今週から新学期が始まった。気温が穏やかで、ゴルフでもできそうな気候なのだが、修了試験が2週間後なので、ひたすら準備で読書と資料作成に追われている。試験は、まず二日間の筆記試験で、一科目4時間で4科目、試験の日は朝8時から夕方5時までラボのマシンに向かう。科目は学習理論、インストラクショナルデザイン、リサーチデザイン、システム&チェンジの4つである。それにもう一つ、副専攻の課題が出される。筆記試験の二週間後に口頭試験があり、4科目の回答と副専攻の課題で書いた内容についての質疑応答がある。
今までに授業の課題で出された文献を読み直していると、前に読んだときにはさっぱり理解できなかったものが理解できるようになっていたりする。予備知識もなくいきなり一回読んだくらいではものになってないんだなと思うと同時に、これがわかってなかったとしたら、当時は何をわかった気になっていたんだろうかとやや情けない気がしてくる。試験勉強は苦手だが、これまで3年半で学んだことを復習する機会としてはありがたい。
ここ数日は学習科学の文献を中心にカバーしている。EduTechマガジンで、学習科学とISDの共通点と違いについて、両分野を代表する研究者たちが議論するという特集がちょうどいいネタになりそうだったのでカバーした。それぞれの立場から、学習科学はこういう特徴があって、ISDはこんなところが違う、というのをそれぞれに指摘し合っている。その中で、インディアナ大のBarabとかDuffyのようにISDプログラムがあるところにわざわざ学習科学プログラムを作っている人たちは「ISDはこういうところが弱いけど、そこは学習科学はこんなにすごいんだぞ」という主張をする傾向があって、それをISD側の代表エディターCarr-Chellmanが「そんなことはISDでもカバーしてきているので、イシューではない」と釘を刺していたり、逆にインストラクショナルシステムズプログラムの一員になったHoadleyやSmithのような学習科学者たちは、「違いはあるし今まで不思議と接点がなかったけど、どっちがすごいとかいう話ではなくて、これからはもっとコラボレーションしないと」という主張をしているところは面白い。違いを示すことで自分達の存在意義を示そうとがんばる人もいれば、細かいことはこだわらずにうまくやっていこうという人もいれば、自分達の領域にあまりよく知らない人たちがいるのに気づいて、居心地が悪いので相手を自分の中でどこかに位置づけたいという感じの人もいて、この辺は純粋に学問領域の話をしているというよりは、研究者同士の政治的な状況とか、研究者自身のアイデンティティの問題が反映されているようである。
学習科学とISDには、お互いの出所とフォーカスと研究アプローチの違いが若干あるにしても、それらは別に相容れないものではない。この特集で示されているメッセージは、よりよい学習環境を作るという点で目指すところは一致しているのだし、今後はもっとお互いの領域でうまく協力していきましょう、というところで、それは全くその通りだと思う。領域の中にいると違う気がしても、外から見ればそんな違いは違いとして認識できない。言ってみれば県民性の違いを云々しているようなもので、千葉県人と埼玉県人はこんなに違うと言っても、九州人にはそんなものはよくわからないし、関西人と関東人の違いだって、アメリカ人からすれば同じ日本人にしか見えないわけで、所詮はその程度の違いである。
行動主義と構成主義の間や、実証主義者と質的研究者の間でも論争が起こってきたが、それらもつまるところは研究者の政治とアイデンティティと個人のメンツの問題で、議論の中心にあまり柔軟でない人や強硬に自分達の存在意義をアピールし続ける人がいることでこじれているだけのことである。アカデミズムのディベートはちょっと見るには面白いけれども、メンツをかけてやる人たちがいるから話がめんどくさくなる。ディベートで論点が明確になったらあとはパーソナルに取らずに、感情的にもならずに、いいところはお互い取り入れつつ、仲良くやっていきましょうよ、というところで。
