33歳になりました

 新年や誕生日というのは、自分のことを振り返り、将来を考えるよい節目になる。私の誕生日はちょうど一年の半ばあたりにあるので、その一年の中間点として自分の状況を見るのにちょうどよかったりする。
 今年の新年に考えた、一年の目標は次の3つだった。
・博士課程の修了試験をパスする
・シリアスゲーム本出版
・博士論文研究を仕上げて、来年早々にディフェンスできるようにする
 一つ目は無事にクリア。二つ目と三つ目は地道に進行中で、ひたすら前に進むだけの状態なので、だまってやるだけである。ありがたいことに、これらの自主プロジェクト以外に、あれこれ仕事の依頼をいただいており、それらを一つ一つ成果につなげていくうちに、今年も終わってしまいそうな勢いになっている。
 一年前と比べて、何か心境の変化があったかといえば、今感じている、開き直りのような妙な覚悟のような気分は、一年前にはなかった気がする。微妙な心理的差異なのだけど、何かを考える時に、それによって以前にはない、幅の広さや奥行きを感じている。そう感じるようになった理由の一つには、今まで学んできたことが、自分の中でいろいろとつながってきて、血となり肉となって役立ち始めたことがあるし、もう一つには、来年前半をメドに次の一歩を踏み出そうとしていることがあると思う。
 インプットしたものは、ある程度の蓄積ができてはじめて、ひとかたまりの知として機能するし、アウトプットするあてがあることで、より意味のある形で構成される。渡米して4年経って、ようやくその状態になってきたんじゃないかと思う。
 自分がこうありたいと思うイメージがより明確になってきて、それに沿った現時点でのキャリアプランやライフスタイルのイメージもだいぶはっきりしてきたので、あとはその実現可能性が高まるように、目の前にあることをきちんとやりきることかなと思う。また進んでいけばわからなくなったり迷ったりすると思うので、それはそれで、その時また立ち止まって考えればよいことだろうと思う。
 メッセージなど送ってくださった皆さん、どうもありがとうございます。何もなく平凡な一日として過ぎていくところだったのが、おかげで何となく特別な日のような気になりました。Thanks a lot!!

You know who you are

 先日も少し書いた、歌手オーディション番組「アメリカンアイドル」は、とても29歳には見えないテイラー・ヒックスが優勝して、シーズン5が終了。テイラーは歌唱力では他の挑戦者よりもやや見劣りする感があったが、キャラクターのよさに加えて、ショッピングモールで被り物をしたりしながら、バーで歌っていたというところで、他の挑戦者よりも「アメリカンドリーム」度がやや高く見られていたことも人気の一つだったかなという印象だった。
 テイラーだけでなく、このアメリカンアイドルの挑戦者たちは、ウォルマートやファーストフードの店員とか、郵便配達員とか、地方の営業マンとかいったそこらにいる普通の若者たちで、彼らがこの番組で勝ち残ることで生じる人生の変化も、番組の素材の一つとなっている。今も基本的にアメリカ人は、「アメリカンドリーム」が好きで、普通の人が一夜にしてスターになる、といったストーリーは常に歓迎される。日本ではともすると「成り上がり」として捉えられて嫌がられたり、成功した本人も遠慮して隠したりするが、アメリカ人は概ねサクセスストーリーは大好きで、成り上がりも歓迎される。なので、何か夢が叶うことをテーマにした番組も多い。このアメリカンアイドルも、優勝して人生が変わった人たちに自分の成功を投影できる、あるいは自分に身近だから応援できる、ということも人気の要素の一つになっているようである。
 番組の素材の一つとして、ジャッジの3人も重要な位置を占めている。3人そろって、地方予選から一人一人にコメントしていくところは、番組の主な特色となっている。その彼らがよく使うコメントとして、「You know who you are」というのがある。直訳すれば「あなたは自分を知っている」ということだが、「自分の持ち味や長所短所をよく理解している」ということを意味していて、個性的パフォーマンスをした時の褒め言葉である。
 ジャッジたちは、いかにその挑戦者の歌そのものが上手くても、個性が出てなければ「退屈だ」「カラオケパフォーマンスだ」と酷評する。歌そのものは同じようなクオリティだったとしても、本人の個性が出ていれば、「You know who you are」という言葉と共に絶賛される。だが逆に、その持ち味に頼りすぎると「安全策すぎてつまらない」、「オマエはずっと同じことばかりやってる」とこれまた批判の対象となる。
 歌のパフォーマンスに限った話ではなく、なにごとにおいても、自分の強みと弱みを知って、強みをうまく活かしたやり方をすることで、その人の持ち味やパフォーマンスは向上する。逆に弱いところで勝負を余儀なくされれば、その人の持ち味は出ずに、期待通りの成果は出しにくい。その意味で、自分のどこが強みで弱みで、どこが他の人と違うユニークなところなのかを自身で理解することは、それ自体がその人の強みとなる。この「You know who you are」が褒め言葉なのには、そういう背景がある。
 当然ながら、自分を知っただけでは十分ではなく、「自分を知った上でどう動くか」が重要な点になってくる。競争の厳しい環境では、自分の強みに頼りすぎ、その枠の中にこもっていると、周囲はすぐにそれに気づいて、前ほどよさを感じてもらえなくなったり、対策を打たれて強みを無力化されたりする。自分の弱みだからといって迂回するようなことばかりしていると、後でどうしてもそこを避けられないような事態に直面して、抜き差しならない状況に陥ったりする。
 かたや自分のことにだけ目を向けていれば良いわけでもなく、大局的には、時流や運のような要素も絡むので、一概にどう対処すれば成功につながるとかベストであるとかいう性質の問題ではない。みんな一生かけて自分に合ったやり方を編み出そうとしているのであって、教訓的なものは学べても、この手順に沿ってやればOKなどという方法はない。いろいろ考えすぎても、場当たり的な行動だけでも、うまくいかない。多面的な見方が必要だからと言って、闇雲に多面的に見ようとしてもかえって物事が見えなくなるのと同じく、バランスが大事だと言って、バランスをとろうとし過ぎると、硬直的になってかえってバランスは悪くなる。口の小さなヒョウタンにどうやってナマズを入れるか、というような問題に近く、理詰めでは到達できないどこかに、一つの境地がありそうなのだが、それがどこかは全く見当がつかない。
 そんなことを考えながら、明日で33歳になる。年齢なりに成長していることを願いたい。

