東京大学大学院 BEAT講座(ベネッセ先端教育技術学講座)からのお招きで、下記の8月5日(土)開催の公開研究会で講演します。
企画された東京大学の中原さんは、日頃からブログなどでその偉才ぶりを拝見していますが、この企画のアレンジには、さらに彼のただ者でなさを感じました。これからそのプロデュース手腕で、教育学界の大物興行師として名を馳せ、さらにはその研究業績によって、教育学史に名を残す人物となることでしょう。
今回は、喜んで中原さんのコーディネーションのまな板の上に乗って、良い議論の場となるような素材を提供したいと思います。シリアスゲームについて教育関係の方々と議論できるのを、とても楽しみにしています。
「応募殺到」とのことですので、参加ご希望の方は、下記BEAT講座 Webサイトにて、お早めにお申込ください。
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東京大学大学院 BEAT講座 8月公開研究会
「ゲーム・ルネッサンス:いつか来た道、これからの道」
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8月のBEAT公開研究会は、
「ゲーム・ルネッサンス:いつか来た道、これからの道」
というテーマで開催します。
「ゲームを教育現場に利用しよう」というアイデアが
近年注目されています。教育業界では、古くは「エデュ
テインメント」、さらには「Constructionisim in play」
など、様々な関連概念が、これまで主張されてきました。
最近は、シリアスゲームという概念で、様々な教育用
ゲームが開発されています。
シリアスゲームは、これまでのゲームとは何が違うのか。
そして、そこにはどのような可能性が開けているのか。
「流行としてのゲーム」に流されず、その本質を見極め
る「慎重さ」と、それでいて、よいところは教育に積極的
に活かす「貪欲さ」をあわせもつことが重要かもしれません。
今回の公開研究会のテーマでは、
1)シリアスゲームの現状と課題
2)ゲームの教育利用事例
などを扱いたいと思います。
どうぞふるって、ご参加下さい。
企画担当:中原 淳
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■日時
2006年8月5日(土曜日)
午後2時より午後5時まで
■場所
東京大学 本郷キャンパス 工学部2号館北館 93-B教室
http://www.beatiii.jp/images/sem23-map.gif
■定員
70名
(最近、BEATの公開研究会は〆切前に募集停止に
なることが多くなっています。くれぐれも、お
早めにお申し込みください。なお、キャンセル
の場合は、お手数でもsato@beatiii.jpまでメール
をいただければ幸いです。一人でも多くの方に
席をお譲りしたいと思っています)
■参加方法
参加希望の方は、BEAT Webサイト
http://www.beatiii.jp/seminar/ にて、ご登録をお願いいたします。
■参加費
無料
■内容
●「シリアスゲーム、現状と課題」
藤本 徹氏
ペンシルバニア州立大学博士課程
「シリアスゲームジャパン」コーディネーター
https://anotherway.jp/seriousgamesjapan/
●タラレバeラーニング
シミュレーション型ゲーム教材の事例紹介
(学)産業能率大学 総合研究所
e-Learning開発センター 古賀暁彦氏
●ディスカッション
ディスカッサント
▽藤本 徹氏
ペンシルバニア州立大学博士課程
▽古賀暁彦氏
(学)産業能率大学 総合研究所
e-Learning開発センター
▽弦川直樹氏
株式会社SGラボ
ジェネラルマネージャ
コーディネータ
▽中原 淳
東京大学 大学総合教育研究センター 助教授
アイトーイ・キネティック 6ヶ月経過
昨年12月から続けていた「EyeToy:Kinetic」の12週間の個人メニューの2クール目を終えた。これで半年間続けたことになる。(なお、始めた時はこんなことを書いていて、3ヶ月経過した時にはこんなことを書いている。)