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アイトーイ・キネティック
冬休みの運動不足解消にと思って買ってきたアイトーイ・キネティック、思った以上によくできていて、とても活躍している。アイトーイ・キネティックは、PS2用のカメラの前で身体を動かしてコントロールするタイプのゲームシリーズ「アイトーイ」を使った、エクササイズツールだ。他のアイトーイ製品と一緒にゲーム売り場で売っているが、ゲーム的な要素は限りなく薄めてあって、あくまでもマジメにエクササイズをやるためにデザインされているので、ゲームではなくエクササイズツールとでも呼んだ方がしっくりくる。
このツールのメイン機能であるパーソナルトレーナーを選択すると、年齢や普段の運動量などの簡単な質問に答えて、自分のプロファイルを作成する。トレーニングに進むと、ウォーミングアップに始まり、カーディオゾーン(ボクササイズ系の有酸素運動)、コンバットゾーン(やや激しめの打撃系運動)、マインド&ボディゾーン(ヨガと太極拳っぽいバランス運動)のそれぞれの用途でデザインされたミニゲームが日替わりで提供される。最初の週は二つでだんだん増えて行って、最終12週目には4、5つのゲームが課される。ミニゲームの後はトーニングゾーン(筋トレ系とヨガ・太極拳系)の運動、最後にストレッチ、という流れの個人メニューが12週分作成される。毎回アクセスするたびに個人トレーナーが現れて、今日はこれこれをやりましょう、と指示をもらいながら、流れに沿ってエクササイズができる構成になっている。
デザインがいろんな面から見てとても優れていて、この手の独習教材としての完成度は群を抜いているんじゃないかと思う。まず、「ゲーム機を使って運動する」という、何となくイケてない印象を払拭するために、徹底したスタイリッシュ路線でデザインされている。ナイキブランド、本格的なフィットネスメニュー、フィットネスジムっぽいグラフィックデザインを駆使していて、ゲームというよりは、インタラクティブなフィットネスビデオ教材に仕上がっている。マーケティングをきっちりやって、ターゲットとなるユーザー層を明確に捉えていることがうかがえる。
個人的には、淡々としたペースなのがとても気に入っている。この手のフィットネス教材にありがちな、過度なハイテンションさがない。ひたすらブリティッシュアクセントの女性トレーナー(男性トレーナーも選べる)が落ち着いたトーンでフィードバックしてくれるので、うるさくなくてちょうどいい感じでトレーニングできる(個人的にブリティッシュアクセントで話す女性に弱いのも好感度に若干影響してる気もするが)。
プレイするゲーム自体は、アイトーイ・プレイのゲームと基本的には大差ないのだが、ゲーム技術を使ったインタラクティブ教材のようになっていて、デザイン次第でプレイ感がまるで変わることが実感できる。また、インストラクターのデモ部分は、この部分だけ見るとビデオやDVDの教材みたいなのだが、ゲームのインタラクション、カメラで自分の姿を見ながら調整できること、それにトレーニングの履歴に応じてメニュー内容やレベルの調整がされること、それらの組み合わせのバランスの良さによって、ビデオ教材以上の付加価値を生み出している。
このアイトーイ・キネティックが向いている人は、独習OKな人。たとえば、フィットネスクラブ行って下手なインストラクターや周りに合わせたりするくらいなら、独りでやるわ、という人。あるいは、あまり運動してるところを人に見られたくなくてこっそりやりたい人。逆に、エクササイズに人との交流やコミュニティを求める人、フィットネスは仲間と一緒でなくちゃ、という人には向いていない。あと、ある程度のスペースが必要なので、テレビの前にすぐソファがあったりベットがあったりする部屋では物理的にプレイできないのが難点。広いリビングでプレイするか、これをプレイするために部屋のレイアウト変更が可能な人でないと使えない。ちなみにうちはベッドルームに設置してあって狭いのだが、少しレイアウトを変更することでかろうじて最低限のスペースが確保できた。
