ここ最近、アシスタント業務が忙しい。給料分かっちり働かされている。仕事をもらっている認定プログラムは、大学のアウトリーチオフィスが管轄で、うちのINSYSプログラムからはコース提供をしていて、うちのプログラム側の運営担当が一人いるということで、大学院生のポジションが一つ用意されている。あれこれ判断業務が発生しているのだが、アウトリーチオフィスの方は、INSYS側に気を使っているのか、運営の細かいところには口出ししてこない。こちらの判断業務をするべきスーパーバイザーの教授は実務にはまったく関知してない。なので、自分のポジションは管理者不在に近い状態なのだ。小うるさい教授がボスで、給料分以上にこき使われているアシスタントが結構いる中で、自分のポジションはありがたいものだ。でも自分がマネジメント側だったら、このポジションは業務内容を見直しするだろう。立ち上げ当初はいろいろアシスタントも骨を折ったようだが、今は放っておいてもお客さんが来て、非常勤の講師たちが教えて、収入が入るシステムが出来上がっている。アシスタントの業務はそれほど発生しない。
実は、他にも似たような認定プログラムがあって、内容がバッティングして無駄があるという問題点がある。それを最近、関係する教授陣で見直しを始めた。そうするとまたこちらの仕事が増えるのだが、忙しい分には問題ない。暇で給料分働いてなくて、仕事から何も学ぶことのない状態の方がよほど居心地が悪い。とりあえず5月までで契約期間が終わるが、それまでには前のアシスタントがまったく整備してなくて雑なままの文書類を整備するなどして、運営効率を上げることに貢献して終わろうかと思う。
2/21(土) プロのデザイナーとのやり取り
今日も風邪で休息。課題の読書をしていたら、この間メールインタビューしたClark Aldrichからメールが届いた。君のウェブサイトのゴールステートメントを楽しく読んだよ、とのコメントだった。お礼もかねて、アマゾンのサイトで彼の著書へのレビューを書いた。日本語訳(ちょっと加筆修正)は次のような感じ。
シミュレーションによる教育研究の大いなる一歩
この彼の著書”Simulations and the Future of Learning is becoming”は、私の周りのゲーム&シミュレーションによる教育に関心のある研究者たちの間で必読本になりつつある。ゲーム&シミュレーションを教育に利用する研究は、今注目されつつある研究テーマだが、新しいテーマということもあり、いい文献がない。そのため研究を進めるのになかなか苦労している。そんな時に著者は、自身が開発したリーダーシップ教育シミュレーション「ヴァーチャルリーダー」(ベストイーラーニングプロダクトオブザイヤーを受賞)の開発プロセスを気前よく披露してくれた。この本は後にこの研究分野の発展を推し進めた作品として評されるだろう。
この本は、この分野の研究者やデザイナーたちに多くの知見を与えてくれる。ソフトウェアとしてのシミュレーションモデルやインターフェースデザインの開発過程はもとより、リーダーシップ理論とモデルの開発過程も詳しく紹介されている。彼は既存の専門家や理論をあてにするのでなく、それらをゼロから構築している。その過程を丹念に示すことを通して彼は、本当のイノベーションは、地道な論理思考の積み重ねとプロジェクトメンバーのたゆまぬ努力によって起こされるものだということを示している。この本は、言ってみれば革新的なプロジェクトの成功の裏で開発者がどんな苦労をしたかを綴ったものだが、それを出版することで、読者に新たな学習機会と、読んで楽しめる物語を提供できるということを著者は示してくれている。
著者の彼には結構感謝され、その後メールのやり取りが2往復ほど発生した。なけなしの知識を総動員して彼のレベルに合わせて話をしようとするが、そうすると彼はさらに高いレベルで話を展開してくる。まるで何かのスポーツの初心者が達人に手合わせをしてもらっているような状態である。さすがに本物の専門家は聞きかじりの知識をそのまま使うようなことはせずに、自分の頭で消化して、自分の言葉にしたものをぶつけてくる。しかも彼は直球。一球一球が重い。こういう真剣なやりとりが人を育てるのだろう。いい人に出会えたものだ。