運動の習慣化は大いに成功していて、全く運動せずにいると居心地が悪く感じるようになった。体重は2キロダウンした状態でほぼ安定して、2年前の水準に戻った。身体の調子は良い状態で保たれていて、不健康になりがちな生活の中で、かろうじて健康な状態を保つことに貢献してくれている。
ただ、ゲームパターンが変わらないので、さすがに飽きてきた。さらに難しいレベルができたり、違ったゲームが入ったバージョンがぜひほしいところである。この手のゲームソフト形式の製品は、一度出してよほど大ヒットしないと次が出てこない。この製品がどれだけ売れたのか手元にデータがないのだが、私のようにずっと利用しているユーザーはロイヤルカスタマー化していて、次に何が出ても買う勢いのはずなので、次が出ないのは惜しい。
次は、Xavix のジャッキーチェンとトレーニングするゲームでも買おうかなと思いつつ、それまではもうしばらく続けてみようと思う。
批判のレトリック
DIS 2006の3日目の、デザインメソッド教授法のセッションで、「問題提起の仕方」について、いろいろと考えさせられたので、あらためてもう少し考察しておこうと思う。
この発表の最後に示された「サイエンス」VS「デザイン」のコンセプトの違いを対比した表において、「サイエンス」の定義は、ポパーやクーンの示す科学観の影響を受けたサイエンスのことではなく、デカルトやニュートンなどの流れにある合理主義的、実証主義的なモダンサイエンスの考え方を示していた。一方のデザインの方は、モダンサイエンスに対応したモダンなデザインアプローチではなく、むしろその後にくるポストモダンなデザインアプローチを示していた。サイエンスとデザインの発想の一番違うところをわかりやすく対比させ、サイエンス的な発想に縛らないデザインのマインドセットを教育していく必要がある、という問題提起を発表者は意図していたようである。
だが、オーディエンスの反応は、サイエンスの定義の仕方に問題がある、という反論が中心で、発表者の意図には沿わない議論の流れになった。サイエンスの側のスタンスに立つ人たちにすれば、批判されたと感じたのかもしれないし、サイエンスの進化の部分を認識している人たちは、過去のサイエンス観についてとやかく言っても仕方がないと感じたのかもしれない。そのような反論が出ていた。
こうした主義主張や、支持するパラダイムの異なる立場同士の議論は、今まで学んできたことの中で何度も目にしてきた。「行動主義」と「構成主義」、「ハードシステム」と「ソフトシステム」、「インストラクショナルシステムデザイン」と「ラーニングサイエンス」など(おそらく「エデュテインメント」と「シリアスゲーム」も)、新旧のパラダイムやアプローチに関する論争の構造は共通している。自らの優位性や存在意義を示すために、双方の一番違いの大きい部分を対比させた形で、相手側のあり方を批判する。双方の境界線に近い部分は重なっており、共通点も多いにも関わらず、論争の中ではその共通部分にはあまり触れられない。批判の形を取った方が、論点を明確化でき、自分側のよさを示しやすいからである。
しかし、批判の形を取ると、意図していない部分まで批判として受け取られることもあるし、果ては個人攻撃されたと受け取られる事態も生じる。共通点が多いと考えられる人たちにも批判と取られ、「あちら側」と「こちら側」に分かれた論争は、果てしなく続く。そうなると、同じ方向に向かってお互いがよいところを認め合う、という流れにはなりにくい。これはディベートというスタイルの大きな問題点である。
このブログでも、これまでにインストラクショナルデザインや、eラーニング、学校システム、などに対し、さまざまな批判的意見を書いてきた。つい一昨日にも、「教育工学研究のデザインへの意識の低さ」という点を批判した。これらの多くは、批判という形をとった「問題提起」である。時に意図的に批判することもあるが、それでも批判のための批判や、特定の学校や個人への批判をしているわけではない。
しかし、その批判がいかに愛情に基づいていようと、熱意に基づいていようと、その批判の対象になっていると感じる人からは、単に攻撃されたと受け取られる可能性は高い。また、批判の周辺にいる人たちの中にも、面白くない思いをする人が出ることにつながりかねない。
