを書いているページというのは見当たらない。あぁ、これぞEngrish。。なわけだが、こんなことで脱力している場合でもない。
どの言語圏にも苦手な発音というのはある。韓国人も「ふ」が全く発音できず、全部「ぷ」になってしまうし、同じ英語圏でもそれぞれの地域のアクセントの特徴をからかってみたり揚げ足を取ったりということはいくらでもやっている。日本語でも、中国人の日本語を「。。ナイアルヨ」と誇張してみたり、「インディアン、ウソつかない」みたいなステレオタイプなことで遊んでいることはいくらでもやっているし、田舎の方言をまねて遊んでみたりすることは普通なので、それと同じことである。
LとRの混同の話は、日本人英語の話ではまず出てきて、これが直らないと英語はいつまでたっても上手くならない、みたいなことがよく言われるけれども、決してそんなことはない。もちろん、きれいな英語を使わなければならない職業につくのであれば、直す必要があるだろうし、直した方が英語の吸収も早くなるのかもしれない。でも多くの場合は、直せないままでもなんとかやっていけるし、慣れていく中で自然と直っていく部分もあるので、考えすぎないのがいいと思う。
「日本人のヘンな英語」については、これもGoogle検索するといろいろ出てくる。Tシャツの意味不明な英語とか、お菓子やジュースのカタカナ英語が実はすごい変な意味だったりするとか、笑いのネタは果てしない。でも同じようなことをアメリカ人もいっぱいやっていておたがいさまなので、これもあまり気にしなくてもいいのかなという気もする。日本食レストランのヘンなインテリアとか、若い兄ちゃんのヘンな漢字のイレズミとか、これも笑いのネタが果てしなく続く。
日本人は「恥の文化」なので、からかわれるとマジにキレる人とか、恥ずかしさの余りトラウマになってしまう人とか、そういう恥ずかしい目に合わないようにガードが固くなりすぎる人とか多くなりがちだけど、アメリカ人の文化として(これもアメリカに限った話ではないけれど)、親しくなるために人をからかったり、揚げ足を取ったりするところがあるので、その辺の文化の違いを考えて、あまりシリアスに受け取りすぎないのがいいんじゃないかと思う。からかわれるのは自分が集団の中で認められてきた証拠、くらいの気分で楽しんでいくくらいの方がよいと思う。
私自身、そういう風に捉えられるようになったのは、こちらに来てずいぶん経ってからなので、それまでは何かあるたびに恥ずかしくて立ち直れないような思いをしたことは数知れない。でもだんだんどうでもよくなってくる。それが慣れということなのかもしれないし、それが学習を阻害している面もあるかもしれないけど、全てを完璧に学べるわけでもないし、どこかの部分の学習を安定させるためには、他の部分をある程度切り捨てるというか、ある種の割り切りも必要なのだろうと思う。
英語を学ぶための環境
晩ご飯時に、何となくテレビのチャンネルをザッピングしていたら、ゴルフチャンネルで全米女子プロ選手権の二日目をやっていた。宮里藍がスコアを伸ばして首位タイにつけ、ちょうどホールアウト後のインタビューが始まるところだった。インタビュワーが冒頭で気遣って、通訳無しのインタビューは3回目ですか、という質問から入っていたが、彼女の受け答えはたいしたもので、(米ツアー参戦前にどうだったかは知らないけれど)、英語でのコミュニケーション力は相当に高まっている様子だった。決して難しいことは言っていなくても、期待される答え方をしていたと思う。
彼女の受け答えを聞いて感じたのは、彼女は英語を使いながら身につけていて、変に頭でこねくり回して学ぶんでなく、耳から吸収したもので消化できたものを使っている感じで、そのため発音もよかった。
若いので吸収が早いということもあると思うけど、彼女の場合、多分に英語力というよりは、コミュニケーションに対する姿勢からくる面が大きくて、英語ができるというよりは、人の話を聞いて、きちんと自分の言葉で答えようする意志や態度からきているという印象を受けた。別の言い方をすれば、英語に対するコンプレックスがない、ということによる面が大きいと思う。逆に彼女の英語について、すごいすごいともてはやす日本のメディアの様子は、英語コンプレックスの裏返しな気もする。
彼女自身、言葉の壁を意識しているそうだが、単に日本ツアーで強くなるための修行やハク付けとして米ツアーを捉えるのでなく、本格的に自分のフィールドとしてやっていこうと考えているところで、英語に対する姿勢や準備も他の日本人プロ達と違っているように思う。
周りから入ってくる英語は、いわゆるホンモノの英語であって、コミュニケーションをとるには自分もスキルを身につけなければならないという環境は、言うまでもなく英語を学ぶにはよい環境だ。その中でわからないことを気兼ねせずに聞いて、次々学んでいくのが一番はやい。彼女はキャディーや周りのプロたちからそうやって学んでいるらしい。
