マンガとアニメの一週間

 ここしばらく、友だちから借りたマンガとアニメのおかげで、とても豊かな時間を過ごしていた。マンガの方は「スラムダンク」全31巻で、アニメの方は「鋼の錬金術師」全51話。疲れた時間や寝る前に数話ずつ進んで、ようやく全部見終わった。面白くてつい、予定よりも余計に見てしまった。
 「スラムダンク」は、91年頃から出始めていたようなので、ちょうど自分が高校の頃に連載していたことになるが、当時はヤンキーもバスケもあんま好みでなかったので、スルーして読んでなかった。15年ほど経った今になって読んでみた。連載してた当時は、傍目から何となく見ていて、てっきり「キャプテン翼」みたいにずっと成長していたり、「キャプテン」のように同じ野球部でメンバーが入れ替わって話が続いてるような手法をとっているのかと思っていたが、ちゃんと読んでみると、主人公が入学してから夏休みまでの話だったというのは意外だった。以前はバスケの知識がほとんどなかったので楽しめなかったが、今年はNBAをたっぷり見て、このバスケのルールとか動きにある程度親しんでいたので、このマンガの面白さを味わえた。いいメッセージのたくさんこもった、読んで元気になれるマンガだと思う。
 「鋼の錬金術師」は、子ども向けテレビアニメの風でいて、我々が子どもの頃に見ていたアニメや特撮ものとは、全くストーリーの作りが違う。話の根底に流れるテーマは複雑で深遠で、子ども向けアニメとしてこれを作るというのは相当にすごいことをしていると思う。これを見た子どもたちは、何を感じているのか、それにこういうストーリーを作れる人たちというのは、どういうものを見て学び、何を考えながらストーリーを構成しているのだろうか、とても興味を持った。
 この二つの作品とも、各国語に訳されて輸出され、世界でも人気を博しているそうだ。ゲームと並んで、アニメとマンガは日本が世界に誇る文化だとされて、これらのおかげで日本に関心を持つ人も多い。
 もちろん、日本のアニメもマンガもゲームも、すべてがすべてレベルが高いわけではなく、大ヒット作となるものはごく一部で、まあまあのものや、どうしようもないものも山ほどある。しかしいいものだけを作り出すということは起こりえないのであって、有象無象が山ほどあるところに意味がある。まずはある程度の量がないと、質のあるものは生まれてこない。雑誌やゲームコンソールのように、コンテンツが普及するための流通の枠組があることで、コンテンツ制作者が身を立てやすくなり、人材やリソースが流れてくるようになる。その産業としての厚みを作ることの重要性を見逃してはいけないなと思う。
 教育分野でもコンテンツを充実させようと思ったら、その流通させるための枠組が必要だし、作家的な人々が参加しやすい場を作っていく必要がある。プロジェクトの数をこなしながら、層の厚みを出していって、リソースが入り込んでくるような流れを作らないといけない。
 現状の層の薄さを起点に考えると、そうした流れを作るにはまず、「これはいける」とみんなが期待できるケースを生み出すことが必要で、それは、平凡な研究の積み重ねからはまず生まれない。かといって、単なる思いつきではそんなものは生まれない。
 どの業界や領域においても、変化を起こせるコンテンツを生むのは、結局のところ個の力を軸とした小集団の力である。制度的、組織的支援は、それそのものがコンテンツを生み出すのではなく、あくまでそうした支援を受けた個人やチームが優れたコンテンツを生み出す。
 アニメやマンガとは業界は違うが、これから私自身が進めていく研究や実践というのは、そうした変化を起こすコンテンツを生み出すことに向かうべきであって、その流れに合わないどうでもいいものに付き合い続けられるほど、人生の時間は長くない。試行錯誤しつつ、まずは妥協のないものを一つ作りあげたい。

