「関係の空気 場の空気」

 日本から買い込んできた本の2冊目、「「関係の空気」 「場の空気」」(冷泉彰彦著、講談社現代新書)を読んだ。この本は、アメリカの大学で日本語を教え、村上龍の主宰するメールマガジンJMMの寄稿者としても活躍する著者が、日本社会の閉塞感を生んでいるコミュニケーション問題を論じたものである。
 「空気」という切り口で、日本人のコミュニケーションが「窒息」している状況を指摘し、それがなぜ生じていて、どうすれば改善に向かうのか、というところを解説している。日本語教師で作家という立場で、アメリカから日本の状況を見ている著者の眼には、「傍目八目」という感じで日本社会の問題が浮かび上がっているのだと思う。コミュニケーションの文脈や言葉の使われ方など、世の中の質的な情報を繊細に捉え、そこから見えてくる問題を一つのテーマで納得感ある形で論じている。
 語り口は丁寧で、言葉の使い方でコミュニケーションのスタイルがどう変わるかという会話例を示しながら進めている。その例がコミカルで笑えるので、単純に読み物としても楽しめる。本の帯に「なぜ上司と部下は話が通じないのか」と大きく書いてあるが、その上司と部下の会話例がコントのネタのような趣きで楽しめるし、なるほどと思うことも多い。
 私自身、毎回日本に帰るたびに、息苦しさのような生きづらさを感じていたのだが、その理由の一つにはこの本で論じられている「空気」の問題があるのだなと合点がいった。言葉を駆使して状況を打開するのではなく場の空気を支配することで圧力をかける、沈黙することでやり過ごす、空虚な言葉でごまかす、そういった息苦しさが社会を覆っていて、そこにいるだけで息が詰まり、消耗する気がする。漠然と感じていたことを、コミュニケーションの問題として整理できた。この本の概念を使えば、私はこの息苦しさから逃れるために、「嫌な空気」に対して、「水を差す」ことで抗っていたのだなと解釈できる。
 この本でも指摘されているように、空気は日本社会だけの話ではなくて、アメリカ社会にもある。場の空気を支配して流れを決めるようなことは日常的に行われている。ただアメリカ社会には、そうした作られた流れに対抗したり、行き詰まり感を打開するためのコミュニケーションスキルを持った人が社会の中に普通にいて、そのおかげでコミュニティの過ごしやすさを生んでいるところがある。
 日本語の話になると、「美しい日本語を取り戻せ」的な実効性を考えない議論ばかりで辟易するが、冷泉氏はこの日本語のあり方にも柔軟で、現実的な考え方をしているところが好感が持てる。また、子どもの国語教育の話に短絡的に結びつけず、広く大人の日本語コミュニケーション力の低下の問題として捉え、それと山本七兵の指摘した日本文化における空気の問題と組み合わせて議論しているところがこの本のよさとなっている。
 日本の社会や組織でのコミュニケーションに息苦しさを感じていて、それがどういうところで生じているかを考えたい時、本書はとても参考になる。抱えている問題を解消できなくても、どこに問題があるかを理解するだけでも気分的にだいぶ違うし、問題の輪郭が見えてくれば、対策を工夫するための知見を得ることができる。楽しく気軽に読めて、しかも得るところの多い、とても良い本である。