子どもたちへのゲームの影響が心配な方のための本

シリアスゲームジャパンのエントリと同じものですが、こちらでもご紹介します。
デジタルゲームベースド・ラーニング」の著者マーク・プレンスキ氏の新刊 “Don’t Bother Me Mom — I’m Learning” (「ママ、勉強してるんだからジャマしないでよ」)が発売されました。
この本は、子どもがゲームで遊ぶのを心配する大人のための、ゲームとポジティブに、かしこく付き合うための解説書です。ゲームは有害ではなく、むしろ子どもたちや若者たちの成長を助け、能力を高めているという研究事例を引用しながら、ゲームを子どもの学習環境の中にうまく取り込むことで、子どもたちがデジタル技術の進化した社会でよりよく生きていくためのリテラシーを身につけながら成長していくことができるという考え方を提示しています。
ゲームで遊ぶ子どものことを心配する大人たちの多くは自分でゲームをプレイしないため、ゲームプレイを通して子どもたちが身につけているリテラシーについてを理解できず、そのためにゲームが有害であるとする誤った二次情報によって翻弄されています。
この本ではそうした情報がいかに誤っているかを指摘しながら、ゲームの持つポジティブな効能を実際の事例に基づいて解説し、ゲームについて子どもたちとよりよい関係を築いていくための考え方や方法を紹介しています。
ゲームの世界がどんな感じで、子どもたちがその中でどういう経験をしているのか、子ども達の身につけているスキルがどんなもので、どんな風に社会で役に立っているのか、子どもたちがゲームを通した経験を学習に活かしていくには子どもたちとどういう会話をすればよいのか、といったことに関心のある「非ゲーム世代」の方にお勧めの一冊です。
過去の関連エントリ:親と教師のためのゲームガイド

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土壇場の集中力

 修了試験の口答試験が明後日に迫ってきたので、論述試験の時に自分が書いた回答を読みながら、最終調整をしている。読んでてやれやれと思う部分もあるのだが、ところどころにどうやってこんな言い回しを思いついたんだろうというような、素の自分では思いつかないことを書いていたりする。時間制限のある中で持てる知識を総動員して必死になって書いているので、火事場力というか、土壇場の集中力のなせる業なのだろう。試験であれ舞台であれスポーツの試合であれ、成功をかけた勝負の場というのは、よく言われるように水ものである。その場面でタイミングよく力を出し切れるように心身を調整して、コンディションをちょうどよいところに持っていかないといけない。運も作用する。たまたま出掛けに階段で躓いてこけたとか、朝のコーヒーで口の中をヤケドしたとか、そんな些細なことで集中力というのは簡単に削がれてしまう。その誤差というのが結構大きい。テンションの差一つで結果は大きく変わる。実力十分と思ったのに結果が芳しくないこともあれば、望み薄だったのが結果は大金星となったりする。
 この試験の結果で、今後の予定がうんと変わってしまうので、なんとか一発でパスしたいものだが、こればかりはなんとも言えない。自分自身の感触としては、実は知識的にはあまり足りてなくて、その場のテンションとか、土壇場の集中力に頼らないといけないところがかなりある。論述試験の時はそれがある程度うまく行っていたのだなと、自分の回答を読んで理解したが、さて今度はどうだろう。

