今日は春休み前の週末で、大学全体が気楽な雰囲気に包まれている(自分がそういう気分なので世の中がそう見えたのだが)。図書館も閑散としている。休みはどこに行くかと聞かれ、「フロリダへドライブ旅行」と答えると、みんなうらやましそうにしている。日本で言えば、沖縄旅行に行くといっているのと似たようなものだ。大学院生は半分は休みなしだ。宿題を鬼のように出す授業を取っている人は、休みどころではない。自分も独りで来ていたら休みなしで文献の山に立ち向かっていたことだと思うが、妻が人生を楽しむことを奨励する人なので、この環境を尊重すると自然と出かける機会が増える。
仕事を終えて、うちに帰ると近所の韓国人の奥さんSuk-Heeが、うれしそうにたずねてきて、何だろうと思ったら、手作りケーキのおすそ分けだった。スイートポテトのケーキで、韓国で人気だが高いのだそうだ。食べてみると、これが美味い。今までのSuk-Heeの手製ケーキの中でも最高傑作、いくら食べても効用が落ちない美味さだ。すぐまた作ってもらおう。
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シミュレーションとISD
今日はデザイナーインタビューの課題の提出日でもあった。自分のはインタビュー相手に恵まれたおかげでなかなかいいプロジェクトになった。インタビューをしたクラーク・アルドリッチ氏はもともとe-learning関連のコンサルタントで、e-learningを普及させる立場にいたのだが、普及に値するいい製品がないということで、自分がいっちょお手本になる質の高い製品を作ってやろうということで、コンサル会社をやめて自分の会社を立ち上げて、リーダーシップトレーニングのシミュレーションを3年かけて開発した。彼の努力は実って、昨年のe-learningベストプロダクトに選ばれた。彼の気合は並大抵でなく、リーダーシップモデルも、シミュレーションのエンジンとなるAIも、インターフェースも、すべて一から作り上げた。既存の専門家やコンテンツはすべてリニアなコンテンツのための専門家であって、シミュレーションのような非リニアコンテンツを作るには用を足さなかったからだ。残念ながらISDの専門性も、かなりリニアな教育コンテンツの開発が前提であり、シミュレーションの開発には不十分だ。これからシミュレーションのような非リニアなコンテンツを利用した教育の重要性が増すのは自明であるから、日本で普及すべきISDはそうした非リニア性も取り入れたものにしていくべきだろう。
音楽マーケットに迫る転換期
ミュージックダウンロードはAppleのひとり勝ちという記事を読んだ。確かにこの市場はアップルがブレイクスルーを起こしたんだが、実際使ってみると、Dellと提携しているMusicmatchの方が断然よい。Penn StateがNapsterと提携して、学生用Napsterを提供しているので、そっちも試してみたが、やはりMusicmatchの方がよい。まず、インターフェースがよい。タダで聴ける曲のバリエーションも多い。試聴曲の音質がよい。無料ラジオの曲を聴いて、ほしい曲を見つけた時にスムーズに買える。月5ドルで、好きなアーティストの曲を聴き放題(曲に限りがあり、曲順は選べないという制約はあるが)というサービスも便利がよい。わざわざ買いたくないが、しょっちゅう聴きたいアーティストはいつでもパソコンで聴ける。CDに焼いたりしたい時は、1曲99セントで買うことができる。iTuneの方がイメージがいいのだが、雰囲気に飲まれて何となくiTuneユーザーになるのはもったいない。
このサービスを使っていて自分の消費者行動の変化がいくつか生じた。まず、CDはもはや第一の音楽メディアではなくなった。街のCD屋にはほとんど用がなくなった。タワーレコードが破産するのも仕方がない気がする。
購入時にアルバムという縛りがなくなった。以前は好きな曲だけ聴きたいのに、どうでもいい曲の入ったアルバムを買わざるを得なかったが、今は好きな曲だけ選んで1曲99セントで買える。これは買いやすい。買いやすくてつい買い過ぎそうになる。以前、Napsterを訴えたMetallicaというバンドは私の好きなバンドの一つなのだが、彼らはなぜか曲のばら売りをしていない(ちなみにNapsterでは1曲も売ってない(笑))。ばら売りしていればほしい曲が何曲もあるのに、これでは買えない。アルバムという作品の価値の尊重という考え方もあるが、それはファンのことを考えないアーティスト側の欺瞞というものだ。
音楽を聴く幅が広がった。FMラジオと違って、自分の聴いてみたいアーティストを名指しで選べる。テレビで見て興味を持ったら、その名前で検索すれば試聴ができる。その日の気分にあわせて音楽を選ぶのも、自分の好みのジャンル以外に手が伸びやすい。