芝生の専門家

 今夜は、ピッツバーグで大リーグのオールスター戦をやっていた。それにちなんで、ペンステートのニュースサイトで、農学部の芝生科学プログラムの卒業生が、この試合が行なわれるPNCパーク球場の芝生管理をしているという記事が出ていた。
Turfgrass science graduate helping to prepare PNC Park for All-Star Game
http://live.psu.edu/story/18527
 ペンステートは、もともとは地域の農業振興のために国策で設置された州立大学なので、農学部は大学の強みの一つで、農業や食品科学系のプログラムが強い。芝生管理と、アイスクリームの専門家を育てるプログラムはよく話に出てくる。
 この記事の主役の卒業生は23歳で、まだ卒業して1年ほどしか経っていないが、在学中からペンステートのフットボールスタジアムやこのPNCパークでインターンとして現場経験を積んだ。卒業してすぐに、この球場のフィールド管理のアシスタントマネージャーとして就職したそうだが、彼はインターンの間にそのポジションに必要な経験ができたという確信を持ったと言う。
 街はオールスターでにぎやかだし、球場も芝生を星型に刈ったりするオールスター仕様の作業があるにせよ、彼にしてみれば「オールスターと言っても、いつもやっている準備をするだけ」だそうだ。専門家然とした態度が伝わってきそうなコメントだ。

Friday Night Freedom

 この夏は平日も週末もないような生活をしているが、人に雇われての勤めが終わるという意味では、金曜日は一週間の終わりの開放感がある。
 日本で働いていた頃は、金曜の夜でも10時や11時まで働くことが多かったので、この金曜の開放感を感じる時間は、ほんの何時間かだけだった。飲みに行くかレンタルビデオを一本借りて見ればもうおしまい。土曜は土曜で気分が違うので、金曜の夜のありがたみを享受することは少なかった。飲み屋でよくやっている5時から7時のハッピーアワーなんてまったく縁がない生活をしていた。
 それが今は、仕事は5時に終わり、外は9時頃まで明るい。夕方から寝る時まで、自由な時間はたっぷりある。そこにめがけて、事前に予定を入れておくのも一案だが、そうすると自分の中ではそこは「空いていない時間」なので、同じ楽しい時間であっても、まったく何の予定も入っていない空いた時間とはまた気分が違う。先週の金曜の夜は、そんな何の予定も入っていない100%自由な時間だった。
 早めの夕飯を食べた後も、まだ外は明るい。映画でも行こうか、積んでて手のついてないゲームでもやろうか、そんな元気があるなら読もうと思って読んでない研究用の本でも読んだ方がいいんじゃないか、でもそれじゃ休みにならないし、どうしようか。今から友だちに連絡してもあれだしな。何か一人で楽しめる面白いことないかな、せっかくの時間だから、なんか能動的なことやりたいような、でもやっぱりだらっと受身なことやりたいような・・。という感じで、いろいろ考えていてもなかなか決まらない。決まらないまま、何もしないうちに時間は過ぎていく。
 思い余ってとりあえずテレビをつけてみると、「24」の再放送をやっていて、なんとなくそれを見始めた。思った以上に疲れていたようで、ゴロゴロしているうちに、そのまま寝てしまって、目が覚めたら夜中の2時を過ぎてて、まだ眠いので布団かぶって引き続き寝た。結局、何をするということもなく、楽しい金曜の夜はそれで終わってしまった。
 自由な時間があって、あれもできるしこれもできるが、どれにしようか、とボヤボヤ考えている時間は楽しい。でもその自由な時間が手に入ってから何をやろうか考え始めても、その時点でできることの選択肢は限られてしまっている。残された選択肢にしても、これをやれるなら、こっちができる、でもそれはそんなにやりたくない、と「やりたいことリスト」にあるはずの選択肢が、お互いを打ち消しあって、結局どれにも決まらない。決まらないままでいると、楽しかった悩みが、時間が過ぎていくにつれて嫌な感じになっていく。
 週末のたった数時間のことなので、うまく使えなくてもまあいいやという気もするが、これは自分のキャリアや人生の時間、といったスケールでも同じ状況なんじゃないかという気がした。まだ若いし、いろんなことができる、あんなこともこんなこともやってみたい、これをやるにはまずあれをやらないといけない、でもあれをやるのはしんどいからどうしようか・・と考えながら、とりあえず目の前のことをこなしているうちに、やっぱり時間は過ぎていってしまって、ふと気がつくともう最初の頃に考えていたような選択肢は消えている、ということが起きる。
 まあ、「人生至るところに青山あり」というやつで、何かを思い立った時がいつでもスタートラインになるし、最初に自分がいいと思っていたことは、後になってみればそうでもなかった、ということはよくある。なのであせる必要もないのだけど、自分がしっかりしてさえいれば手が届きそうなことを、みすみす逃すようなことが起きるのはやや寂しい気がする。かといって、計画でガチガチにし過ぎて「無駄な時間を費やす贅沢」がないのも、つまらないし、逆に計画がなさ過ぎて、いつまでたっても時間の遣い方が下手くそなのも、なんだかさえない。
 翌日の土曜日、そんなことを考えつつ昼飯を食べていた。その日も特に予定が入ってなかったこともあって、このまま週末が無為に過ぎていくのはマズイ、まずは外に出よう、と思って、とりあえず買い物に出た。
 すると、このようなさえない週末を送っているのを、天のお星さまが見ていて情けなく思ったのか、運のめぐり合わせがちょうどそういう流れだったのかは知らないが、スーパーで3人の別々の友だちに偶然出会って、食事やら何やらの翌週の予定が次々と入った。うちに帰ると、これまた遊びの誘いとか、日本に帰った時の飲みの誘いとかのメールが数件入っていた。子どもが生まれたというめでたい知らせまで入っていた。
 不思議なこともあるものだと思いつつも、こうやって受動的に予定が入るのを手をこまねいてばかりではダメで、何か自分からも仕掛けるべきだなと反省しつつ、土曜の夜も静かに過ぎていった。

