いちどに全ては得られない

 最近、知らない人から急に連絡が入って、食事に誘われたり、電話でインタビューされたりする機会が増えてきた。わざわざコンタクトしていただいているので、こちらも都合がつく限りお応えしている。頼まれたことに対しては手を抜かずに対応するのがいいと考える点については以前に書いた。これを書いた当時と状況が変わったのは、何で私にそんなことを頼んでくるかなぁ、とぼやきたくなるような、変な問い合わせが減ったことだ。以前は魚屋に野菜を買いに来るような的外れな人や、アメリカにいるという理由だけで頼んでいるだろうそれは、というような問い合わせもあったので、やや対応が面倒だったりしたのだが(とんちんかんな人ほど余計な時間を取られたりする)、そういうのが減ったのは、こちらの看板や軒先に並べてるものが明確になってきた効果かなと思う。
 食事でも電話でも、一回の懇談でせいぜい一時間程度で、その中でシリアスゲームの動向やら研究の話やらいろいろと質問される。こちらも駆け出しなので、エライ人のようにもったいぶったりせずに、知っていることはできる限り相手の腹に落ちるような形で説明するよう心がけている。質問者との相性というか、その場のケミストリーの作用で、いい形でこちらの伝えたいことが伝えられ、普段整理し切れてないことがすっと整理された形で説明できたりすることがある一方で、どうもかみ合わずに、こちらの説明したいことの半分も伝えきれないままで終わることもある。特に最近は英語での懇談の方が多くなったので、なおさらやり取りの質のばらつきは大きくなる。
 そんなにしょっちゅうこのような機会を持てるわけではないので、懇談やインタビューの相手の姿勢は、自然とこの一度の機会で、この対談相手(私のこと)の専門分野の状況をまるごと把握してしまおうという姿勢になる。それは大事なことなのだが、その目論見が必ずしもうまく行くわけではない。何かの調査の目的で話を聴きに来る人は、報告などをまとめる際には、自分の集めた情報が意味のあるものであるという前提でまとめることになるわけで、こちらの答え方がいまいちだったりしたところを、これがこの分野の現状である、みたいな捉え方をされてしまうのはあまりうれしくない。こちらの答え方に不備がある場合は仕方がないが、聞き手の方に知識が足りなくて浅い理解しかできないということも少なからずある。どんなに予習をしっかりしたとしても、その場のケミストリーで良くも悪くも結果は変わるし、聞き手のスキルで精度を高めることはできても、一度の機会で重要なことを吸収しきってしまうのは不可能だ。別の言い方をすれば、ランチ代や一時間の懇談に費やす労力で得られることは高が知れているのであって、それで全部吸収できるのであれば、たいした専門分野ではないし、取材者はみんな専門家になれる。大事なことを知りたければ、少し時間をとって継続的にその分野を追っていかないと、見えることも見えてこないものである。
 これは同時に、インタビューのような動的な状況でのデータ収集に頼る質的研究(特にインタビュー主体でやるフェノメノロジー研究)の難しさでもあるなと認識した。質的研究は、自分自身をいかにデータの中に漬け込んで自分のマインドセットをチューンしていくか、というところにかなり依存するので、訓練の足りない人や、事前データの読み込みが足りない人の集めたデータは、肝心なことを集め切れていない可能性が高くなる。この点では、質問紙に頼ったサーベイ研究や、ウェブをちょこっと検索しただけの調査研究は、さらに大きな不確実性を抱えている。ワンショットのアンケート調査だけではたいしたことはわからないし、勘所のない人が収集した情報というのは、これがネット上で集まるものを全て調査した結果です、と言われても、本当かそれは?と言いたくなるような穴がすぐに見つかるので当てにならない。よほど設計がしっかりしていて、その分野の情報にある程度勘所のある人が調べて、集めた情報をしっかり吟味した結果でなければ、説得力のある結果は得られない。
 普段は研究する側、情報を集める側の立場でものを見ているが、こうしてたまには調査される側、情報を集められる側に立ってみると、、気をつけないといけないことにも気づかされるし、違ったことが見えてきて面白い。