知る限りでは、日本ではまだこの手のサービスは普及してなさそうだ。レコード業界の抵抗が強いのだろうか。ただ、もうCDや店頭でのダウンロード販売というようなサービスは、間違いなく廃れる。CD屋は早めに業態換えや撤退を考えた方がいいだろう。これはもう時代の流れだからしょうがない。CDを売るためのオンラインサービスというのも無力化するから、早めに縮小するなり、ダウンロード配信サービスに業態転換を考えた方がいい。粘っていればきっと運が回ってくるとか、客が帰ってくるとか、そういう淡い期待もしないほうがいい。一度ダウンロード販売の便利さを味わった客は、CDというメディアは単に流通業界の都合でその形を取っているだけのものだと気づいて、CD屋から足が遠のいていくだろう。この波はすぐ来る。しかも津波のようにあっという間にマーケットをさらっていく。自分のレーベルのアーティストだけ自社のウェブサイトで売るようなサービスも中途半端で、消費者行動の流れにのることはないから、それでは儲からないだろう。レコード会社にとっては、利益拡大のチャンスだが、既存の販売ルートに縛られていると、CD屋と共倒れになるだろう。
3/4(木) Chris Hoadley
今週は朝からアシスタントの仕事のメール処理をやり、落ち着いたところで課題の読書をやるというパターンが続いている。読書という作業は英語の文献なのでどうしてもスピードが遅くなる。ざーっとスキミングして授業に出るというのが続く。1年後輩に韓国人のWonseokというのがいて、木曜のChrisのEmerging Techのクラスを一緒に取っているのだが、彼も今日は宿題のウェブサイト作りに時間をとられて、まったく課題文献にまったく手がつかなかったといっている。彼に、「今日はプレステ2のゲームのデモをやるから、多分文献の議論はなくなるよ」と気休めを言ったら、実際に文献の議論はできなかった。
さて、今日は先日購入したプレステ2のEyeToyをクラスに持参し、デモをした。講師のDr. Chris HoadleyはTechnology Geekなのでノリノリなのだが、クラスメートは平均年齢が高めの、ゲームとは縁のなさそうな大学院生たちなので、みんな自分が試すのは遠慮している。たしかにこのゲームは自分がモニターに写るので、いきなり人前でやるのはやや恥ずかしい。私とChrisとで15分ほど遊んだあと、Chrisが技術解説した。かなり気に入ったらしく、今日に余裕がないことを忘れて、画像認識技術の実用化に関する話をしばらく続けた。彼いわく、「このゲームはぜひ手に入れたいが、PS2を買ってしまうとゲームをやりすぎてテニュアが取れなくなってしまうからやめておく」のだそうだ。
ChrisはComputer Supported Collaborative Learningの分野ではかなり主要な研究者であり、博識で好奇心旺盛なところにはいつも感心させられる。しかも彼は姿勢が常に支援的で、学ぶ側の意欲を引き出すのがうまい。コラボレーティブとはこういうことであると体現しているような人である。みんな居心地がよいと感じるのか、彼のプロジェクトは大人気だ。彼自身はかなり額の大きなグラントプロジェクトを回していて忙しいはずなのだが、そういうところは微塵も見せず、余裕な様子である。
Chrisと同じく、テニュアトラックの教員の中には、テニュア取得のための仕事が忙しすぎて授業がおろそかになる人もいる。一生懸命やっていても、手を抜いていたり、準備が間に合ってないのが透けて見えると受講者のモチベーションも下がる。大学院生たちも自分自身、ぎりぎりのスケジュールでやっているのでその辺りは手厳しい。その一方で、休講が多く、授業の構成も大雑把なのに、Chrisに対しては不満は起きない。今は明確な理由が思いつかないが、一つには、彼が受講者の学びを促すツボをうまくおさえているからだと思う。彼の授業は、これからの私の研究にとって、とても重要な示唆を与えてくれている。こういう学びの場を自分が提供できるようになりたいものだ。
3/2(火) アシスタント業務
ここ最近、アシスタント業務が忙しい。給料分かっちり働かされている。仕事をもらっている認定プログラムは、大学のアウトリーチオフィスが管轄で、うちのINSYSプログラムからはコース提供をしていて、うちのプログラム側の運営担当が一人いるということで、大学院生のポジションが一つ用意されている。あれこれ判断業務が発生しているのだが、アウトリーチオフィスの方は、INSYS側に気を使っているのか、運営の細かいところには口出ししてこない。こちらの判断業務をするべきスーパーバイザーの教授は実務にはまったく関知してない。なので、自分のポジションは管理者不在に近い状態なのだ。小うるさい教授がボスで、給料分以上にこき使われているアシスタントが結構いる中で、自分のポジションはありがたいものだ。でも自分がマネジメント側だったら、このポジションは業務内容を見直しするだろう。立ち上げ当初はいろいろアシスタントも骨を折ったようだが、今は放っておいてもお客さんが来て、非常勤の講師たちが教えて、収入が入るシステムが出来上がっている。アシスタントの業務はそれほど発生しない。