ロックスター:スーパーノヴァ

 今週から新たに、大物ロックバンドのリードシンガーを目指すオーディション番組Rockstar: Super Nova が始まり、この夏のお気に入りテレビ番組に加わった。
 昨年は、80年代の超人気バンドINXSが再結成されて、そのボーカルに若手を抜擢するためのオーディションだった。今年はさらにすごい。元モトリークルーのトミー・リーがドラム、ベースが元メタリカのジェイソン・ニューステッド、ギターが元ガンズ&ローゼスのギルビー・クラークという豪華な顔ぶれで結成された新バンド「スーパーノヴァ」のリードシンガーの座を目指して、最終選考に残った15人の若手シンガー達が毎週パフォーマンスを繰り広げ、視聴者投票で一人ずつ脱落していき、残った一人がリードシンガーに選ばれるというもの。リードシンガーに選ばれた優勝者は、今年末発売予定のアルバムと、その後のワールドツアーに参加できる。
 プロデューサーは「サバイバー」「アパレンティス」などのリアリティショーを手がけてきたマーク・バーネット。彼の手にかかれば、バンドのオーディションがテレビ番組のコンテンツとしての価値を放ち出す。「サバイバー」以降、さまざまなリアリティショー番組がフォロワーとして登場したが、やはりこの分野の先駆者が繰り出す番組には、他のプロデューサーにはないスパイスが感じられる。
 そして、番組の副題に「トミー・リー・プロジェクト」とついているように、バンドのメインはトミー・リー。昨年放映された「トミー・リー大学へ行く」というリアリティショーでも、カッコよいロックオヤジぶりが話題となっていた。彼だけでなく、他のメンバーも豪華なのだが、そこはさすがトミー・リー、エロいオーラが出まくっていて、見るものの目を離さない。
 挑戦者達も、かなりレベルが高い。「アメリカン・アイドル」や他の同種のオーディション番組が、一次予選から見せることで、素人の面白さの部分も番組の演出に含めているのに対して、この番組は最終選考のところからのスタートしている。2万以上の応募者の中でここまで勝ち残ったシンガー達は、なかなかの実力の持ち主達である。
 特に女性シンガーのStorm(Storm Large というすごい本名)はオーラがある上にバランスが取れており、Dilanaは、個性的なハスキーヴォイスで、パフォーマンスのキレ具合がすさまじい。この二人のロック姐さんがかなり上位まで残るのは間違いなく、優勝できなくてもすぐにいいディールを獲得できそうないいパフォーマーたちだ。
 男性シンガーの方は、ルックスがよくても歌唱力がいまいちとか、歌が上手くても、フロントマンとしては線が細い感じのが多い。その中でも、声がよくてバランスのとれた感じのTobyとルックスがやや微妙ながらも歌はなかなかでパフォーマンスがキレていたLukasの二人が一歩抜け出ていた感じ。
 そもそもこの番組も、出てくる挑戦者達に実力がなければ魅力も半減なわけで、その点はアメリカの市場の大きさと、パフォーマーの層の厚さの上に成り立つ番組だと思う。素材がよければ、そのまま見せても間が持つのであって、そこはヘンな演出や加工は必要ない。素材の見極め方は、プロデュースの重要なスキルであって、その点マーク・バーネットは、素材の活かしどころと味付けどころの見極めの上手さが、番組の持ち味となっている印象を受ける。彼のもとで働いたりすると、いろいろ面白いことが学べるんだろうなと思う。