そういう向き不向きや物理的制約はあるが、指示に沿ってエクササイズすれば、ペースが保てるし、やってることは本格的なので効果は高い。飽きっぽい性格な自分がいいペースで続けられている。最初はあちこち痛くなって仕方なかったが、今では鈍りのとれた筋肉が身体をサポートする心地よい感じを得られるくらいにエクササイズできているので、このためにPS2買ってもいいくらいお勧め。それにインストラクショナルメディアデザインのよい例でもあるので、マルチメディア教材の研究や開発をしている人は、デザインを見るためだけに試してみても損はない。
2006年を迎えて
新年明けましておめでとうございます。
旧年中にお世話になった皆さまへ心より御礼を申し上げつつ、2006年が皆さまにとってよい年であることを願っております。
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このブログを書き始めて3度目の新年を迎えた。こうして書き続けていくと、自分の成長や変化がわかって面白い。記憶というのは薄れて行ってしまうが、その時々に振り返って記したことは、その時の感覚のままに残っているので、読み返すことで良くも悪くもその時に考えたことや感じたことがかなりクリアによみがえってくる。その時の勢いや集中度によって創造力も高まっているようで、素の状態の自分ではとても考え付かないことを書いていたりする。年を追うごとにその質は上がっているように思える。かたや、その時はすごく入れ込んで書いたつもりのネタだったのに、今読むとすごくしょぼく感じるものもあったりする。そういう振り返りのための素材を提供してくれるという点でブログは自分にとって有効に機能している。では、今年もまずは昨年を振り返りつつ、今年の計画や目標などを記しておきたい。
アプレンティスの仕掛けの上手さ
ドナルド・トランプの弟子の座を競うリアリティショー「アプレンティス」(NBC)も先日4シーズン目が終わった。それに今シーズンは、監獄から出てきたばかりのマーサ・スチュワート版アプレンティスも初登場して、同じく成功裏に終了した。このアプレンティスは、数あるコンテスト形式のリアリティショーの中でも他にはない圧倒的な強さを持っている。それはこの番組自体が壮大な「インフォマーシャル」として機能していることで、スポンサーや仕掛ける側の満足度は、他の番組に比べて群を抜いて高いことが見てとれる。
番組のフォーマットは、挑戦者が二チームに分かれて毎週異なる課題に挑み、負けたチームのうちで敗因となったメンバーが一人ずつ脱落していって、最後に残った一人がドナルドやマーサに雇われる、というもので、この点はさほど他のコンテスト形式のリアリティショーと大差ない。大きく違うところは、挑戦者が取り組む課題の仕掛け方である。毎回、その週のメインスポンサーにちなんだ課題が課される。たとえば、大手電気スーパーのベストバイ店頭での新作ゲームのショーケース展示制作、ペプシの新製品ボトルのデザイン、M&Mの新発売チョコの街頭プロモーション、ピザハットの移動店舗営業、などである。また、非営利財団のチャリティオークション企画のようなものもあれば、トランプの新事業のプロモーションや、所有不動産のリノベーション、マーサの会社の出版企画のような自前企画も入ってくる。いずれの課題においても、番組中でそのスポンサー名や商品が露出し続け、CMも番組中で出てくる商品のCMを流すので、番組からの流れでCMへの視聴者の関心も高まる。このように他番組に比べて、広告への投資対効果の非常に高い番組となっている。なので、広告枠販売もやりやすいはずで、しかも番組内で使用するリソースもスポンサーから確保できる。