実は、他にも似たような認定プログラムがあって、内容がバッティングして無駄があるという問題点がある。それを最近、関係する教授陣で見直しを始めた。そうするとまたこちらの仕事が増えるのだが、忙しい分には問題ない。暇で給料分働いてなくて、仕事から何も学ぶことのない状態の方がよほど居心地が悪い。とりあえず5月までで契約期間が終わるが、それまでには前のアシスタントがまったく整備してなくて雑なままの文書類を整備するなどして、運営効率を上げることに貢献して終わろうかと思う。
2/21(土) プロのデザイナーとのやり取り
今日も風邪で休息。課題の読書をしていたら、この間メールインタビューしたClark Aldrichからメールが届いた。君のウェブサイトのゴールステートメントを楽しく読んだよ、とのコメントだった。お礼もかねて、アマゾンのサイトで彼の著書へのレビューを書いた。日本語訳(ちょっと加筆修正)は次のような感じ。
シミュレーションによる教育研究の大いなる一歩
この彼の著書”Simulations and the Future of Learning is becoming”は、私の周りのゲーム&シミュレーションによる教育に関心のある研究者たちの間で必読本になりつつある。ゲーム&シミュレーションを教育に利用する研究は、今注目されつつある研究テーマだが、新しいテーマということもあり、いい文献がない。そのため研究を進めるのになかなか苦労している。そんな時に著者は、自身が開発したリーダーシップ教育シミュレーション「ヴァーチャルリーダー」(ベストイーラーニングプロダクトオブザイヤーを受賞)の開発プロセスを気前よく披露してくれた。この本は後にこの研究分野の発展を推し進めた作品として評されるだろう。
この本は、この分野の研究者やデザイナーたちに多くの知見を与えてくれる。ソフトウェアとしてのシミュレーションモデルやインターフェースデザインの開発過程はもとより、リーダーシップ理論とモデルの開発過程も詳しく紹介されている。彼は既存の専門家や理論をあてにするのでなく、それらをゼロから構築している。その過程を丹念に示すことを通して彼は、本当のイノベーションは、地道な論理思考の積み重ねとプロジェクトメンバーのたゆまぬ努力によって起こされるものだということを示している。この本は、言ってみれば革新的なプロジェクトの成功の裏で開発者がどんな苦労をしたかを綴ったものだが、それを出版することで、読者に新たな学習機会と、読んで楽しめる物語を提供できるということを著者は示してくれている。
著者の彼には結構感謝され、その後メールのやり取りが2往復ほど発生した。なけなしの知識を総動員して彼のレベルに合わせて話をしようとするが、そうすると彼はさらに高いレベルで話を展開してくる。まるで何かのスポーツの初心者が達人に手合わせをしてもらっているような状態である。さすがに本物の専門家は聞きかじりの知識をそのまま使うようなことはせずに、自分の頭で消化して、自分の言葉にしたものをぶつけてくる。しかも彼は直球。一球一球が重い。こういう真剣なやりとりが人を育てるのだろう。いい人に出会えたものだ。
2/16(月) 研究計画
今日はリサーチデザインのクラス。簡単なトピックを書いて持ち寄って、Dr. Dwyerに個別コメントをもらう。少人数のクラスなので、こういう個別指導的な授業が可能。学ぶことも多いのでとてもよい。ABD(All but Dissertation)の院生もいるのだが、今頃リサーチデザインの授業を取り直しているだけあって、持ってくるものもいまいちぱっとしない。こういう院生の指導は、アドバイザーの教員もモチベーションが出ないだろうなと思う。他のクラスメートたちは、まだ博士課程を始めたばかりの人も多く、今テーマを探し中といった感じ。
かくいう自分のは「テーマは面白いが、構想がでかすぎ」とのこと。ゲーム&シミュレーションは注目度が高いテーマだが、持っていたネタだと、大勢で手分けしてやらないといけないレベルだし、独立変数を定義するのが大変だぞ、などとあれこれと指導を受けた。いちいちごもっともで、勉強になった。研究の構想がでかくなりがちなのは、はじめから小さな構想ではモチベーションがあがらないのもあるのと、学部時代に受けた教育のせいでもある。
