今学期は二つの授業を聴講している。そのうち一つの授業は、「デザインベースド・リサーチ」と呼ばれる研究手法について、主要な論文を徹底的に読んで、研究計画を書いてこの研究手法を身につけようという内容。授業の内容については改めて書くことにするが、この分野の主要論文を毎週3~4本読んできて、クラスでディスカッションする。授業のスタイル自体はオーソドックスな大学院の授業という感じなのだが、議論の中身が濃くて得るものが多い。
課題文献は抽象的な内容も多く、学期の最初の頃は、読んでわかったようなわからないような状態だったが、毎週食らいついて読んでいくうちに、理解できるところが増えてきて、読みこなせる量も増えてきた。読書で知識を得ながらディスカッションを重ねるにつれて、受講者全体の理解が深まり、議論の密度や高まっている。
留学5年目も後半に入った今期になってようやく、普通の大学院生ができる程度の予習量がこなせるようになった気がする。ちゃんと論文が読めるようになると、授業も面白くなり、身につくものも多くなる。知識的に追いついてきたという面もあるが、最初の頃は英語力の低さの性で取りこぼしがとても多かった。予習が間に合わないままで授業に出る、予習が十分でないから授業で得られるものも少ない、授業の内容を消化できないから次の予習はさらに遅れる、という悪循環で半分オチこぼれかけながらどうにか乗り越えてきた感じだった。
3年目くらいから少しずつ理解できる部分が増えてきて、予習と授業のサイクルは徐々に改善された。でも今思えば、最初の2年間はどうしようもなくわからなくて、何をいったいやっていたんだろうという暗澹とした気にさせられる。ほんとに当時は英語力不足に足を引っ張られた。それはまるで日本の英語教育の呪いをかけられたかのようで、時間をかけて少しずつ無力化して、最近になってやっと呪いが解けたかなというところ。それでもまだやっとまともなスタートラインに立ったような心境だ。
全てを英語力不足のせいにするつもりはなく、新しいことを学ぶのは英語でも日本語でも大変なのは間違いない。とはいえ、英語力がもう少しましであれば、現在のレベルまで到達するのもまだずいぶん早かっただろうこともまた間違いない。今となっては何を悔やんでもしょうがないのだが、やはり英語がものすごいネックになったことによるロスがとても大きいのが残念でならない。
これが自分だけならまだしも、日本の多くの研究者たちが同じように留学してきて英語で苦労しているわけだし、英語が苦手なせいで海外で活躍する機会を逃してしまっている人もすごく多いだろう。そんな状況がもう何十年も延々と続いているのだから、この国家的なロスは膨大だろう。言ってみれば、日本の英語教育の呪いが国全体を覆っているようなものだ。英語ができればなんでも解決するわけではもちろんないが、少なくとも英語で膨大な量の知識創造と流通が行われている中で、その流れから外れた状態を余儀なくされているのは問題だと思う。
自分自身、英語教育を自分の主要テーマとしようとは考えてないのだが、この英語教育の呪いに苦しめられた身、しかも教育分野の研究者の身としては、後の世代の人々がいつまでもこの苦しみを味わっているのを見過ごすことはできない。教材になるかサービスになるか、そのどちらでもない形態のものかはまだ明確ではないが、自分のキャリア人生の間にこの呪いに対して何か一矢報いるものを作りたいと思う。