型にある良さと演じ手の良さ

 先日、徳永英明のカバーアルバム「VOCALIST」、「VOCALIST 2」のCDをいただいたので、仕事の合間などに聴いている。このアルバムは、女性アーティストのヒット曲を徳永英明がカバーしたもので、「時代」、「異邦人」、「いい日旅立ち」など、私が小学生かもっと幼い頃に耳にしていた懐かしい曲から、「ハナミズキ」「涙そうそう」のようなちょっと最近めの曲まで収録されている。
 カバーアルバムにはいくつかのよさがある。すでに他の人が歌ってヒットした曲なので、その曲の持つ良さを楽しめ、さらにそのパフォーマーの持つ表現力やアレンジの部分も楽しめる。少し前にトリビュートアルバムというのが流行って、偉大なアーティストの曲を、そのアーティストに影響を受けた人たちがカバーした曲を集めたものが結構出ていた。これも元の曲をいろんなカラーを持つアーティストたちが料理するのを聴く楽しさがある。さらには演劇で異なる演出家や役者によるものを見比べたり、クラシック曲で異なる演奏者や指揮者をいくつも聞き比べるのも似たような楽しさだと思う。
 良い作品というのは、その曲なり戯曲なりの「型」が持つ良さと、それを演じるパフォーマーの持つ良さが組み合わさったものだと思うが、このような関係は芸能的なパフォーマンスに限らないと思う。同じ教科書を使って教える教師、同じ病気を治療する医者、同じ製品を売るセールス、何か一つの結果を求めてパフォーマンスを行う仕事には、いずれも表現の仕方やアプローチの仕方に一つの型があり、それを扱うパフォーマーの創造力や技術によって結果が変わる。
 優れて創造的な人は、参考にできるものが少なくても、自分でその型となるものを創ることができ、自分の表現の仕方も工夫して磨き上げることができる。そこまで創造的でない人でも、「あ、こうやればいいのか」というのがピンと来るようなわかりやすい「お手本」があれば、自分なりの工夫をしてアウトプットの質を高めることができる。優れたオリジナルは、そのようなお手本として機能するが、工夫なくただそれを真似るだけでは、ただのコピーになってしまって自分の味は出せない。何かヒット作が出たあとにあふれるフォロワーのほとんどは、表面的なコピーしかできないものが多く、だからその流行が過ぎると行き詰まって消えていく。
 ただのコピーから脱却するには、一つのモチーフに対する表現の幅を広げることが必要で、自分の表現の型を持った優れたパフォーマーによるパフォーマンスは、その助けとなる要素が多く含まれている。優れたパフォーマーがオリジナルをどう料理して表現しているかを学んでいけば、ヒントの少ない状態では自分の型を作れない人でも、コピー脱却に向かうことができる。
 そのような意味で、よいカバーアルバムは良い教材になる。私は歌手を目指しているわけではないので直接の参考にはならないが、自分の分野にもカバーアルバムのような要素を持つものはあちこちにある。
 このアルバムでは、そのような自分の表現の型を持つ徳永英明が、自分の持ち味で良い曲を静かにしっとりと歌っている。そもそも徳永英明自体かなり懐かしい存在になりつつある上に、歌っている曲はどれも昔のヒット曲ばかりなので、さらに懐かしい気分になれる。ついでに「壊れかけのRadio」や「輝きながら」などの昔の徳永英明のヒット曲も引っ張り出してきて聞きたくなる。そんな気分に共感できる人にお勧めのCDである。

Flowers for Seymour

 日本から戻ってきて間もなくのこと、MITメディアラボ名誉教授のシーモア・パパート博士が、ベトナムのハノイで交通事故に遭ったという知らせが入った。重傷ながらも快方に向かいつつあるということだった。パパート博士は、プログラミング言語のLogoを開発したことでよく知られていて、学習メディアについて学べば必ず出てくる偉大な研究者である。
 昨日、何かのついででたまたまWikipediaのパパートの項を目にしたのだが、するともうこの事故の報が記載されていた。それとパパート博士にお見舞いのバーチャル花束を贈ろうというプロジェクト「Flowers for Seymour」が行われているということがあわせて告知されていた。みんなできれいな花のデジタル画像をFlickrのグループページに集めよういうもので、すでにたくさんの美しい花束が寄せられている。写真自体とても美しいが、人々の思いのこもった花束ということが、見るものへはさらにその美しさを引き立たせていて、回復中のパパート博士にはとてもうれしいお見舞いになると思う。

