ダメ論文と優れた論文

 ある学会の発表論文の査読を頼まれて、論文読みの日々が続いている。国際学会なので論文は英語。この分野の査読ができる研究者がつかまらなかったからか、日本でやるから日本人の査読者も入れた方がよい、ということでお呼びがかかったのかどうかはわからないが、とりあえず声が掛かってきて、結構な本数の論文を任されたので、知り合いの研究者仲間にも査読に加わってもらい、手分けをして読んでいる。
 今までに読んだ論文は、概ねレベルが高く、読んでいて面白くてつい役目を忘れて読み込んでしまう論文が結構ある一方で、文献レビューも研究方法もお粗末で、読んでいてイライラして血圧が上がってくるような論文もある。そういう時には、容赦ない手厳しいコメントを返したい衝動に駆られる。でも、提出する側の表情が浮かんでくると、そのまま抜いた刀を振り下ろすことはできなくなる。できの悪い論文は必ずしもその筆者のできの悪さを反映しているとは限らず、一つのできの悪い作品の背景にはさまざまな事情があるものだ。
 この手の学会の論文査読というのは、査読者の手元には匿名の形で渡される。匿名でなければいろんな政治や人間関係が絡むので、客観的に評価することはできなくなる。だから匿名なのは査読者にも投稿者にも都合が良い。相手が誰だかわからないおかげでこちらもコメントしやすい。なかには書かれている内容から筆者がどこの人かを容易に推測することも可能な場合もあるが、今のところどの論文も実際に誰が書いたかはよくわからない。今手にしているできの悪い論文も、たぶん大学院生か、教員になりたての若手研究者だろうとか、引用文献からどこの国の研究者だろうとか、そのくらいのことが推測できる程度だ。
 世の中には匿名なのをいいことに、容赦なく非建設的な批評を書き連ねる査読者もいるという話をよく聞く。でも、受け取る相手のことを少しでも想像できるなら、ボロカスに書いたコメントを自分が受け取ることを思い浮かべることができるなら、とてもそんなことはできない。かといって、ダメなものをそらぞらしくほめても仕方がないし、建設的にコメントするにも限度がある。明らかにレベルの低い論文を受け入れては、学会のクオリティが保てない。「この程度でも通るんだ、へへッ楽勝♪」とは思ってもらいたくない。そういう腐ったミカンを放っておくと、あっという間に周りの良いミカンも腐らせてしまう。なので、そういう時は少し知恵を絞って、建設的でありつつもその論文のダメさ加減をわかってもらうような形でコメントするよう心掛ける。
 なかには、ものすごくレベルが高く、ほめる以外コメントのしようがない論文もある。了見の狭い査読者は、そういう論文でも重箱の隅を上手につついて、瑣末な批判をあれこれ書き立てるのかもしれないが、いい論文はいい論文であって、気づいたところは指摘しつつも、素直にほめれば良い話だ。査読者とは学会のクオリティを保つための門番的な存在か、成長過程の研究者を支援する存在以上のものではないと思う。間違っても、査読者が無駄にごちゃごちゃと研究者を惑わしながら存在感をアピールする場ではない。
 それに、優れた論文を読むと身が引き締まる思いがして、自分もこういう研究をしないといけないなと励まされる。論文が栄養源となって、論文を読んだあとの仕事のノリも違ってくる。「なるほど、こういうまとめ方があるのか」と感心させられることや、読んでなかった重要文献が見つかることも多い。査読をしながら多くの気づきや学習がある。
 査読を引き受けた時はやや面倒な気がしていたが、査読者というのは吸収できることが多くて、良い論文からもダメ論文からも学ぶところがあって、なかなか楽しいものだと思った(そうでも思わないとやってられないので、半分空元気で言ってはいるけれども)。ただそう思えるのは、ちょうどよいボリュームで、良い論文が読めるから楽しめるのであって、どうしょうもないダメ論文を大量に査読させられることになったら、楽しみようがない。今回もたまたま手伝ってくれる研究者が確保できたからよかったものの、下手をすると今の3倍の本数の論文を読まされるところだったので、そうなると状況はずいぶん違っただろう。
 実際に関わってみると、査読というシステムを保つのも大変なのだなとよくわかった。多くの学会で査読なしで申し込めば誰でも発表できる形にしているのも、査読のシステムを保てないからで、そんなところで無理して査読付きにしても、学会という体裁自体が保てなくなるということなのだろう。

