聴講している授業で授業ブログを作れとの課題が出たので、これをよい機会にと英語ブログを始めました。ゲームと学習関連のテーマで書いてます。とりあえず今はシリアスゲームサミットのレポートがいくつか載ってます。これから日本のシリアスゲーム情報とか発信していくブログとして使おうかなと思っております。
A Japanese View on Games and Learning
https://anotherway.jp/enblog/
投稿者「tfuji」のアーカイブ
ゲームと非ゲームとシリアスゲーム(3)
シリーズ3回目、これでいちおう完結です。前回の「ゲームと非ゲームとシリアスゲーム(1)」と「ゲームと非ゲームとシリアスゲーム(2)」も合わせてご覧ください。
★シリアスゲームと非ゲームの違い
シリアスゲームと非ゲームの違いは、「それがゲームであるかどうか」にある。ゲームかどうかを分ける基準については、前回まとめたのでそちらを参照してほしいが、基本的にはそのコンテンツのゲーム性の度合いの問題で、ゲーム要素がそのコンテンツを代表するものかどうかで区別するのがよい。「ゲーム以外の要素も入ったゲーム」なのか、「ゲームの要素も入ったマルチメディアコンテンツ」なのか、どちらに区別できるかでだいたいのタイトルは整理が可能だろう。
シリアスゲームはゲームにそのアイデンティティがあり、非ゲームは「ゲームに非ず」という点にアイデンティティがある。概念上はこの点が明確な違いとなる。ところが、非ゲームは「(従来の)ゲームに非ず」という意味でも使われていることは前回にも述べた。非ゲームのこのアイデンティティは、シリアスゲームと重なっていると言ってよい。さらに別の側面から見ると、シリアスゲームと非ゲームの共通点として、「教育・学習や何かの用途を意図したコンテンツ」というところが挙げられる。この点においても、シリアスゲームは非ゲームと概念的に重なっている。
つまり、シリアスゲームと非ゲームは、文字通りの非ゲームという意味で捉えれば、ゲームではないという点で別のものだが、「何かの用途のための、従来のエンターテインメントゲームとは異なるゲーム」という点では同じものだと言える。
こう考えていくと、「非ゲームはシリアスゲームか?」という質問にはイエスでもありノーでもある、その理由は上記の通りで、非ゲームという用語の持つ二つのアイデンティティのどちらを採るかで答えが変わるということになる。
Daughtry
アメリカンアイドルシーズン5で4位だったクリス・ドートリーのファーストアルバム「ドートリー」。セールス好調ですでに180万枚も売れているそうだ。
アイドル歌手オーディション番組のアメリカンアイドルのことは前に何度か書いているが、上位まで残る人たちは、毎週視聴率ナンバーワンの番組でパフォーマンスを披露するので番組が終わる頃には露出も十分、そのまま全米ツアーをやってそのあとアルバム制作するという流れでアイドル生活を送ることになる。シンガーとしての実力も高いので、安心して聞ける。
このドートリーは、今風のアメリカンなハードロックで、ニッケルバックやクリードあたりが好きな人なら聞いてみる価値があると思う。いい声で無理なく歌っているのでとても心地よく聴けてお勧め。
Infinity on high – Fall Out Boy
「フォールアウトボーイのインフィニティ・オン・ハイ」を買った。最近FMラジオでよくかかっていて、携帯電話会社のTVコマーシャルでも使われていたので気になっていたところ、ベストバイで買い物していた時にちょうど店内でもかかってて、釣られてつい購入。聴いてみるととてもよい。アルバム3曲目の「アームズ・レース~フォール・アウト・ボーイの頂上作戦」(この曲だけなぜか昔ながらのダサい邦題がついている)がよくかかっているその曲で、とてもキャッチーでハマる。パンクベースのキャッチーなメロディーの楽曲が特徴的で、若さあふれるノリがとても好感の持てるバンド。最近のモダンなラウドロックのなかでも明るめなのとか、メジャーどころではノーダウトあたりが好きだったらきっと気に入るはず。
過去の経験との向き合い方
先週後半から暖かくなってきたと思ったら、今日はまた雪になった。サンフランシスコ出張の後、個人的に大きな出来事に直面しているのと、かなりボリュームのある仕事の〆切が迫っているのとで、ブログ更新も久々にずいぶん滞ってしまった。今は少し何かを書いて気持ちを整理したい気分なので、この機を逃さずに少しずつ更新ペースを戻していこうと思う。
「シリアスゲーム」参考文献リスト掲載
拙著「シリアスゲーム-教育・社会に役立つデジタルゲーム」の巻末の参考文献リストをシリアスゲームジャパンに掲載しましたのでご利用ください。
