修了試験の合間に、テスト理論の専門家のDr. Suenが中国の科挙試験の歴史についての講義をやっていたので聴きに行ってきた。科挙試験というと、狭い土蔵のようなところに閉じ込められて、数日間ぶっ通しで丸暗記してきた四書五経を解答用紙に書き続けるとか、カンニングのテクニックがすごかったとか、断片的な知識しか持っていなかったが、今回の講義でテストのシステムから会場の作り、テスト社会化の影響など、かなり体系に理解できた。面白かったポイントをいくつかメモしておく。
・隋の7世紀から清の20世紀初頭まで(元の時代に空白あり)、科挙試験は面々と続いて、現在の中国のテスト社会の文化はその流れにある
・科挙試験をモデルにアジア各国はもとより、ヨーロッパ各国でも試験制度が整備された
・各地の試験会場は数千人から数万人収容の施設で、カンニング防止のための厳しい監視体制が施されていた
・省レベルの試験では(科挙試験は大きく分けて県、省、首都レベルの3階層あった)、受験生は9日間に、四書五経、作詩、政治分析の3科目をそれぞれ3日間(それぞれ間に一日休み)受験して小論を書く。
・数千人から提出された小論は、数万枚にものぼるが、各会場の試験官はたったの14人で、15日以内に採点を終えないと罰せられたため、試験官たちは四書五経の試験の結果を残りの科目にも適用した。そのため結局は四書五経の出来が結果を左右した。
・その時々の政権で、答えに書いてはいけないNGワードがあって、それを使った受験生は打ち首になったり、試験資格停止になったりした。問題のあった試験会場の試験官も罰せられた
・試験に受かるかどうかで人生が左右され、受かれば郷里へはパレードで凱旋だったが、落ちればうちに帰る金もなく、落ちぶれた日々を過ごさなければならかなった
・3階層の試験全てにトップ合格した人は三元と呼ばれ、科挙の長い歴史でも十数人しかいなくて、とても稀なことからマージャンの大三元の由来となった
・文官試験と同じく武官試験も整備されたが、受験してきたカンフーマスターたちの多くは字が読めなかったので、実技はできても筆記試験が機能せずに廃れていった
・唐や宋の時代には作詩がテスト科目に入っていたのでみんな詩の勉強をして、その頃に偉大な詩人が多く輩出されたが、元以降には科目から外されたためにその後はさっぱり偉大な詩人が現れなかった
・医療は科挙の初期の頃は、試験に関わらず志される職業だったが、後期は試験でダメだった人が志す職業になった
・工業や商業は卑しいものの仕事だとされたために、長い間停滞した(紙の発明や医療技術などの中国の優れた発明はみんな科挙以前)
・西洋の物語のヒーローは、騎士や戦士などのアクションヒーローが主流だが、中国のヒーローは科挙試験の優等生
・明や清の時代の小説家(三国志、水滸伝、西遊記などの作者)たちは試験でうまく行かなかった人たち
・厳しい対策にもかかわらず、収賄やカンニングが横行してさまざまな事件が起きた
・模範エッセイを小さな字で書き込んだシャツや豆本を作るカンニンググッズの専門会社が繁栄した
・途中で受験をあきらめて地方で家庭教師をやったり、下級官吏で雇ってもらったりする人もいたが、何十年も試験を受け続ける人もいて、「プロ受験生」化したり、受験勉強だけで人生を送る多年浪人生は社会のパラサイト化していた
・科挙試験のおかげで、教育を重んじる文化が形成されたが、試験の準備=教育だった
・科挙試験の文化は現代のテスト社会に色濃く残っており、過度な受験戦争の弊害が続いている
など、面白いエピソード盛りだくさんで話してくれた。講義を受けているのはみんな大学院の博士課程も後半の人たちなので、Dr. Suenも大学院の試験制度と科挙試験の共通点を引き合いに出しながら、笑いを取っていた。
もし自分が科挙の時代に生まれていれば、受験もほどほどに、何か適当に金になることをやって過ごしていたかもしれない。自分はテストでうまくやるスキルはあまり高くないし、テストのための勉強は好きな科目でも苦痛でしょうがないので、これで人生の評価が決まる社会では自分はちと厳しい。何の因果か、やむなく科挙試験みたいなのをあくせく受験していたりするわけだが、もうこれ以上は勘弁である。
講義を聞いていて、テストというのは教育のためではなくて、時の権力を維持するための機能としての意味の方が強いのだなと考えさせられた。中世の日本では中国の文化は何でもCoolなもので、制度や文化と共にこの試験制度も日本に持ち込まれたが、世襲制度が強かったために形骸化して、テストでがんばっても意味ないジャンということですぐに廃れていったそうだ。テストでがんばりさえすれば社会階層をのし上がれるというメリットはあっても、テストですべてが縛られた社会というのは生きづらい。しかも昔も今も同じく、やはり裕福な家の方が有利なのは変わらず、建前で言われているほどには実際には可能性は高くない。そして今の日本は、「いい大学にいけば、人生の成功をつかめる」という幻想も崩れてきており、テスト中心の教育システム自体が機能しなくなっている。しかしその教育システムは、テストで成功した人々が支えており、その人々はそのシステムを維持する方向にしか進めない。今さら自己否定につながることはできないし、基本的には自分がうまくやれる今のシステムが好きだから変えたくないのだと思う。
Dr. Suenは香港人で、テスト理論研究の分野では優れた実績をもつ研究者だ。アメリカのNo Child Left Behind政策の影響でのアメリカのテスト社会化傾向を危惧して、これまでに進めてきた中国の科挙試験の歴史研究を本にまとめて出版するそうだ。その研究からの今回の講義のポイントは、テストが社会にどのような影響を与えるかということを歴史的に考察することだった。そのための題材を提供してくれつつ、聞きながら大いに楽しんだ。彼のような仕事が学者としての優れた仕事だなと思う。学問をエンターテイメントにもでき、社会問題解決への拠りどころにもできる。そう考えると、自分は研究者たりえても、勉強嫌いが災いして、学者としては厳しいなと思う。まあ、外の世界の人々からすれば、学者も研究者も同じなんだろうけど。