2/16(月) 研究計画
今日はリサーチデザインのクラス。簡単なトピックを書いて持ち寄って、Dr. Dwyerに個別コメントをもらう。少人数のクラスなので、こういう個別指導的な授業が可能。学ぶことも多いのでとてもよい。ABD(All but Dissertation)の院生もいるのだが、今頃リサーチデザインの授業を取り直しているだけあって、持ってくるものもいまいちぱっとしない。こういう院生の指導は、アドバイザーの教員もモチベーションが出ないだろうなと思う。他のクラスメートたちは、まだ博士課程を始めたばかりの人も多く、今テーマを探し中といった感じ。
かくいう自分のは「テーマは面白いが、構想がでかすぎ」とのこと。ゲーム&シミュレーションは注目度が高いテーマだが、持っていたネタだと、大勢で手分けしてやらないといけないレベルだし、独立変数を定義するのが大変だぞ、などとあれこれと指導を受けた。いちいちごもっともで、勉強になった。研究の構想がでかくなりがちなのは、はじめから小さな構想ではモチベーションがあがらないのもあるのと、学部時代に受けた教育のせいでもある。
昔、SFCの学生は身の程を考えずにでかいテーマを追求しようとすると指摘されるのを耳にした。それはたぶんに、SFCでの大局的な視野を身につける教育が成功しつつも、それを具体的なリサーチに落とし込む教育が機能してなかったということの表れだと思う。この点は学生のせいというよりも、教育をデザインした側の製造責任に関わる話だろうと思う。とはいえ、ちまちましたリサーチ作法よりは、大局観をもてる学生を育てることを優先することはむしろよいことだと思う。リサーチ作法なんぞは学部生の大半はそんなものは不要で、必要になれば大学院で学べる。構想がでかすぎる分には絞り込めばいいので問題ないが、リサーチ作法は知っているけど、研究テーマを見つけられないという状況は、はるかに悲惨だ。
ところで、研究計画を立てるのは自分の得意分野である。自分じゃやりたくないけど、面白そうでしょ?という研究計画ならいくらでも書ける。もっとも、そういうものを書く場合でも、いざ自分がやらないといけなくなった場合のために、自分がやりたくなるようなネタは必ず仕込む。このスキルは今までの社会人経験によって身に付いた。大学を出てからずっと企画系の仕事をやってきたので、企画書、提案書の類は山のように書いてきた。アルバイトで、大学院入試教科書の研究計画書サンプルを書いたこともある。会社勤めのころはボスにガミガミ言われながら徹夜で資料をまとめたりしていたが、今となってはそういうものが糧となって今の自分を支えているのだなとつくづく思う。若い時にがみがみ言って鍛えてくれる上司は貴重だ。しかも自分の場合は、会社の経営者と直で仕事してきたことがさらにプラスになっている。彼らは普通のサラリーマン管理職とはシビアさが違う。ガミガミも本気である。今、大学の教員と仕事をしていて、英語がへたでも彼らの関心を得ることができるのは、経営者たちと仕事をした経験から、上の人間の立場でものを考える力が付いているおかげだろう。
研究計画の方は、文献レビューを交えつつ、トピックを絞り込む作業を開始。文献読みのスピードが遅いので手間がかかる。
2/9(月) 博士論文
今日のリサーチデザインの授業の宿題で、ISD分野の博士論文を一つ読んで、要約を書いて持ってきなさいというのが出ていたので、図書館へ。ほんとはオンラインにのっているもので済ませようと思ったのだが、2000年の分からしかなくて、ちょうどいいのがなかった。図書館の博士論文コーナーに初めて足を運んだ。飾り気のない製本をされた博士論文が書架にならんでおり、数年後に自分のがここに並ぶことを想像して、しっかり勉強せにゃいかんという気になった。