今日の教訓-継続性と文化と

 今日ふと考えたことをいくつか。
★続けることの大切さ
 「Don’t Bother Me Mom-I’m Learning」の翻訳書の初校ゲラが出版社から届いて、現在校正作業中。分厚い原稿の束を目の前にすると、ほんとに自分でこんなに訳したのかという気になってくる。でも一日数ページ、毎日続けて100日もやれば本一冊分の分量には達する。当たり前のことながら、「継続は力なり」で、ものすごい馬力を持ってなくてもコツコツやれば結果につながるということだ。
★グズグズも人生の一部
 夕方、半年近くぶりに大学のジムのプールに泳ぎに行ってきた。すごく気持ちが良くて、なぜもっと早くに再開しなかったのかという気になった。プールに限らず、少し面倒くさいけども自分のためになるとわかっていることは、行動を起こせば必ず、なぜもっと早くやらなかったのだろうという気分にさせられる。だからもっと早く行動すべきなのはわかっているけれども、やっぱりグズグズと行動を起こさないでいる時間が長い。そんなグズグズしている自分も自分、その時間も自分の人生の一部であって、そんな自分とどう折り合いをつけていくかというのは一生ついて回る人生の課題なのだなと思う。ちょっとした方向修正も、長い目で見れば進んでいく道も大きくずれていく。何事もちょっとしたことの積み重ねか。
★文化とは「当たり前にできること」が織り合わさったもの
 期末が近い週末のガラガラのプールで、泳ぎながらふと習慣について考えた。温暖な南の方で育った僕には、泳ぎは結構身近なもので、学校でも夏の間の体育はずっと水泳だったりして、泳ぐ機会は普通にあった。とても上手いとはいえないけれども、何か運動を選ぶとしたら上位に入るくらいには好きだし、趣味として楽しめる。一方で、スキーは高校卒業まで一度もやる機会がなかった。大学の時に一度行ったきりでまるでダメ。もうおそらく一生やりたいとは思わない。ゴルフは身近だったのでずいぶんやったけれども、テニスはさっぱりだ。
 こんな風に、自然と周りに合ったから始めたり、縁遠かったからやらなかったりしたことの組み合わせが、一人の人間の文化を形成する。その人が存在する環境、あるいはコミュニティにも複数の要素が組み合わさる形で文化となっている。何かの芸やスキルを仕込まれるにしても、それは無理やりではなく、何かその集団において必然的な理由があったり、身近だったりすることでそこで仕込まれる何かが選択される。新入社員に裸踊りを仕込むのが伝統となっている商社があったとして、その伝統もたどっていけば何らかの理由や環境的な要因がそこに存在するのだろう。
 「学びの文化」と言った場合、そこでの学びは構成員が学ばされる性質のものではなく、自然と何かが学ばれていて、自然と何かが身についていることがその集団の持つ性質となる。学ぶ意志がそこに介在する場合もあれば、介在しない場合もある。だが、その集団の中にない要素を無理やり学ばせようとするのは、学びの文化たり得ない。学習と実践の乖離は往々にしてその集団にとって不自然なことを学ばせようとする、あるいは学ぼうとすることによって生じる。企業内研修部門の担当者が企画する研修が現場の社員に評判が悪いことが多いのは、この学習と実践が乖離したものを義務的に押し付けようとするためだという見方ができる。その集団なり組織なりにはすでに文化が形成されており、その文化にとって必然的なものや自然なものが受け入れられ、不自然なものは受け入れられにくい。必然性が見えにくいものを取り入れる時の対立は、システム内のコミュニケーション、またはネゴシエーションの問題であり、導入の仕方の駆け引きもまたその集団の文化的要因の影響を受ける。
 何が継続できて、継続できないかは、その人の意志の問題であると同時に、その人が所属する集団や生活する環境の持つ文化の影響の帰結でもある。デブだらけのコミュニティに育てば、デブになりやすいし、車が不要な地域で生活すれば、車の運転技術は向上しにくい。そんな感じで、学びとは文化の影響下にあるし、文化と切り離された学びというのは定着しにくい。そのような意味において、学校とは、学習者を既存の文化と切り離して、独自に文化を作ることで、意図したものを学びやすくする存在だと言える。

