ダメ論文と優れた論文

 ある学会の発表論文の査読を頼まれて、論文読みの日々が続いている。国際学会なので論文は英語。この分野の査読ができる研究者がつかまらなかったからか、日本でやるから日本人の査読者も入れた方がよい、ということでお呼びがかかったのかどうかはわからないが、とりあえず声が掛かってきて、結構な本数の論文を任されたので、知り合いの研究者仲間にも査読に加わってもらい、手分けをして読んでいる。
 今までに読んだ論文は、概ねレベルが高く、読んでいて面白くてつい役目を忘れて読み込んでしまう論文が結構ある一方で、文献レビューも研究方法もお粗末で、読んでいてイライラして血圧が上がってくるような論文もある。そういう時には、容赦ない手厳しいコメントを返したい衝動に駆られる。でも、提出する側の表情が浮かんでくると、そのまま抜いた刀を振り下ろすことはできなくなる。できの悪い論文は必ずしもその筆者のできの悪さを反映しているとは限らず、一つのできの悪い作品の背景にはさまざまな事情があるものだ。
 この手の学会の論文査読というのは、査読者の手元には匿名の形で渡される。匿名でなければいろんな政治や人間関係が絡むので、客観的に評価することはできなくなる。だから匿名なのは査読者にも投稿者にも都合が良い。相手が誰だかわからないおかげでこちらもコメントしやすい。なかには書かれている内容から筆者がどこの人かを容易に推測することも可能な場合もあるが、今のところどの論文も実際に誰が書いたかはよくわからない。今手にしているできの悪い論文も、たぶん大学院生か、教員になりたての若手研究者だろうとか、引用文献からどこの国の研究者だろうとか、そのくらいのことが推測できる程度だ。
 世の中には匿名なのをいいことに、容赦なく非建設的な批評を書き連ねる査読者もいるという話をよく聞く。でも、受け取る相手のことを少しでも想像できるなら、ボロカスに書いたコメントを自分が受け取ることを思い浮かべることができるなら、とてもそんなことはできない。かといって、ダメなものをそらぞらしくほめても仕方がないし、建設的にコメントするにも限度がある。明らかにレベルの低い論文を受け入れては、学会のクオリティが保てない。「この程度でも通るんだ、へへッ楽勝♪」とは思ってもらいたくない。そういう腐ったミカンを放っておくと、あっという間に周りの良いミカンも腐らせてしまう。なので、そういう時は少し知恵を絞って、建設的でありつつもその論文のダメさ加減をわかってもらうような形でコメントするよう心掛ける。
 なかには、ものすごくレベルが高く、ほめる以外コメントのしようがない論文もある。了見の狭い査読者は、そういう論文でも重箱の隅を上手につついて、瑣末な批判をあれこれ書き立てるのかもしれないが、いい論文はいい論文であって、気づいたところは指摘しつつも、素直にほめれば良い話だ。査読者とは学会のクオリティを保つための門番的な存在か、成長過程の研究者を支援する存在以上のものではないと思う。間違っても、査読者が無駄にごちゃごちゃと研究者を惑わしながら存在感をアピールする場ではない。
 それに、優れた論文を読むと身が引き締まる思いがして、自分もこういう研究をしないといけないなと励まされる。論文が栄養源となって、論文を読んだあとの仕事のノリも違ってくる。「なるほど、こういうまとめ方があるのか」と感心させられることや、読んでなかった重要文献が見つかることも多い。査読をしながら多くの気づきや学習がある。
 査読を引き受けた時はやや面倒な気がしていたが、査読者というのは吸収できることが多くて、良い論文からもダメ論文からも学ぶところがあって、なかなか楽しいものだと思った(そうでも思わないとやってられないので、半分空元気で言ってはいるけれども)。ただそう思えるのは、ちょうどよいボリュームで、良い論文が読めるから楽しめるのであって、どうしょうもないダメ論文を大量に査読させられることになったら、楽しみようがない。今回もたまたま手伝ってくれる研究者が確保できたからよかったものの、下手をすると今の3倍の本数の論文を読まされるところだったので、そうなると状況はずいぶん違っただろう。
 実際に関わってみると、査読というシステムを保つのも大変なのだなとよくわかった。多くの学会で査読なしで申し込めば誰でも発表できる形にしているのも、査読のシステムを保てないからで、そんなところで無理して査読付きにしても、学会という体裁自体が保てなくなるということなのだろう。