そういう環境があるとしても、英語でコミュニケーションすることが自分にとってどれだけ必要で重要なことかを認識しているかどうかで、その環境の活かせ方も変わってくる。また、そういう環境がなかったとしても、目的意識が高ければ、自分で環境を作り出す方向に動くことは可能である。
人に教材を与えてもらった範囲で受身に学んで、できるようになってから使おうという姿勢では、環境があろうとなかろうと学習成果はなかなかあがらない。趣味のお勉強であればそれでも構わないし、英語教育をビジネスにする人たちは、英語ができない人ができないままで学び続けてくれる方が好都合な面があるので、英語ビジネスのマーケティングの売り文句は、100%鵜呑みにはしない方がよい。
自分に必要な英語力というのは、目的に応じてそのレベルや内容が変わってくるので、それを身につけるための学習環境も、そのニーズに合わせて自分仕様に組み立てていくことが必要になってくる。人にお膳立てしてもらったレッスンや、市販の教材だけでは、自分のやりたいこととずれが出てくるのは必然で、そのずれをどうやって調整するかを考えていくことが、自分仕様の環境作りの第一歩となる。
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ところで、この全米女子プロは上位に韓国勢が目立っていた。優勝した朴セリを筆頭に、上位に韓国人プロが数人、タイガーウッズ並みの注目を集めている16歳のミッシェル・ウィーも韓国系アメリカ人だ。ESPNの中継を見る限りでは、韓国勢はすっかり米女子ツアーの主力選手として扱われていた。その中で、宮里もアメリカでのメディア受けがよい様子で、この調子で行けば米ツアーの人気選手として活躍できそうな勢いだ。停滞気味の日本男子ゴルフの方も、丸山茂樹選手に米ツアーでがんばってもらいたいなと思う。
Windfall – Everything Bad Is Good for You
NBCがこの夏一番力を入れているっぽいドラマシリーズ「Windfall」の初回が放送された。このドラマは、グループで買った宝くじが大当たりして、大金を手にしてしまったがために起こるさまざまな人生の変化、特に身を持ち崩して不幸になっていく様子を描いたお話。タイトルの「Windfall」とは、風で落ちた果実、予期せぬ収穫という意味。日本語で言う「棚からぼたもち」。
出てくる登場人物は、貧乏だったり、不倫してたり、離婚前だったり、前科があったり、親との関係が悪かったりして、それぞれの立場で微妙な不幸さを抱えながら日々を生きていて、「宝くじが当たったらなぁ」と考えて宝くじをグループ購入しているありふれた友だちやご近所さんたち。それがグループ買いした宝くじで386百万ドルも当たって、その大金が転がり込んできて夢が叶うのだけど、そこから先に待ち受けているいろんな不幸を予感させつつ、続きをお楽しみに、という一回目の内容だった。
大金を手にすると、それまでは謙虚に抑えていたタガが外れたり、浮き足立った人や分け前に預かろうという人が集まってきたり、さまざまな欲望が渦巻く様子がリアルに描かれていて、嫌な気分にさせられるけど、続きを見ずにはいられないという感じにさせられ、この辺はアメリカの主力TVドラマのストーリーテリングの上手さを本領発揮している。
メインの登場人物がたくさんいて、速い展開で複数のストーリーが同時進行で進むところは、「ER」とか「ザ・ホワイトハウス」、「24」、「デスパレートな妻たち」などの他の人気TVドラマシリーズと共通している。このストーリーの展開の速さと複雑さは、刺激の要素の一つにもなっていて、単線的で丁寧にストーリーを追う昔のドラマのストーリーテリングの手法から進化した形となって定着している。ストーリーライティングの技術としては、かなり高度なのだろうと想像するが、それが毎シーズン複数タイトル出てくるというのだから、アメリカのTVドラマ作家の層の厚さは結構なものだと思う。
なお、ドラマだけでなく、リアリティショー番組、アニメやゲームなど、日常の中で触れるエンターテインメントはどんどん複雑になってきており、その複雑さに触れていく中で、人々の認知的なスキルは高められている、と Steven Johnson が著書「Everything Bad Is Good for You」で指摘している。この本は、日常生活における学習、あるいはインフォーマルラーニングに関心がある人にはオススメ。
Everything Bad Is Good for You: How Today’s Popular Culture Is Actually Making Us Smarter
Steven Johnson 著