昔、SFCの学生は身の程を考えずにでかいテーマを追求しようとすると指摘されるのを耳にした。それはたぶんに、SFCでの大局的な視野を身につける教育が成功しつつも、それを具体的なリサーチに落とし込む教育が機能してなかったということの表れだと思う。この点は学生のせいというよりも、教育をデザインした側の製造責任に関わる話だろうと思う。とはいえ、ちまちましたリサーチ作法よりは、大局観をもてる学生を育てることを優先することはむしろよいことだと思う。リサーチ作法なんぞは学部生の大半はそんなものは不要で、必要になれば大学院で学べる。構想がでかすぎる分には絞り込めばいいので問題ないが、リサーチ作法は知っているけど、研究テーマを見つけられないという状況は、はるかに悲惨だ。
ところで、研究計画を立てるのは自分の得意分野である。自分じゃやりたくないけど、面白そうでしょ?という研究計画ならいくらでも書ける。もっとも、そういうものを書く場合でも、いざ自分がやらないといけなくなった場合のために、自分がやりたくなるようなネタは必ず仕込む。このスキルは今までの社会人経験によって身に付いた。大学を出てからずっと企画系の仕事をやってきたので、企画書、提案書の類は山のように書いてきた。アルバイトで、大学院入試教科書の研究計画書サンプルを書いたこともある。会社勤めのころはボスにガミガミ言われながら徹夜で資料をまとめたりしていたが、今となってはそういうものが糧となって今の自分を支えているのだなとつくづく思う。若い時にがみがみ言って鍛えてくれる上司は貴重だ。しかも自分の場合は、会社の経営者と直で仕事してきたことがさらにプラスになっている。彼らは普通のサラリーマン管理職とはシビアさが違う。ガミガミも本気である。今、大学の教員と仕事をしていて、英語がへたでも彼らの関心を得ることができるのは、経営者たちと仕事をした経験から、上の人間の立場でものを考える力が付いているおかげだろう。
研究計画の方は、文献レビューを交えつつ、トピックを絞り込む作業を開始。文献読みのスピードが遅いので手間がかかる。
2/9(月) 博士論文
今日のリサーチデザインの授業の宿題で、ISD分野の博士論文を一つ読んで、要約を書いて持ってきなさいというのが出ていたので、図書館へ。ほんとはオンラインにのっているもので済ませようと思ったのだが、2000年の分からしかなくて、ちょうどいいのがなかった。図書館の博士論文コーナーに初めて足を運んだ。飾り気のない製本をされた博士論文が書架にならんでおり、数年後に自分のがここに並ぶことを想像して、しっかり勉強せにゃいかんという気になった。
リサーチデザインの授業の講師のDr. Dwyerは、ISD分野がいつまでたっても科学の領域としての理論基盤を構築できないことを危惧しており、自分の研究室でISD分野の理論基盤整備に貢献するような、いわゆる基礎研究の成果を地道に蓄積してきている。彼の多くの教え子たちは、同じ素材(心臓の構造と機能に関するインストラクション)で、さまざまな教授アプローチによる実験研究を行なって、そのテーマで博士論文を書いているそうだ。そんな彼の授業は7割方はゆっくりとした語り口での講義なのだが、言うことにいちいち含蓄があって、一言一句聞き逃せない。その含蓄は、ISD分野を発展させていきたいという研究者としての良心と信念が積み上げてきたものなのだろう。彼は基本的には行動主義の流れを汲む伝統的なID者の立場で、きちんと実証されていない構成主義の理論にはきわめて懐疑的である。しかし彼の姿勢は実証的なだけで、頑迷なものではない。効果があるというならきちんと実証して見せなさい、という立場である。実際、彼の教え子のうち4人はReigeluthのElaboration理論の実証をしようとしたが、結果は有意差なしだったそうだ。講義の中で、ぼくの研究関心であるゲーム&シミュレーションにもことあるごとに言及してくれるが、まだ学習効果が実証されていないということだった。何とかしてこのテーマで学習効果を実証したい。このコースの最後に研究プロポーザルをまとめるので、その時に彼が納得してくれるようなものをぜひ出したい。
IDへの違和感
最近どうもIDを学ぶことに対する違和感があって、それが何だかつかめてなかった。それが今ふと、自分のゴールとIDの分野でやっていることにずれがあるということに気づいて、合点がいった。ID分野の研究は、端折って言えば既存の教育内容を再現可能な形でいかに効果的効率的に教えるかというものだ。そのことに興味を持ったからIDを学び始めたのは確かだ。しかし今の学校で教えられているようなものを同じ形で効果的効率的に教えたところで意味はない。大学受験対策の勉強が1年かかるのを半年でできるようにしたところで、大学受験勉強の効率がよくなるだけで、学ぶ内容自体に意味があるようになるわけではない。そういう無駄な営みを効率よくするための片棒担ぎはしたくないのだ。