リサーチデザインの授業の講師のDr. Dwyerは、ISD分野がいつまでたっても科学の領域としての理論基盤を構築できないことを危惧しており、自分の研究室でISD分野の理論基盤整備に貢献するような、いわゆる基礎研究の成果を地道に蓄積してきている。彼の多くの教え子たちは、同じ素材(心臓の構造と機能に関するインストラクション)で、さまざまな教授アプローチによる実験研究を行なって、そのテーマで博士論文を書いているそうだ。そんな彼の授業は7割方はゆっくりとした語り口での講義なのだが、言うことにいちいち含蓄があって、一言一句聞き逃せない。その含蓄は、ISD分野を発展させていきたいという研究者としての良心と信念が積み上げてきたものなのだろう。彼は基本的には行動主義の流れを汲む伝統的なID者の立場で、きちんと実証されていない構成主義の理論にはきわめて懐疑的である。しかし彼の姿勢は実証的なだけで、頑迷なものではない。効果があるというならきちんと実証して見せなさい、という立場である。実際、彼の教え子のうち4人はReigeluthのElaboration理論の実証をしようとしたが、結果は有意差なしだったそうだ。講義の中で、ぼくの研究関心であるゲーム&シミュレーションにもことあるごとに言及してくれるが、まだ学習効果が実証されていないということだった。何とかしてこのテーマで学習効果を実証したい。このコースの最後に研究プロポーザルをまとめるので、その時に彼が納得してくれるようなものをぜひ出したい。
IDへの違和感
最近どうもIDを学ぶことに対する違和感があって、それが何だかつかめてなかった。それが今ふと、自分のゴールとIDの分野でやっていることにずれがあるということに気づいて、合点がいった。ID分野の研究は、端折って言えば既存の教育内容を再現可能な形でいかに効果的効率的に教えるかというものだ。そのことに興味を持ったからIDを学び始めたのは確かだ。しかし今の学校で教えられているようなものを同じ形で効果的効率的に教えたところで意味はない。大学受験対策の勉強が1年かかるのを半年でできるようにしたところで、大学受験勉強の効率がよくなるだけで、学ぶ内容自体に意味があるようになるわけではない。そういう無駄な営みを効率よくするための片棒担ぎはしたくないのだ。
自分のIDの専門性は、より重要で意味のある学習を普及させていくため、あるいはそうした学びを阻害するような余計な教育をなくすするために使われるべきものだ。そのためには現在の学校教育、あるいは学校教育のモデルを模している社会人教育自体を変えていくためのアプローチを取る必要がある。問題解決型アプローチやLearning by Doing(行動による学習)はその一つのあり方であって、この考え方に基づいた教育内容を整備していくことが一つの方向性だろう。日本の大学でも問題解決型学習というのが掲げられるようになったが、やっていることは教科中心型教育の延長線にしかなく、手ぬるい。その手ぬるい教育をへたをするとIDが延命させることも起こりうる。それは避けたい。これから日本で広めるべきIDは、情報化社会以前のアメリカで開発された旧来のIDではなく、今アメリカの研究者たちが苦労して模索している未来のIDだ。
まだ大半はジャストアイデアだが、かなり自分の中での整合性がとれたのですっきりした。
イベントによる学習促進
今気に入って見ているテレビ番組はいくつかある。一番楽しんでみているのは、The Apprenticeというリアリティショーだ。前にも日記で書いたが、これは不動産王のドナルドトランプが子会社の社長を探しているという設定で、応募した16人の挑戦者がその社長の座を争って毎週ビジネスゲームに挑戦するという内容だ。男女二チームにわかれて、一週目はニューヨークの街中でのレモネード売り、二週目はチャータージェット機会社の広告企画、三週目は買い物値切り競争、四週目はレストラン運営、などのタスクに挑戦し、勝てば社長生活を垣間見れる豪華なご褒美、負ければ会議室でドナルドトランプに叱られ、負けに最も貢献した人が首になる。そのプロセスの人間模様の面白さが番組の見所となっている。
視聴者からすれば、MBAホルダーや大企業のマネージャーといった挑戦者たちの使えなさ加減を嘲笑し、彼らが生き残るためにあれこれ駆け引きをする様子を面白おかしく見、またはドナルドトランプという押しの強い芸能人的事業家のキャラクターも楽しめる。娯楽番組のつぼを押さえていて、日本でも人気が取れそうな番組だと思う。日本の「マネーの虎」と近いにおいがする番組だが、The Apprenticeの方が番組の企画や構成がよく練られている。