ファンタジースポーツな徒弟制

 先月からずっと、NBAバスケットボールのプレーオフをほぼ毎晩見ている。あっという間に終わってしまう日本プロ野球のパリーグのプレーオフと違って、NBAはチームも多くて、4月下旬に始まって、長々とトーナメント戦をやっている。
 今までほとんど関心もなかったところを、今年に入って急に見るようになったきっかけは、現在参加している研究プロジェクトである。私の指導教官であるDr. ブライアン・スミスが、ファンタジーバスケットボールコミュニティにおけるインフォーマルラーニングに関する研究で、結構な額の研究費を獲得してプロジェクトが始まった。
 ファンタジーバスケットボールとは、与えられたポイントの範囲内で、各ポジションの選手を選んで自分のチームを作り、実際の試合結果をもとに各選手の得点を計算して、その合計得点を競うというゲーム。ゲームと言っても、ビデオゲームのようなグラフィックや音のあるゲームではなく、Webデータベース上で、試合結果のデータや選手リストなどの数字と文字情報をだけで行なわれる。
 ファンタジースポーツのプレイグラウンドは、スポーツ放送局のESPNやYahooなどがウェブサイトの呼び水として提供している。バスケだけでなく、野球やアメフトやサッカーやゴルフなどの各スポーツのファンタジーゲームが提供されている。日本でも、Yahooがファンタジーサッカーを、どこかの企業がファンタジープロ野球を提供しているのを見かけた。
ESPNファンタジースポーツ
http://games.espn.go.com/frontpage?&lpos=globalnav&lid=gn_Fantasy_Fantasy
 プロジェクトの研究対象は、このゲームをプレイしている一般プレイヤーたちで、彼らがオンライン掲示板上で交わすコミュニケーションの中に含まれる、数学や統計のスキルの使い方、意思決定の仕方、相互学習のプロセス、といったものを質的に分析して、プレイにおける情報処理や意思決定の支援ツールのモデルを作る、というのがこのプロジェクトの方向性である。
 ここしばらくは、実際にファンタジーゲームをプレイしながら、膨大なオンライン掲示板の質的データをひたすら読み込んで、インタラクションのパターンやアクションの性質を抽出していく作業をやってきた。その過程で、ファンタジーゲームをプレイするだけでなく、NBAの試合を見ていないと文脈がつかめないところが多く、もっと深く理解するために、可能な限りNBAをテレビ観戦するようになった。研究のためにオンラインゲームをプレイして、さらにまた別の研究のためにバスケの試合を見るという、なんともお得なような野暮ったいような微妙な身分だ。
 このプロジェクトは、Dr. スミスの研究者としての創造性と聡明さあってのプロジェクトとして推移している。彼はノースウェスタン大時代のロジャー・シャンクの直弟子で、学習科学のPh.Dを取得した後、MITメディアラボに研究員として身をおいて、その後ペンステートにやってきた。インフォーマルラーニングにおけるテクノロジーデザインを研究関心としており、ユビキタスラーニングに関してはかなりの見識を持っている。毒っ気の強いお笑いトークが得意で、どこに行ってもひたすらバカ話をして油を売っているだけかと思えば、学習科学の分野の知識の引き出しは豊富、着眼点も創造的で、アウトスタンディングな研究者というのは良くも悪くもこういう人なのだなという感じの人である。
 このプロジェクトは、周囲からはかなりイロモノ扱いされている。周りの人間に話をすれば、興味は示しながらも、何でそんな研究でNSFが75万ドルも出すんだという反応をされる。Dr. スミスも周りの教員のあきれる様子を話のネタにしているので、彼自身もそういう風当たりを受けているのだろう。プロジェクトメンバーの我々も、時々こんな調子で何か成果が出るんかな、と不安になることもあったが、Dr. スミスは毎回手ごたえを感じている様子で、最近やっと彼の目に何が見えているのかがおぼろげながら見えてきた。
 私は以前に質的データ分析の授業で学んだフォーマットを踏襲して、手順に沿って作業を進めようとするのだが、Dr, スミスはフォーマットにはこだわらず、彼のセンスのままに必要なところは立ち止まり、不要なところはどんどんはしょって作業を進める。質的研究のフォーマットに沿わなければ、と考えながらやっていたらかみ合わなくてややストレスだったのだが、よく考えたらこのプロジェクトは質的研究のプロジェクトではないことに気づいたのと、最近は、彼の考え方を少しずつ吸収できているのか、ペースが飲み込めてきて、やりやすくなってきた。
 ちなみにこのプロジェクトは、Research Apprenticeshipという名称の演習科目として進められている。文字通り、徒弟制的に教員のもとでプロジェクトに従事しながら、研究者としてのものの見方や思考の仕方を身につけていくことをねらいとしている。徒弟制的な考え方をカリキュラムに組み込もうという実験的な取り組みで、すでに3年目に入り、うちのプログラムの各教員の個性を活かしたプロジェクトが展開されている。そこでは、日本の大学院で繰り広げられているような、閉鎖的で、時に理不尽な徒弟制ではなく、徒弟制の学習面の効果に注目し、フォーマルな学習の場にそうした師弟の関係を持ち込もうという発想が基本にある。日本の大学院に関する議論でも、徒弟制は悪だから一掃、という短絡的な見方ではなく、徒弟制の学習面での効果を考慮した方がよい。徒弟制という関係自体の問題ではなく、講座制の制度問題に起因するところが多いように思われるのだが、報道を目にする限りは、少し焦点を取り違えている気がする。
 Dr.スミスのプロジェクトは、他のプロジェクトに比べても、彼のユニークさが抜群に現れており、単なる教育目的での演習科目では作れない学習環境が形成されている。教員が自分のプロジェクトとして進めていることで、その持ち味が出やすいという点も大きいと思う。天才の天才たる部分は学べないのだが、思考やものの見方の型のようなものであれば、ある程度は吸収できる。その型は、授業のような「教える人と学ぶ人」という関係性の中ではなかなか掴みにくく、教員と学生が同じ方向に向かって一緒にチャレンジする中で、繰り返しその考え方に触れていくことで徐々に吸収できる性質のものである。半期でさくっと学べることというのは限りがあって、こうやって腰を据えて長期間にわたって時間を共にして、ようやく学べることも多いことにも目を向けていくべきだと思う(合宿のような機会は、短期間でそうした効果を出すために有効)。
 プロジェクトのミーティングでは、NBAの選手の話やオンライン掲示板上のおかしな用語の話にかなりの時間が費やされていて、いわゆる学習の場とは違ったユニークなノリで進んでいる。Dr. スミスのプロジェクトに最初に参加したのは2年前になるが、当時はチンプンカンプンだったことが、いろいろとつながってきて、ようやくわかることが増えてきた。プロジェクトがどういう成果を出していくのかということと共に、自分がDr. スミスからどんなことを吸収していけるかを楽しみにしている。