シリアスゲーム論文公開

 年度末に急に依頼がまわって来た論文寄稿の仕事が一区切りして、最終版が出来上がったので、報告書への掲載とは別に、シリアスゲームジャパンでも公開の運びとなった。
藤本徹(2006) 「シリアスゲームと次世代コンテンツ」、財団法人デジタルコンテンツ協会編「デジタルコンテンツの次世代基盤技術に関する調査研究」第四章(PDFファイル)
https://anotherway.jp/seriousgamesjapan/archives/Fujimoto-SeriousGames.pdf
 現時点での、シリアスゲームの概念的な整理が主な内容で、シリアスゲームっていうのを耳にしたけど、実際にはどんなものなの?という疑問にできるだけ答える形で論じてみた。
 読んでみてまだわからないところとか、ここはどうなのよ?という疑問があれば、次の機会にはフォローしますので、ぜひ感想や質問などお寄せください。

博士誕生の季節

 春の穏やかな晴天が続く中、みんな期末の課題に追われている。幸いなことに私は授業を取り終えて、修了試験も終えたABD(All But Dissertation)の身なので、この4年間で最も平和な期末を送っている。とはいえ、手放しで平和なわけでもなく、相変わらず空いた時間は片っ端から埋まっていき、仕掛かり仕事の待ち行列が積みあがっていく。一番厄介なのは、デザインしたゲームのプログラミングで、空いた時間の全てを投入してもさっぱりはかどらない。英語やプログラミングのようなスキルものは若いうちに学んでおくに限るなとつくづく思う。それに博士論文のプロポーザルも手がついていない。油断しているとすぐに時間は過ぎていく。周りにも昨年修了試験を終えたのにまだプロポーザルが通ってない人々が結構いる。
 そんな中、先週から今週にかけて、うちのプログラムから3人の新たな博士が誕生した。来週再来週でもう2人、ディフェンスが入っているので、その2人が無事にパスすれば、今学期は計5人の博士が誕生することになる。みんな一緒に授業をとっていた連中で、台湾人2、中国人1、ドイツ人1、アメリカ人1、アメリカ人だけ男で、あと4人は女性、という内訳である。うちのプログラムは教員も院生も女性が多く、男女比は3:7くらいになっていて、全体でアジア人留学生が6割以上を占めているので、アジア人女性がいちばん目立つ。
 博士研究と並行して、就職活動をすることになるのだが、留学生たちの多くは、米国内のテニュアトラック(テニュア-終身在職権、を取得できる可能性がある)の大学教員職を第一志望にしている。その次に米国内の大学や企業のインストラクショナルデザイナーなどの専門職が人気である。ひも付き奨学金などで留学してきた院生たちや、自分の国の大学などから職のオファーがあった人たちは自分の国に帰る。米国に残る人も国に帰る人も、みんなそれぞれにいい仕事を見つけている。大学院生の就職というのはタイミング次第で、年によってポジションの空きが多かったり少なかったりするし、ぎりぎりになって急にいいポジションがアナウンスされたりする。そんな不安定な中でも幸いなことに、ペンステートのインストラクショナルシステムズは、全米でも評価の高いプログラムで、教員達もこの業界では名の通った人たちなので、就職活動は比較的しやすいらしいのはありがたい。
 私自身も順調に行けば、来年の今頃には博士論文のディフェンスを終えて、なんらかの進路が決まっている状態になっているはずだ。修了試験を終えて以降、身の振り方を考えてきたのだが、自分の能力に対する評価など、軸として考える要素が日々変わっているので、これだ!という形ではまだ定まっていない。数ヶ月前くらいまでは、米国内どこかの大学でポスドクのようなポジションを見つけてもう数年研究修行したいなと思っていたのだが、最近は思うところあって、日本に帰って仕事することを前提に身の振り方をあれこれ思案している。
 でもまずは博士研究をきっちり進めて、終わるめどを立たせないと話が進まない。春の気候のよい時期に卒業したいなぁと強く思う。夏だと暑いし、冬まで引っ張ってしまうとむちゃ寒いし、ビザが切れるので更新するのが面倒だし。