https://anotherway.jp/seriousgamesjapan/archives/000874.html
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追伸: 明日、シリアスゲームサミットのためにサンフランシスコへ移動です。また新しいシリアスゲーム情報を仕入れてご紹介したいと思います。GDC参加の皆さん、現地でお会いしましょう。
ゲーム脳と脳トレ
毎日インタラクティブに「脳研究:「ゲーム脳」、「脳トレ」 どっちがホント?」という記事が出ていた。
この話はすでに科学的にどちらがどうという話ではなくなっていて、森氏も川嶋氏も研究の一部を切り取られて、利用する側の都合の良いように取り上げられているところがある。森氏は先日の毎日新聞のインタビュー記事で「ゲームが良い効果を与える可能性もある」と、最近のDSブームの影響もあってか、だいぶ矛先を緩めていた。ところが、この記事では「最近になって「ゲームはいけない」との主張を「1日15分なら大丈夫。共存も考えなければ」と変えた。こうした一貫性のなさも不信を持たれる一因だ。」などと書かれている。脳トレブーム過熱を取り上げる趣旨はわかるものの、ようやく下火になってきたゲーム脳の話をまた引っ張り出してきて、こういう風に煽って森氏を追い込むのはどうかと思う。
PTAや教育委員会など、「ゲームが脳に悪いという話を聞きたがっている人々」は、ゲームに理解を示す森氏の講演など聞きたくないのであって、そんな聴衆の期待に応えようとすれば、森氏も自分の主張の一番濃いところを話さざるを得ない。ゲーム脳はもはや森氏の講演のネタでしかないのであって、科学性云々を議論するところにゲーム脳の話を持ち込むのはすでに意味がなくなっている。
「脳トレ」の方も、ビジネスの具になってしまってからは、すでに科学の話からは逸脱してきていて、科学的正しさは論点ではなくなってきている。煽っているのは科学者の方ではなく、それを利用するビジネスの側の人たちである。もし仮に脳トレの効果はないという研究結果が出てきたとしても、その結果がファイナルアンサーではないし、川嶋氏の研究結果を全て否定するものでもない。「納豆を食えばやせる」というようなレベルで盛り上げている方とそれを真に受けている方に問題がある。脳トレでできる程度の脳の活性化は、他にもやりようがあるなかで、川嶋氏は一つの方法論として学習療法を提唱しているに過ぎない。提唱している側が過熱しているのではなく、取り上げる側が過熱しているだけだ。この記事もよく読めばその辺りも踏まえて書かれているようにも読めなくはないが、記事の売りを強くするために「ゲーム脳VS脳トレ」のような本質でないところに焦点が当たってしまっているの残念。
ゲームとしての脳トレも、まだ技術としては稚拙であって、同じテーマでもデザインのやりようでもっと高度なことができる。任天堂がたったの3ヶ月で開発したものをあたかも脳トレタイプのゲームのスタンダードのようになってしまい、各社とも同じようなフォーマットのゲームをせっせと作っている。昔の学習ゲームの焼き直しのようなものを作るのでなく、より高度なものを目指さないと、せっかく形成されようとしている市場もあっという間に冷え込んでしまうだろう。
実社会で役立つ知識と学校的な教育
年度末が近づいて、年度区切りの日本からの仕事が一つ大詰めになっている。その仕事に関連して、なぜゲームやシミュレーションが教育のためのツールとして有効なのか、を検討する資料を作成している。
昔から、学校や研修への期待として「実践的なスキル」や「社会で役立つ知識」を身につけることが期待されてきたものの、期待される成果をあげることが少ないままで今日に至っている。その期待がそもそも現実的でない場合もあるという議論も必要だが、それはここでは置くとして、学校での教え方が「役に立つ」という点においてかみ合っていないことにまず留意する必要がある。
多くの場合、学校で教えられる知識・スキルが実社会で役に立たないのは、それが利用される文脈を無視して、知識だけ抜き出して教えられているからだ。新しい知識を説明して、練習させ、身についたかどうかを確認するテストを行う。これが学校での基本的な教育方法だが、知識は利用される文脈や、うまく利用するための振る舞いや目のつけ方のような周辺的な要素と共に身につけなければ役に立たない。これはいわゆる「状況的学習論」の考え方で、この考え方に立つと、今の学校の教育方法の延長線上では、役に立つ知識習得も実践的な専門家の養成も困難で、教え方やカリキュラムの組み方を大きく変える必要があるという認識を持つに至る。