作り手のモチベーション

 テレビは各局とも先週今週がシーズンエンドで、「ウェストウィング」「ボストン・リーガル」「プリズン・ブレーク」は先週で終了で(ウェスト・ウィングは残念ながら今シーズンで打ち切りで、ボストン・リーガルは継続決定、プリズン・ブレークは、こんな変なところで区切るなよという感じ)、「24」「アメリカン・アイドル」は来週まで。「アプレンティス」(ちょっとマンネリ気味)もファイナル4まで来た。他にも見てないけど、いろいろと主だった人気番組が一区切り。
 その中で、発明家発掘リアリティショー「アメリカン・インベンター」も、大成功のうちに第1シーズンを終えた。このショーのことは前に少し触れたけど、アメリカンアイドルのフォーマットを使った発明家オーディション番組で、優勝賞金の100万ドルと、発明品の商品化と、初代アメリカン・インベンターの栄誉を目指して一般参加者が競う。一次予選を通過した発明家達の二次プレゼンで上位12人に絞られて、この12人は5万ドルを元手に、発明品をより完成品に近いプロトタイプを開発し、最終プレゼンに望み、最後の4人が選ばれる。
 ここまでは、ジャッジが選考するが、最終選考は、生放送の視聴者投票で優勝者が選ばれる。視聴者投票の結果、安全性の高い振り子式のチャイルドシートの発明家が優勝者に選ばれた。決勝で敗れた残りの3人も、それぞれ商品化を目指すチャンスを得た。前乗り式の二人乗り自転車を発明した少年は、自転車製造大手企業がインターンシップを提供した。アメフトのトレーニングツールを開発した発明家は、歴史上のNFLプレイヤー、ジェリーライスが全面的支援を申し出た。子ども向けの単語学習ゲームを開発した発明家も、ボードゲーム大手メーカーが支援を買って出た。
 この手のオーディション番組は、挑戦者の質いかんで番組の流れが良くも悪くも変わるが、今回のこの番組は、その点挑戦者の質が高く、ジャッジや作り手側も、挑戦者達の発明にかける熱意や発明品の可能性の高さに引きつけられて、回を追うにつれて盛り上がっていった様子が伺えた。ジャッジたちは本気で楽しんでいる様子で、番組の演出も、ひとりひとりの挑戦者たちの熱意あふれる様子と、その背景にあるストーリーが豊富で、良質な素材に恵まれていた。
 最終回の投票結果発表ショーは、その作り手たちが成功を確信して、その成功を楽しみながら作られた様子が伝わってきた。ジャッジたちは興奮して「アメリカは発明家スピリットを忘れていないことをこの番組が証明した!」とか、イギリス人のジャッジが「この素晴らしい発明家たちに出会えてほんとによかった。こんなこと言うとちょっと病気っぽいけど、アメリカのこういうところは大好きだ」とかちょっとクサめなコメントを連発していた。「ぼくらはほんとに楽しんだし、来年もまたこの機会を作ることにした」と早々に番組継続のアナウンスもされた。他のリアリティショーは、いかに成功裏に終わっても、次のシーズンのことは言わないで終わるのが通常なので、作り手たちがそれだけこの番組の成功を気に入ったということなのだろう。
 この様子に、「作り手のモチベーション」について考えさせられた。どんな分野においても、この「作り手のモチベーション」は、案外見落とされているけれども、実はいいモノを作る上で非常に重要な要素だと思う。顧客志向とかユーザー志向とか学習者中心とか、近年は受け手のことに気を遣う傾向が高まっているが、それはこれまであまりに作り手がユーザーを見てなかったことによる反動で、自然なことではある。しかし、「作り手のモチベーション」を大事にしないプロジェクトは、いかにユーザー志向にしてもうまくはいかない。
 エンターテインメント業界は、少数の「アーティスト」や「クリエイター」、「作家」たちの生み出すコンテンツへの依存度が高いので、この問題が見えやすい。音楽業界は、レコード会社の担当が、アーティスト達に売れ筋の曲を書かせて売り出そうとプレッシャーをかけて、それでかき乱され、迷走して短命に終わった人たちは数知れない。他の業界の作家やクリエイターと、編集者やプロデューサー側の関係も同様である。うまく行くプロジェクトというのは、それら作り手側の関係が良好で、周りにのせられて、価値がどんどん生み出される。逆にその作り手の関係が良好でなければ、いかにいいテーマを追っていても、アウトプットは人の心を動かさないものに終わる。
 