Iron Chef America

 以前書いたことがあるかもしれないが、USA版「料理の鉄人」、「Iron Chef America」がケーブル局のフードネットワークで放送されている。少し前まで、フジテレビでやっていたオリジナル版料理の鉄人を買い付けて放送していたが、昨年から同じフォーマットを使って制作したものを放送するようになった。
 この番組、オリジナル版を忠実に完コピしている。おそらくフォーマットを買う時にそういう契約をしているのだと思うが、フォーマットは全くそのままに、演出もオリジナルを尊重したつくりになっている。あと以前にいじりすぎてファンの不評を買って失敗した局があるそうで、その反省もあって現在のスタイルになっているようだ(番組周辺の詳しい情報はWikipediaを参照)。
 オリジナル版のテイストを方向付けていた美食アカデミー主宰の鹿賀丈史の代わりは、主宰の甥という設定で若いアクション俳優がつとめている。最初はアクションが空回りして浮いてる感じで違和感があったが、慣れてくるとそれほど気にならなくなってきた。番組自体も、初期はオリジナルを再現するのに躍起になっていた感じだったのが、今は制作側も回数を重ねてやり方を自分のものにしたようで、USA版独自の味が出てきている。
 こうしてUSA版を見ていると、オリジナル版の完成度の高さをあらためて感じる。同じ型で別の人がものを作ると、その型のよさの部分と、作り手のよさの部分の輪郭が見えてくる。この辺りをじっくり見ていくことは、何かものを作る技術を向上させたり、パフォーマンスする技を磨いたりする上で重要な知見を与えてくれると思う。

第ニ作目進行中

 一冊目の執筆作業は残りが再校だけでだいたい落ち着いたので、第二作目となる翻訳書の作業を本格的に進めている。一日に3~4時間翻訳作業にあてて、それを毎日粛々と続けている。慣れてきたおかげで、だんだんペースが上がってきて、週当たりの作業量が2倍になった。1月いっぱいかかると見積もっていたところを二週間前倒しで作業を終えることができそうだ。
 自分が翻訳の作業をしていると、人の訳文に対する見方が変わる。前は気にならなかったような訳し方の拙いところが見えて気になったり、うまい処理の仕方に気づいて参考にしたりと、今までは吸収できなかったことが吸収できるようになる。自分のスキル自体がまだ拙いため、上達の余地が大いにあって、今は何をやっても上達につながるという感じで楽しく仕事ができている。何より、面白い本を選んでよかったとつくづく思う。とりあえず訳していて面白いので、その面白さをうまく表現したいというところがモチベーションになっている。
 一作目は2月下旬、二作目は5月、三作目は夏~秋という予定はなんとか維持しつつ進行中。いずれも手ごたえがあり、ワクワクできる内容になっているのでどうぞご期待ください。