で、なにが教育に関係するのかといえば、挑戦者がみんな日常では得られない学習をしているのだ。1日や2日で企画をして、成果を出すことを求められる中で、プロジェクトをうまくまわして相手チームに勝たなければならない。豪華なご褒美や首がかかっているのでみんなマジである。このマジな時間に吸収できることは、日常の同じ長さの時間に得られるものの比ではない。それは試合やテストの前にがんばったり、サービスリリース前に火事場力が出せたりすることを経験した人であれば容易に想像できるだろう。学習を促進するにはイベントのような仕掛けが有効なのだ。The Apprenticeの挑戦者は、勝負に勝ちながらドナルドトランプに認められる人物になろうと頭を働かせるし、マネーの虎の挑戦者も、社長たちから金を出してもらうためのプレゼンをするために一生懸命知恵を絞る。NHKのど自慢大会でも、参加者は優勝するために一生懸命練習する。そういうインセンティブは日常を普通にやっていたのでは引き出すことはできない。これはテレビ番組である必要はなく、人が燃えるような仕掛けであればいい。テレビというのは人に見られるというのが大きな促進効果をもたらす。その効果が重要であれば、ローカル局でも校内放送でもかまわないから、組み込んでしまえばいい。社内コンテストや論文懸賞のようなイベントは恒例行事だからやるのではなく、構成員の学習のためにやるのだ。そうであれば、組織のドメインと関係ないものでなく、参加者がそこでがんばることで、直接でも間接でも組織の力を伸ばすことに関連するものを頻度を上げて実施するのが有効だ(そういう意図がセコく透けて見えるような仕掛けは逆に敬遠される)。教育訓練とイベントを分ける理由はないし、テレビのようなメディアはそのツールとして活用し、戦略的に教育の一環として実施していくべきだろう。テレビ業界の方が先導して今までにない教育的番組を作っていて、教育人が関わるととたんに退屈な教育番組になるのが現状である。そうでなくて、教育の顔をしていなくても学びの多い番組を教育側が先導して提案できるくらいの状態になっていけばよいと思う。
「ゲーム脳」騒動の問題点
ゲーム&シミュレーションを研究する身としては、今日本で話題にされている「ゲーム脳」について触れておかねばならない。この「ゲーム脳」森昭雄「ゲーム脳の恐怖」(NHK出版)の出版をきっかけにかなりの話題を呼んでいて、ネットで調べると賛否の意見が大量に出てくる。趣旨はゲームを長時間やると、脳の機能が低下し、キレやすくなったり、脳の発達に悪影響を及ぼしたりするということだそうだ。書籍をあたっていないので、書籍自体の論評は置いておくが、この「ゲーム脳」にまつわる議論について、気づいたことをまとめておく。
この問題は賛否がはっきり分かれている。日ごろから子どもたちがゲームに没頭するのを面白く思っていなかった親や教師は、ゲーム批判の強力な論点を得て、やっぱりゲームはダメ、という主張をする。ゲーム世代より上の親や教師がその中心勢力となる。一方で反対するのは当然ながらゲーム業界やゲーム愛好者である。たいがい「ゲーム脳はある、ない」という論点だ。著者の論理に矛盾があるとか、そういう例を実際に見たとか、そういう話だ。しかし、これだと水掛け論になってしまって何も話は進まない。感情的に反応するのでなくて、次のようなことを考えるべきではないか。
(1)ゲームにもいろいろある
この「ゲーム脳の恐怖」で問題としてされているのは、単純なアクションゲームやパズルゲームなど、慣れれば思考せずに反射神経だけで長時間プレイできるゲームであって、これにあてはまらないゲームはたくさん存在する。何でもゲームと名の付くものを否定したがっている人は、たいていゲームをろくにやったことがない。そういう人たちは「バカの壁」に阻まれて、適切な思考ができていないのだろう。
(2)何ごともやり過ぎはよくない
ゲーム脳のあるなしにかかわらず、毎日長時間ぶっ通しでゲームをやるのは、普通に考えれば身体に悪い。働きすぎも食べすぎも飲みすぎもタバコの吸い過ぎも、全部過度なことは身体に悪い。言ってみればこのゲーム脳が問題にしているレベルは、ケーキを丸ごと一日一個食べるとか、タバコを一日3箱吸うとか、ウィスキーのボトルを一人で一日一本空けるとか、そういうレベルの話だ。ゲーム脳があろうとなかろうと、身体に悪いのは当たり前のレベルで、それを身体に悪いことですよというのは当たり前のことだ。ただ、だからといって頭ごなしにゲームを全否定する根拠にはならない。