逆に、その対象に対して日頃から不満を感じている人たちにすれば、「いいぞー、もっとやれー」と溜飲を下げるかもしれない。だが、こちらはそういうことも意図していない。直接コメントを寄せてくださる人たちは、多分に肯定的、あるいは中立的に問題提起として捉えてくださっているようだが、その一方で、こちらのうかがい知れないところで、ムカムカしている人の輪ができていることは十分に有り得る。
つまり、批判の形を取った時点で、問題提起という意図は伝わらない上に、意図せぬ論争を巻き起こしてしまう可能性が高くなる。今回の「サイエンス」と「デザイン」の話や、多くの新旧のパラダイム論争はそうしたところが共通している。お互いに自分の属する分野のためにやっている場合もあれば、意図的に嫌いな人が提唱するものを攻撃している場合もあるだろう。いずれにしても、論争という形になってしまうと、共通点や調和を見出すよりは、自らの主張を際立たせるための「批判のレトリック」に磨きをかける方向でエネルギーが使われるようになる。
たとえば、自分の書いた文章を例にすると、前のエントリーで、「デザインの質への関心も高まっているとはいえ、いまだに悪しき科学信仰が根強く、デザインへの意識は低い。」と書いた。この「いまだに悪しき科学信仰が根強く」という表現は、本来の問題提起の趣旨とは関係ない、単なる批判のレトリックである。関係ないのに、なぜそういうものが入ってくるかというと、これを書いている瞬間は、この部分に込められた批判を際立たせて、この文章のキレを増すことに集中しているからである。そうして生み出された批判のレトリックが、建設的な議論を意図した全体の流れを壊し、単に論争の燃料を投下することになってしまう。
ここでのもう一つの重要な問題点として、同じ言葉に対する捉え方の違いから、意図は正しく伝わらない、ということがある。たとえば、「教育工学研究のデザインへの意識の低さは問題である」という指摘をした時、「デザインか、よしわかった。じゃあ見栄えが大事ということですね。」と捉えられても、「見栄えなんか気にしてもしょうがないんだよ」と捉えられても、こちらの意図するところは伝わっていない。
「機能性のデザイン」や「操作性のデザイン」「ユーザー経験のデザイン」という教育工学には重要なデザイン要素が考慮されていない、ということを暗黙裡に意図していたとしても、デザインという言葉にそうした意味を共有していない人には、最も一般的な「見栄えのデザイン」という点に矮小化されてしまいかねない。デザインという言葉を無造作に使えば、デザインへの意識の低い人はそうした多様なデザイン要素を想像できるはずもないので、指摘している点は肝心の人たちには伝わらず、自己満足に終わってしまう。
批判のスタイルを取ることは、主張に力を増すが、正しく伝わらないということを今回の学会のやり取りを見て、これまでに見てきたパラダイム論争を思い起こすに至って理解できた。私は自分の存在を示すための「批判のための批判」をするつもりはないし、特定の組織や個人に向けた攻撃をするつもりもない。もしこれまでに書いたことがそういう反応を呼んでいるのであれば、それは残念なことであるし、書き手としての力不足である。
では、どうするか。一つの方法として、批判のレトリックに陥らないようにすることは、比較的すぐに実行できる。先ほどの例を使えば、「デザインの質への関心も高まっているとはいえ、いまだに悪しき科学信仰が根強く、デザインへの意識は低い。」という文章は、「教育工学分野の研究は、以前はデザインへの意識が低かったものの、デザインベースドリサーチなどが認知されるにつれて、その意識は高まりつつある」という書き方に変えることができる。「肯定-否定」を「否定-肯定」に変えて、同じ内容を書く、というだけのことである。簡単な例にすると、「あの人はイイ人なんだけど・・・なんだよね」と言うのと「あの人は・・・なんだけど、いい人だよ」と言うのでは、印象が全く変わることがよくわかると思う。
なので今後は、「ほんとうに批判したい時以外は、批判の形を取らない」ということを、書き手としての個人的な原則として持っておこうと思う。
DIS 2006 Day 3