ジャパンツアー 2006: 講演のお知らせ

 東京大学大学院 BEAT講座(ベネッセ先端教育技術学講座)からのお招きで、下記の8月5日(土)開催の公開研究会で講演します。
 企画された東京大学の中原さんは、日頃からブログなどでその偉才ぶりを拝見していますが、この企画のアレンジには、さらに彼のただ者でなさを感じました。これからそのプロデュース手腕で、教育学界の大物興行師として名を馳せ、さらにはその研究業績によって、教育学史に名を残す人物となることでしょう。
 今回は、喜んで中原さんのコーディネーションのまな板の上に乗って、良い議論の場となるような素材を提供したいと思います。シリアスゲームについて教育関係の方々と議論できるのを、とても楽しみにしています。
 「応募殺到」とのことですので、参加ご希望の方は、下記BEAT講座 Webサイトにて、お早めにお申込ください。
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東京大学大学院 BEAT講座 8月公開研究会
「ゲーム・ルネッサンス:いつか来た道、これからの道」
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8月のBEAT公開研究会は、
「ゲーム・ルネッサンス:いつか来た道、これからの道」
というテーマで開催します。
「ゲームを教育現場に利用しよう」というアイデアが
近年注目されています。教育業界では、古くは「エデュ
テインメント」、さらには「Constructionisim in play」
など、様々な関連概念が、これまで主張されてきました。
最近は、シリアスゲームという概念で、様々な教育用
ゲームが開発されています。
シリアスゲームは、これまでのゲームとは何が違うのか。
そして、そこにはどのような可能性が開けているのか。
「流行としてのゲーム」に流されず、その本質を見極め
る「慎重さ」と、それでいて、よいところは教育に積極的
に活かす「貪欲さ」をあわせもつことが重要かもしれません。
今回の公開研究会のテーマでは、
1)シリアスゲームの現状と課題
2)ゲームの教育利用事例
などを扱いたいと思います。
どうぞふるって、ご参加下さい。
企画担当:中原 淳
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■日時
 2006年8月5日(土曜日)
 午後2時より午後5時まで
■場所
 東京大学 本郷キャンパス 工学部2号館北館 93-B教室
 http://www.beatiii.jp/images/sem23-map.gif
■定員
 70名
(最近、BEATの公開研究会は〆切前に募集停止に
 なることが多くなっています。くれぐれも、お
 早めにお申し込みください。なお、キャンセル
 の場合は、お手数でもsato@beatiii.jpまでメール
 をいただければ幸いです。一人でも多くの方に
 席をお譲りしたいと思っています)
■参加方法
 参加希望の方は、BEAT Webサイト
 http://www.beatiii.jp/seminar/ にて、ご登録をお願いいたします。
■参加費
 無料
■内容
 ●「シリアスゲーム、現状と課題」
  藤本 徹氏
  ペンシルバニア州立大学博士課程
  「シリアスゲームジャパン」コーディネーター
  https://anotherway.jp/seriousgamesjapan/
 ●タラレバeラーニング
  シミュレーション型ゲーム教材の事例紹介
  (学)産業能率大学  総合研究所
    e-Learning開発センター 古賀暁彦氏
  ●ディスカッション
  ディスカッサント
  ▽藤本 徹氏 
   ペンシルバニア州立大学博士課程
  ▽古賀暁彦氏
   (学)産業能率大学  総合研究所
   e-Learning開発センター 
  ▽弦川直樹氏
   株式会社SGラボ
   ジェネラルマネージャ
    