小学校の英語教育導入について

 小学校の英語教育必修化の議論があちこちで盛り上がっているようなので、何が問題になっているのか、少し考えてみた。まずどんな経緯で今のような導入案になったのかを知るために、中教審の議事録や資料を読んでみた。たとえば、公開されている最新のものは次のページに掲載されている。
中央教育審議会初等中等教育分科会 教育課程部会 外国語専門部会(第14回)議事録・配付資料
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/015/06032708.htm
 議事録を読むと、いろいろと面白いことがわかってくる。何よりも、そもそも現状認識としてものすごく間違っているところも散見される。たとえば、「外国語専門部会におけるこれまでの主な意見(論点ごとに整理)(第10回まで)」という資料の中に、次の記述がある。
「○ 教育課程実施状況調査のアンケート調査でも,英語が嫌いな子どもは他の教科に比べて少ないという結果が出ており,日本の英語教育は比較的成功していると考える。過去の学習指導要領の改訂,入試についても,望ましい形に改善されてきている。
○ 様々な社会的な要素などを考えれば,日本の英語教育は成功してきていると考える。それであれば英語教育の基本的な方向性について急激な変更をする必要はない。子供たちにいかにして豊かなコミュニケーションの場面を体験させるかが重要な課題である。」
 会議の委員たちは、英語教育業界のエライ人たちなので、現状の英語教育を批判することは自己否定につながるにしても、これはいくらなんでも自画自賛しすぎである(実際、第12回の資料から、この部分の表現は丸められて通りのよい表現に修正されている)。
 会議では、現状分析や必要性の是非の部分は、他国の例や、先行的に導入されている小学校へのアンケートなど、導入すべき、という意見をサポートするデータを丁寧にあげて議論されているようである。しかし詳細を見ていくと、「英語学習によって、言語能力自体があがる」といったようなポジティブな面ばかりが詳細に取り上げられてて、ネガティブな部分は「。。といった課題がある」とさらりと言及されているだけである。
 導入の方法論や具体的な施策の検討の議論はさらにひどくなって、非常にスカスカなむにゃむにゃした議論になっている。「・・・が重要である」「・・・でなければならない」のような文言が並び、たいして詰めて考えてないんだなということがよくわかる。しかし、エライ人を集めた諮問会議なんてのはそういうものである。猪瀬直樹氏が道路公団民営化でやったように、データをもとに反証したり、具体的な施策案のシミュレーションをやったりということを本来やるべきなのだが、そういうことはまず起こらない。単なるエライ人の「私の教育論」談義を2年間も毎月やる必要はなく、そんなのはざっくり減らして、その分教育方法の開発や教員支援の施策の詳細を整備する作業にリソースを充てる必要がある。それが欠落しているのは、教育行政の改革論議の方法論的な問題によるところが大きいと思う。
 別な観点としては、そもそもこの議論は2年前から進められていて、すでに議論の入口の時点で、小学校に英語教育を導入する、ということが方針として存在している。委員の人選もおそらくそれを推進するのに都合のよい人で構成されていると考えるのが自然である。そしてこの2年間に会議で「ぜひやりましょう」という議論が進行しているので、報道だけを見ると急に出てきた話のように見えるかもしれないが、主導する側からすれば、「入念に議論を尽くした状態」なのである。議論が終わったところで報道されて、その報道をもとにあれこれ巷で議論したところで、残念ながら何の変化も起こせない。教育行政に限らず行政の動きというのはこういうやり方なのであって、総合的学習やゆとり教育も同じようなプロセスで決められている。本気で反対する気があれば、議論の最初のところであやしい動きをキャッチして、綿密な作戦のもとに議論の方向を修正していくしかない。教育行政の愚策に対して、反対の人々が手遅れになってから毎度同じような反応を繰り返すのを見るにつけ、みんな本気じゃないのか、失敗から学んでいないかのどちらかなのだろうという気がしてくる。
 小学校の英語教育導入自体の是非については、普通に考えればやった方がいいことだと思うが、今出されている案のような形では目指す効果はまずあげられないだろう。週一時間では何の練習にもならないし、学習経験の強度も弱すぎて、やっている意味がない。英語教育を担任が担当するべきだという考え方はありでも、実際に教えられるかは全く別の話である。「教員の支援には十分に配慮する必要がある」という方針は、何の具体性もなく、ここから一段階も二段階も展開して、やっと導入可能な施策になる。総合的学習の時間や情報科目の導入でもそうだったが、そこまで落とし込む作業が抜けたままになっている。
 この問題は、教育行政の進める改革活動のシステム的な欠陥を露呈していると共に、反対者側の無策さ、ナイーブさも同時に露呈している。こうした行政の動きに反対するには、ただ口を開けばいいというのではなく、綿密な戦略に基づいた、手足を使った面倒な作業が必要なのであって、それが伴わない反対は、実効性のある反対とはなり得ないと思う。