「Designing Interactive Systems 2006」の最終日。学会に出ると、学者仕様でない私の頭は、いつも3日目くらいで情報量が満タンになってしまって、だんだん頭に入らなくなってくる。それでも面白いところをがんばって吸収してきた。
ユビキタスコンピューティングのデザインツールに関する研究や、社会性を伴うインターフェースのデザイン、デザイナー教育におけるデザインメソッド教授法など、今日も実践例やデザイン理論の研究などの発表が行なわれた。
特に、デザインメソッド教授法のセッションは会場での議論を呼んでいた。デザイナー教育で教えられるデザインのアプローチや方法はさまざまあるが、現場のデザイナーはどれか一つだけを使っているのではなく、目的に合わせて自分の知識の中にある方法を使い分けている。なのでそうしたマインドセットを習得させるためには、教育段階からいろんな方法を使い分ける練習をさせることが有効だ、といった趣旨の発表だった。
発表者からは、「科学的アプローチ」と「デザインアプローチ」のコンセプトの違いを対比した表が示され、科学の発想に縛られてデザインの質を損なうべきではないという意見が示された。この点に対して、会場からの質問が集中し、議論となった。肝心の教授法のところよりも、科学を狭く定義しすぎているとか、昔はそうだったが、最近はそうでもないとか、科学的アプローチのよさも見落としてはならない、といった形の反論が質問者によって出されていた。
この学会に参加して得た収穫は、デザインづくしで、デザインの対象、アプローチ、方法、コンセプト、などに関する理解が深まったということだ。質的研究の取り組み方についても、もいいお手本が幾つもあった。研究について近い関心を持って話のできる人たちとも知り合うことができた。最近、博士論文の研究が予定通りに終わらせられる気がだんだんしなくなってきていたのだが、この学会に出たおかげで、予定通りに終わらせる意欲とアイデアがわいた。データだけ集めて面倒になって止まっていた小プロジェクトについても、論文を書く気になった。うちの中にこもって作業するだけでなく、外に出ていい刺激を受ける方が生産性が高いことをあらためて認識できた。
DIS2006 Day2
「Designing Interactive Systems2006」の二日目。今日も終日、ひたすらデザイン、デザイン。
ipodのシャッフル機能に対するユーザーの反応に関する調査をして、「ランダム性をデザイン資源として活かせる」というまとめ方をした発表や、テトリスの名人の操作時の動きの研究からだんだん深めていって、「インタラクションデザインにおいて身体をどう捉えるか」という展開をさせた発表など、テーマを見つけるときの発想自体からして違う。おしなべて、デザインの質についての意識も高い。実証研究の結果を説明する際にも、デザインの質をどう解釈しているかという言及がなされる。
かたや教育工学分野の実証研究は、デザインの質に対する感度の鈍い研究が多い。リサーチデザインは型どおりのことをやっているからOKだとしても、その変数を具現化した教材のデザインがお粗末で、「実験の結果、独立変数AとBは統計的に云々」という結論を示されても、その教材の質が低いからそういう結果なんじゃない?と言いたくなるような研究がよく目に付く。
デザインベースドリサーチのようなアプローチが認められてきたおかげでデザインの質への関心も高まっているとはいえ、いまだに悪しき科学信仰が根強く、デザインへの意識は低い。統計的有為を示すために研究対象を小さく区切って、現実の文脈とは関係なく抽出された変数を比較する世界では、リサーチデザインの質が関心事で、試している教材のデザインの質は二の次にされている。たとえば、オンライン教材にアニメーションを使うと、学習効果を高めるか、という問いは意味がないのに、そのような問いを立てて行なわれる研究はいまだに多い。アニメーションの質が低かったり、使う場所がおかしければ、学習効果は高まりようもない。
そういうことがずっと気になっていたのだが、一歩外に出てみれば、ちゃんとデザインの質を考えて研究しているたちがいるということを知って、心強く感じた。HCIの研究者には、アート系の人も多いことに起因するのだろう。いいものにたくさん触れて、力が湧いてきた。
元気の出る学会