「関係の空気 場の空気」

 日本から買い込んできた本の2冊目、「「関係の空気」 「場の空気」」(冷泉彰彦著、講談社現代新書)を読んだ。この本は、アメリカの大学で日本語を教え、村上龍の主宰するメールマガジンJMMの寄稿者としても活躍する著者が、日本社会の閉塞感を生んでいるコミュニケーション問題を論じたものである。
 「空気」という切り口で、日本人のコミュニケーションが「窒息」している状況を指摘し、それがなぜ生じていて、どうすれば改善に向かうのか、というところを解説している。日本語教師で作家という立場で、アメリカから日本の状況を見ている著者の眼には、「傍目八目」という感じで日本社会の問題が浮かび上がっているのだと思う。コミュニケーションの文脈や言葉の使われ方など、世の中の質的な情報を繊細に捉え、そこから見えてくる問題を一つのテーマで納得感ある形で論じている。
 語り口は丁寧で、言葉の使い方でコミュニケーションのスタイルがどう変わるかという会話例を示しながら進めている。その例がコミカルで笑えるので、単純に読み物としても楽しめる。本の帯に「なぜ上司と部下は話が通じないのか」と大きく書いてあるが、その上司と部下の会話例がコントのネタのような趣きで楽しめるし、なるほどと思うことも多い。
 私自身、毎回日本に帰るたびに、息苦しさのような生きづらさを感じていたのだが、その理由の一つにはこの本で論じられている「空気」の問題があるのだなと合点がいった。言葉を駆使して状況を打開するのではなく場の空気を支配することで圧力をかける、沈黙することでやり過ごす、空虚な言葉でごまかす、そういった息苦しさが社会を覆っていて、そこにいるだけで息が詰まり、消耗する気がする。漠然と感じていたことを、コミュニケーションの問題として整理できた。この本の概念を使えば、私はこの息苦しさから逃れるために、「嫌な空気」に対して、「水を差す」ことで抗っていたのだなと解釈できる。
 この本でも指摘されているように、空気は日本社会だけの話ではなくて、アメリカ社会にもある。場の空気を支配して流れを決めるようなことは日常的に行われている。ただアメリカ社会には、そうした作られた流れに対抗したり、行き詰まり感を打開するためのコミュニケーションスキルを持った人が社会の中に普通にいて、そのおかげでコミュニティの過ごしやすさを生んでいるところがある。
 日本語の話になると、「美しい日本語を取り戻せ」的な実効性を考えない議論ばかりで辟易するが、冷泉氏はこの日本語のあり方にも柔軟で、現実的な考え方をしているところが好感が持てる。また、子どもの国語教育の話に短絡的に結びつけず、広く大人の日本語コミュニケーション力の低下の問題として捉え、それと山本七兵の指摘した日本文化における空気の問題と組み合わせて議論しているところがこの本のよさとなっている。
 日本の社会や組織でのコミュニケーションに息苦しさを感じていて、それがどういうところで生じているかを考えたい時、本書はとても参考になる。抱えている問題を解消できなくても、どこに問題があるかを理解するだけでも気分的にだいぶ違うし、問題の輪郭が見えてくれば、対策を工夫するための知見を得ることができる。楽しく気軽に読めて、しかも得るところの多い、とても良い本である。

ギターヒーロー2の学習支援機能

 Guitar Hero II が11月上旬に発売された。前作Guitar Heroの発売時はものすごい売れ行きで、しばらくは在庫無しの状態で推移していたが、今回は豊富に流通しており、店側もギターコントローラーのでかい箱を置くためのスペースをわざわざ用意しているおかげで、クリスマス商戦の販売機会損失は免れているようだ。
 私も日本から戻ってきてさっそく入手して、暇をみつけては遊んでいる。続編の宿命で、初めてプレイした時の強烈なインパクトはないものの、プレイ感覚の良さは前作と同じで、さらにいろんな曲を楽しめるところがよい。今回もMegadeth、Rush、Heart、Motley Crue、Gun’s N’ Roses、Danzig、Avenged Sevenfoldなど、かなり濃いところが選曲されている。個人的には前作よりも馴染みのない曲が多いなと思ったりしたが、ボーナス曲でVoivodが入っていたりするところに心奪われた。こんな選曲では日本で受けないと思うが、これで十分にマーケットにアピールして、売上ランキング上位に入るというところがさすがアメリカである。床屋でVan HalenどころかOzzyまでかかっている国だけのことはある。デトロイトタイガースの若いピッチャーが右腕の炎症で故障扱いになっていたのが、よくよく調べてみると単にこのゲームをやり過ぎただけだったという話も出ていたりする。FMラジオを聞いていても話題にのぼっていたりするし、このゲームの収録曲はよく耳にする。
 前作から新たに追加された機能に「プラクティス」モードがある。このプラクティスモードはすごい。プレイしていてクリアできない曲が出たときなどに、このモードを利用すれば、自分の苦手なパートだけを選んで、スピードを落として反復練習できる。次々とクリアして、だんだんレベルが上がってくると、ある段階でどうしても弾きこなせないパートのある曲が出てくる。そういうときにこのプラクティスモードは真価を発揮する。前作では曲の始めから最後までプレイする必要があったが、今作はギターソロならギターソロ、コーラスパートが苦手ならコーラスパートだけを選んで集中特訓できる。できないことをできるようになるには根気が要るが、このモードはその負担を軽減して、上達するのを支援してくれる、優れたパフォーマンスサポートシステムになっている。また、前作から新たに追加された要素として、結果表示の際に、パートごとの達成率がフィードバックされるようになった。これを見ると、自分がどのパートができていないかも数字で把握できるので、プラクティスモードと合わせて参照するとさらに学習効率が良くなる。
 この機能を使って反復練習をしていると、自分ひとりではできないレベルまで練習に没頭できる。それを続けていると、少しメタな認識として、広く物事の上達の仕方への認識が変わってくる。今まで挫折していたいろんなこともこんな感じで捉えれば、もう少し上達できるんじゃないかという気になってくる。何か一つのことに打ち込んでやることの効能には、こうした物事への取り組み方のメタな認識が高まることにあると思う。このギターヒーローはそうした一つのものに打ち込む支援をしてくれ、結果として密かにプレイヤーの学習そのものへの認識に作用している面があるように思う。
 技能獲得のためのいわゆるEPSS、エレクトリック・パフォーマンス・サポート・システムの優れたモデルの一つとしても参考になるので、音楽好きで学習支援テクノロジーに関心のある人にはぜひ試してもらいたいゲームである(ギターヒーローはUS版のみしか出てないのだけど、日本ではコナミの「GuitarFreaks V2 & DrumMania V2」にもプラクティスモードが追加されているそうなので、おそらくだいたいのところはイメージできるはず)。