 ユーザーを無視した「作り手中心主義」では、いかに作り手がやる気に満ちていてもその矛先は成功に向かうことはない。しかし過度なユーザー志向を作り手に押し付けることで、作り手のモチベーションを無視しても、結果はよい方へは向かわない。このバランスは量的な尺度で測れるものではなく、今何%ユーザー志向だからこれでよし、などという性質のものではない。判断基準は過去の事例や理論を引けば知識として得られるが、それ以上のことは、文脈の中で微妙な変化を読み取りながら判断するしかない。このあたりのバランス感覚のようなものは実践の中でしか磨けない。
 この点について、教育面について考えると、学校的な「うそ臭さ」が残る演習の中では、こうした感覚は磨けない。「だりぃ」とか「うぜぇ」とか言いながらやった作業は、いかに「プロジェクト型演習」や「実習」などというお題目で何かを作っても、将来いいものを作る作り手となるための土台となる経験は得られない。学校的な環境で工夫するとしたら、単に「演習っぽく」課題を与えるだけでなく、気を弛めるとケガをする環境とか、うまくいったらホントにすごい何かを勝ち取れるチャンスなど、演習の中に何らかの「リアリティ」を取り入れる必要がある。そういうリアルな文脈で、何かを作ったり実践したりする中で、湧き上がるモチベーションを感じて仕事をする経験が重要で、その経験から、その後にも継続的に学習を続けてスキルを身につけたり、何かを完成させようという態度が形成されていく。
 ではモチベーションがあればいいのかというと、そうでもなくて、知識やツールの足りない状態でのモチベーションは空回りするだけで、成果にはつながらない。やる気があるからと言って、必要な支援無しに仕事を任せてもうまく行かないのは言うまでもない。何を投入すればモチベーションがうまく回りだすかを把握するには、やはりそういう場面に直面する前につけた知識や経験がものをいってくるのであって、モチベーションだけでは乗り切れない。
 しかし、そういう知識や経験がない時に、何が切り札になるかというと、逆説的だが、実はモチベーション、あるいは「気合」だったりする。気合などを持ち出してくると、まったく科学的でも理論的でもない話になってきて、インチキくさくなってくる。しかし肝心な場面では、下手な理論よりも気合の方がよっぽど有効なのである。たたき上げの経営者が、学者の言うことを戯言扱いして耳を貸さない傾向があるのは、このことを経験則として持っているからであり、「人間力」とかうんちゃら力なんていう、尺度ともなんともつかないような言葉が流行っているのも、学校で作ったような下手な理論はいいから、この気合の部分を活かす方向でなんとかして、という社会的なニーズのようにも見える。
 気合や人間力を高めるには、受身の姿勢で寒げい古や遠足のような「生きる力」風の活動をやらせるよりは、「ホンモノの作り手」となって、本気で何かを作ったり、パフォーマンスをする経験をする機会を与える方が有効である。ただこれも、その機会の作り手の教師のモチベーションが低ければ機能しないし、受身な学校社会に馴らされて、「いかにやり過ごすか」にモチベーションが高まってしまった学習者は、スタートラインがずっと後ろにあって、素直な学習者と一緒に活動させるのは難しい。
 何から手をつけていけばよいか非常に悩ましい課題ではあるけれど、少なくとも間違いないのは、「学校」というカテゴリーでひとくくりにして、多様な変数や文脈の違いを無視して、一元的に「こうしなさい」と指導するスタイルは機能するはずがない、ということだ。すべての状況を考慮するのは不可能でも、いくつかのモデルを想定して、取れる選択肢を充実させることで、柔軟性を高めていくことは可能である。
 作り手のモチベーションを最も阻害する要因の一つは、作り手に与えられた工夫の余地のなさ、柔軟性のなさである。逆に言えば、作り手たる教師、あるいは教師から見れば学習者に、適切なサポートをしつつ、工夫の余地を与えることで、管理する側が想定しないような価値が生み出されることが期待できるのである。

Macの新TVコマーシャル

 最近オンエアされているMacのTVコマーシャルはかなり笑える。日本で流れているかは知らないけど、Appleのウェブサイトで公開されている。
http://www.apple.com/getamac/ads/
 WindowsとMac役の二人が「やあ、ボクはマック。」、「やあ、ボクPC。」と並んで出てきて掛け合いをしながら、Windowsの不便さをネタにして小バカにするという、MacのイメージCM。
 PC役のキャラクターが太めのさえないビルゲイツ風で、Mac役もGeek系だけどちょっとクールなMacユーザー風の若者。PCがフリーズしたり、ウィルスで風邪ひいたり、パッとしなさがどれも笑えて、特に「Network」編がいちばん可笑しい。
 二人が手をつないで「PCとMac同士のネットワークセットアップも簡単。お互いの言葉をわかるんだよ」と話していると、Macの隣に日本人の女の子がやってきて、Macと手をつなぐ。それを見てPCが「おいおい、誰よそれ?」というと、「日本のデジカメだよ」とMacが答えて、女の子と日本語で話し出して、、という流れ。
 このCMでの日本製品と日本語の使われ方は、アメリカで電器店に行くと日本製品がかなりの割合を占めているということと、最近のアメリカの日本ブームの影響があるように見える。Geekな若者の間では、日本のことを知っているのは「クール」で、日本の知識はファッションのようになっている。日本の製品と相性がよくて、日本語もかっこよくしゃべれちゃうMacはカッコいい、というイメージなのだろうか。とにかく、ここでもPC役のボケ具合がいい味を出していて、見るたびに笑える。
 Appleは昔からTVコマーシャルの使い方がうまくて、ブランド確立に貢献している。とはいえ、この部分だけ上手いというのではなくて、トータルのブランド戦略の精度が高いからこそ、その流れでTVコマーシャルも面白いものを連発できるのだと思う。

経験やカンに頼って何が悪い?