今週は、ペンステートで開催されている「Designing Interactive Systems2006」というヒューマン・コンピュータ・インタラクション(HCI)系の学会に参加している。
昨日は1日ワークショップをやっていて、ゲームデザインワークショップに参加した。実際に簡単なゲームをデザインするハンズオンセッションに始まり、ユーザーインターフェース研究や、インタラクションデザイン研究、ユーザーエクスペリエンス研究など、それぞれの立場からのゲームデザイン研究に関する発表とディスカッションが終日行なわれた。ゲームデザインと同じ言葉を使っていても、研究分野によって切り口が違っていて、その違いの部分には、多くの刺激の素が含まれていた。
カンファレンス本編初日の今日は、デザインアプローチの研究、インタラクションデザイン、感覚的インターフェース、デザイン評価、などのセッションがあった。HCI分野の学会に出るのはこれが初なので、この分野の「デザイン」に対する捉え方の多様さをとても新鮮に感じた。これだけさまざまなデザインのアプローチや切り口を見せられると、教育分野でデザインと称しているものは、「デザイン」の「デ」の字もカバーできていないんじゃないかという気にさせられた。みんなビジュアルやアニメーション効果の使い方が普通にうまかったりするし、観察研究なんかもフットワーク軽くちゃっちゃとやっている印象だった。特に、ヨーロッパの研究者たちの発表を見ると、デザインという概念がよりオープンで、より参加的な意味を持っているようで、そういうところはぜひ現地で肌に触れて学んでみたい気にさせられた。
どのセッションもそれぞれ得るところがあって、いいヒントをたくさん含んでいたが、エスノグラフィ研究のセッションで出てきた、カナダ人女性研究者の「ナイトクラブにおけるDJのインタラクションに関する理解」という発表には、他のことが全て吹き飛ぶくらいのインパクトを受けた。その発表は、質的研究の王道のような見事な発表だった。質的研究は、フォーカスが甘かったり、仕事量が足りなかったりすると、非常にヘナチョコなものになりやすい。だが、よくデザインされて、よく解釈整理された研究は、説得力にキレが増して、聴く人に強烈な印象を残す。この研究は、こういう研究やりてぇな、と心からうらやましくなるような研究だった。
夜はレセプションがあった。こういう社交の場はすごい久しぶり。ヨーロッパやカナダや全米あちこちから来た研究者たちと交流できた。特に、エスノグラフィセッションの研究者たちとじっくり話ができたのは収穫だった。教育分野で質的研究というと、定量研究しか認めない人々との対立なんかもあって、逆風が前提の陰のある雰囲気がある。だが、ここで会ったHCI分野の質的研究者たちは、そういう暗さは全く感じられなかった。質的研究が一つの研究アプローチとして受け入れられているようで、客観性に対するコンプレックスのようなものを持っていない。この人たちの研究に対する柔軟な考え方が、話していてとても心地よかった。
今回の学会参加費は275ドルで、やや厳しいなと思いつつも、何かいいことがありそうで思い切って参加してみた。この初日でもうもとが取れて、それ以上のものを得た。最近はどうも研究への気合が弱りがちだったので、その気合を回復して余りある元気をもらった。何かいいことがありそうだという予感は正しかった。
最近、自分の研究でオンラインエスノグラフィをどう正当化しようか、とかセコイことを考えていたのがバカバカしくなった。フィールドに出て、うんとインタビューした方がデータも豊富だし、何よりやっていて断然楽しい。そもそも自分が話すよりも、人の話を聞く方が好きな性分なので、インタビューは一番好きな活動だ。学部の卒論でグループインタビューをやった時も、去年やったオンラインゲーム研究でやったインタビューも、面倒くさがりながらも、結局はむちゃくちゃ楽しんでやったことを思い出した。そして今進めている研究には、その楽しい作業が待っていることを再確認できた。がんばろー。
ブログを書く私