この広告効果を一番象徴的に現していたのが、マーサ版の最終回である。勝利した女性は、年収2000万円以上のエグゼクティブ待遇で雇われ、オファーされた仕事は、「ボディ&ソウル」というマーサの会社の健康系雑誌のビジネスである。この雑誌の露出はほんの数秒だったが、どんな広告媒体にコストをかけるよりもはるかに効果的な形でプロモーションすることに成功した。この雑誌の存在は全米に知れ渡り、アプレンティスで勝った彼女が手がけるということで、普段この雑誌を手にしない人も店頭で手にとって見させるだけのプレゼンスも得ることができた。ドナルドとマーサが喜々としてこの番組を引き受けているのは、自社と自身のプロモーションに大いに貢献しているためであることは間違いない。
単に面白おかしい番組を作るという発想ではこの番組のような仕掛けは作れない。プロデューサー、あるいは日本で言うところの放送作家たちの仕事の組み方が違う。スポンサーや関係者の満足度を高めつつ、視聴者をひきつける番組作りを行なう発想で企画している。単に人々を金で釣るのでなく、ドナルドやマーサを客寄せとして使うのでなく、過剰な演出に頼るのでなく、関わる人たちのお互いの利害の一致するところをうまく企画に落とし込んで番組化している。まさに、プロデューサーの仕事とはこういうものだ、というお手本を示しているような番組である。
「プロジェクト型学習」と「教育プロジェクト」
複数のメンバーでプロジェクトをやっていると、いろんなタイプの人がいることがわかる。計画立てて順序良くやりたがる人、先のことは考えずにとりあえずノリで前に進もうとする人、誰かが指示を与えてくれないと動けない人、人の意見に柔軟な人、自分の考えに沿わないものを受け入れるのが苦手な人などさまざまである。どういうタイプの人であっても、とりあえず重要なのは、問題に対応する力である。企業で求められる人材として、問題解決能力のある人、などがあげられるが、解決とはその環境になじんでいて経験も持っていないと困難なので、問題解決よりはむしろ、問題対応能力という方が適切なんではないかと思う。
では、問題に対応できることとはどういうことか考えてみると、何かをやろうとしていて、始めてみてぶつかるであろう問題点に事前に気づくこと、やっている途中で問題が生じた時に問題を解消あるいは軽減すべく方向修正することであったり、事後に活動を振り返って、問題があった点を次回は改善できるように処置できること、だいたいその3点に集約される。事前に問題点に気づく力は、斉藤孝の言うところの「段取り力」とも言い換えられる。さらに平たく言えば、「よく気の利く人」は事前、あるいは最中に問題点に気づく能力の高い人である。事後に振り返りのできる人はやや特性が異なるが、簡単に言えば、反省する態度と能力の高い人、というところだろう。
これらの能力は、いずれもフォーマルな学校教育のカリキュラムの中では扱われていない。生きる力だ問題解決能力だとセールストークとしては使われていても、実際のカリキュラムに落とし込んでしっかり実践できている例というのはほとんどない。問題解決型学習を取り入れたプログラムと言ってもたいていは、取ってつけたようなグループ学習であったり、部分的に実際の事例を使ってちょっとだけ演習しているようなものだったりする。
その程度の教育では問題対処できる人を育てることはできない。学校教育の中で対応できているものがあるとすれば、「ヒドゥンカリキュラム」として扱われている領域で、フォーマルな教育の枠外である。たとえば、指導教官が口やかましい人で、何か作業をするたびにあれこれ至らない点をガミガミ指摘されながら「オレって気が回んないんだな」と打ちひしがれつつも何とか認められるように努力する状況であったり、サークル活動や学園祭などでイベントを企画して、本物の聴衆や客を相手にしながら苦労する場面で鍛えられる。リーダーシップ教育とかコミュニケーションスキルトレーニングのクラス内で行なわれるロールプレイや演習には、そういったリアルの状況下にあるようなシリアスさに欠けるため、そうしたカリキュラム外のシリアスな活動の中での学習機会には到底及ばない。もちろん、対処のために役立つ知識は得られるので、何もやらないよりははるかにましである。ただし知識は得られても、その知識を実際の状況下で使いこなすための練習機会は少ない。しかしこの学習課題において一番重要なのはその練習である。