松坂vs.イチローの中継での扱い

 日本でも多くの人が観ていたことだと思うけど、今日はマリナーズ対レッドソックスの試合をスポーツ専門テレビ局のESPNでライブ中継していた。
 とにかく日本語があふれていた。番組開始早々いきなり「成功」という日本語の解説から入って、球場内のあちこちに看板や、ファンの着たTシャツに日本語が書かれているのを映し出していた。さらに極めつけに、イチローの3打席目だったか、NHKの中継の音声がそのまま流されて、対戦の間1分間ほどNHKのアナウンサーと解説者の元マリナーズ長谷川さんのやりとりが全米の電波に流れていた。
 松坂・イチローのへ注目や二人の存在感は大変なものだったが、試合自体はマリナーズのヘルナンデス-城島のバッテリーがすっかり主役を食ってしまっていた。この試合の球場は満員でえらく盛り上がっている感じだったが、その後やっていた他の試合の中継では客の入りがいまいちだった。この辺りの勢いの違いには、レッドソックスの松坂への投資が余裕でもとが取れるというのがなるほどと思わされる。パイレーツの桑田投手への期待が高いのもよくわかる。
 最近のアメリカのメディアは日本のものや日本語がずいぶんよく出てくると思っていたのが、松坂人気でさらに盛り上がって、どこまで加熱するのか気になるところだ。

教育用ソフトウェアは効果がない?

 米教育省が主導して実施された、学校教育用ソフトウェアの学習効果研究プロジェクトの中間報告書が先週リリースされた。これが教育メディア開発者や教育研究者の間で話題になっている。
Effectiveness of Reading and Mathematics Software Products: Findings from the First Student Cohort (National Center for Education Evaluation and Regional Assistance)
http://ies.ed.gov/ncee/pubs/20074005/index.asp
 この研究では、学校カリキュラムのリーディングと算数・数学の授業で利用されている主要な教育用ソフトウェアを対象に、全米各地の学校でそれらのソフトウェアを利用した授業と、利用しない授業(もしくは従来通りの授業)を同じ期間実施して、標準テストの結果を比較した。(この研究で使用されたソフトウェアについては、ビル・マッケンティさんのブログにリンク付の一覧が出ている)。
 レポートでは、標準テストの結果から、「教育ソフトウェアを使った授業に特に有為な変化は見られなかった」ということが結論付けられた。そのほかの主な発見として次のようなことも補足されていた。
・実験で利用するソフトウェアに慣れるために、実験前の夏休みに教師トレーニングを実施し、実施後教師たちのほとんどは、そのソフトウェアで授業をする自信がついたと答えたが、実際に授業をしてみると自信のレベルは下がった。
・テクニカルな問題は、インストール時の不具合や導入時のちょっとした混乱、ハードウェアの不具合など軽微なものがほとんどで、解消不可能な問題は生じなかった。
・ソフトウェアを利用した授業では、生徒たちは自分で練習に取り組む傾向があり、教師たちは講義をするのではなく学習促進的な役割を担う傾向にあった。
 この研究報告は、2年間プロジェクトの1年目のもので、2年目には今回不慣れな状態で授業を実施した教師たちにもう一度同じソフトウェアを利用して授業を行ってもらい、その成果の違いをみるなどの研究が盛り込まれるそうだ。
 米教育省による大規模研究プロジェクトだったこともあり、大手メディアはこぞってこの結果を報道した。その見出しには「教育テクノロジーは学習改善につながらない」「テクノロジー利用教育の効果に疑問」などという文言が並んでいる。教育メディア研究者の間でも注目が集まっていて、あちこちで取り上げられている。
 この研究結果をどう捉えるかは、よい議論のネタになる。そもそもこの研究方法が適切だったのか、この結果の出し方は適切だったのか、この結果が何を意味するのか、この結果が与える影響はどのようなものかなど、教育分野における実証研究の事例として多くの観点を与えてくれる。
 この研究に対する批判として最も目立つのは、選ばれた教育用ソフトウェアはまとめて扱われていて、よい成果を出したものもそうでないものも一緒にまとめて平均化されているところで、そんなことをしたらよい結果が出るわけではないではないか、というもの。よいソフトも悪いソフトも一緒くたにして、教育ソフトウェアを使っても学習効果は改善しないなどと言われても困る、いろんな算数の教科書で効果を調べたのに平均したら点数が悪かったので「今使っている算数の教科書は使えない」と結論付けているようなものだ、というわけだ。そんな状況で、このような分析方法と結論の出し方には疑問が残る。
 教師トレーニングが十分だったかとか、新たな授業を実施する際の導入の方法が適切だったかなどの点も考慮する必要がある。授業を行う教師は無作為に選ばれたということなので、新しい教育方法を導入する際に成功要因として重要視されるリーダーシップの問題はここでは無視されていることになる。
 報道のされ方が最も懸念されるところだ。「教育テクノロジーは効果なし」という見出しだけ見て、一般の人は短絡的に教育メディアがダメなものだと考えるおそれがある。政治家たちの教育政策に対する印象を左右して、教育予算におけるテクノロジーへの配分が減るなどの悪影響は容易に起こりうる。
 教育用ソフトウェアの売り手にとっては、厳しい状況を迎えることになると思われる。ただ、ここで対象となったソフトウェアはいずれも一昔前に開発されて10年以上使われているものばかりで、必ずしも最新のノウハウを持って開発されたものではない。そのため、次世代の教育用ソフトウェアの開発には拍車がかかって、むしろよい結果を生むということも考えられるので一概に悪いことではないだろう。
 そんな感じで、アメリカの教育工学分野は少し騒がしい感じになっている。ちょうどシカゴでAERAが開催中なので、この報告の話題が研究者たちの間で盛り上がっていることだろう。