最近、ブログを書くノリが非常に悪い。思い当たる理由としては二つある。一つ目は、思考の流れがブログを書く流れにチューニングできない感じが続いていること。少し前までは、その日のネタを決めて思うに任せて書いているうちに、思考の流れができていって、ある種の自分の型に沿った形でアウトプットができるようなイメージで書いていた。最近それが、アイデアのチャンクの断片を書いた時点で、その質の低さというか、キレの悪さが気に入らなくてボツにしてしまう。原稿用紙であれば、クシャクシャの紙くずがゴミ箱に渦溜まっている状態だ。
もう一つの理由としては、おそらくこれが一つ目の理由を生み出しているのだが、自分のブログを書く時のスタイルを変えようとしていて、それがうまくいっていないことだ。自分で書いたものにはある種の型があって、思うに任せて書いていると大体そのパターンに収束する。書いているうちにあれこれ調べ、思考を掘り下げて、その時点での自分の思考の一番先まで持っていって、まとめることができた分だけアウトプットになる。そのため、ブログを書く作業が能力開発の一環になっていて、自分のためにはなっているのだけど、その分時間をとられる。型ができてきたおかげで作業は楽になったのだけど、しばらく続けているうちに、費やす時間に対して、実になっている分が逓減してきた感がある。
そんな事情から、ブログに対する自分の最近のテーマが変わりつつあって、その移行期の試行錯誤をしているという感じだ。以前にも似たようなことはあった。その時は、日常の出来事を書いてとりあえず何となく更新するパターンに飽きが来たので、日記的な要素を減らして、より自分の思考に根ざしたものを書こうとしていた。そのコツを掴むまで、しばらく書けなくなった。
今回は、書き方よりもむしろ、自分の思考のキレの部分に関係している。まだ自分で何が目標なのかはっきりしていないが、できるだけ説明的な部分を減らしつつ、端的にコンセプトを伝える文章を書きたいと思っている。だとすると、今までの書き方を踏襲したのでは、おそらく破綻する。今まで身につけてきた技術は活かしつつも、型自体は壊して一から作り直すべき性質のものだと思う。ここしばらくは、今までのスタイルで書いたり、他のやり方をためしたりしながら試行錯誤が続きそうである。
以前から一つだけ変わらないのは、ブログを書くという行為が、自分の癒しになっているということだ。書く作業自体が、貴重な振り返りの時間となっていること。そして、一つのアウトプットを完成させることで、ささやかな達成感が得られること。これらが癒しをもたらしている。たぶん私がこうして書き続けている理由の一つは、それが自分の精神的な調子を整える時間として機能している面があるからだと思う。ただ、ブログを書くことの意味が変われば、書き方も内容も変わる。もしかしたら、その癒しを自分が以前ほど必要としなくなっているか、以前ほど効かなくなっているのかもしれない。今はそうした状況で、自分の中でのブログの位置づけに変化が起きるかどうかのところにいるようである。
Last Comic Standing
アメリカのテレビは、夏がクールの谷間で、短めのシリーズや春や秋よりはやや低予算めの企画ショーなどが目立つ。NBCのLast Comic Standingもその一つで、毎年夏のこの時期にやっている。この番組はスタンドアップコメディアンのオーディションショー。スタンドアップコメディは、日本で言えばピン芸人の漫談みたいなものかな。細かい定義は違うのかもしれないけど、要は一人で舞台のマイクの前に立ってお笑いネタをしゃべり倒す芸能のこと。
このオーディションでは、地方予選で選ばれたコメディアン達が毎週何人かずつ落とされながら、最後に残った人が「ラスト・コミック・スタンディング」に選ばれる、という内容。フォーマットはアメリカンアイドルや他のオーディション系のリアリティショーとほぼ同じ。
今年がシーズン4だが、ちゃんと観るのは今シーズンが初めてだ。というのも、スタンドアップコメディの英語は基本的にみんな早口で、かなり文化的な理解をしていないと文脈がつかめないネタが多いので、非常に難しい。今までは観てもちっとも楽しめなかったのでスルーしていた。
今の時期、見たい番組がいくつもないこともあり、試しにこの番組を観てみた。すると字幕なしで観て笑えるところが増えて、字幕があればだいたい理解できるようになっていた。いろんな英語に耳が慣れてきたのと同時に、文化的な知識も増えたおかげだと思う。少し前まで全く歯が立たなかったものを観て楽しめるようになっていたので、ちょっと嬉しくなった。