ヘルシー食生活路線への抵抗

 大学時代の同期がペンステートを視察したいということで訪ねてきた。1日しか時間がなかったのでとりあえず回れるところをあちこち案内しただけで、翌日には忙しなく日本に帰っていった。その友人は大学勤務なのでまだ時間の調整がつけられる方だが、勤め人をしているとなかなかまとまった時間を作りにくいものだ。
 二人でキャンパスをまわって、昼にダウンタウンで飯を食った。チェーンレストラン系は昼でもしっかり食えるメニューがあるが、普通のローカルレストランなんかだと、昼のメニューはサンドイッチやハンバーガーなどの軽いものばかりだったりする。とりあえず頼んだサンドイッチが届いて、友人は開口一番「野菜がぜんぜんない・・」フレンチフライも一応野菜だよと言っても気休めで、皿に乗っている野菜はピクルスだけ。二人とも時差ぼけで昼が食欲のピークで、「出されたものは残してはいけません」と厳しく親からしつけられた日本の家庭教育の成果もあり、皿の上の山盛りのフレンチフライをそろって完食。
 引き続き見物して、お土産などの買い物(「DS Liteがあるぞ」と喜んで買っていた)を済ませ、まだ腹は減ってなかったもののとりあえず地元の地ビールレストランへ。ナチョスが今日のおすすめだというので頼むと、山盛りのナチョスがやってきた。そもそも二人で頼むものではなかったかもしれないが、こんなものをすすめるなよと思いつつ、でも他のテーブルでは普通に二人とかでも食べている。ビールに合ってなかなか美味いとは言っても、食べても食べてもナチョスの山は減らない。それにそもそもそんなに腹が減っていない。さすがにこんなものを完食したらエライことになると思って放棄して帰った。
 アメリカでヘルシー生活志向が進んでいるとは言っても、日々の生活はこんな感じで「身体に良くないけど何となく食べてしまうもの地雷」が生活にあふれている。アメリカでこの地雷を踏まずに生活するには、よほど気を使わないといけないし、金が余計にかかる。低所得者層ほど肥満問題を抱えているのは、とりあえず食べられる安いものほど不健康だからである。
 日本人は自炊中心に切り替えればかなりの部分回避できるが、普通のアメリカ人にはそうでもない。日本人の食生活ではピザやチキンウィングやハンバーガーは、たまに食べて食生活の幅を持たせる「ワンポイントリリーフ」的な役割であっても、アメリカ人には日々の食事の「先発ローテーション」に入っていて食す頻度も多い。昼飯の出るミーティングに行けば出るのは必ずピザだし、友だちと集まる時にウィングが出れば「今日はご馳走だな」とばかりにみんな飛びつく。小腹が減って、日本ならコンビニおにぎりでも食べそうなタイミングで食べるのはハンバーガーで、ついポテトもおまけにつけてしまう。そうなってくると、ヘルシー路線も「三歩進んで三歩下がる」といった感じで、全く進まない。
 ヘルシー路線の最大の害悪のように見られているのがファーストフード店で、なかでもマクドナルドは諸悪の根源のような邪悪な存在として見られていた。「スーパーサイズ・ミー」のような映画にも盛り上げられ、「うちの子がデブになったのはマクドナルドが悪い」と便乗して訴えて、賠償金をせしめようとするおかしな人も出てくるほど、社会的な「アンチヘルシーバッシング」がここしばらく進行してきた。
 その後マクドナルドは、サラダメニューを追加したり、CMの路線をヘルシーさわやか系に変えたりして、ブランドにヘルシーイメージを打ち出す方向にシフトした。それにウェンディーズやサブウェイなどの他のファーストフード企業も追従した。