 日本のインストラクショナルデザインを取り巻く状況は、私が留学する前と比べて、進んだ面もあれば、ほとんど変わってない面もある。日本のID推進者の人たちがよく使う売り文句で、以前から違和感を持っていたのは、「経験やカンに頼った教育への批判」と「科学的アプローチとしてのID」というところである。
 そこで唱えられるのは、教育の質を高めるには、経験やカンだけに頼っていてはダメで、きちんと系統だった方法論を用いて適切にコースや教材をデザインしないといけない、アメリカではインストラクショナルデザインという方法論が普及していて云々、という感じである。ここでのメッセージは、経験やカン「だけ」に頼って教育を組み立てることや、それを評価改善せずに作りっぱなしにしていることが問題だということなのだが、「経験やカン」の部分が浮いてしまって、経験やカンに頼って教育することがいけないことのように曲解されているところがみられる。情報の出所たるIDの教科書などでは、経験やカン「だけ」に頼るのが問題、と言及されているはずだが、生かじりな知識でIDを単なる売り文句として使っている人たちは、この「だけ」の部分が消えてしまっていて、経験やカンに頼ることが悪いことのように誤解してしまっている(グーグル検索すると、ほんとにいろんな教育機関や企業でそういう言及がされている)。
 また、IDが科学的アプローチだという理解についても大きな誤解がある。ID自体は諸科学の知見を取り入れて系統だてて確立された方法論ではあるけれども、実践の場においては専門的な知識を専門家としての「経験やカン」を駆使しながらデザインするのであって、実践面においては科学というよりも、アートに近い技術の面が強い。なのに、何やら定められた手順に沿ってデザインすれば、効率よく質の高い講座が出来上がるんです、何しろ科学的ですから、という変なニュアンスで捉えられているところがある。そんなわけはない。これも売り文句としてIDを利用している人に共通する曲解である。
 こういう誤解が広まってしまうことの一つの理由として、IDのプロセスモデルばかりが注目されていて、その先になかなか進んでいないことがあると思う。IDプロセスモデルというのは、例のAnalysis-Design-Development-Implementation-Evaluationのいわゆる一般的なADDIEモデルのことを指していて、これに沿って教育をデザインすること=インストラクショナルデザインである、という風に捉えられても仕方がないような扱われ方をしている。これはあまり正しくない。IDプロセスに沿ってデザインするというのは、IDの「イロハ」、基本中の基本であって、それを習得したからといって、いい教育がデザインできるわけではない。
 いうなれば、IDプロセスモデルは、パイのパイ生地の焼き方の手順のようなものである。生地だけ上手に焼いて、はい、パイですよ、と出しても、誰もうまいパイだとは思わない。食べる人(学習者)にしてみれば、パイとはブルーベリーやパンプキンやアップルなどの具(コンテンツ)のでき具合の方が気になるのであって、具が美味ければ、生地をどう焼くかはあまり問題ではない。たとえ生地の出来が多少悪くても、具と合わせてトータルで美味ければそれでいいのである。しかし現時点での日本のIDの知識は、パイ生地を焼く手順のところしか教えていないので、スーパーで売っている出来合いのもの以上のものは焼けず、そこから先は作り手の属人的能力に頼ることになってしまう。当然ながら肝心なのは、パイの具、コンテンツをどう料理するか、である。プロセスモデルの表面だけなぞって、「IDってツマンネ」などと考える人がいたら、その人は生地だけを味見して、パイを評価しているのと変わらない。具の料理の仕方、具にあわせた生地の焼き加減の調整が、インストラクショナルデザイナーの技の部分であって、そこがデザインワークの一番楽しいところである。
 日本のIDの普及状況は、進んでいるところとそうでないところの濃淡はあれ、全体としてみると、最近の構成主義や学習科学の知見を取り入れて変化しつつある米国のID分野の状況からは大きく遅れているように見える。日本で理解されているIDは、構成主義登場以前の、行動主義の影響の強い頃の知識が最新のもののように理解されているところがまだある。おそらくおおざっぱに言って、これはライゲルースの緑本の第二作出版以前の状況、つまり日本のIDは米国よりも10年遅れていると考えると、当たらずとも遠からずだと思う。米国でも構成主義以前は、IDを手順に沿って設計すれば高品質の安定した教育を開発できると考えられていた面はあったし、今もたぶんある(基本的にIDは、高品質の教育ではなくて、質の安定した教育開発を可能にするものである)。当時はデザインといっても、エンジニアリング的な発想の方が強かった。この頃の考え方が日本に広まっているために、経験やカンを否定したり、科学的であることを重宝がったりする面が見られると考えると合点がいく。
 今日の米国のID教育・研究は、90年代以降に構成主義や学習科学の影響を色濃く受けて、よりエンジニアリング発想からデザイン発想にシフトしており、ID教育において行動主義的なIDアプローチは基礎として学ぶけれども、むしろライゲルースの緑本に取り上げられているような構成主義的アプローチをデザイン実践にどう取り入れていくか、ということに力点が置かれてきている(少なくともペンステートやインディアナ等のID分野主要校のプログラムでは)。
 IDが使えないという批判や議論は、以前から米国でも散々されてきており、「ISDへの攻撃」と題した記事が出たりして、手順がまどろっこしいとか、世の中の優れた教育は、IDとは関係ない人たちが生み出している、といった手厳しい批判が繰り返されてきた。また、方法論的なシフトについても、ライゲルースやメリルといったリーダー的研究者を中心に、激しい議論が重ねられてきて、現在に至っている。
 日本でのIDの知識普及が遅れていて、なかなか進んでこなかった理由として、知識創造の担い手が余りにも少なかったことがある。ゆえにこれまではある意味仕方がない面はあった。しかし幸いなことに、この春から熊本大学にID教育・研究の拠点が誕生し、IDの知識を創造し、蓄積していくための砦ができた。たとえ今、日本が10年遅れていたとしても、日本が米国と同じ道をたどる必要はなくて、米国なりヨーロッパなりの動向をきちんと追っていけば、数年は圧縮してキャッチアップし、独自のID研究に基づいた知識創造も可能である。
 何年後かに日本で「ISDへの攻撃」のような記事が出るのを見たくはない。米国で試行錯誤されてきた部分をショートカットするには、プロセスモデル以上の知識の普及を早めていくことである。学習者は、構成主義的アプローチや学習科学の知見もどんどん取り入れながら、デザイン実践の数をこなして、経験を積み、その経験をよりどころにした専門家としてのカンを磨いていくことが必要だ。それによって、その分野の長年の経験やカンを持った専門家と対等に議論しながら、デザインを主導していくことができるようになる。逆に言えば、経験もカンもないインストラクショナルデザイナーは現場のプロ教師や主題専門家に一蹴される。知識ばかり持っていてデザインをしないインストラクショナルデザイナーは、陸サーファーみたいなもので、肝心なところではあまり役には立たない。頼りにする経験やカンを持っていないデザイナーは当てにならないし、経験やカン「だけ」の「だけ」が見えないような人の言うIDは、単なる売り文句なので、そういうところとは一緒に仕事をしないことである。
過去の関連記事:
「IDやってます」の有効期限