セカンドライフのバーチャルキャンパス

 先週、社会生活シミュレーション「セカンドライフ」のバーチャル世界に、一つキャンパスが開設されて、そのグランドオープニングイベントが開催されたので参加してきた。このキャンパスは、ニューメディアコンソーシアムという非営利機関で、名前の通りに新しいメディア活用の研究プロジェクトに取り組んでいる。
 イベントは、キャンパスツアーとステージでの催し、最後にダンスパーティという流れで行なわれて、昼と夜の2セッションで延べ150人以上が参加したとのこと。私は夜のセッションに参加して、その時は常時20数人はいた感じだった。会場に着くと、みんなステージの方に集まっていた。キャンパスの建物はリアルの大学のようなデザインで、ホールや講義室、ミュージアムに図書館と、とても雰囲気のよいキャンパス環境ができあがっていた。リアルのオープンキャンパスみたいに、キャンパスのスタッフはおそろいのオレンジTシャツを着て、質問に答えたり参加者を誘導したりしていた。そしてお土産の資料が入った手さげ袋やロゴの入ったフリーTシャツまで配布しているところまで、リアルのオープンキャンパスの運営を細かく実践していた。
 イベントでの案内は、セカンドライフの音声配信機能の主に使っていたが、これは一方向なので、フリーの電話会議ツールを使うことで参加者からの質問などを音声でやり取りできる形にして、双方向コミュニケーションを実現していた。ソフトのインストールやマイクの準備とかテクニカルな面倒さもあるため、参加者からはあまり利用されていなかったようだが、ツールの併用の仕方はいい工夫だと思った。