 それで不利になるのは、バーガーキングやデイリークイーンのようなあまりヘルシーなイメージがなく、どうヘルシーイメージを打ち出したところで明らかに無理があって、下手なことをするとブランドイメージが崩壊してしまいそうな競合企業たち。そこでそれらの競合企業がとった戦略は「ヘルシー路線をぶっ飛ばせ」的なブランド強化アプローチ。バーガーキングのCMは、暑苦しい男達が街を練り歩いて「オレたちは肉が食いてぇんだ!」と分厚い肉の入ったワッパーを美味そうにかぶりつく。デイリークイーンはどうしょうもなくカロリーの高そうなシェークを目玉商品にした販促。サブウェイの競合のサブマリンサンドチェーン(名前忘れた)は、サブウェイサンドがいかに具が少なくて、自社のサンドは肉厚かをアピールした。
 マクドナルドらが進めるヘルシー路線は、どこか無理やりなところがあり、申し訳程度にしか見えない。それにそうやってヘルシーイメージの広告が増えても、現実の生活は「不健康地雷」に満ちた食生活であるのは変わっておらず、マクドナルドのメイン商品はその地雷の供給源である。そのためイメージ先行のヘルシー志向路線は、社会的に変なストレスを高める側面があった。バーガーキングらの「アンチヘルシー路線」は「不健康なものをたらふく食わないと何となく飯を食った気がしない」アメリカ人の正直な気持ちを代弁していて、人々をホッとさせて好感度を上げ、マーケティング的にはマクドナルドにカウンターを食らわせた形になっているように見える。
 ファーストフード企業には人々の健康問題もブランド戦略のネタでしかなくても、社会的な肥満問題は深刻化していて、それは医療関係者の反応から伝わってくる。ヘルスケアにゲームを利用するゲームズ・フォー・ヘルスがアメリカで盛り上がりを見せているのは、単に新しいもの好きなアメリカ人の気質が反映されているだけではなく、「ゲームでもなんでも使えるものは使わないとホントにヤバイ」と必死になっているという側面の方が強いように見える。どう見てもゲームには関心のなさそうな、政府系機関の偉いおばあさんが、ゲームの可能性への期待を熱く語っていたり、数億円単位のゲーム開発プロジェクトが幾つも動いているというのは、事の重大さの現れであり、単なる興味本位ではこれほどの状況は起こり得ない。
 アメリカ人の食生活のバランスは、相当に不健康なところで均衡が取れていて、「私は健康に気を使っています」という言い訳程度に過ぎない。ダイエット飲料やサラダメニューの普及は、その言い訳を満たす程度でしかなく、それ以上の本格的なヘルシーさを追求するものを広めようとすると、みんなストレスを感じてしまって、投げ出してしまいたくなる。マクドナルド対バーガーキングの広告合戦は、そうしたアメリカ人の気持ちを反映しているように思う。
 大雑把に言えばアメリカ人のヘルシー志向は、言い訳レベルを超えるとストレスになって嫌になり、ピザをバカ食いしてしまうような人々と、朝も晩もジョギング、酒も飲まずにオーガニックサラダだけ食ってるような極端にハードコアな人々に二極分化していて、ちょうどよいバランスが存在しない。ちょうどよく健康な食生活ができないというのは気の毒と言えば気の毒だし、アメリカ人の食生活習慣を変えるというのは、たいへんなチャレンジであることは間違いない。
 取るべき方向性としては、人々が受け入れられるようなモデル的な食生活を地道に普及させながら、障壁となっているものを消滅させるための政策的なアプローチの組み合わせでいくのが望ましいと思うが、誰もが賛成できて、すぐに実行できる最適解はおそらく存在しないだろう。何とかしたいという想いを持った人々が、粘り強く道を切り開いていけるかどうかにかかっている。アメリカで生活して、日々飯を食っていると、この問題の根の深さをしみじみと感じる。