学校で役に立つ知識というのは、テストでよい評価を得るためのテクニック、評価者からの覚えのよい生活を送る振舞い方であって、学校にいる限りにおいては、学校で教えられている知識とは役に立つ知識である。また、試験で昇進やその人の評価が決まる学校的なシステムにいる場合にも、テストでよい点を挙げるための知識は役に立つ。しかし、学校を一歩外に出ると、いかに教えられている知識が仕事や生活に関係する知識であっても、その文脈で役立たせるためには、学習者本人が知識を使うための周辺的な要素を身につけるまではその知識は役に立たない知識のままとなる。
知識が役に立つためには、その知識が使われる文脈のなかで理解されて、その使われ方のところから身につけていく必要がある。ゲーム・シミュレーション型教材は、知識を使う、知識を使う役割を演じる、というアプローチで教える際にとても有効な要素を多く持っている。この状況的学習論の文脈でゲーム・シミュレーション型教材の有効性が議論されるようになって、その立場で開発された教材が出てきている点は、この分野が従来の取り組みから進展しているところだ。この辺りを整理していくと、最近のシリアスゲームの盛り上がりも、教育工学分野でのゲーム・シミュレーション型教材への関心も、学習理論の発達の中で位置づけて理解できて面白い。
「シリアスゲーム」近況
昨日、ようやく手元に本の見本が届きました。これが世の中で流通しているというのはまだあまり実感が湧きません。店頭で見かけたというのを教えてもらったり、オンライン書店で扱われているのを見たりして、ようやく「あぁ、やっと完成したのだな」という気が少しずつしているところです。校了してからだいぶ時間が経っているので、まだ発売2日目だという感じはあまりしません。
流通状況ですが、実はアマゾンが一番流通の出だしが悪かった、というなんともさえない状況になっています(アマゾンで予約してくださった皆さま、お待たせしてしまってごめんなさい・・・)。楽天ブックスやBK1では入荷しているようですし、紀伊国屋書店やジュンク堂などの大型書店には店頭にも並んでいるようです。なお、新聞広告も21日の読売に出ていて、23日の毎日にも出るそうです。
店頭での目撃情報など関連情報、ご意見やご感想などぜひお寄せください。応援よろしくお願いします。
ゲームと非ゲームとシリアスゲーム(2)
前回の「ゲームと非ゲームとシリアスゲーム(1)」に続いて2回目。前回分から先にご覧ください。
★エンターテインメントゲームと非ゲームの違い
DSで注目されるようになった「非ゲーム系コンテンツ」にも幅がある。まったくゲーム性のないものも、ゲーム的な要素を多分に含むものもこの枠の中で語られている。「ゲームか非ゲームか」を分ける要素は、「ゲーム性の有無」と、「ハードとしてのゲームメディアをプラットフォームに使っていること」の2つである。
「ゲーム性の有無」については、「ゲームとは何か」というところに立ち返って考えると、ある程度境界線がはっきりしてくる。たとえば、「バランス・オブ・パワー」などの戦略シミュレーションゲームのデザイナーとして知られるクリス・クロフォードは、著書「The Art of Computer Game Design」で、コンピュータゲームは次の4つを共通要素として持つとしている。
・描写(Representation)
・インタラクション(Interaction)
・対立(Conflict)
・安全性(Safety)
これを簡潔にまとめれば、「何かの世界を描写して文脈が提示され」、「ユーザーのアクションに対してフィードバックがあり」、「一定のルールや競争やチャレンジがあり」、「アクションの結果が現実には直接影響しない」ことだとされる。クロフォードだけでなく多くの研究者やデザイナーがゲームの定義を議論している。(詳しくは拙著「シリアスゲーム」の第一章「ゲームと教育・学習」を参照)。この要素の有無で判断すると、非ゲームと呼ばれている製品も「ゲーム性あり・なし」の軸で位置付けが見えてくるだろう。
ここで「ゲーム性あり」に分類できるのに、非ゲームとして語られているタイトルはなぜそうなのか?それらは「従来のエンターテインメントゲームとは異なるタイプのゲーム」という意味での非ゲームなのであって、「非(エンターテインメント)ゲーム」である。「ゲーム性なし」のタイトルは、文字通りの意味での「非・ゲーム」なのであって、それらは「ゲームメディアで提供されるゲームでないコンテンツ」、または「ゲーム会社がゲームのノウハウを使って開発したゲーム以外のコンテンツ」という意味でわざわざ非ゲームと呼ばれているのだと言える。つまり、非ゲームには「非エンターテインメントゲーム」と「ゲームメディアで提供される(ゲームのノウハウを利用した)ゲーム以外のコンテンツ」の2種類あると考えるべきだろう。