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ワークショップ二本終了

 先週と今週、ゲーム関連のミニワークショップを二つやった。一つ目は、「エンターテイメントゲームをプレイして学ぶ学習デザイン」と題して、Learning & Performance Systemsの院生を対象にした75分のゲームプレイセッション。教育ゲームの話題が増えていく中で、関心はあるけど自分ではゲームをやらない院生たちのために、学習の視点でエンターテイメントゲームを見ていく際にどこに焦点を当てればよいかという解説と、そのポイントごとに例として一つずつゲームをプレイしてもらって、最後に振り返りディスカッションを軽くやる、という流れ。
 この手のゲームセッションは、ゲーム経験の浅い人が対象だと、ゲームがどんなものかをつかむのに時間がかかったり、つかめないままだったりして散漫になりがちなのだが、今回は参加者の中にゲーマーが一名混ざっていたおかげで、ファシリテーションのきっかけがつかめて何とかポイントをおさえた形でまとまった。教育系の研究者は自分ではゲームやらない人が多いので、ゲーム研究にせっかく興味があっても、なかなか踏み出せなかったり、踏み出したはいいけど微妙に的を外していたりするので、こういう機会を通して、リテラシーを高めつつ、よくできたゲームからインスパイアされることが必要になってくる。
 もう一つは、私の博士研究コミッティの一人であるMagyが提供しているゲームデザインセミナーの時間に、私が自主研究でここしばらくデザインワークを続けてきた自作ゲームのプロトタイプのお披露目とユーザーテストのセッションをやった。今開発中のゲームは、選挙をテーマにした政治的なパズルゲームで、ゲームのコンセプトとメカニックは出来たので、それをペーパープロトタイプ化して、ボードゲームの形でみんなにプレイしてもらった。ボードゲームの盤とかコマを半日かけて工作した。こういうものつくりの作業は楽しくて、果てしなくやっていられる。そして自分の作ったものをみんなに試してもらうのも、また楽しい。今回のゲームが実質的に私の初シリアスゲーム作品で、デザインが意図通りに機能するかやや不安だったのだが、ルールを一通り理解させるのに手間がかかった以外は、みんなコンピュータが処理するところの面倒な計算も、手で計算しながら熱心にやりながら遊んでくれた。
 紙のプロトタイプがうまくいったので、今度はプログラムを組んでコンピュータ上で動くプロトタイプを作ることになるが、そこは自分の手には負えない。デザイン上の工夫をすればするほど、書くべきコードが複雑になり、ますます手に負えなくなる。Magyはハードコアなプログラマなので「フラッシュなんかより、C#でやった方が断然簡単だわよ」みたいなことを笑顔でのたまう。プログラマにすればそうかもしれないが、こちらはあいにくノンプログラマである。どうしたものか。
 ともあれ、自分で立てたコンセプトをもとに、プレイアブルなプロトタイプが作れるところまで来たので、ノウハウ的にはあと何種類か違ったタイプのシリアスゲームをデザインすれば、少しはものになるかなという気がしてきた。軽めのワークショップであればそんなに負担なくやれるということがわかったことも、今回の成果だった。

Gamasutraインタビュー記事掲載

 シリアスゲームジャパンでも告知してますが、一応こちらでも。
先月の中頃くらいに電話取材を受けた日本のシリアスゲームに関する記事が、Gamasutraのシリアスゲームニュースサイトで掲載されました。
Gamasutraの記事
http://www.gamasutra.com/php-bin/news_index.php?story=8960
The State Of Serious Games In Japan(インタビュー全文)
http://seriousgamessource.com/features/feature_041806_sg_japan.php
 英語の電話取材というのは難しい。微妙に違った感じで伝わってるところも若干あったりするけど、それ以前に、なんかすごいシンプルなことしか言ってない。難しい言い回しとか一切なし(それと文章にすると意味不明なところを編集でわかりやすく直してくれてる)。それでも通じるし、何とかやっていけるということで、皆さん自信を持って海外留学してください。