「プリズン・ブレイク」シーズン2終了、他TVネタ

 シーズンの区切りを迎え、各局のTV番組は一区切りしてきた。「プリズン・ブレイク」は先週でシーズン2のファイナルだった。アメリカのTVドラマは、人気が出ると継続されてストーリーがどんどん引き伸ばされていく。プリズン・ブレイクも人気シリーズとなったおかげで話は続き、マイケルとリンカーンの受難は続く。面白いので次のシーズンが始まってしまえばまた見てしまうとは思うけども、この番組はここで区切りをつけた方がすっきりしてよかった気もする。ちなみに、このTVドラマの現象とは対照的に、映画の方は結構な大作風の作品であってもきっちり2時間以内に抑えているものが多い。このプリズン・ブレイクのように同じような作風でじっくりストーリーを描写するTVドラマを見慣れてしまったせいもあって、その手の映画をたまに見るとストーリーの展開が粗雑な感じに見えてしまうことがある。
 「24」もシーズン6が佳境に入ってきた。話のひっくり返し方はいつも意外なところから出てくるのが面白くて、見ている側もだんだんどこがひっくり返りどころかを探しながら身構えて見るようになる。作り手もそれを意識しているようで、この人ももしかしたら悪役かも、とにおわせるような演出をしている。善から悪、悪から善とひっくり返し方も気分がよいものもあれば嫌な気分になるものもある。結局は引き込まれて毎週見てしまう。
 ドナルド・トランプの「ジ・アプレンティス」はあと2回で終了。「アメリカン・アイドル」はまだベスト8なのでもうしばらくやっている。いずれも人気番組として定着していて、そういえば留学してきてTVを見てついていけるようになった頃(留学当初1年くらいは、どんなものでも30分も見れば眠りに落ちていた)からずっと見ている。
 夏の間は、これらの主力番組はお休みで、その間は別のラインアップになる。これから始まるものの中では、「サバイバー」「ジ・アプレンティス」のプロデューサー、マーク・バーネットがスティーブン・スピルバーグと組んだ、映画監督オーディション番組「On the Lot」が一番面白そう。映画監督版のアメリカンアイドルのような趣向で、毎週若い映画監督の卵たちが撮った映像を放送し、視聴者投票で毎週勝ち残っていって、最後に残った一人がドリームワークスとの大きなディールを獲得できるとのこと。
 あとは昨年の夏に放送されて人気の高かった発明家オーディション番組「アメリカン・インベンター」もシーズン2放送に向けたオーディション中、それとカリスマシェフ、ゴードン・ラムジーのシェフオーディション番組「ヘルズ・キッチン」は3シーズン目が開始されるので、これらも楽しみにしている。日本に帰っている間のビデオ録画をどうしようか迷う。