時差ぼけ健康生活

 日本から戻ってきて5日目、まだ時差ぼけ継続中である。夕方になるとひどく眠くなり、夕飯を食べる前にひと眠りと思ってベッドに倒れこみ、目が覚めるともう夜中。夜中から食べたりするのはよくないので、水を飲んで今度はちゃんと布団をかぶって再び寝に入る。そして夜明け前に腹が減って目が覚めて、そこから活動開始、という毎日が続いている。
 以前は違和感のあったこのパターンだが、もう何度も経験するとだんだん慣れてきて心地よくなってきた。何しろ日が暮れたら寝て、夜明けに活動開始というのは気分が良い。窓の外の朝焼けを見ながら机に向かうのは快適である。しかも夕飯で酒を飲んだり大食したりせずに寝るので、健康的で身体も軽い。
 だがこの健康的な生活も、だんだんと仕事が詰まってくれば時間がずれてきて元通りの不健康生活に戻ってしまう。私のように普段が時差ぼけのような生活をしている人間には、時差ぼけに生活時間を調整できるという効能があることがわかってきた。飛行機のエコノミーの窮屈さに耐えることと、移動後すぐに仕事を詰め込みすぎないことさえ守れば、たまに時差ぼけになって生活するくらいが案外自分に合っているかもしれない。