アールグレイティーとドメインナレッジ

 少し前から、何となくアールグレイ紅茶がマイブームになって、ここ数ヶ月のうちに結構な種類の銘柄を試した。そういうと品がいい風に聞こえるが、紅茶通のように高級な茶葉を買って、専用茶器を使って上品にたしなんでいるわけではなく、単にティーバッグで売っているものをあれこれ飲んでいるといった程度なので、たいしたものではない。今のところ、Tazo(スタバで売ってる銘柄)やNumiのエイジド・アールグレイがお気に入りである。
 特に気を使って飲んでいるわけではないけど、ほとんど毎朝のように飲んでいると、それまでには気づかなかった微妙な味わいや食べているものとの組み合わせでの味の違いに気づくことがある。その日の体調によって味の感じ方も変わってくる。オーガニックな高級紅茶が必ずしもいいお味というわけでもないし、ベルガモットオイルのダブルショットを売りにした銘柄は、お湯を注ぐまではすごいよい香りなのだけど、飲んでみるとそんなでもなかったりする。甘いものと飲むのは楽しいけど、アイスクリームとはイメージほどには合わなかったりする。
 そうやって、気づくことが多くなってくるほどに、だんだんとこちらも気をつけて飲むようになる。そしてあれこれ試したくなって、店に行って違う銘柄を見つければ買ってみたくなるし、ネットで調べてみたくなったりもする。するとだんだんとアールグレイにまつわる知識がたまってくる。これは立派に、アールグレイの領域に関する知識(ドメインナレッジ)である。今の時点ではたいして深みも広がりもないが、大げさに言えば、アールグレイ紅茶についての専門性を高めていくための知識の軸と、自主的に学習を進めるモチベーションの核が形成された状態になったと言ってもいい。その専門性をどこまで高めていくかは、本人の志向や他のテーマとの兼ね合いということになる。隠居して暇だったら、さらに高度なことを始めるかもしれないが、今はせいぜいいくつかの銘柄を飲み比べるくらいで満足である。
 ドメインナレッジは、専門家にとっては頼みとする知識の軸であって、その軸がなかったり、細かったり短かったりすると、その人はたいした専門家ではないということになる(職業としての専門家と、力量が専門家レベルであるということは必ずしも一致しない。これは楽しいテーマなのでまた別の機会に議論する)。ドメインナレッジを軸にすることによって、自分の目で人の意見やものの品質を評価できるのであって、それがいわゆる目利きということになる。客観的な尺度に頼らないと評価できない人と、自分のドメインナレッジを頼りに評価する人とでは、その評価の重みに差が出てくる。
 ドメインナレッジは、やらされながらでもある程度のところまではベースはできるが、ある時点で本人が意志を持って構成しようと努めないと積みあがっていかない。逆に言えば、本人の学習の意志が弱くても、とにかく続けさせればある部分は知識として積みあがっていく面がある。アールグレイの話で始めたので、お茶をたとえとして続ければ、私は幼い頃からずっと緑茶党で、緑茶は二十数年飲み続けていることになる。普段は考えもなしに飲んでいるので知識の軸も何もないが、ある時何かのきっかけで、緑茶の味について意識するようになるとする。するとそれまでの緑茶を飲んだ経験のある部分は知識化されて、判断の軸が形成される上、それまでに味覚としては緑茶を知覚するセンサーがある程度鍛えられているはずである。あるいは緑茶を飲み続けたおかげで、アールグレイ紅茶の味を判別する力が蓄積されたという面もあるかもしれない。
 なので、ドメインナレッジを身につけるには、本人の自発的な学習意欲の形成に頼る部分は大きいが、その一方では有無を言わさず教え込む環境が果たす役割もある。特に高度な自発性が形成されていない子どものうちは、とにかく大事と思うことを教え続けることも必要だと思う。そういう点で、子どもの学習環境と成人の学習環境を考える際には、一緒くたにはできない。一方的に教え込む要素と、自発的に学習テーマを形成させるための学習支援的な要素のブレンドが全く違うからだ。
 子どもの学習環境では、暗唱やドリルなどの教え込みも重要な要素になるが、成人の学習においては、そういう学校的な教え込み発想はあまり望ましくない(「脳を鍛える」ゲームは、大人の頭の体操であって、学習ではない)。日々の生活の中で学習テーマを形成できるきっかけと、そのきっかけから派生してドメインナレッジの形成へと導く自然な流れをどうつくるか、ということが学習環境デザインにおいて重要なコンセプトになる。そのコンセプトを実現した学習環境が普通に提供されるようになったら、専門家がたくさん生まれて、さぞ豊かな社会になることだろう。

今シーズン初打ち

 すっかり春の穏やかな気候になり、天気があまりによかったので、近くのゴルフ練習場で今シーズンの初打ちをしてきた。半年もやっていないのでいい当たりはしないだろうと思っていたが、クラブを握れば身体が覚えているもので、10球も打てば身体が慣れて普通に当たりだした。昨年はかなりの頻度で練習したおかげでだいぶ上達したが、今年は果たして次のレベルに上がれるかどうか。90台前半をコンスタントに出せるようになって、ベストで90を切れれば上出来。日本に帰ったらゴルフなんて高くてやっていられないので、こちらにいる間にせいぜい楽しみたい。