日本の英語教育の呪い

 今学期は二つの授業を聴講している。そのうち一つの授業は、「デザインベースド・リサーチ」と呼ばれる研究手法について、主要な論文を徹底的に読んで、研究計画を書いてこの研究手法を身につけようという内容。授業の内容については改めて書くことにするが、この分野の主要論文を毎週3~4本読んできて、クラスでディスカッションする。授業のスタイル自体はオーソドックスな大学院の授業という感じなのだが、議論の中身が濃くて得るものが多い。
 課題文献は抽象的な内容も多く、学期の最初の頃は、読んでわかったようなわからないような状態だったが、毎週食らいついて読んでいくうちに、理解できるところが増えてきて、読みこなせる量も増えてきた。読書で知識を得ながらディスカッションを重ねるにつれて、受講者全体の理解が深まり、議論の密度や高まっている。
 留学5年目も後半に入った今期になってようやく、普通の大学院生ができる程度の予習量がこなせるようになった気がする。ちゃんと論文が読めるようになると、授業も面白くなり、身につくものも多くなる。知識的に追いついてきたという面もあるが、最初の頃は英語力の低さの性で取りこぼしがとても多かった。予習が間に合わないままで授業に出る、予習が十分でないから授業で得られるものも少ない、授業の内容を消化できないから次の予習はさらに遅れる、という悪循環で半分オチこぼれかけながらどうにか乗り越えてきた感じだった。
 3年目くらいから少しずつ理解できる部分が増えてきて、予習と授業のサイクルは徐々に改善された。でも今思えば、最初の2年間はどうしようもなくわからなくて、何をいったいやっていたんだろうという暗澹とした気にさせられる。ほんとに当時は英語力不足に足を引っ張られた。それはまるで日本の英語教育の呪いをかけられたかのようで、時間をかけて少しずつ無力化して、最近になってやっと呪いが解けたかなというところ。それでもまだやっとまともなスタートラインに立ったような心境だ。
 全てを英語力不足のせいにするつもりはなく、新しいことを学ぶのは英語でも日本語でも大変なのは間違いない。とはいえ、英語力がもう少しましであれば、現在のレベルまで到達するのもまだずいぶん早かっただろうこともまた間違いない。今となっては何を悔やんでもしょうがないのだが、やはり英語がものすごいネックになったことによるロスがとても大きいのが残念でならない。
 これが自分だけならまだしも、日本の多くの研究者たちが同じように留学してきて英語で苦労しているわけだし、英語が苦手なせいで海外で活躍する機会を逃してしまっている人もすごく多いだろう。そんな状況がもう何十年も延々と続いているのだから、この国家的なロスは膨大だろう。言ってみれば、日本の英語教育の呪いが国全体を覆っているようなものだ。英語ができればなんでも解決するわけではもちろんないが、少なくとも英語で膨大な量の知識創造と流通が行われている中で、その流れから外れた状態を余儀なくされているのは問題だと思う。
 自分自身、英語教育を自分の主要テーマとしようとは考えてないのだが、この英語教育の呪いに苦しめられた身、しかも教育分野の研究者の身としては、後の世代の人々がいつまでもこの苦しみを味わっているのを見過ごすことはできない。教材になるかサービスになるか、そのどちらでもない形態のものかはまだ明確ではないが、自分のキャリア人生の間にこの呪いに対して何か一矢報いるものを作りたいと思う。

目の前の難題とブログ

 何か難しい問題に取り組んでいると、ふとブログで書きたいネタが浮かぶ。そういう時は頭がさえているので、自分の納得のいくものが書けることが多い。取り組んでいる問題が難題で厄介なものほど、その傾向は高まる。
 でもそうやってブログを書くことに時間を使っていて気づくと、肝心な目の前の難題は片付かないまま時間は過ぎていく。これではマズイと思って、どんなにブログネタが思いつこうが目の前の問題に集中することにした。
 するとブログの更新頻度は下がるものの、問題の方はその分前進するというわけではなく、停滞して生産のない時間だけが累積していく。
 ブログを書くのは頭のさえてない時間にしようと思って実行してみると、頭のさえない時間というのはそもそも生産的でないので、たいした物は書けない。ネタをストックしてあってもそれを形にできないほどに頭がさえてない。仕事が一区切りして暇な時にブログを書こうとしても、難題から逃げて書いている時ほどによいものがかけないことが多い。
 そんなことの繰り返しで、結局のところは仕事のできる頭で、現実逃避でブログに向かっている時が一番ましなものが書けるという状態になっている。こんなことをグダグダ書いている今は、書き出すと時間がかかるものに手をつけるとマズイ、でも目の前の仕事は進まないので何か他のことをやりたい、というせめぎ合いの状況にいる。こういうときにぐずぐずせずに、目の前の難題に集中して仕事が進むようになりたいものだ。生産性でもう一歩レベルを上げるための今の自分の課題だ。