「IDやってます」の有効期限


追記:過去の似たような記事をひいてみたら、驚いたことにちょうど一年前だった。何か変な周期があるのかもしれない。2007年版をお楽しみに。

スクール・オブ・ロック

 先日、夕食の後、テレビで映画「スクール・オブ・ロック」をやっていたので久しぶりに観た。ジャック・ブラックの演じるバンドマン崩れのさえない男(デューイ)が、肩書きを偽って代行教員になって小学校でクラスを受け持ち、子ども達をロックに洗脳しながらバンドを始めさせ、コンテストに参加する、という筋書きのコメディ映画である。
 作り手のロックへの愛情が注がれていて、クスッと笑えるマニアックな小ネタがたくさんちりばめていることもあり、ロックファンには評価が高い映画だが、「学校教育風刺もの」の映画としてもかなり興味深い点が多い。ロックの小ネタと同じように、教育学の小ネタがちりばめられている。実験的な教育を行なう主役の名前からして「デューイ」である。この手の学校ものではお約束の、お堅い校長や親たちとのやり取りにも、現代の学校教育の問題への風刺が効いていて、愉快である。メリル・ストリープ主演の「ミュージック・オブ・ハート」やジュリア・ロバーツの「モナリザ・スマイル」、それとロビン・ウィリアムスの「いまを生きる」と同様、学校教育や教師のあり方をテーマを扱いながら、感動の質では同等、笑いや風刺の鋭さが加味されて、これらを凌ぐ作品と言ってもよいと思う。
 学校教師や教育に関わる人たちにはぜひ観てもらって、何が語られているかをよく考えてほしい映画です。「いまを生きる」に感動した人は、この映画からも同質の感動を笑いと共に得られるし、ここに挙げた4作品を見比べてみるととても面白いでしょう。また、教育学や教職課程の授業を持っている方には、教材として利用するのにもってこいの映画です。
 
 