  コーディネータ
  ▽中原 淳
   東京大学 大学総合教育研究センター 助教授

アイトーイ・キネティック 6ヶ月経過

 昨年12月から続けていた「EyeToy:Kinetic」の12週間の個人メニューの2クール目を終えた。これで半年間続けたことになる。(なお、始めた時はこんなことを書いていて、3ヶ月経過した時にはこんなことを書いている。)
 運動の習慣化は大いに成功していて、全く運動せずにいると居心地が悪く感じるようになった。体重は2キロダウンした状態でほぼ安定して、2年前の水準に戻った。身体の調子は良い状態で保たれていて、不健康になりがちな生活の中で、かろうじて健康な状態を保つことに貢献してくれている。
 ただ、ゲームパターンが変わらないので、さすがに飽きてきた。さらに難しいレベルができたり、違ったゲームが入ったバージョンがぜひほしいところである。この手のゲームソフト形式の製品は、一度出してよほど大ヒットしないと次が出てこない。この製品がどれだけ売れたのか手元にデータがないのだが、私のようにずっと利用しているユーザーはロイヤルカスタマー化していて、次に何が出ても買う勢いのはずなので、次が出ないのは惜しい。
 次は、Xavix のジャッキーチェンとトレーニングするゲームでも買おうかなと思いつつ、それまではもうしばらく続けてみようと思う。