それゆえ、そうした問題対応能力に関わる教育を行なうには、どんな知識を教えるか、ということではなく、その学習者の問題意識にあった形でいかにシリアスな練習機会を提供するか、ということがデザインの肝になる。おそらく従来のクラスで完結する集合研修の枠組で考えていては不十分で、その枠組からは得られない機会を作っていく必要がある。よく用いられるのは、コンテスト形式で学習者同士を競争させるスタイルや、実際のクライアント向けに仕事をさせるスタイルなどがあるが、それらもマスメディアとタイアップして露出を高めたり、学校や会社で参加するコンペと連動させたりすることで効果を高めることができる。そうなってくるとすでに学校単体、企業の教育部門だけで片付く話ではなくなり、他の関係機関も巻き込んだものになる。そうなると面倒くさい。しかしその面倒くささがよいのであって、学習者個人だけではなく、その組織への刺激にもなり、一石数鳥のプロジェクトとなる。
書いているうちに、だんだん問題対応能力だけの話ではなくなってきたが(Xマスパーティで大酒飲んだ後なので勘弁)、本当に実践に即した能力を学ぶ環境を提供したいと思ったら、標準カリキュラムや、一クラス、一講師だけで完結する教育という制約から離れて、学習目標に対して、一番必要な学習機会は何かを考えて、それに必要なものはどんどん取り入れるつもりで考えることだ。教育プログラム、というよりはむしろ、教育プロジェクトという方がしっくり来るかもしれない。教育の質を劇的に高めようと思ったら、教育・研修の枠組で行なうプロジェクト型学習ではなく、本物のプロジェクトをやる中で派生的に教育も行なえるプロジェクトを企画して主導していく方向で考えることが一番のショートカットになる。これは間違いない。
ギターヒーロー続報
難しくて挫折気味だったギターヒーローもちょっとずつやっていたら少し上達の兆しが見えてきた。プリングオフや中指と小指のコード押さえがもともと弱かったのだが、ハードレベルからそういう曲が増えてきたので行き詰まっていた。それでも粘って繰り返しやっていたら指が動くようになってきた。まだ完璧ではないけれども何とか完奏までたどり着くことができるようになってきた。
中級レベルの学習支援が導入に比べてよくデザインされてないとは前のエントリーで書いたけど、それでも徐々に難易度をあげるバランス調整は非常によく考えられている。前の曲で習得したことが次の曲で役に立つようになっている。途中でやや楽めな曲が入ってモチベーション維持にもつながっている。何よりも、苦手部分を短時間に反復練習できる独習教材としての完成度はとても高い。
ゲームは簡単にクリアしてもらっては困るという発想が前提にあるため、ゲームを楽しむのに必要なこと以上の学習支援的な機能は、おそらくゲームデザインの発想からは出てこない。苦手なところだけ切り出して練習できる機能のようなものは、なるべく長く遊んでもらうことが重要な世界観では余計なことでしかない。シリアスゲームのデザイン発想では、そこをもう一歩踏み込んで、長く遊んでもらうことよりも技術習得や学習を優先して考えてデザインすることになる。早く上級レベルに達するようになる分は、そのレベルで楽しめるテーマを提供する方向で陳腐化を防ぐことになるだろう。それはまだ誰もやってない領域なので、まだ理論的な方向性でしかない。
教育分野で作られるものがまるで実用レベルに耐えないものしか出てこない中で、ゲームの世界では具体的な形になり、普及品として提供されている。そうした技術として完成しているものを、少しデザインの発想を変えるだけで教育的効果の高い製品ができるのは間違いない。そうすることで、教育分野だけでこのままがんばっているよりも教育技術の進展は格段に早まる。これもシリアスゲームの重要な意義の一つである。