(3)同様な事例で、他にも問題にすべきことは多い
ゲーム脳を問題にする前に、何で「パチンコ脳」を問題にしないのかとつくづく思う。長時間のゲームが脳に悪いとすれば、いい大人が朝から晩までパチンコの玉やスロットの回転を眺めている方が脳にはずっと悪そうだ。依存性もゲームより高くて、借金や子どもの放置死などの社会問題も起きている。親からの仕送りをパチンコにつぎ込む学生の話はありふれている。いい大人がパチンコに没頭するおかげで生じている文化的、経済的な損失は大きいはずだ。田舎に行くと、パチンコ屋だけが栄えていて、文化が育たない。こんなことを放置しておいて、ゲームはいかんというのは、問題をきちんと捉えているようには思えない(パチンコ脳で検索すると似たようなことを言っている人は結構いた)。
(4)ゲームの効能は無視できない
上の3つは論点としてネット上でよく言われているようだが、この点はあまり取り上げられていない。教育や福祉へゲームが貢献する余地は大いにある。タイピング学習ゲームはゲームが学習を促進している身近な例である。また、フライトシミュレータは実際の飛行訓練に利用されている(関連記事)。米軍は巨額を投じて、新兵訓練や下士官の判断技術の訓練用のゲームを開発して実際に利用している(関連記事)。福祉の例では、ゲームメーカーのナムコはリハビリ用のゲームを老人ホームなど向けに販売している。ゲームというものを頭ごなしに否定してしまうと、こうした効能までも見逃してしまう。特にこの点は親や教育者に理解してもらいたい。ネットで調べたらこういうひどい授業例を見つけた。これでは教育というより洗脳である。たぶんこれをひどいと思わない教師がいるからこういうものを提供する業者がいるのだろう。教育者側がゲームを否定的に捉えているうちは、子どもとゲームの関係はよくならない。ゲームの長所と短所を積極的に捉えなおせば、今行なわれているような浅薄な議論になることはないし、子どもとのコミュニケーションのポイントは広がるはずである。
「道路の権力」
猪瀬直樹の 「道路の権力」を読了。息抜きに読むつもりが、とまらず一気に読んでしまった。猪瀬直樹は少し前からじっくり読みたいと思っていたのを、今回の新刊と冬休みが重なったおかげで読むことができた。この本は、著者の意図通り、「剣はペンよりも強し」を体現した力作であり、言葉や論理を武器に仕事をする人にはぜひ勧めたい。道路公団民営化推進委員会のやり取りの中での、合意形成と対立のプロセスが詳細に記されている。猪瀬氏がデータと論理で官僚組織に立ち向かっていく過程には迫力があり、言論で仕事をするということがどういうことなのかを知ることができる。また、システムに変化を起こす時に立ちはだかる障壁がどのようなものかを知ることもできる。
委員会の場では、意見書の文言を決めるのに大変な時間を割いていることがわかる。合意も対立も、意見の文言をどうするかという点が焦点になっている。意見書の項目の順番を決めることで大議論をやり、「凍結する」を「凍結を含めて検討する」という表現に変えることで合意を取り付ける、といったやり取りが続く。その文言のニュアンスの捉え方ひとつで、言葉が伝えるコンセプトが変わり、政策がまったく意図しないものになることもあるため、一字一句を見逃すことができない仕事だったということがわかる。そうやって委員が苦労して練り上げた意見書も、結局は政治の力関係で強い方に都合よく解釈されて利用されてしまう。そうした現実はこうした委員会方式の限界を示しているが、それでも猪瀬氏の主張のように、獲得できたことを評価すべきだろうと思う。政治力がない中で、理詰めでここまで立ち向かって成果を勝ち取ることは普通は期待できない。猪瀬氏が相当無理をしたのであって、無理をせざるを得なかったのは、政治力を発揮して彼を支えるべき存在が機能していなかったためだろう。
この本から、社会組織を変えていこうとすると、こういう利害対立に必ず遭遇する、ということをあらためて認識させられた。今の自分のキャリアをそのまま行けば、きっと少なからず似たケースに出会うと思うので、その時にはこの本を読んだことが何かの役に立つかもしれない。