批判のレトリック

 DIS 2006の3日目の、デザインメソッド教授法のセッションで、「問題提起の仕方」について、いろいろと考えさせられたので、あらためてもう少し考察しておこうと思う。
 この発表の最後に示された「サイエンス」VS「デザイン」のコンセプトの違いを対比した表において、「サイエンス」の定義は、ポパーやクーンの示す科学観の影響を受けたサイエンスのことではなく、デカルトやニュートンなどの流れにある合理主義的、実証主義的なモダンサイエンスの考え方を示していた。一方のデザインの方は、モダンサイエンスに対応したモダンなデザインアプローチではなく、むしろその後にくるポストモダンなデザインアプローチを示していた。サイエンスとデザインの発想の一番違うところをわかりやすく対比させ、サイエンス的な発想に縛らないデザインのマインドセットを教育していく必要がある、という問題提起を発表者は意図していたようである。
 だが、オーディエンスの反応は、サイエンスの定義の仕方に問題がある、という反論が中心で、発表者の意図には沿わない議論の流れになった。サイエンスの側のスタンスに立つ人たちにすれば、批判されたと感じたのかもしれないし、サイエンスの進化の部分を認識している人たちは、過去のサイエンス観についてとやかく言っても仕方がないと感じたのかもしれない。そのような反論が出ていた。
 こうした主義主張や、支持するパラダイムの異なる立場同士の議論は、今まで学んできたことの中で何度も目にしてきた。「行動主義」と「構成主義」、「ハードシステム」と「ソフトシステム」、「インストラクショナルシステムデザイン」と「ラーニングサイエンス」など(おそらく「エデュテインメント」と「シリアスゲーム」も)、新旧のパラダイムやアプローチに関する論争の構造は共通している。自らの優位性や存在意義を示すために、双方の一番違いの大きい部分を対比させた形で、相手側のあり方を批判する。双方の境界線に近い部分は重なっており、共通点も多いにも関わらず、論争の中ではその共通部分にはあまり触れられない。批判の形を取った方が、論点を明確化でき、自分側のよさを示しやすいからである。
 しかし、批判の形を取ると、意図していない部分まで批判として受け取られることもあるし、果ては個人攻撃されたと受け取られる事態も生じる。共通点が多いと考えられる人たちにも批判と取られ、「あちら側」と「こちら側」に分かれた論争は、果てしなく続く。そうなると、同じ方向に向かってお互いがよいところを認め合う、という流れにはなりにくい。これはディベートというスタイルの大きな問題点である。
 このブログでも、これまでにインストラクショナルデザインや、eラーニング、学校システム、などに対し、さまざまな批判的意見を書いてきた。つい一昨日にも、「教育工学研究のデザインへの意識の低さ」という点を批判した。これらの多くは、批判という形をとった「問題提起」である。時に意図的に批判することもあるが、それでも批判のための批判や、特定の学校や個人への批判をしているわけではない。
 しかし、その批判がいかに愛情に基づいていようと、熱意に基づいていようと、その批判の対象になっていると感じる人からは、単に攻撃されたと受け取られる可能性は高い。また、批判の周辺にいる人たちの中にも、面白くない思いをする人が出ることにつながりかねない。
 逆に、その対象に対して日頃から不満を感じている人たちにすれば、「いいぞー、もっとやれー」と溜飲を下げるかもしれない。だが、こちらはそういうことも意図していない。直接コメントを寄せてくださる人たちは、多分に肯定的、あるいは中立的に問題提起として捉えてくださっているようだが、その一方で、こちらのうかがい知れないところで、ムカムカしている人の輪ができていることは十分に有り得る。
 つまり、批判の形を取った時点で、問題提起という意図は伝わらない上に、意図せぬ論争を巻き起こしてしまう可能性が高くなる。今回の「サイエンス」と「デザイン」の話や、多くの新旧のパラダイム論争はそうしたところが共通している。お互いに自分の属する分野のためにやっている場合もあれば、意図的に嫌いな人が提唱するものを攻撃している場合もあるだろう。いずれにしても、論争という形になってしまうと、共通点や調和を見出すよりは、自らの主張を際立たせるための「批判のレトリック」に磨きをかける方向でエネルギーが使われるようになる。
 たとえば、自分の書いた文章を例にすると、前のエントリーで、「デザインの質への関心も高まっているとはいえ、いまだに悪しき科学信仰が根強く、デザインへの意識は低い。」と書いた。この「いまだに悪しき科学信仰が根強く」という表現は、本来の問題提起の趣旨とは関係ない、単なる批判のレトリックである。関係ないのに、なぜそういうものが入ってくるかというと、これを書いている瞬間は、この部分に込められた批判を際立たせて、この文章のキレを増すことに集中しているからである。そうして生み出された批判のレトリックが、建設的な議論を意図した全体の流れを壊し、単に論争の燃料を投下することになってしまう。
 ここでのもう一つの重要な問題点として、同じ言葉に対する捉え方の違いから、意図は正しく伝わらない、ということがある。たとえば、「教育工学研究のデザインへの意識の低さは問題である」という指摘をした時、「デザインか、よしわかった。じゃあ見栄えが大事ということですね。」と捉えられても、「見栄えなんか気にしてもしょうがないんだよ」と捉えられても、こちらの意図するところは伝わっていない。
 「機能性のデザイン」や「操作性のデザイン」「ユーザー経験のデザイン」という教育工学には重要なデザイン要素が考慮されていない、ということを暗黙裡に意図していたとしても、デザインという言葉にそうした意味を共有していない人には、最も一般的な「見栄えのデザイン」という点に矮小化されてしまいかねない。デザインという言葉を無造作に使えば、デザインへの意識の低い人はそうした多様なデザイン要素を想像できるはずもないので、指摘している点は肝心の人たちには伝わらず、自己満足に終わってしまう。
 批判のスタイルを取ることは、主張に力を増すが、正しく伝わらないということを今回の学会のやり取りを見て、これまでに見てきたパラダイム論争を思い起こすに至って理解できた。私は自分の存在を示すための「批判のための批判」をするつもりはないし、特定の組織や個人に向けた攻撃をするつもりもない。もしこれまでに書いたことがそういう反応を呼んでいるのであれば、それは残念なことであるし、書き手としての力不足である。
 では、どうするか。一つの方法として、批判のレトリックに陥らないようにすることは、比較的すぐに実行できる。先ほどの例を使えば、「デザインの質への関心も高まっているとはいえ、いまだに悪しき科学信仰が根強く、デザインへの意識は低い。」という文章は、「教育工学分野の研究は、以前はデザインへの意識が低かったものの、デザインベースドリサーチなどが認知されるにつれて、その意識は高まりつつある」という書き方に変えることができる。「肯定-否定」を「否定-肯定」に変えて、同じ内容を書く、というだけのことである。簡単な例にすると、「あの人はイイ人なんだけど・・・なんだよね」と言うのと「あの人は・・・なんだけど、いい人だよ」と言うのでは、印象が全く変わることがよくわかると思う。
 なので今後は、「ほんとうに批判したい時以外は、批判の形を取らない」ということを、書き手としての個人的な原則として持っておこうと思う。