大学人の時間感覚
今週は学期末の最後の週で、みんなテストやらペーパーやらに追われている。ルームメイトも朝から晩まで青白い顔をしてペーパー書きをしていて、キッチンで会ったりすると「お前は元気そうだな」と声をかけられる。私自身も通常並に課題を抱えているのだが、やる気が出ないのと、段取り的にはある程度目算が立っているので、そんなにあせらなくてもいいので気楽にやっているのが顔に出ているのだろう。気楽にやった挙句にまた少し〆切に間に合わなかったりするのだが、もうそれも慣れたものだ。忙しいことは忙しいのだが、うまい飯を作ってテレビ見ながら食べ、研究に使う予定のMMOGのキャラ育成もやっていられるので、どうしようもなく追われているということではない。仕事の質が高まったのではなく、手を抜く技術が高まっただけのことである。
ふと考えてみて、思い当たる大学教員で〆切に忠実で、予定の時間をちゃんと守る人というのは、日米いずれもほとんど思い当たらない。みんな一杯一杯に仕事を詰め込んでいて、〆切間際にえいやっと片付ける。そして〆切にちょっと遅れる。約束の時間も努力目標時間でしかない。大容量ファイルを大急ぎで送信できるブロードバンドの普及と、予定に遅れても連絡のできる携帯電話の恩恵を大いに受けている人たちだ。そして、学生や一緒に仕事する人たちから「○○(名前が入る)ルール」とか「○○時間」とか皮肉られながらも、そのオリジナリティや仕事の質の高さのおかげで許されている人々である。
日本でもアメリカでも、なんで大学人というのはみんなああなんだろうと思っていたが、みんなこういう環境下でその習慣を培っていくのだな、と自分で経験してみてようやく合点がいった。そんなことでいいのだろうか。でももうほとんどその過程を終えて、すっかり行動変容してしまった気もする。会社員とか役人とか、そういうまっとうな職に就くのはもう無理な身体にカスタマイズされてしまった。大学院、特に博士課程とはそういう人間を育てるところなのだろう。
ボストン・リーガル
今日は大雪で仕事を切りあげて早く帰ってきて、少し予定外に時間ができたので、しばらく書いてなかったテレビネタをまとめて。
今定期的に観てるのは、弁護士ドラマ「プラクティス」の続編の「ボストンリーガル」(ABC)、マーサ・スチュワート版「アプレンティス」、元祖ドナルド・トランプ版の「アプレンティス」、フレンズのジョーイがスピンオフした「ジョーイ」、次期大統領戦で盛り上がる「ウェストウィング(ザ・ホワイトハウス)」(以上、NBC)といったところ。あとこの間第一シーズンが終わった刑務所脱走もの「プリズンブレーク」(FOX)も観てた。
当初「ボストンリーガル」は、前シリーズ「プラクティス」の番外編的な雰囲気で始まったが、今は完全に独自のカラーが定着した感じ。「プラクティス」の頃は弱小弁護士事務所を舞台に、アメリカの法廷の矛盾や葛藤をシリアス路線で描いていて、そんなに派手でない俳優たちがいい味を出しているのが売りだった。一方の「ボストンリーガル」では、前シリーズの後半に出てきたジェームズ・スペイダーが事務所をクビになって就職した大手弁護士事務所に舞台を移し、アメリカの政治システムや社会システムの問題点を軽妙なタッチで皮肉を込めて描いている。
ジェームズ・スペイダーと、彼の働くファームのシニアパートナー役のウィリアム・シャトナーの絡みが出色で、中高年の男同士の友情もストーリーのフックとなるテーマとして扱われている。出てくる俳優はみんな花があり、コメディタッチで展開するので全体的に華やかである。スペイダーとシャトナーのゆかいなやり取りをシチュエーションコメディを観るように楽しみながら、しかも法廷ものの醍醐味である法廷シーンも毎回きっちりおさえてあるシナリオと演出はさすがといったところで、作品のでき自体すでに前シリーズを凌いでいると思う。