テレビの英語では、スタンドアップコメディショー、スポーツの試合、ローカルニュースあたりが一番難しいと感じる。スタンドアップコメディは早い上にスラングが多くて、文脈が掴みにくい。スポーツの試合も早くて専門用語が多いのと、話がぽんぽん飛ぶので文脈が掴みにくい。選手へのインタビューも早口だったり省略が多かったりして難しい。ニュースはフォーマットに慣れれば楽になるが、やはり文脈を掴みにくい。一方、シチュエーションコメディやドラマは、視覚的な文脈情報が多く、ストーリーの流れがあるものは慣れることが比較的容易だと思う。
この番組についてもう少し書こうと思ったけど、どうも今日は思考が冴えないので、なんだか英語の話に逸れたまま帰ってこなくなってしまった。今日はここまででまた今度。
イチゴとブルーベリー
ここしばらくスーパーで売ってるイチゴが安くて、ひとパック2ドル~2ドル50セントくらい、さらに安いときは1ドル50セントで売ってたりするので、買い物の度に買っている。毎朝ヨーグルトに放り込んだり、ワッフルやパンケーキにのせたりして食べている。
アメリカのイチゴは、日本の豊の香イチゴのような品の良いイチゴと比べると、一粒が巨大で味も大味。それでも季節の時期には非常に安いので、日常的に食べられる。去年と比べて、今年はイチゴが安い時期がやたら長いような気がして、毎日イチゴばかり食べている気がする。去年どうだったかはよく思い出せないが、3倍以上消費している気がする。
先週あたりから、安売りしているイチゴの横で、ブルーベリーも安いのが並ぶようになってきた。ブルーベリーは通常薄いパックに50粒くらい入って2ドル50~3ドル50くらいで売っていて、季節になると同じ値段でそのパックの厚みが増すので買い易くなる。昨日ウォルマートに行ったら、通常の3倍のサイズ(ざる一杯分あった)で1パック1ドル25セント(約150円)で売り出していた。あまりの安さに2パック買ったので(ざる二杯分だ。。)、今度はブルーベリーも毎朝食卓に並ぶことになった。たぶん、こういう安売りのブルーベリーはパイやマフィンを作るために買う家庭も多いんじゃないかと思うけど、新鮮な生ブルーベリーは普通に食べておいしい。
ブルーベリーは眼に効くというのはよく言われているけれど、確かに効くと思う。2ヶ月くらい前にやたら眼の疲れを覚えていて、マッサージとかして、お茶をにごしながら作業していたのだけど、手ごろな値段になり始めた先月あたりから、ブルーベリーを食べ始めて、眼の疲れを覚えることが明らかに減っている。この夏の不健康な研究生活を改善する食べ物の一つとして活躍してくれそうだ。
オンラインゲーム世界で模索の日々
この週末は、人生でも一番と言っていいほど長時間ゲームをプレイした。疲労がたまった。手もやや痛い。
今研究フィールドとして取り上げているゲームは、MMOG(Massive Multiplayer Online Game)というジャンルで、何千、何万ものプレイヤーがバーチャルなゲーム世界で同時にプレイしている。プレイヤーたちが形成するコミュニティの中で起こっている学習と、そのゲームのデザインの関係に関心があって、前に別のゲームでやった研究をさらに推し進めるべく、今回は日本の大手ゲーム会社が出している海洋アドベンチャーなMMOG(と言えばどのゲームかわかってしまうけど、別に隠しているわけではないので)を対象にしている。
この手のテーマの研究は、日本ではほとんど聞かないのだけど、欧米ではだいぶ数が増えてきた。他の研究者がカバーできていることと、できていないことがあって、そこは研究の視点の違いなのだけれども、自分的にはうまくいけば、かなりオリジナルな成果が出せるんじゃないかと期待しつつ準備を進めているところだ。
熟練研究者の域には程遠いので、毎回研究のセットアップから最後のアウトプットまで試行錯誤が続くのだけど、今回もセットアップのところで難航している。これまで準備的にゲーム世界でテストプレイのようなことはしばらく続けてきたのだけど、ゲーム内での自分の立ち位置があまりに周辺的過ぎて、熟練プレイヤー同士のやり取りの意味が深いところで理解できないで推移していた。