Windfallに話を戻すと、「宝くじでも当たんねえかなぁ」と誰もが何気なく考えていることが現実に起こると、どんなことが待ち受けているか、ドラマを通して事例提供していると捉えることもできる。ドラマではあっても、お話だからとバカにはできないリアルさがあって、そのリアルさが視聴者をひきつける要素にもなっている。実際問題として、普通の庶民が大金を手にしたら、多くはこんな風に身を持ち崩していくんだろうな、自分の身に起こったらどうなんだろうか、と考えさせられる。宝くじが当たる夢をナイーブに持っていて、本当にそれが急に起こった時に、このドラマを見てわが身に寄せて考えたかどうかで、その時の幸不幸の縄目の状態が多少なりとも変わっていくんじゃないかと思う。そういう意味でも、「Everything Bad Is Good for You」というのは当を得ていて、掘り下げていけばいくほど面白いものが見えてきそうな奥深さがある。
不便さが方向付ける学習
最近、うちのデスクトップマシンの自動データバックアップがうまく作動しないので、少し設定を変えて手動でバックアップを取った。古いデータを消したので、一からデータを取り直すためにやたら時間がかかる様子。走らせながら作業してもいいのだが、うまくバックアップが取れてなかったら嫌なので、そのまま放置して待つことにした。ラップトップの方に必要なデータを移して作業するという手もあったが、余計な手間が発生するので、とりあえずコンピュータ無しでできることに時間をとることにした。
いざコンピュータ無しの作業をやろうとすると、選択肢が激減していることに気づく。日常的にこなしている暗黙のToDoリストの上位にあるもののほとんどは、「メールの返事を書く」「ブログを書く」「XXの文書をまとめる」「ネットで調べ物をする」など、いずれもコンピュータとインターネットが必要なもので占められている。音楽やゲームやスポーツの結果を見たりするのも、コンピュータを使う。それらのうちで、疲れていてもできるやり易いものや、気の向き易いものをこなしているうちに一日が終わるので、リストの下の方にあるものはいつも下の方でそのままたまっている。
時々プロバイダーがダウンして、インターネットが使えなくなることがあるのだが、その時はネットがないとできないものがToDoリストから消える。さらにコンピュータそのものが使えないとなると、ToDoリストの下の方でおとなしくしている項目が選択肢の上位に入ってくる。それでもモチベーションの低い日は、普段見ないテレビを観るとか、書類の整理をするとか、とりとめなく時間を消費することになる。今回は夕方少し寝てしまったこともあって、何かをやろうという元気が多少残っていた。
日ごろやらなきゃと思っていてタイミングを逃していた作業の中から、「日本の学会誌の論文をチェックする」というのを選んで、うちに届いたまま本棚に眠っていた学会誌を積み上げて、今進めている研究に関連しそうなものに一通り目を通した。論文というのは、面白い研究について書いてあっても、読むとなると非常に労苦が伴う。端的に言えば、面倒くさい。
英語の論文は、急いでチェックしようにも字面を追っているだけでは意味がなくて、結局じっくり読まないといけなくなり、ものすごい時間がとられて一向にはかどらない。日本語の論文は拾い読みというのが可能で、要らない情報はザクザク飛ばしていけるのでまだましだが、それでもすぐに興味を失って、投げ出したくなる。普段はそういう時に「ちょっとメールを」なんてコンピュータに向かってしまい、それっきり戻ってこなくなるのだが、今回はそれができない。それが幸いして、4時間半ほどは論文読みの作業に集中でき、積み上げた学会誌の山はだいたい片付いた。
テクノロジーやメディアには、人の行動を方向付ける性質があり、学習行動も人の行動の一部なので、テクノロジーやメディアの影響を受ける。調べ物という作業は、いまやネットがないとできない作業になり、部屋の本棚には立派な事典のようなものは並んでいない。原稿書きという作業も、メモや概念図は手書きで作ったりもするけど、最終的に文章にする作業は、コンピュータなしにはできなくなってしまった。
コンピュータに向かっていて、メールで飛び込んでくるリンクや添付ファイルの方がアクセスし易く、本棚に並んでいる書籍や論文は、いかに手がすぐ届く位置にあっても、すぐには手が伸びない。いつでも読みたいときには読めるという安心感からくる面と、自分の情報行動がコンピュータによって規定されていることによって生じている面がある。
なので、コンピュータやケータイなど、日頃頼っているテクノロジーが使えない状態で、自分の行動がどう変わり、何をしようとするかをモニターしてみると、そのテクノロジーが持つ強みや、どういう使われ方をしているかといったことが見えてきて面白い。
たとえば私の場合、ブログを書くことは、面倒な作業をやっている途中で嫌になって、ある種の現実逃避としてやっている面が結構ある。なので、ブログが書けなくなると、面倒で後回しにしている仕事が進むという面もある一方で、書くという行為によって生じる気分転換の機会が失われて、長期的には生産性が下がりそうだ。