「プラクティス」でもタバコ訴訟など社会問題が扱われていたが、今回もイラク戦争や宗教、銃規制、弁護士の倫理問題などをメッセージとして送り続けている。小ファームから大ファームに舞台を移すことで扱う案件が大きくなって、扱うテーマも変わるというのはうまい移行の仕方だと思った。いい作り手というのは、作ってるうちに次のテーマを見つけて、今の作品をフェードアウトさせながらうまく次の作品に展開させることができるんだなと感心させられる。そのおかげで、前のファンもうまく引っ張ってこれるので、余計なマーケティングの手間がいらない。アメリカのテレビ業界の持つノウハウの高さを示す一例である。
「ウェストウィング」についても書こうと思ったけど、長くなったのでまた次回。いずれもおすすめ。
やっぱり時差ぼけ
木曜の夜に大雪が降って、ステートカレッジはすっかり冬景色になった。今期の授業も終わり、期末の課題もほぼ終盤に差し掛かってきて、だいぶ気が抜けてきた。気が抜けてきたら時差ぼけが出てきた。日本から戻ってきての数日は、朝っぱらから予定が入っていたので、時差ぼけしてる場合じゃないと気合で乗り切ったけど、翌朝に予定が入ってない日は明け方まで起きてて昼過ぎまで寝てるような状態になってしまった。お母の勧めで摂りはじめたサプリメントが効いてるのか、起きてる間は無駄に元気なんだけど、寝ないで時差調整しようと思ったら明け方になると異様に眠くなり、つい倒れこんで起きると昼、みたいな週末を過ごしている。時差ぼけは気合で乗り切れるけど、その気合が抜けるとだめなんだなぁと自覚させられる。日々無理やりモチベーションを高めて仕事していると、その反動で余裕のある日は果てしなくメンドクサイ病状態になり、何かを始めるのがおそろしく面倒になる。いったん始めてしまえばザクザクと片付けられるので、始めからさっさとやればいいのだけど、なかなかそうも行かない。一流の仕事人になるためには超えないといけないけども、自分にはどうしても超えられない壁がそこにあるという感じである。
ギターヒーローのつづき
ギターヒーロー、引き続き楽しんでおります。
最近、ドライブ中に聴くFMラジオで、ギターヒーロー収録曲がよくかかるのを耳にする。特にジューダスプリーストの「You’ve got another thing comin」とメガデスの「Symphony of destruction」。みんなこれで遊んで、聴きたくなってるんだなあと、ついニヤニヤしてしまう。このゲーム、マーケティング的に非常に有効だと思うので、もっと積極的にタイアップとかするといいと思う。ゲーム用のよく知らないオリジナル曲をやるよりも、自分の好きな曲をプレイできた方が楽しさ倍増だし、これでプレイしたせいで聴いてみたくなる曲も確実に出てくる。昔のヒット曲のリバイバルと、新人の売り出しとを組み合わせたりして、意図的にマーケティングツールとして使うとかなり使えると思う。カラオケレボリューションみたいな売り方でいけば、コンスタントに数字を出せるソフトになるし、各国の人気曲を使ったバージョンを国ごとにリリースして世界的に横展開すれば、世界制覇も夢ではない。単純な話、CD屋やiTunesのようなダウンロード販売で、ギターヒーロー収録バンドのコーナーを作ったりして、軽くキャンペーンを組むだけで売上アップに貢献するのは間違いない。
さて、ゲームプレイの方は、ハードレベルの最後の曲、オジーの「Bark at the moon」のソロが難しすぎて次に進めず。ハードレベルはソロがタフすぎ。ソロのところだけ練習したいんだけど、始めから全曲通しでプレイしないといけないので、そこがちょっと面倒で最近挫折気味。やっぱりちゃんとできるようになるには練習が必要だが、その際に、ゲームの作り次第で練習のしやすさはかなり改善できる。このゲームに限らず最近のゲームは、導入部のチュートリアルはすごくよくできているのだけど、途中の上達をサポートするという発想があまりなくて、途中の難易度バランスが粗くなるのが気になる。その辺はゲームデザインの発想のフォーカスの違いや、ノウハウの強みと弱みの部分なのだろうと思う。