不便さが方向付ける学習

 最近、うちのデスクトップマシンの自動データバックアップがうまく作動しないので、少し設定を変えて手動でバックアップを取った。古いデータを消したので、一からデータを取り直すためにやたら時間がかかる様子。走らせながら作業してもいいのだが、うまくバックアップが取れてなかったら嫌なので、そのまま放置して待つことにした。ラップトップの方に必要なデータを移して作業するという手もあったが、余計な手間が発生するので、とりあえずコンピュータ無しでできることに時間をとることにした。
 いざコンピュータ無しの作業をやろうとすると、選択肢が激減していることに気づく。日常的にこなしている暗黙のToDoリストの上位にあるもののほとんどは、「メールの返事を書く」「ブログを書く」「XXの文書をまとめる」「ネットで調べ物をする」など、いずれもコンピュータとインターネットが必要なもので占められている。音楽やゲームやスポーツの結果を見たりするのも、コンピュータを使う。それらのうちで、疲れていてもできるやり易いものや、気の向き易いものをこなしているうちに一日が終わるので、リストの下の方にあるものはいつも下の方でそのままたまっている。
 時々プロバイダーがダウンして、インターネットが使えなくなることがあるのだが、その時はネットがないとできないものがToDoリストから消える。さらにコンピュータそのものが使えないとなると、ToDoリストの下の方でおとなしくしている項目が選択肢の上位に入ってくる。それでもモチベーションの低い日は、普段見ないテレビを観るとか、書類の整理をするとか、とりとめなく時間を消費することになる。今回は夕方少し寝てしまったこともあって、何かをやろうという元気が多少残っていた。
 日ごろやらなきゃと思っていてタイミングを逃していた作業の中から、「日本の学会誌の論文をチェックする」というのを選んで、うちに届いたまま本棚に眠っていた学会誌を積み上げて、今進めている研究に関連しそうなものに一通り目を通した。論文というのは、面白い研究について書いてあっても、読むとなると非常に労苦が伴う。端的に言えば、面倒くさい。
 英語の論文は、急いでチェックしようにも字面を追っているだけでは意味がなくて、結局じっくり読まないといけなくなり、ものすごい時間がとられて一向にはかどらない。日本語の論文は拾い読みというのが可能で、要らない情報はザクザク飛ばしていけるのでまだましだが、それでもすぐに興味を失って、投げ出したくなる。普段はそういう時に「ちょっとメールを」なんてコンピュータに向かってしまい、それっきり戻ってこなくなるのだが、今回はそれができない。それが幸いして、4時間半ほどは論文読みの作業に集中でき、積み上げた学会誌の山はだいたい片付いた。
 テクノロジーやメディアには、人の行動を方向付ける性質があり、学習行動も人の行動の一部なので、テクノロジーやメディアの影響を受ける。調べ物という作業は、いまやネットがないとできない作業になり、部屋の本棚には立派な事典のようなものは並んでいない。原稿書きという作業も、メモや概念図は手書きで作ったりもするけど、最終的に文章にする作業は、コンピュータなしにはできなくなってしまった。
 コンピュータに向かっていて、メールで飛び込んでくるリンクや添付ファイルの方がアクセスし易く、本棚に並んでいる書籍や論文は、いかに手がすぐ届く位置にあっても、すぐには手が伸びない。いつでも読みたいときには読めるという安心感からくる面と、自分の情報行動がコンピュータによって規定されていることによって生じている面がある。
 なので、コンピュータやケータイなど、日頃頼っているテクノロジーが使えない状態で、自分の行動がどう変わり、何をしようとするかをモニターしてみると、そのテクノロジーが持つ強みや、どういう使われ方をしているかといったことが見えてきて面白い。
 たとえば私の場合、ブログを書くことは、面倒な作業をやっている途中で嫌になって、ある種の現実逃避としてやっている面が結構ある。なので、ブログが書けなくなると、面倒で後回しにしている仕事が進むという面もある一方で、書くという行為によって生じる気分転換の機会が失われて、長期的には生産性が下がりそうだ。
 そうなってくると、一概に封印すればいいわけでも、野放図に使わせればいいわけでもない。どちらでもなく、「ほどよい不便さ」というところに、案外ちょうど良い落としどころがありそうな気がする。