DIS 2006 Day 3

 「Designing Interactive Systems 2006」の最終日。学会に出ると、学者仕様でない私の頭は、いつも3日目くらいで情報量が満タンになってしまって、だんだん頭に入らなくなってくる。それでも面白いところをがんばって吸収してきた。
 ユビキタスコンピューティングのデザインツールに関する研究や、社会性を伴うインターフェースのデザイン、デザイナー教育におけるデザインメソッド教授法など、今日も実践例やデザイン理論の研究などの発表が行なわれた。
 特に、デザインメソッド教授法のセッションは会場での議論を呼んでいた。デザイナー教育で教えられるデザインのアプローチや方法はさまざまあるが、現場のデザイナーはどれか一つだけを使っているのではなく、目的に合わせて自分の知識の中にある方法を使い分けている。なのでそうしたマインドセットを習得させるためには、教育段階からいろんな方法を使い分ける練習をさせることが有効だ、といった趣旨の発表だった。
 発表者からは、「科学的アプローチ」と「デザインアプローチ」のコンセプトの違いを対比した表が示され、科学の発想に縛られてデザインの質を損なうべきではないという意見が示された。この点に対して、会場からの質問が集中し、議論となった。肝心の教授法のところよりも、科学を狭く定義しすぎているとか、昔はそうだったが、最近はそうでもないとか、科学的アプローチのよさも見落としてはならない、といった形の反論が質問者によって出されていた。
 この学会に参加して得た収穫は、デザインづくしで、デザインの対象、アプローチ、方法、コンセプト、などに関する理解が深まったということだ。質的研究の取り組み方についても、もいいお手本が幾つもあった。研究について近い関心を持って話のできる人たちとも知り合うことができた。最近、博士論文の研究が予定通りに終わらせられる気がだんだんしなくなってきていたのだが、この学会に出たおかげで、予定通りに終わらせる意欲とアイデアがわいた。データだけ集めて面倒になって止まっていた小プロジェクトについても、論文を書く気になった。うちの中にこもって作業するだけでなく、外に出ていい刺激を受ける方が生産性が高いことをあらためて認識できた。

DIS2006 Day2

 「Designing Interactive Systems2006」の二日目。今日も終日、ひたすらデザイン、デザイン。
 ipodのシャッフル機能に対するユーザーの反応に関する調査をして、「ランダム性をデザイン資源として活かせる」というまとめ方をした発表や、テトリスの名人の操作時の動きの研究からだんだん深めていって、「インタラクションデザインにおいて身体をどう捉えるか」という展開をさせた発表など、テーマを見つけるときの発想自体からして違う。おしなべて、デザインの質についての意識も高い。実証研究の結果を説明する際にも、デザインの質をどう解釈しているかという言及がなされる。
 かたや教育工学分野の実証研究は、デザインの質に対する感度の鈍い研究が多い。リサーチデザインは型どおりのことをやっているからOKだとしても、その変数を具現化した教材のデザインがお粗末で、「実験の結果、独立変数AとBは統計的に云々」という結論を示されても、その教材の質が低いからそういう結果なんじゃない?と言いたくなるような研究がよく目に付く。
 デザインベースドリサーチのようなアプローチが認められてきたおかげでデザインの質への関心も高まっているとはいえ、いまだに悪しき科学信仰が根強く、デザインへの意識は低い。統計的有為を示すために研究対象を小さく区切って、現実の文脈とは関係なく抽出された変数を比較する世界では、リサーチデザインの質が関心事で、試している教材のデザインの質は二の次にされている。たとえば、オンライン教材にアニメーションを使うと、学習効果を高めるか、という問いは意味がないのに、そのような問いを立てて行なわれる研究はいまだに多い。アニメーションの質が低かったり、使う場所がおかしければ、学習効果は高まりようもない。
 そういうことがずっと気になっていたのだが、一歩外に出てみれば、ちゃんとデザインの質を考えて研究しているたちがいるということを知って、心強く感じた。HCIの研究者には、アート系の人も多いことに起因するのだろう。いいものにたくさん触れて、力が湧いてきた。