やったつもりになってやってないこと

 最近ふと思うのだが、何かふとアイデアが浮かんで、やろうと思っていてやらずに忘れていて、そのまま脳内で完結してやったつもりになってしまっていることがよくある。
 特にブログのネタを思いついた時にその傾向が多い。あ、これブログに書こう、と思いつくことは日々結構あるのだが、忙しくなって書けない時や、書きかけてうまくまとまらずに下書きのまま放置してしまうことがよくある。
 困るのは、再び同じことを思い出した時に、実際に行動したかどうか自分ではっきりしないことだ。ブログであれば、本当に書きたいものなら過去ログの検索でもして書いていないことを確認してでも書くのだが、そうでもないものはどっちだったか悩んでいるうちに面倒くさくなってやめてしまう。そんな感じでボツになったネタは結構ある(ブロガーの皆さんはそんな経験ないでしょうか?)。
 今もこういうネタで前に何か書いた気が少ししながら書いている。これは普段考えていることが多すぎるのか、それとも生活が単調なせいなのか。あるいはこれは老化の始まりか!?いずれにしても、思いついたことはメモなり何なりして、脳の外で管理する習慣をつけた方が間違いなさそうだ。

外山恒一候補の政見放送に思う

 ネットを何気に見ていたら、YouTubeで東京都知事選の外山恒一候補の政見放送に出くわした。すごいインパクト。
外山恒一候補の政見放送(YouTube、以下、音がでかいので注意)
http://www.youtube.com/watch?v=ccwpbsJsWvM
 オリジナルの映像だけでもじゅうぶん見ごたえがあるけど、ユーザーたちがこの映像を素材に遊び始めて、この映像を素材にして編集されたコンテンツが増殖している(検索結果)。BGMや、アニメの有名な台詞をかぶせたりしながら、作り手たちちがだんだんとエスカレートしてきている。たとえば、下のはただBGMをつけただけで、ずいぶん味わいが変わるものだと感心した。
外山恒一候補の政見放送Sound ver
http://www.youtube.com/watch?v=0B-f7l6BKCI
 さらにリンクをたどっていくと、昔、内田裕也が同じようなことをしていた映像も出てくる。そういうことがあったとは聞いていたが、実際に映像を見られるとは思わなかった。他にもドクター中松や又吉イエスなど、この手の候補者の政見放送を見ることができて、一つの映像アーカイブとして機能している。
無所属 内田裕也
http://www.youtube.com/watch?v=_w7zHiygK1Y
 ユーザーが持ち寄ってコンテンツが蓄積されるこの仕組みにも課題がある。たとえば、こうして注目が集まるコンテンツができると、そのコンテンツを検索するキーワードを全く関係ないコンテンツに関連づけて検索で引っかかるようにする人たちも現れる。こういうのが増えていくと、一般的なキーワードでは何も検索できないようになってしまう。ユーザーの力で新たな価値が生み出されるのと同時に、悪貨が良貨を駆逐する現象も進んでいる。
 それに、毎度思うことだが、そもそもアメリカの片田舎で夜中にこんな映像を見て笑っていること自体たいしたことで、ここ数年で留学の風景はずいぶん様変わりしたのだろうと思う。この部分だけ切り取ってみると、日本にいるのと何ら変わりはない。

ピッツバーグ桑田ケガ、残念

 ピッツバーグパイレーツで開幕メジャーを目指していた、前巨人の桑田投手が不運なケガで開幕メジャーは絶望となったとのこと(記事)。
 ピッツバーグなら見にいけないことはない距離なので、パイレーツに日本人選手来ないかな、来ないだろうなと思っていたら、思いがけず桑田がやってきて、しかももう一息でメジャーに残れるところまで来ていてとても期待していたのだが、残念なことになってしまった。
 パイレーツの傘下の2Aアルトゥーナ・カーブがあるアルトゥーナまでなら車で40分ほどなので、ケガ後の調整登板などで出てきたりしたら、ぜひ見に行きたい。でもそんなことなら、そもそも東京に住んでいた頃は神宮も東京ドームももっと近かったのにという気もするけど、野球が見たいというよりは、異国の地でがんばっている桑田投手を見たいということなので、ちょっと意味合いが違う。
 でも、こういう刺激を受けたおかげで、日本に帰ってからも野球を見に行ってみたい気が少しは高まったことには違いない。このような間接的なモチベーションアップの効果は、学習意欲や購買意欲と通じるところがあるので、似たようなメカニズムを演出すれば応用できるかもしれない。