忙しさもあってプレイ時間も少なく、たまにしかやらないので、人々とのやり取りも少なくなりがちだった。一緒にプレイしている人たちとも、ジョギングしてて公園で出会う顔見知りのような関係でしかなく、「こんちは」「おつかれ」みたいな簡単なやり取りしか発生しなかった。しかも、研究のためにプレイ記録だ振り返りだと、プレイ以外のことにも時間を費やす必要があるので、何かと停滞しがちだった。
あまりに埒が明かないので、研究作業は全部ほっぽり出して、とにかく他の人がやっているようにプレイしてみることにした。自動的に残るプレイログと、時々面白い場面でスクリーンショットを撮る以外は、完全に一プレイヤーとして、使える時間を全て投入してひたすらプレイしてみることにした。
このゲームの特徴は、モンスター征伐や冒険ばかりの他のゲームとは違って、地域間交易や、調理、鋳造、縫製などの生産もプレイの主要な位置を占めているところで、ロンドンで仕入れたウィスキーをアムステルダムに持って行って売って、帰りにジンを仕入れてまた他所で売る、といったことを利益が上がるように考えながら進めていく。街の道具屋でレシピを買って、仕入れた材料を使って料理を作り、それをバザーで他のプレイヤーに売ったり、他のものと物々交換することもできる。職業もさまざまあって、軍人と冒険家と商人の3タイプから複雑に枝分かれした職業システムがあり、スキルも前提スキルや必要レベルが複雑に入り組んだシステムが構成されている。プレイヤーたちは、自分のプレイした職業を目指して、一番適切なキャリアパスを見つけて転職を繰り返しながら、効率よくレベルを上げ、必要なスキルを身につけていく。
知識の蓄積の仕方もとても高度な活動が行なわれている。ネット上には、プレイヤーたちが自発的に制作した、さまざまな知識リソースが提供されている。初心者向けのガイド、交易品や名産品のデータベース、地域別の交易ルートと必要スキル習得場所の一覧、情報交換のための電子掲示板、作業支援ツール、など膨大な量のリソースが日々形成されている。
それらのゲーム内外の情報は、ある程度その世界に慣れていないと、ありがたみもわからないし、深いところでその意味するところを解釈できない。ちょっとかじった程度で研究しようなどという当初の姿勢は相当に甘かったと反省した。
ここひと月ほどで、総プレイ時間は100時間以上に達し、レベルもだいぶ上がってきた。最初の探検家から、食品商を経て薬品商になって、調理も工芸もスキルがあがった。個人的に冒険や海事活動よりも生産系の活動が好きで、魚介のピッツァを作ったり、小麦から酒を造ったりする作業を何時間も続けたりしていた。自身のプレイを振り返ると、リアルの自分の行動傾向にかなり重なるところが見えてきた点も興味深かった。
この週末は、ゲーム内イベントで、月例の大海戦があった。開催時間が日本時間夜で、こちらは早朝からプレイする必要があるため、今までは敬遠していたのだけど、今回はがんばって参加した。最初の集合地点での艦隊結成から反省会まで全てフル参加したら、朝の6時起きで昼過ぎまでかかった。金曜から日曜まで、特に日曜はワールドカップの日本戦の影響で一時間繰り上がったので朝5時起きで参戦したおかげで疲労困憊だったが、面白い現象を山ほど観察できた。
ここまで突っ込んでプレイしたおかげで、だいぶいろんなことを理解できるようになった。でもまだレベル的には初級からやっと中級に上がった程度なので、上級の熟練プレイヤーたちのやり取りでわからないところは多い。それらをどこまでフォローした上で研究の区切りをつければいいのかはまだわからない。同様のアプローチで行なわれた他の研究は、2年から3年かけてまとめられたものばかりなので、この調子で行くと、自分もそれくらいかかってしまいそうだなとやや途方に暮れつつも、適切な区切りとなる落としどころを模索している。
部屋にこもって、資料を読み、ゲームをやり過ぎて運動不足になりがちなところを、また別のゲームが運動不足解消を助けてくれて、さらにはテレビを見て気分転換をする、という奇妙なルーチンで、隠遁生活のような日々が続いている。夏が終わる頃には、この模索状態から抜け出して一歩進んでいれば良いなと願うばかりだ。