「企業内人材育成入門」書評

 日本にいる間に、いろいろと読みたい本を買い込んだ。そのなかの一冊として「企業内人材育成入門」(中原 淳 編著, 荒木 淳子, 北村 士朗, 長岡 健, 橋本 諭 著、ダイヤモンド社)を購入してきた。この手の本を面白がって読む人はあまりいないかもしれないが、後で読むつもりで手に取ったら、面白くてついすぐに読んでしまった。
 何はさておき、とてもよい本である。別に著者のほとんどが知り合いだからヨイショしているわけでもなんでもない。よいものはよいものとしてきちんと評価すべきである。この本は「人材育成の教科書」となることをねらいとして書かれ、そのねらいは見事に達せられている。その点だけでも素晴らしいことだが、この本には他にも良い本として評価すべき点が多く含まれている。
 教科書というのは、誰でもわかるノウハウをわかりやすく解説するためのものではなく、長い学習の過程で何度も立ち返って読んで、そのたびに得るものがあるような深みが必要だと思う。この本で扱われている知識は、導入的なところをカバーしつつも、初学者にはやや難しい、少し我慢して背伸びをしないと読めないと思われるものまで含まれている。良い本は、一度読んで終わりではなく、時間を置いて何度も立ち返れば、そのたびに気づきを得ることのできることのできる本だと思う。この本はそうした良さを備えている。
 また、教科書というのは、思想的に中立であるべきとよく誤解されるが、思想的に中立な著作というものはそもそもありえず、どんな著作も何らかの思想やメッセージが込められている。この本の重要なメッセージは、「私の教育論」が跋扈する現状に対する問題提起とともに、「企業内人材育成=研修・セミナーではない」ということと「教育すれば人は必ず学ぶというものではない」という考えが示されている点にあり、そうした問題を掘り下げて考えるための理論や専門な知識が提供されている。
 共著の本によくありがちなのは、章ごとの連携が悪いソロ論文の寄せ集め的な編集になってしまうことだが、その課題もこの本はうまく乗り越えている。複数の専門家がそれぞれの専門知識を持ち寄って、コラボレーションした結果が現れている。このあたりは編者の中原さんの意欲とプロデュースの才覚によるところが大きいのではないかと思う。音楽作品にたとえれば、共著作はソロアーティストのオムニバスアルバムのようになることが多いが、この本は著者グループがバンドとして作ったアルバムのような仕上がりになっている。それぞれの著者が曲を持ち寄って、得意のパートを演奏して、全体を編者がリーダーとなってコラボレーションしながらまとめ上げた感があるところがとても好感が持てる。
 この本が取り上げているそれぞれの分野の専門家から見れば、あれこれ物足りない部分が出てくるのは仕方ないと思うが、そういうことをいちいちあげつらうのは野暮というものである。日本の学術界にはいわゆる「重箱の隅をつつく」姿勢の研究者が多すぎで、そういう人たちからすればこの本は格好の「重箱」かもしれない。だが、今の日本にはその重箱自体を作れる研究者が必要なのであって、人の重箱がないとものが言えない人たちは自らの力不足をまず反省した方がよい。この本はそういう社会の役に立つ重箱を作ろうとしている若手研究者たちによる意欲作であり、まずはそのチャレンジと成果を称えるべきである。
 新しいコンセプトを打ち出して、その土台となる理論書を出すということは並大抵のことではない。そのためこの手の概論書は、その分野の重鎮が手がけるものだと日本では考えられている。だが欧米では、若手の意欲ある研究者たちが大勢で束になって新しい分野を切り開くためにこうした概論書やハンドブックを出すことが通常である。そうした意味において、研究者の層の薄い日本でもこうした意欲作が出てくることはとても喜ぶべきことで、こうした活動が続けば、日本の人材育成分野に良い流れができていくだろう。
 企業の人材育成部門の担当者はもとより、学校教育や広く学習に関わる仕事に関心のある人に読んでほしい一冊である。シリアスゲームに関心があって、シリアスゲームの学習的な側面の知識を深めたい開発者たちにもちょうどよい入門書である。

日本で見つけた便利なもの

 今回の帰国では、東京に3週間滞在とやや長かったので、ウィークリーマンションなるものを初めて利用してみた。ビジネスホテルに連泊するよりもいくぶん安上がりで、部屋も広くて人を自由に連れてこれて、ベッドや洗濯機やテレビのような基本的な備品が揃っているので基本的には快適だった。
 ただ、キッチンがあるので自炊をしようと思っていたら、炊飯器がなくてご飯を炊けず、自炊の基本軸が崩れてしまってうまくいかない。これじゃ自炊できないじゃないかヽ(`Д´)ノ となっていたら、親切なお方が「クック膳」というのがあるよと教えてくれた。電子レンジでご飯が炊けて、他にもいろんな料理に使えるとのことで、さっそくアマゾンで注文してみた。使ってみると、確かにちゃんとご飯が炊ける。ご飯を炊くときは皿を敷けと書いてあるのを見落として、一度目は電子レンジの中が大洪水になってしまったが、二度目からは普通に炊けた。おかげでわさび漬けやつくだ煮など、ご飯のおともをたっぷり楽しむことができた。ちょっとした煮物も手軽にできるようなので、自宅へ持ち帰って使うことにした。
 もう一つ、今回試してみて、おぉーと感動したものは、ボーズのノイズキャンセリングヘッドフォン。ららぽーと豊洲に遊びに行ったとき、In the roomの中にボーズのコーナーがあって、サラウンドのスピーカーシステムや単体のスピーカーなどと並んで、ノイズキャンセリングヘッドフォンの試聴ができた。聴いてみると予想以上に音がよい。隣で話している人の声が全く聞こえず、完全に外の音が遮断された状態になる。飛行機でしょっちゅう移動する人にはとてもよい買い物だと思う。アメリカで買った方が若干安いのだけど、それでも高いのでまだ手が出ない。いずれ手に入れたいと思うぜいたく品だ。