元気の出る学会

 今週は、ペンステートで開催されている「Designing Interactive Systems2006」というヒューマン・コンピュータ・インタラクション(HCI)系の学会に参加している。
 昨日は1日ワークショップをやっていて、ゲームデザインワークショップに参加した。実際に簡単なゲームをデザインするハンズオンセッションに始まり、ユーザーインターフェース研究や、インタラクションデザイン研究、ユーザーエクスペリエンス研究など、それぞれの立場からのゲームデザイン研究に関する発表とディスカッションが終日行なわれた。ゲームデザインと同じ言葉を使っていても、研究分野によって切り口が違っていて、その違いの部分には、多くの刺激の素が含まれていた。
 カンファレンス本編初日の今日は、デザインアプローチの研究、インタラクションデザイン、感覚的インターフェース、デザイン評価、などのセッションがあった。HCI分野の学会に出るのはこれが初なので、この分野の「デザイン」に対する捉え方の多様さをとても新鮮に感じた。これだけさまざまなデザインのアプローチや切り口を見せられると、教育分野でデザインと称しているものは、「デザイン」の「デ」の字もカバーできていないんじゃないかという気にさせられた。みんなビジュアルやアニメーション効果の使い方が普通にうまかったりするし、観察研究なんかもフットワーク軽くちゃっちゃとやっている印象だった。特に、ヨーロッパの研究者たちの発表を見ると、デザインという概念がよりオープンで、より参加的な意味を持っているようで、そういうところはぜひ現地で肌に触れて学んでみたい気にさせられた。
 どのセッションもそれぞれ得るところがあって、いいヒントをたくさん含んでいたが、エスノグラフィ研究のセッションで出てきた、カナダ人女性研究者の「ナイトクラブにおけるDJのインタラクションに関する理解」という発表には、他のことが全て吹き飛ぶくらいのインパクトを受けた。その発表は、質的研究の王道のような見事な発表だった。質的研究は、フォーカスが甘かったり、仕事量が足りなかったりすると、非常にヘナチョコなものになりやすい。だが、よくデザインされて、よく解釈整理された研究は、説得力にキレが増して、聴く人に強烈な印象を残す。この研究は、こういう研究やりてぇな、と心からうらやましくなるような研究だった。
 夜はレセプションがあった。こういう社交の場はすごい久しぶり。ヨーロッパやカナダや全米あちこちから来た研究者たちと交流できた。特に、エスノグラフィセッションの研究者たちとじっくり話ができたのは収穫だった。教育分野で質的研究というと、定量研究しか認めない人々との対立なんかもあって、逆風が前提の陰のある雰囲気がある。だが、ここで会ったHCI分野の質的研究者たちは、そういう暗さは全く感じられなかった。質的研究が一つの研究アプローチとして受け入れられているようで、客観性に対するコンプレックスのようなものを持っていない。この人たちの研究に対する柔軟な考え方が、話していてとても心地よかった。
 今回の学会参加費は275ドルで、やや厳しいなと思いつつも、何かいいことがありそうで思い切って参加してみた。この初日でもうもとが取れて、それ以上のものを得た。最近はどうも研究への気合が弱りがちだったので、その気合を回復して余りある元気をもらった。何かいいことがありそうだという予感は正しかった。
 最近、自分の研究でオンラインエスノグラフィをどう正当化しようか、とかセコイことを考えていたのがバカバカしくなった。フィールドに出て、うんとインタビューした方がデータも豊富だし、何よりやっていて断然楽しい。そもそも自分が話すよりも、人の話を聞く方が好きな性分なので、インタビューは一番好きな活動だ。学部の卒論でグループインタビューをやった時も、去年やったオンラインゲーム研究でやったインタビューも、面倒くさがりながらも、結局はむちゃくちゃ楽しんでやったことを思い出した。そして今進めている研究には、その楽しい作業が待っていることを再確認できた。がんばろー。