今日の教訓-継続性と文化と

 今日ふと考えたことをいくつか。
★続けることの大切さ
 「Don’t Bother Me Mom-I’m Learning」の翻訳書の初校ゲラが出版社から届いて、現在校正作業中。分厚い原稿の束を目の前にすると、ほんとに自分でこんなに訳したのかという気になってくる。でも一日数ページ、毎日続けて100日もやれば本一冊分の分量には達する。当たり前のことながら、「継続は力なり」で、ものすごい馬力を持ってなくてもコツコツやれば結果につながるということだ。
★グズグズも人生の一部
 夕方、半年近くぶりに大学のジムのプールに泳ぎに行ってきた。すごく気持ちが良くて、なぜもっと早くに再開しなかったのかという気になった。プールに限らず、少し面倒くさいけども自分のためになるとわかっていることは、行動を起こせば必ず、なぜもっと早くやらなかったのだろうという気分にさせられる。だからもっと早く行動すべきなのはわかっているけれども、やっぱりグズグズと行動を起こさないでいる時間が長い。そんなグズグズしている自分も自分、その時間も自分の人生の一部であって、そんな自分とどう折り合いをつけていくかというのは一生ついて回る人生の課題なのだなと思う。ちょっとした方向修正も、長い目で見れば進んでいく道も大きくずれていく。何事もちょっとしたことの積み重ねか。
★文化とは「当たり前にできること」が織り合わさったもの
 期末が近い週末のガラガラのプールで、泳ぎながらふと習慣について考えた。温暖な南の方で育った僕には、泳ぎは結構身近なもので、学校でも夏の間の体育はずっと水泳だったりして、泳ぐ機会は普通にあった。とても上手いとはいえないけれども、何か運動を選ぶとしたら上位に入るくらいには好きだし、趣味として楽しめる。一方で、スキーは高校卒業まで一度もやる機会がなかった。大学の時に一度行ったきりでまるでダメ。もうおそらく一生やりたいとは思わない。ゴルフは身近だったのでずいぶんやったけれども、テニスはさっぱりだ。
 こんな風に、自然と周りに合ったから始めたり、縁遠かったからやらなかったりしたことの組み合わせが、一人の人間の文化を形成する。その人が存在する環境、あるいはコミュニティにも複数の要素が組み合わさる形で文化となっている。何かの芸やスキルを仕込まれるにしても、それは無理やりではなく、何かその集団において必然的な理由があったり、身近だったりすることでそこで仕込まれる何かが選択される。新入社員に裸踊りを仕込むのが伝統となっている商社があったとして、その伝統もたどっていけば何らかの理由や環境的な要因がそこに存在するのだろう。
 「学びの文化」と言った場合、そこでの学びは構成員が学ばされる性質のものではなく、自然と何かが学ばれていて、自然と何かが身についていることがその集団の持つ性質となる。学ぶ意志がそこに介在する場合もあれば、介在しない場合もある。だが、その集団の中にない要素を無理やり学ばせようとするのは、学びの文化たり得ない。学習と実践の乖離は往々にしてその集団にとって不自然なことを学ばせようとする、あるいは学ぼうとすることによって生じる。企業内研修部門の担当者が企画する研修が現場の社員に評判が悪いことが多いのは、この学習と実践が乖離したものを義務的に押し付けようとするためだという見方ができる。その集団なり組織なりにはすでに文化が形成されており、その文化にとって必然的なものや自然なものが受け入れられ、不自然なものは受け入れられにくい。必然性が見えにくいものを取り入れる時の対立は、システム内のコミュニケーション、またはネゴシエーションの問題であり、導入の仕方の駆け引きもまたその集団の文化的要因の影響を受ける。
 何が継続できて、継続できないかは、その人の意志の問題であると同時に、その人が所属する集団や生活する環境の持つ文化の影響の帰結でもある。デブだらけのコミュニティに育てば、デブになりやすいし、車が不要な地域で生活すれば、車の運転技術は向上しにくい。そんな感じで、学びとは文化の影響下にあるし、文化と切り離された学びというのは定着しにくい。そのような意味において、学校とは、学習者を既存の文化と切り離して、独自に文化を作ることで、意図したものを学びやすくする存在だと言える。