自分のIDの専門性は、より重要で意味のある学習を普及させていくため、あるいはそうした学びを阻害するような余計な教育をなくすするために使われるべきものだ。そのためには現在の学校教育、あるいは学校教育のモデルを模している社会人教育自体を変えていくためのアプローチを取る必要がある。問題解決型アプローチやLearning by Doing(行動による学習)はその一つのあり方であって、この考え方に基づいた教育内容を整備していくことが一つの方向性だろう。日本の大学でも問題解決型学習というのが掲げられるようになったが、やっていることは教科中心型教育の延長線にしかなく、手ぬるい。その手ぬるい教育をへたをするとIDが延命させることも起こりうる。それは避けたい。これから日本で広めるべきIDは、情報化社会以前のアメリカで開発された旧来のIDではなく、今アメリカの研究者たちが苦労して模索している未来のIDだ。
まだ大半はジャストアイデアだが、かなり自分の中での整合性がとれたのですっきりした。
イベントによる学習促進
今気に入って見ているテレビ番組はいくつかある。一番楽しんでみているのは、The Apprenticeというリアリティショーだ。前にも日記で書いたが、これは不動産王のドナルドトランプが子会社の社長を探しているという設定で、応募した16人の挑戦者がその社長の座を争って毎週ビジネスゲームに挑戦するという内容だ。男女二チームにわかれて、一週目はニューヨークの街中でのレモネード売り、二週目はチャータージェット機会社の広告企画、三週目は買い物値切り競争、四週目はレストラン運営、などのタスクに挑戦し、勝てば社長生活を垣間見れる豪華なご褒美、負ければ会議室でドナルドトランプに叱られ、負けに最も貢献した人が首になる。そのプロセスの人間模様の面白さが番組の見所となっている。
視聴者からすれば、MBAホルダーや大企業のマネージャーといった挑戦者たちの使えなさ加減を嘲笑し、彼らが生き残るためにあれこれ駆け引きをする様子を面白おかしく見、またはドナルドトランプという押しの強い芸能人的事業家のキャラクターも楽しめる。娯楽番組のつぼを押さえていて、日本でも人気が取れそうな番組だと思う。日本の「マネーの虎」と近いにおいがする番組だが、The Apprenticeの方が番組の企画や構成がよく練られている。
で、なにが教育に関係するのかといえば、挑戦者がみんな日常では得られない学習をしているのだ。1日や2日で企画をして、成果を出すことを求められる中で、プロジェクトをうまくまわして相手チームに勝たなければならない。豪華なご褒美や首がかかっているのでみんなマジである。このマジな時間に吸収できることは、日常の同じ長さの時間に得られるものの比ではない。それは試合やテストの前にがんばったり、サービスリリース前に火事場力が出せたりすることを経験した人であれば容易に想像できるだろう。学習を促進するにはイベントのような仕掛けが有効なのだ。The Apprenticeの挑戦者は、勝負に勝ちながらドナルドトランプに認められる人物になろうと頭を働かせるし、マネーの虎の挑戦者も、社長たちから金を出してもらうためのプレゼンをするために一生懸命知恵を絞る。NHKのど自慢大会でも、参加者は優勝するために一生懸命練習する。そういうインセンティブは日常を普通にやっていたのでは引き出すことはできない。これはテレビ番組である必要はなく、人が燃えるような仕掛けであればいい。テレビというのは人に見られるというのが大きな促進効果をもたらす。その効果が重要であれば、ローカル局でも校内放送でもかまわないから、組み込んでしまえばいい。社内コンテストや論文懸賞のようなイベントは恒例行事だからやるのではなく、構成員の学習のためにやるのだ。そうであれば、組織のドメインと関係ないものでなく、参加者がそこでがんばることで、直接でも間接でも組織の力を伸ばすことに関連するものを頻度を上げて実施するのが有効だ(そういう意図がセコく透けて見えるような仕掛けは逆に敬遠される)。教育訓練とイベントを分ける理由はないし、テレビのようなメディアはそのツールとして活用し、戦略的に教育の一環として実施していくべきだろう。テレビ業界の方が先導して今までにない教育的番組を作っていて、教育人が関わるととたんに退屈な教育番組になるのが現状である。そうでなくて、教育の顔をしていなくても学びの多い番組を教育側が先導して提案できるくらいの状態になっていけばよいと思う。