具体的なタイトルを例にして考えてみる。「脳トレ」や「常識力トレーニングDS」をはじめとする同種のタイトルは、教育分野から見れば「学習履歴管理機能付のドリル学習教材」であり、それがゲームをプレイしているような快適な操作感で気軽に利用できるという点に付加価値がある。だがそれと同時に、これらはゲームのジャンルで言えば、「クイズゲーム」や「パズルゲーム」と呼ばれるものであり、プレイ過程の全体を通して、上記のゲームの要素がすべて当てはまる。学習要素が強い「英語漬け」も、ゲーム性の観点から見れば、ここに区分されると言ってよいだろう。
「ニンテンドッグス」も、「バーチャルペットソフトウェア」と捉えればゲーム以外に括ることもできるが、プレイ内容自体はゲームそのものだ。芸を仕込んで大会に出て賞金を得るところや、貯めたお金でアイテムを買い、部屋をアップグレードするなどの活動は、エンターテインメントゲームで普通に出てくるゲーム要素である。また、「タッチで楽しむ百人一首 DS時雨殿」は、そもそも百人一首がカードゲームであって、麻雀やポーカーがゲームなのと同じくゲームである。これらはいずれも、従来のゲームの枠組では出てきてなかったタイプのゲーム、という意味で非ゲームとされていると捉えるのが適切だ。
一方で、辞書ソフトやレシピソフトなど、ルールに沿った競争やチャレンジを含まないタイトルは、文字通りの「非ゲーム」である。DSというプラットフォームを使っていて、ゲーム会社が作っているので、「ゲームでないコンテンツ」という整理の仕方が意味を持つと言える。ただし、非ゲームコンテンツがメインであっても、「弾いて歌えるDSギター”M-06″」の「耳トレ(コードの音を聞き当てるゲーム)」ように、クイズゲーム的な要素が含まれるものもある。その意味で、この手の非ゲームにも多少のゲーム要素を含むものはあるので、前述のゲーム性の有無によって分類を細分化できる。
こうして考えていくと、重要な視点が二つ浮かび上がってくる。一つは、「学校や資格取得のテストは、実はゲームとやっていることは変わらない」ということだ。英検もセンター試験も、世の多くの筆記テストの類は、運営の簡略化のために多肢選択式質問になっていて、これは要は2択や4択のクイズのことである。学校で嫌々学んでいたことを、マーケティング的にキャッチーなテーマで区切って、DSというプラットフォームにのせただけで、老いも若きも喜々としてやっている。
ここに一つ教育方法論として掘り下げるべきテーマがある。学校や塾が行っている教育の多くは「クイズ回答者養成」に過ぎない。出題形式や内容が少し面倒くさいだけで、やっていることは単なる「クイズ研究会」と同じだと言っても別に言い過ぎではない。DSのヒットが、そもそも教育機関がやっていることが「クイズ対策」でよいのか、多くのところはゲームメディアで肩代わりできてしまうのではないか、という問題提起となっている。従来は見過ごされてきた知識教育偏重の学校教育の根本的な問題が、DSのヒットによって明らかにされているという点にもっと着目すべきだろう。
もう一つの視点は、DSがエンタテインメントメディアからより一般的な家庭用インタラクティブメディアとなった時に、この「非ゲーム」という区切りがどう変化していくのかという点だ。今はまだ珍しいのでわざわざ「非ゲーム」として整理しているが、ゲームでないコンテンツが当たり前になった時点で、このジャンルは意味を失う。その時に非ゲームはどんな付加価値を持つのかが非常に問題になる。
「脳トレ」のヒットで出てきたフォロワータイトルの多くは、これまでにパソコン用ソフトウェアで出ていたタイトルの焼き直しで、いわば「エデュテインメントの逆襲」といったところだ。そこにはゲーム会社の持つノウハウもなにもなく、単にラベルを張り替えて、DSというプラットフォームの売れ行きに便乗しているだけのようなタイトルもある。そのようなタイトルばかりが続いていくと、おそらくは脳トレブームも消費されて市場も冷え込んで消えていくことになる。
だがそんななかでも、たとえばレベルファイブの「レイトン教授と不思議な町」のように、ゲーム会社が作るからにはこうだ、という気概をみせているタイトルも出ている。ゲーム会社がこれまでに培ったノウハウを持ってしっかり作りこんだ作品が出てくれば、「脳トレ」が切り開いた市場を一つのジャンルとして定着していく可能性はある。学習や癒しや技能の習得など、従来のゲーマー層以外の人々がゲームを手にする「言い訳」を持ちながら、さらに高度なゲーム性や従来にない操作感の良さを持ったタイトルを開発していくことが、今後のDSの非ゲーム系コンテンツの発展の鍵になるだろう。