IDへの違和感

 最近どうもIDを学ぶことに対する違和感があって、それが何だかつかめてなかった。それが今ふと、自分のゴールとIDの分野でやっていることにずれがあるということに気づいて、合点がいった。ID分野の研究は、端折って言えば既存の教育内容を再現可能な形でいかに効果的効率的に教えるかというものだ。そのことに興味を持ったからIDを学び始めたのは確かだ。しかし今の学校で教えられているようなものを同じ形で効果的効率的に教えたところで意味はない。大学受験対策の勉強が1年かかるのを半年でできるようにしたところで、大学受験勉強の効率がよくなるだけで、学ぶ内容自体に意味があるようになるわけではない。そういう無駄な営みを効率よくするための片棒担ぎはしたくないのだ。
 自分のIDの専門性は、より重要で意味のある学習を普及させていくため、あるいはそうした学びを阻害するような余計な教育をなくすするために使われるべきものだ。そのためには現在の学校教育、あるいは学校教育のモデルを模している社会人教育自体を変えていくためのアプローチを取る必要がある。問題解決型アプローチやLearning by Doing(行動による学習)はその一つのあり方であって、この考え方に基づいた教育内容を整備していくことが一つの方向性だろう。日本の大学でも問題解決型学習というのが掲げられるようになったが、やっていることは教科中心型教育の延長線にしかなく、手ぬるい。その手ぬるい教育をへたをするとIDが延命させることも起こりうる。それは避けたい。これから日本で広めるべきIDは、情報化社会以前のアメリカで開発された旧来のIDではなく、今アメリカの研究者たちが苦労して模索している未来のIDだ。
 まだ大半はジャストアイデアだが、かなり自分の中での整合性がとれたのですっきりした。