型にある良さと演じ手の良さ

 先日、徳永英明のカバーアルバム「VOCALIST」、「VOCALIST 2」のCDをいただいたので、仕事の合間などに聴いている。このアルバムは、女性アーティストのヒット曲を徳永英明がカバーしたもので、「時代」、「異邦人」、「いい日旅立ち」など、私が小学生かもっと幼い頃に耳にしていた懐かしい曲から、「ハナミズキ」「涙そうそう」のようなちょっと最近めの曲まで収録されている。
 カバーアルバムにはいくつかのよさがある。すでに他の人が歌ってヒットした曲なので、その曲の持つ良さを楽しめ、さらにそのパフォーマーの持つ表現力やアレンジの部分も楽しめる。少し前にトリビュートアルバムというのが流行って、偉大なアーティストの曲を、そのアーティストに影響を受けた人たちがカバーした曲を集めたものが結構出ていた。これも元の曲をいろんなカラーを持つアーティストたちが料理するのを聴く楽しさがある。さらには演劇で異なる演出家や役者によるものを見比べたり、クラシック曲で異なる演奏者や指揮者をいくつも聞き比べるのも似たような楽しさだと思う。
 良い作品というのは、その曲なり戯曲なりの「型」が持つ良さと、それを演じるパフォーマーの持つ良さが組み合わさったものだと思うが、このような関係は芸能的なパフォーマンスに限らないと思う。同じ教科書を使って教える教師、同じ病気を治療する医者、同じ製品を売るセールス、何か一つの結果を求めてパフォーマンスを行う仕事には、いずれも表現の仕方やアプローチの仕方に一つの型があり、それを扱うパフォーマーの創造力や技術によって結果が変わる。
 優れて創造的な人は、参考にできるものが少なくても、自分でその型となるものを創ることができ、自分の表現の仕方も工夫して磨き上げることができる。そこまで創造的でない人でも、「あ、こうやればいいのか」というのがピンと来るようなわかりやすい「お手本」があれば、自分なりの工夫をしてアウトプットの質を高めることができる。優れたオリジナルは、そのようなお手本として機能するが、工夫なくただそれを真似るだけでは、ただのコピーになってしまって自分の味は出せない。何かヒット作が出たあとにあふれるフォロワーのほとんどは、表面的なコピーしかできないものが多く、だからその流行が過ぎると行き詰まって消えていく。
 ただのコピーから脱却するには、一つのモチーフに対する表現の幅を広げることが必要で、自分の表現の型を持った優れたパフォーマーによるパフォーマンスは、その助けとなる要素が多く含まれている。優れたパフォーマーがオリジナルをどう料理して表現しているかを学んでいけば、ヒントの少ない状態では自分の型を作れない人でも、コピー脱却に向かうことができる。
 そのような意味で、よいカバーアルバムは良い教材になる。私は歌手を目指しているわけではないので直接の参考にはならないが、自分の分野にもカバーアルバムのような要素を持つものはあちこちにある。
 このアルバムでは、そのような自分の表現の型を持つ徳永英明が、自分の持ち味で良い曲を静かにしっとりと歌っている。そもそも徳永英明自体かなり懐かしい存在になりつつある上に、歌っている曲はどれも昔のヒット曲ばかりなので、さらに懐かしい気分になれる。ついでに「壊れかけのRadio」や「輝きながら」などの昔の徳永英明のヒット曲も引っ張り出してきて聞きたくなる。そんな気分に共感できる人にお勧めのCDである。