英語教育の足を引っ張るマスメディア

 アメリカ生活ももうすぐ丸4年というところで、ようやく最近「英語で考える」とはこういうことなのかなと実感できてきた気がする。日本語から英語に変換せずに話せることが増えて、ボーっとしている状態で頭に入ってくる英語の量が増えた。英語の夢を見ることも増えた。あいかわらず、英語が上手くなったとは思えないが、英語力不足のせいで会話の流れを壊す場面はあまりなくなった。
 今の自分には、英語ができるというのは、生活上の必然であって、なんら特別なことではない。これは日本にいる時の英語に対する態度とは明らかに変わった点だ。日本にいる頃は、おそらく多くの日本人が持っているのと同じく、英語を使うということ自体に畏怖の念というか、気恥ずかしさというか、不自然な感覚を持っていた。その心理的な阻害要因を減らすリハビリ期間にずいぶん時間をとられた気がする。そのような状態から始めなければならなかったことには、日本で受けてきた英語教育の方法や技術の拙さによるところも大きいと思うのだけど、それ以上に、日本で受けてきた文化的、環境的な影響の方が問題が大きい気がしている。学校の英語教育の場もその環境を形成している要素の一つだが、マスメディア、特にテレビがもたらす悪影響が案外大きいのではないかと思うようになった。
 テレビの悪影響の性質は今思いつく限りでは二つあって、一つは「日本人の英語アレルギー的態度の拡大再増幅」と、もう一つは「英語できる=カッコいい、的な過剰演出」である。前者の代表は、ズームイン朝の「ウィッキーさんのワンポイント英会話」とさんまのからくりTVの「セインカミュのファニエストイングリッシュ」で、後者は「巨泉の使える英語」やバイリンガルタレントの番組での使い方や、英語産業の英語できる=カッコいい的な売り込み方などがある。
 おそらく私が物心ついた頃に最初に英語というものを認知したのは、ズームイン朝の「ウィッキーさんのワンポイント英会話」ではなかったかと思う。毎朝、朝ごはんを食べて身支度をして、ウィッキーさんを見て、「朝のポエム」が始まる頃に学校へ向かう毎日を送っていた。番組内で、道行く日本人がウィッキーさんに話しかけられて、ごく簡単な英語の応答もできなかったり、逃げまくったり恥ずかしがったりするのを毎朝毎朝10年くらい見ているうちに、自然と「英語を話すというのは大変なことなんだなぁ」という意識が刷り込まれ、子ども心に大人たちの英語力の標準の低さを理解させられた。一回3分程度でも、毎朝見れば蓄積も大きくて、自分もウィッキーさんに遭遇したら、テレビに出ている不運な人たちとおそらく同じような反応をしていただろう。この番組は日本人の英語への態度を正直に映し出しているだけで、ウィッキーさんには善意こそあれ悪意はなかったにしても、視聴者が多い分だけ、この番組の悪影響は相当に大きかったと思う。「ファニエストイングリッシュ」も、日本人がいかに英語ができないかをパロディ化して描くことで、多くの視聴者に同様の影響を与えている。テレビを見て笑いながら、英語できなくてもOK、どうせみんなできないし、という態度が強化される。この弊害は案外大きいのではないかと思う。
 同様に、テレビに出てくる「英語のできる人」たちにも問題がある。テレビの英語ができる人たちは、英語をファッションの一部のように扱い、やたらカッコつけていたり、あるいは番組の作り手がそういうかっこよさを過剰に演出していたりする(バイリンガルタレントが取ってつけたように英語でイントロしてみたりとか)。あるいは、大橋巨泉のように、日本の英語教育がいかになっていないかをとうとうと説経して、日本にいて知っていても余り足しにならないようなワンフレーズ英会話を「使える英語」と称して大げさに扱っていたことも、英語に対する人々の特別な態度を強めていると思う。カッコいいから英語をやろうかという人には機能したとしても、それ以外の多くの人たちには、英語を学ぶことが過剰に特別なこととして捉えられて逆影響だという面が強いだろう。実際、高校の時のクラスメートに、英語ができる子がいたのだが、冷やかされるのが嫌で、わざわざベタな日本語アクセントに直して発音していたし、英語ができる人を冷やかしたり、冷やかされるのを避けて遠慮したりというのをいろんな場面で目にしてきた。それ以外にもマイナーなところでは、松本道弘が英語学習を「英語道」のように修行のような扱い方をしていたことも、英語を学ぶことへの心理的な敷居を高めることに影響していると思う。
 日本の英語教育の改革において重要なのは、英語教育の技術的な問題ではなく、「英語ができることで特別視される文化的風土」をいかに変えていくかという点に尽きると思う。技術的な問題や英語教員の質が改善されたとしても、文化的風土の問題がそのままである限り、日本人が道で外国人に遭遇して道を聞かれて、物怖じせずに教えることができるようにはならないと思う。逆に言えば、学校の英語教育改革にコストをかけるよりも、文化的風土の改善にコストをかけた方が効果がある。
 では、文化的風土を変えるためにはどうすればよいか。学校にこだわらなければいくらでも方法はあるし、そもそもシステム的な問題の変革には、いくつもの方法を併用して行なうことが必要である。方向性としては、わざわざ英語を教えるのではなくて、英語を使う機会を増やすことであり、日常生活の中で英語を学びやすくすることである。現在の英語補助教員招聘制度と、最近高まってきている日本文化学習熱とリンクさせるとか(おそらく今はほとんどリンクしてない)、英語圏からの観光者の長期滞在しやすい優遇区域を設置する事業に補助金を出して、各自治体に英語学習特区のようなエリアをあちこち作るといったことは有効かもしれない。現在の英語補助教員制度は、聞いた限りでは無駄が多く、コストに比してリソースが有効利用できてないようなので、若者たちの英語力を学校の英語の授業だけでなく、地域でも有効に利用できる形で再構成した方がよい。
 テレビに話を戻せば、わざわざ英語を学ぶためのテレビ番組を制作するのではなく、人気の海外の映画やドラマに、吹き替えではなくて、英語字幕を標準的に利用できるようにするだけでも英語の学びやすさはずいぶん変わる。日本語字幕や二ヶ国語放送も、多少は足しにはなるが、英語字幕によって何を言っているかを目で追えることの補助効果はそれらよりも格段に高い。DVDではすでに利用できるが、日常的に視聴するテレビでも利用できるようになれば、英語を聞くことが、より身近な存在になるし、そこで得られる英語は、教室の英語ではなくて、リアルな英語である。これだけでも、これまでに変な英語学習観で作られた番組がもたらした英語アレルギーをかなり癒すことができると思う(個人的には、子どもの頃に観ていた「ナイトライダー」とか「冒険野郎マクガイバー」とか「大草原の小さな家」などを英語字幕で見れたらだいぶ違っただろうなと思う。二ヶ国語放送はあったけど、それでは難易度にギャップがありすぎて学べなかった。中学の時に「コンバット!」のサンダース軍曹がかっこよくて、英語音声でがんばって観たりしたけど(もちろん再放送ですよ)、難しくてすぐ挫折したのを思い出した)。
 英語教育は学校の英語教育カリキュラムをいじるだけで完結する仕事ではなく、学習者の環境そのものを変えていかないと有効に機能しない。マスメディアの影響は、その環境要因の中でも重要度が大きいので、メディアから摂取できる情報の質を変え、英語を特別視せず、自然に学べるように方向付けていくことが重要になってくる。これは自分の経験からくる「ワタシの英語教育改革論」でしかないのだけど、教育システム変革論や社会学習理論を学んだワタシが、学術的な知見をベースに考えているので、多少はあてにしてもらっていいと思う。