2004年の目標と計画
今年をどんな一年にしたいかを考えてみたい。いわゆる「今年の抱負」というやつだ。昨年一年で、自分のやりたいこととキャリアを直結した状態を創り出せた。また、組織に縛られないワークスタイルも実現できた。しかし、収入面の安定につなげることについてはまだ開発途上だ。今年は自分の研究で食っていける状態を実現することが一番の課題になってくる。公平に見て、自分にはまだそこまでの実力はない。なので、「研究で人から認められる実力をつけ、やりたい研究で食っていける状態になる」というのが今年の大目標だ。その実現のための小目標と活動計画は次のような感じになる。
・健康増進
月並みだが、これが基本中の基本だということが身にしみている。昨年は年の後半でかなりへたってしまった。理由ははっきりしている。夏の間の体力づくりをなまけたからだ。幸い、食生活がよいことと、異国の地で病気になると大変だというプレッシャーもあって、特に病気を患うこともなく今まできているが、運動不足からくる体力低下が進んでいる。体力がないと、研究のための集中力も落ちて、根気が続かない。心身を鍛えることで、困難な研究を継続するためのパワーをつけたい。 具体的には、最低週1回のジムトレーニング、毎日寝る前のストレッチと簡単な筋トレ。あと、よい機会があれば何か新しいスポーツを経験してみたい。
・研究資金の獲得
5月まではアシスタントのポジションが確保されているが、夏以降はどうなるかわからない。できれば新たなスポンサーを見つけてきて、自分で新しいポジションを作り出したい。研究プロジェクトの計画書を書いて、それを持って回ってスポンサーを確保したい。自分の研究分野の発展に寄与する研究と、日本語教育の教材開発の二つのプロジェクトを提案して回って、最低どちらかのプロジェクトのスポンサーを見つけることを目指したい。
・論文執筆
今度の夏で2年目を終えるので、夏の間に自分の研究分野で最低1本は学術論文を執筆しし、学会誌へ投稿したい。
・プレゼン力の強化
英語力全般の強化、ということでもあるのだが、特に英語でのプレゼン力の強化に力を入れたい。今のレベルは、ど下手のカラオケを毎回皆に我慢して聞かせているようなもので、お互いに気の毒なものである。今年のうちに、せめて聞き苦しくない程度のプレゼンができるようにしたい。これにより、日本語でのプレゼン力も必然的に高まるので一石二鳥である。
・開発力の強化
昨年の夏にPHPの勉強をしたが、実用には程遠いレベルにとどまっている。別にプログラミングである必要はなく、何らかのコンテンツ開発につながるスキルを高めたい。技術面で一番実用的なのは、Flashコンテンツの制作だと思うので、まずは今年前半のうちにFlashでひとつ教材を作ることを目標としたい。技術だけではよいコンテンツは作れないので、コンテンツ開発の基盤として、ゴールドラットのビジネス小説や、Tycoonシリーズのシミュレーションゲームのようなところで使われている手法から、コンテンツ開発につながる知見を得たい。今はまだ経験しているだけの段階だが、これを一歩進めて、自らコンテンツを作るためのスキルを生み出したい。
2003年を振り返って
留学してきて1年4ヶ月ほどが経った。2003年は、留学後の適応の時期を終えて、新しいことを始めようと試行錯誤してきた1年だった。年の初めにやりたいなと考えていたことは、大方達成できて、新しいことを始める萌芽が見えてきた気がする。しかし、すべてが順調というわけでもない。今年一年の方針を考えるためにも、少しここまでの経過を振り返ってみることにする。
・博士課程に移り、コースワークを順調に消化
2003年初めに博士課程に移り、大学院在籍期間を2年から5年に延長。移籍手続きはスムーズにでき、10月のCandidacy Examも問題なくパスできた。コースワークもこれまでに10コース終えて、今のところは計画通りに進んでいる。2年目に入って、授業で理解できることがだいぶ増えたと同時に、最初はいかにわかっていなかったかを痛感した。クラス討論で意見をまともに聞いてもらえるようになった。これまでに受けたコースの講師からはよい評価を得た。10月にはAECTのカンファレンスに初参加して、研究分野での知見を広げることができた。