そうなってくると、一概に封印すればいいわけでも、野放図に使わせればいいわけでもない。どちらでもなく、「ほどよい不便さ」というところに、案外ちょうど良い落としどころがありそうな気がする。
名言のストック
先日、本家のシリアスゲームML上で、「ゲームと学習に関わる名言をシェアしようぜぃ」という呼びかけがあって、何人かが自分のお気に入りの名言ストックを提供していた。
英語で書かれる著作では、その文章の伝えようとすることを端的に表したり例えたりするような、昔の偉人や専門家の名言がよく引用される。翻訳書などを読むとよく見かけると思う。大学院生なんかでも、ライティングのトレーニングを受けたアメリカ人はそうしたスタイルを身につけていて、見事な引用を駆使するのを目にすることがある。アメリカで作家や学者のような物書きを業とする人にとっては、この引用のスキルは標準装備のようなものだ。この引用の技の切れ具合で、教養の高さの示し、自分の文章の格調の高さを演出するというわけだ。その引用が見事だと、それだけで文章が格調高く見えて印象が良くなる(鼻につき過ぎると、キザっちくて嫌だけど)。そういう文化で育っていない身としては、よくまあこんなのをうまく引っ張ってくるなぁとか、こんなにたくさんよく知っているなぁと感心するばかりだ。
しかし、みんなどうやってそんなにちょうど良いタイミングでいい名言を引っ張ってこれるのかと言えば、このMLでのやり取りのように、普段から引用ネタのストックを増やす努力をしているのであって、パッと急にできるものではない。何事においてもいい仕事をしている人は、日ごろのネタ仕込の大切さを理解して、地道に実践しているのだから、感心してばかりいてもしょうがない。ただ、そういうことに関心が高い中にいるかどうかというのは大きいなと感じた。
ゲームとは関係ないけれど、私のお気に入りは、ドラッカーの次の一文で、ネタが少ないのでいつも使いまわしている。
「できない子などありえない。お粗末な学校があるだけである。しかし、そのような学校があるのは、教師が愚かであったり、能力がないからではない。正しい方法と正しい道具が欠けているからである。」
– Peter. F. Drucker
次の言葉は普遍的過ぎてピンポイントには使いにくいけれど、格言としては、同じくらい気に入っている。
‘There is nothing so practical as a good theory’(よい理論ほど実践的なものはない)
– Kurt Lewin
最近見かけて気に入ったのは次の二つ。
“One does not discover new lands without consenting to lose sight of the shore for a very long time.” (視界に陸が見えない長い長い時間を経る覚悟無しには、新しい大陸を見つけることなどできない)
– Andre Gide (1869-1951) French Novelist
こちらはシンプルなので、英語のままで(原文は英語じゃないけど)。
“I am always doing what I cannot do yet, in order to learn how to do it.”
– Vincent Van Gogh
自分史上最高の親子丼
晩御飯に親子丼を作った。もう親子丼はたぶん100回以上作っていて、自分の作り方のパターンが決まっていたのだけど、味的に何かもう一つフックが足りず、伸び悩みを感じていた。
いつもは、始めからゆでるタイプの作り方でやっていたのを、今回は何気に先日作ったカレーの手順が頭に思い浮かんで、炒めから始めてみた。少し玉ねぎがこげたけれど、ほどよく茶色で、玉子のとろみ具合も最適で、色も香りも従来品をはるかに凌ぐクオリティの親子丼が出来上がった。味も見た目にたがわず、今までのものにはない深みが加わっていて、新境地に達したといえる一品が完成した。
物足りない状態から微調整を加えても、60%のものが65%になっても、90%になることはない。一回その慣れ親しんだやり方を壊して作り直すことで飛躍的なレベルアップができるのだなと、ささやかながら実感できた。
きちんと基礎を習っておけば、たぶんもっと早くにこのレベルに達していたのだと思うけど、自分でたどり着いたという手ごたえがあると、学んだ実感も強い。しかし所詮は自分史上で最高なだけであって、世の中に出れば、もっと旨い親子丼を作る人はたくさんいるわけで、親子丼界(?)でどこまで通用するかはわからない。まあ、通用したいわけでもなくて、自分が食って旨くて、周りの人が旨いと思ってくれればそれで十分なのだけど。
考えようによっては、こういう手ごたえから、さらにその道を深めたくなる人もいるだろうし、ほかの人がどんなモノを作っているのか関心を高めて、学習のアンテナが高まる人もいるだろう。なので、こういう「日常の中で感じる手ごたえ」というのは学習の観点から見て、あなどれない存在だと思う。