Age of Empires IIIやってみた

 今週はAERA(全米教育学会)ウィークのため、うちのプログラムの教授陣は半分くらいサンフランシスコへ出払っていることもあり、プロジェクトミーティングがキャンセルになったりして、少しスローペースな平和な週である。それで気が緩んで、先日ベストバイ(大手電器スーパー)に立ち寄った時に、つい魔がさしてリアルタイムストラテジー(RTS)ゲーム「Age of Empires III(AoE3)」をうっかり買ってしまった。通常49ドルのところ39ドルになっていたのに釣られた。日本語版は9000円以上するので、半額以下。すごい安い。
 AoEシリーズはなんだかんだでAoE2以降は結構チェックしていたりする。何せ中学でゲームから引退して以来(ドラクエIIIくらいで引退して、スーファミもPS1もセガサターンもその辺のコンソールは一切触ったことがない)、10年以上もゲームから遠ざかっていたところを引き戻されたきっかけがAoE2で、ゲームとしての面白さよりもむしろ、進化したゲームが持つ教育的な可能性にインパクトを受けた。それは今のシリアスゲームの道に進む最初のきっかけみたいなものだった。初めてAoE2をやった時、なんてすごいゲームなんだろうと感心して、休みの日なんかにかなりの時間を費やした。なかなか飽きなかったので、ある時封印してやめた。
 いつもは買ったその日にソフトウェアをインストールするなんてことはやらないのだけど、自分の中ではAoEシリーズは今も別格なようで、今回も速攻でインストールしてプレイした。やってみるとやはり相当ヤバイ。果てしなくやっていられる。ゲームを丸二日間やり続けて死んだ韓国人がいたけど、このゲームはそんな感じでポックリ死ねるくらいに寝食を忘れて没頭できる。RPGやシューティングにはそんなに熱くならないのだけど、RTS系はかなり自分にとってツボらしい。本作は特に、グラフィックの美しさは尋常ではない。この手のゲームでこれはやり過ぎでしょうと突っ込みたくなるほどの凝り方で、大砲が建物に当たってボコボコになっていったり、兵隊が吹き飛ばされたりするところは、メルギブソンの映画「パトリオット」のよう(公式ウェブサイトのこの辺を見ると少しはイメージがつかめる)。キャンペーンモードは、アメリカ開拓史をベースにしたストーリーで、ネイティブアメリカンとの関係の部分なんかは、政治的な配慮がされた描写がされている(ゲームの詳しい内容は、公式ウェブサイトの他、4Gamerの連載がよくまとまっていて面白い)。
 グラフィックのきれいさとかはあるのだけど、プレイ感自体はAoE2の頃からたいして変わらない。それだけAoE2の完成度が高いということではあるのだけど、ゲームの楽しさと没頭度は、グラフィックやサウンドなどの効果は不可欠なものでもない。ある程度質が高ければ十分機能する。そんな効果は何もない数独のようなパズルゲームをやっている時も同じように没頭できる。ゲームルールの作り方と、デザインのバランス次第なのだと思う。そしてそれは娯楽用のゲームに限らず、学習ゲームのデザインにおいても同じことだ。教育分野で研究されているほとんどのゲームのように、糖衣で不味い薬を包んだような教育ゲームではなくて、学習がゲームプレイに丁寧に埋め込まれていて、自然に没頭できる形で学習できるゲームは、プレイ感が全く違うと思う。そういうゲームを作る技術は、教育学系の研究成果は多少の足しになっても、研究の延長線上からはそうした技術は生まれない。そこはある種、発明の世界みたいなもので、知識をベースに試行錯誤して、ちょうどよいバランスを見つけ出す作業になってくる。飛行機の発明みたいなもので、最初にライト兄弟が飛行機を飛ばすまでは、航空力学や機械工学のような研究をいくらやってもそれだけでは飛行機は飛ぶようにはならなくて、飛行機を実際に設計して微妙な調整をしながらちょうど飛ぶポイントを見出したから飛んだのだ。教育ゲームやオンライン教材は、そういう意味ではまだ空を飛んでいない。手に羽をつけてバタバタやったり、飛ぶ気があるのかわからないような方法で適当にやってお茶を濁していたりする。そういうのにはあまり付き合いたくなくて、自分がこっちだと思う方向で試行錯誤していくことに集中したいと強く思う今日この頃である。でもAoEジャンキーである限りはそれも無理なので、AoE3はそのうち封印の憂き目に合う。短い間だったけど楽しかった。ありがとう。