・大学の仕事を経験
昨年中盤は、アシスタントのポジションを確保するのにいろいろと苦労した。PHP/MySQLデータベースメンテナンスの短期アシスタントや、教育政策研究科のホームページ更新といった小さい仕事をこなした後、10月からペンシルバニア州のK-12教員向けの認定プログラムのアシスタントとして雇ってもらった。いずれの仕事も、アドバイザーのDr. Peckに世話してもらった。英語力の不足から、他の教員には敬遠されるところを、彼は私をあれこれ引き立ててくれて、ことあるごとに声をかけてくれる。足を向けて眠れない存在とは彼のことだ。
・「ゲーム&シミュレーションによる学習」という研究テーマを得た
来た時は、漠然と「インストラクショナルデザインを日本でもっと普及させるための研究をやりたい」という考えだったが、いろいろ勉強するうちに、構成主義の学習理論に興味を持つようになり、さらにはケース教材を用いた学習、ゲームやシミュレーション型の教材開発というテーマにたどり着いた。まだ興味を持って調べている程度に過ぎないが、これらの教育方法を発達させることで、退屈な教育を減らして、教育の場をより意味のあるものにするための有効なツールにしていきたいと考えるようになった。
・日本の研究機関からの仕事を受注、完了
学部在籍時からずっとお世話になっている東大先端研の妹尾堅一郎教授の紹介で、三菱総研から、日本の大学院における技術経営教育プログラム開発のための米国大学院調査の仕事を受注、3ヶ月間の作業期間の後、無事に調査報告書を納品した。以前に日本でもいくつかこの手の仕事をやってきた経験があったので、仕事自体はさほど難しくなかったが、大学院での活動と並行したので苦労した。結果的には調査研究の仕事の幅を広げることができたし、自分の研究を進める上でのヒントを得ることもできたよいプロジェクトだった。妹尾先生は、私にとってのもう一人の足を向けて眠れない存在だ。
・日本のインストラクショナルデザイン研究・実践者とのネットワーク形成
海上自衛隊の君島さんの紹介で、sigeduというグループのメーリングリストに加えてもらった。日本のID研究の第一人者の鈴木克明教授とも知り合いになるなど、この分野に関心のある日本の人とのつながりができた。
・日本語教育に進出
夏休みに地元の高校生ベンの日本語の家庭教師を引き受けたのをきっかけに、大学の日本語プログラムで週1回基礎クラスを教えるなど、日本語教育という活動の場を得ることができた。基礎クラスの学生の個人教師や、上級クラスの学生の会話パートナーをやったり、コースのプロジェクトで、日本語プログラムのニーズ調査を行なったりした。プログラムのインストラクターたちともつながりができた。日本語教育にかかわることは年初想定していなかったが、思いがけず活動の選択肢を広げることができた。
・英語力アップ
大学院で活動するための基礎的な英語力もあやしい状態から、読み書き主体であれば、英語でも日本でやっていたくらいの仕事はできるようになった。英語の文献も小説や新聞程度のないようであればスラスラ読めるようになった。とはいえ、会話力はあまり伸びていないので、意思伝達には相変わらず不自由が伴う。会話力の低さは日本語であっても同じで、英語のせいではない面が大きいので、英語力とともに会話力そのものをあげていかないと、今後もさほど伸びていかない気がする。
・車を手に入れ、免許を取得
8月に小さな古い車を譲ってもらい、ペンシルバニア州の運転免許を取得した。車の運転は不得意な方で、最初はあまり楽しくものなかったが、近所の運転くらいは気楽にいけるようになった。普通はたいしたことでもないのだろうが、車の不要な首都圏で10年生活し、車の運転に関してはまったく能力が開発されてなかった身には、けっこうな挑戦だった。
・あちこち見聞
夏休みのノースカロライナのサウスポート旅行、10月のカリフォルニア学会旅行、サンクスギビングのニューヨークドライブ旅行など、アメリカ内をあちこち見て回る機会があった。いずれも楽しく、忘れられない経験となった。