「企業内人材育成入門」書評

 日本にいる間に、いろいろと読みたい本を買い込んだ。そのなかの一冊として「企業内人材育成入門」(中原 淳 編著, 荒木 淳子, 北村 士朗, 長岡 健, 橋本 諭 著、ダイヤモンド社)を購入してきた。この手の本を面白がって読む人はあまりいないかもしれないが、後で読むつもりで手に取ったら、面白くてついすぐに読んでしまった。
 何はさておき、とてもよい本である。別に著者のほとんどが知り合いだからヨイショしているわけでもなんでもない。よいものはよいものとしてきちんと評価すべきである。この本は「人材育成の教科書」となることをねらいとして書かれ、そのねらいは見事に達せられている。その点だけでも素晴らしいことだが、この本には他にも良い本として評価すべき点が多く含まれている。
 教科書というのは、誰でもわかるノウハウをわかりやすく解説するためのものではなく、長い学習の過程で何度も立ち返って読んで、そのたびに得るものがあるような深みが必要だと思う。この本で扱われている知識は、導入的なところをカバーしつつも、初学者にはやや難しい、少し我慢して背伸びをしないと読めないと思われるものまで含まれている。良い本は、一度読んで終わりではなく、時間を置いて何度も立ち返れば、そのたびに気づきを得ることのできることのできる本だと思う。この本はそうした良さを備えている。
 また、教科書というのは、思想的に中立であるべきとよく誤解されるが、思想的に中立な著作というものはそもそもありえず、どんな著作も何らかの思想やメッセージが込められている。この本の重要なメッセージは、「私の教育論」が跋扈する現状に対する問題提起とともに、「企業内人材育成=研修・セミナーではない」ということと「教育すれば人は必ず学ぶというものではない」という考えが示されている点にあり、そうした問題を掘り下げて考えるための理論や専門な知識が提供されている。
 共著の本によくありがちなのは、章ごとの連携が悪いソロ論文の寄せ集め的な編集になってしまうことだが、その課題もこの本はうまく乗り越えている。複数の専門家がそれぞれの専門知識を持ち寄って、コラボレーションした結果が現れている。このあたりは編者の中原さんの意欲とプロデュースの才覚によるところが大きいのではないかと思う。音楽作品にたとえれば、共著作はソロアーティストのオムニバスアルバムのようになることが多いが、この本は著者グループがバンドとして作ったアルバムのような仕上がりになっている。それぞれの著者が曲を持ち寄って、得意のパートを演奏して、全体を編者がリーダーとなってコラボレーションしながらまとめ上げた感があるところがとても好感が持てる。
 この本が取り上げているそれぞれの分野の専門家から見れば、あれこれ物足りない部分が出てくるのは仕方ないと思うが、そういうことをいちいちあげつらうのは野暮というものである。日本の学術界にはいわゆる「重箱の隅をつつく」姿勢の研究者が多すぎで、そういう人たちからすればこの本は格好の「重箱」かもしれない。だが、今の日本にはその重箱自体を作れる研究者が必要なのであって、人の重箱がないとものが言えない人たちは自らの力不足をまず反省した方がよい。この本はそういう社会の役に立つ重箱を作ろうとしている若手研究者たちによる意欲作であり、まずはそのチャレンジと成果を称えるべきである。
 新しいコンセプトを打ち出して、その土台となる理論書を出すということは並大抵のことではない。そのためこの手の概論書は、その分野の重鎮が手がけるものだと日本では考えられている。だが欧米では、若手の意欲ある研究者たちが大勢で束になって新しい分野を切り開くためにこうした概論書やハンドブックを出すことが通常である。そうした意味において、研究者の層の薄い日本でもこうした意欲作が出てくることはとても喜ぶべきことで、こうした活動が続けば、日本の人材育成分野に良い流れができていくだろう。
 企業の人材育成部門の担当者はもとより、学校教育や広く学習に関わる仕事に関心のある人に読んでほしい一冊である。シリアスゲームに関心があって、シリアスゲームの学習的な側面の知識を深めたい開発者たちにもちょうどよい入門書である。