市民の参画と地域活力の創造: 生涯学習立国論

 当サイトで運営している生涯学習通信「風の便り 」の編集長、三浦清一郎編著の新刊「市民の参画と地域活力の創造: 生涯学習立国論」が学文社より上梓された。3月に上梓された「子育て支援の方法と少年教育の原点」に続いての作品である。
 本書は、三浦氏が代表世話人と毎年行なわれている、中国・四国・九州地区生涯学習実践研究交流会の25周年を記念して出版されたもので、これまでの三浦氏の論文や、紹介された事例をテーマごとにまとめた形で構成されている。
 三浦氏は、中四国九州地方の生涯学習分野ではカリスマ研究者とでも形容できるような人気講師である。生涯学習機関、PTA、学校、非営利グループなどに招かれて講演して回って、地域の教育行政変革の主導者として活躍している。毎月配信されている生涯学習通信と、生涯学習フォーラムの論文で、教育行政に対する容赦のない辛口な、ブレのない筋の通った論理が評判となって広がった。論じたことを自治体へのコンサルティングなどを通して実践し、その評価を通してさらに新たな論を展開するというオンゴーイングな生涯学習変革の過程が綴られてきた中から、本書はそのエッセンスを凝縮した、地方から全国に向けた提言となっている。
 生涯学習行政関係者や、生涯学習分野に関心がある人向けのやや固めの本だが、教育分野における事業の立て方、実践の仕方、という点では、広く教育問題、高齢化問題、少年教育に関心のある人には得られるところの多い本だと思う。

学習メディアとしてのアメリカンアイドル

 全米ナンバーワン視聴率の歌手オーディション番組「アメリカンアイドル」も、いよいよ上位3人まで絞られて、今シーズンもあと少しで終わる。毎シーズン、レベルがあがっていて、今シーズンはさらにハイレベルになった。シーズン1で優勝したケリー・クラークソンはセカンドアルバムが大ヒットして、ほんもののアメリカンアイドルに成長したが、今シーズンの挑戦者たちも、それに続く素質を持っていると思う。何といっても歌がうまい。これだけ何度もやれば、そろそろ歌のうまい人も尽きてきて頭打ちになるだろうと思えば、そこはさすが市場のでかいアメリカ、次々とアイドルの素質を持った若者が現れてきて、競争のレベルアップによって、番組のマンネリ化を防いでいる。
 レベルアップしている理由として、この番組自体が挑戦しようとする人々の学習メディアとして機能していることが大きいと思う。番組は地方予選から最終選考までオーディションの模様をドキュメントして、トップ12に絞ったところでライブショーとして、視聴者投票で毎週一人ずつ落としていく形で展開する。サイモン・コーウェル、ポーラ・アブドゥル、ランディ・ジャクソンの3人のジャッジが、それぞれの持ち味を出しながら挑戦者にコメントする。オーディションでは、上手い人、下手な人、それぞれクローズアップされて、勝ち残る人や残れない人の歌い方、立ち振る舞い、ジャッジの目のつけどころなどが描写される。予選を通過した挑戦者たちの人となりや、勝ち残ることでその人に起こる生活の変化の様子など、この番組を通して起こっている人間ドラマがお茶の間(とはアメリカでは言わないのでリビングルーム)に届けられる。地方予選には10万人以上参加するので、やたらにぎやかだが、下手な人も多い。視聴者はその様子を見て、これなら自分の方がましだと思うかどうかは知らないが、番組の盛り上がりにやる気づけられ、応募する。参加したら、その先何が起こるか、勝ち残る準備をするためにどんな準備をすればよいか、といった情報は番組の中で豊富に出てくる。誰もが、シャワーを浴びながら毎日歌ったり、ボイストレーニングを受けたり、教会で歌ったりという形で、歌が生活の中で占める割合が大きくなり、結果、才能のある人は才能を開花させ、オーディションのレベルが上がる、という好循環がおそらく生まれている。似た例を出すとしたら、「アメリカ横断ウルトラクイズ」が感覚的には近い(リンクはWikipedia)。若い人にはこの例が機能しないのだが、このクイズ番組は当時は超人気クイズ番組で、多くの視聴者はこの番組に憧れ、クイズ王になることがステータスとなるなど、日本のクイズ熱を高めるのに大きく貢献した。題材を歌に代えて、それと同じような盛り上がりが全米のあちこちに広がっているとイメージすれば、だいたい近いと思う。
 このアメリカンアイドルも、ウルトラクイズも、大衆向けの娯楽番組である。しかし、非常に多くの人々の心に届き、その中のかなりの人々に学習の動機と目標を与え、行動に変容を起こしている。強いられて行動を変えるのではなく、自発的にトレーニングしたり、実践の機会を持ったりしている。すべては学校や公的教育の外の世界、教育関係の人々が嫌いだったり無関心だったりする、大衆向けの娯楽の世界で起こっている。しかも、教室の中での「生徒のやる気の起こし方、注意のひき方」なんていう小ネタレベルの話とは比較にならないダイナミックな話である。人々がよりよく生きるためのきっかけや経験を提供する手段は、教育的である必要はなく、結果的に意図したものが人々のもとに届けば、表向きは娯楽であれお笑いであれ構わないはずである。教育という表面的な体面にこだわっている場合ではなく、もっとよい意味でずるくなって、いろんな手段を使うことを考えていく必要があると思う。