批判のレトリック

 DIS 2006の3日目の、デザインメソッド教授法のセッションで、「問題提起の仕方」について、いろいろと考えさせられたので、あらためてもう少し考察しておこうと思う。
 この発表の最後に示された「サイエンス」VS「デザイン」のコンセプトの違いを対比した表において、「サイエンス」の定義は、ポパーやクーンの示す科学観の影響を受けたサイエンスのことではなく、デカルトやニュートンなどの流れにある合理主義的、実証主義的なモダンサイエンスの考え方を示していた。一方のデザインの方は、モダンサイエンスに対応したモダンなデザインアプローチではなく、むしろその後にくるポストモダンなデザインアプローチを示していた。サイエンスとデザインの発想の一番違うところをわかりやすく対比させ、サイエンス的な発想に縛らないデザインのマインドセットを教育していく必要がある、という問題提起を発表者は意図していたようである。
 だが、オーディエンスの反応は、サイエンスの定義の仕方に問題がある、という反論が中心で、発表者の意図には沿わない議論の流れになった。サイエンスの側のスタンスに立つ人たちにすれば、批判されたと感じたのかもしれないし、サイエンスの進化の部分を認識している人たちは、過去のサイエンス観についてとやかく言っても仕方がないと感じたのかもしれない。そのような反論が出ていた。
 こうした主義主張や、支持するパラダイムの異なる立場同士の議論は、今まで学んできたことの中で何度も目にしてきた。「行動主義」と「構成主義」、「ハードシステム」と「ソフトシステム」、「インストラクショナルシステムデザイン」と「ラーニングサイエンス」など(おそらく「エデュテインメント」と「シリアスゲーム」も)、新旧のパラダイムやアプローチに関する論争の構造は共通している。自らの優位性や存在意義を示すために、双方の一番違いの大きい部分を対比させた形で、相手側のあり方を批判する。双方の境界線に近い部分は重なっており、共通点も多いにも関わらず、論争の中ではその共通部分にはあまり触れられない。批判の形を取った方が、論点を明確化でき、自分側のよさを示しやすいからである。
 しかし、批判の形を取ると、意図していない部分まで批判として受け取られることもあるし、果ては個人攻撃されたと受け取られる事態も生じる。共通点が多いと考えられる人たちにも批判と取られ、「あちら側」と「こちら側」に分かれた論争は、果てしなく続く。そうなると、同じ方向に向かってお互いがよいところを認め合う、という流れにはなりにくい。これはディベートというスタイルの大きな問題点である。
 このブログでも、これまでにインストラクショナルデザインや、eラーニング、学校システム、などに対し、さまざまな批判的意見を書いてきた。つい一昨日にも、「教育工学研究のデザインへの意識の低さ」という点を批判した。これらの多くは、批判という形をとった「問題提起」である。時に意図的に批判することもあるが、それでも批判のための批判や、特定の学校や個人への批判をしているわけではない。
 しかし、その批判がいかに愛情に基づいていようと、熱意に基づいていようと、その批判の対象になっていると感じる人からは、単に攻撃されたと受け取られる可能性は高い。また、批判の周辺にいる人たちの中にも、面白くない思いをする人が出ることにつながりかねない。
 逆に、その対象に対して日頃から不満を感じている人たちにすれば、「いいぞー、もっとやれー」と溜飲を下げるかもしれない。だが、こちらはそういうことも意図していない。直接コメントを寄せてくださる人たちは、多分に肯定的、あるいは中立的に問題提起として捉えてくださっているようだが、その一方で、こちらのうかがい知れないところで、ムカムカしている人の輪ができていることは十分に有り得る。
 つまり、批判の形を取った時点で、問題提起という意図は伝わらない上に、意図せぬ論争を巻き起こしてしまう可能性が高くなる。今回の「サイエンス」と「デザイン」の話や、多くの新旧のパラダイム論争はそうしたところが共通している。お互いに自分の属する分野のためにやっている場合もあれば、意図的に嫌いな人が提唱するものを攻撃している場合もあるだろう。いずれにしても、論争という形になってしまうと、共通点や調和を見出すよりは、自らの主張を際立たせるための「批判のレトリック」に磨きをかける方向でエネルギーが使われるようになる。
 たとえば、自分の書いた文章を例にすると、前のエントリーで、「デザインの質への関心も高まっているとはいえ、いまだに悪しき科学信仰が根強く、デザインへの意識は低い。」と書いた。この「いまだに悪しき科学信仰が根強く」という表現は、本来の問題提起の趣旨とは関係ない、単なる批判のレトリックである。関係ないのに、なぜそういうものが入ってくるかというと、これを書いている瞬間は、この部分に込められた批判を際立たせて、この文章のキレを増すことに集中しているからである。そうして生み出された批判のレトリックが、建設的な議論を意図した全体の流れを壊し、単に論争の燃料を投下することになってしまう。
 ここでのもう一つの重要な問題点として、同じ言葉に対する捉え方の違いから、意図は正しく伝わらない、ということがある。たとえば、「教育工学研究のデザインへの意識の低さは問題である」という指摘をした時、「デザインか、よしわかった。じゃあ見栄えが大事ということですね。」と捉えられても、「見栄えなんか気にしてもしょうがないんだよ」と捉えられても、こちらの意図するところは伝わっていない。
 「機能性のデザイン」や「操作性のデザイン」「ユーザー経験のデザイン」という教育工学には重要なデザイン要素が考慮されていない、ということを暗黙裡に意図していたとしても、デザインという言葉にそうした意味を共有していない人には、最も一般的な「見栄えのデザイン」という点に矮小化されてしまいかねない。デザインという言葉を無造作に使えば、デザインへの意識の低い人はそうした多様なデザイン要素を想像できるはずもないので、指摘している点は肝心の人たちには伝わらず、自己満足に終わってしまう。
 批判のスタイルを取ることは、主張に力を増すが、正しく伝わらないということを今回の学会のやり取りを見て、これまでに見てきたパラダイム論争を思い起こすに至って理解できた。私は自分の存在を示すための「批判のための批判」をするつもりはないし、特定の組織や個人に向けた攻撃をするつもりもない。もしこれまでに書いたことがそういう反応を呼んでいるのであれば、それは残念なことであるし、書き手としての力不足である。
 では、どうするか。一つの方法として、批判のレトリックに陥らないようにすることは、比較的すぐに実行できる。先ほどの例を使えば、「デザインの質への関心も高まっているとはいえ、いまだに悪しき科学信仰が根強く、デザインへの意識は低い。」という文章は、「教育工学分野の研究は、以前はデザインへの意識が低かったものの、デザインベースドリサーチなどが認知されるにつれて、その意識は高まりつつある」という書き方に変えることができる。「肯定-否定」を「否定-肯定」に変えて、同じ内容を書く、というだけのことである。簡単な例にすると、「あの人はイイ人なんだけど・・・なんだよね」と言うのと「あの人は・・・なんだけど、いい人だよ」と言うのでは、印象が全く変わることがよくわかると思う。
 なので今後は、「ほんとうに批判したい時以外は、批判の形を取らない」ということを、書き手としての個人的な原則として持っておこうと思う。