研究者とポリティクス

 先日のエントリに対し、さらに東大の中原さんからコメントをいただいたので、こちらもさらにコメントを続けます。
中原さんの記事:研究の場ではたらくポリティクス
http://www.nakahara-lab.net/blog/2006/03/post_110.html
> 「あるものがポジティブなものなのか、ネガティヴなものなのか」ということを、
> 根拠をもって判断する基準はないんじゃないかなと思うんですね。そこでいう
> <ポジティブ>は、「藤本さんの考えるポジティブ」という意味で、まさに藤本さん
> 自身も、政治力学の渦中にいますね。
それはご指摘の通りです。
完全無欠なポジティブとか100%客観的な中立などあり得ないですし、僕自身が政治力学のどこかにプロットされるのは避けられないと思います。良かれと思ってやったことが誰かにとっての不都合になることもあるでしょう。でも、そこは自分の信念やビジョンに基づいて、ベストエフォートでやっていくしかないと思っています。いろいろ考え出してもきりがないので、ごく単純に、お天道様に顔向けできないような仕事の仕方はしないということと、自分の意図に対して常にリフレクティブであり続けながら、自分の判断のブレを抑えていく、くらいで考えています。僕がポリティクスを意識するのは、自分が大事だと思う仕事を、自分の納得のいくレベルでやるために必要な範囲においてで、それを超えることには関心はありません。そうは言っても、間違うことや壁にぶち当たることもあると思います。でも、その時々で全力で考えて最善と思うことをやっていくしかないと思います。中原さんの研究に絡むポリティクスへの考え方にはとても共感しています。
> で、いわゆる「振り付け」をされたり、ポリティカルな悪意をもった人々に利用される
> 可能性が格段にあがる。正直に「自分にわからないことは、データがないのでわからない」
> というべきです。
 これはとても身につまされる話です。自分がどうでもいいと思うことや嫌いな相手に対しては、「そんな話をオレに振るな(怒)」というニュアンスを込めて遠慮なく「わからん」と言えますけど、「これをわからんと言い切ってはちょっと気まずいな」という局面はいろいろ出てきます。気をつけてはいても、その場のノリで言い過ぎてしまうこともあります。たぶんコミュニケーションのとり方の問題で何とかできることが多いだろうと思っていて、僕はこの点はちょうどよい身の処し方を求めて試行錯誤しているところです。
> ともすれば、世に流布する言説は、何でもかんでも、クソミソ一緒にして、教育のせいに
> します、教育が何でも解決出来ると持っている。「教育にできること」「教育にできない
> こと」の線引きは、必要だと思っています。
まったくおっしゃるとおりだと思います。苅谷剛彦先生あたりがずっと前に指摘されていたのを読んで以来、そう考えてきました。大学院のクラスでも、事例を聞いて「そもそもこれは教育問題なのか?」を議論する機会が何度かありました。そういう議論をする機会は必要だと思います。少しずれますが、日本の一般的な風潮は、万能薬か魔法のような解決法を専門家に期待するところがありますよね。あるいは、誰かすごい人が何とかしてくれるよ、オレ負け組だからシラネ、みたいな体のいいあきらめというか。普通の人たちの地道な努力で成果を積み上げていって、状況を変えていくしかない、ということを理解していない。そういう中で自分がどうやっていくべきなのかなと考えています。
> 上位の教育システムのリデザインですか。
> このあたりは、いわゆる学習科学(learning science)でも似たようなところがあって、
> WISEのグループとか、ノースウェスタンのグループとか、もっとマクロレヴェルの教育
> システムのリデザインに着手しているようですね。
学習科学の研究者の方が、Scienceという名前がついていながらも、デザイン重視でアプローチが柔軟なところがあるなと思います。ISD研究者の方が逆にサイエンスを意識しすぎて柔軟さに欠ける(そんなことやって何の足しになるかわからないような)研究をしてたりするのが時に気になったりします。最近では、学習科学とISDの研究者の間のコラボレーションやディベートがやや盛り上がっています。まあ、もはやどちらがどうだという話でもなくて、実質的にはかなりクロスオーバーが進んでいて、お互いの優劣を云々しているのは保守的な人とラディカルな人たちだけのような印象です。その辺の話は前に少し書きました。日本にはそもそもディベートが盛り上がるほどこの分野に人がいないというのが寂しいところですが。
http://www.anotherway.jp/archives/000609.html
> 結論からいうと、大学研究者と現場のあいだをつなぐ媒介的な組織がなければ、
> なかなか教育システムの変革まで手がまわらないと思うのですね。
>  いったん教育学者が普及ということを意識した場合には、どうしたってマンパワーが
> 必要です。でも、そのマンパワーをどう獲得し、どういう仕組みで、その「マンパワー」を
> マネージしていくかについては、議論がナイーブすぎると思っています。
同感です。日本の大学組織だとどうしても、研究者にかかる負荷が大きくて、失敗するか無茶して身体壊すかで、そういうのを避けて大部分は尻込みして動かない、みたいな世界になるのも仕方がないと思います。アメリカの大学組織の強みは、専門教育を受けたスタッフの層が厚いところかなと思います。何かやろうとした時に頼れるスタッフがいる。大学院生も経済的支援があるおかげで、プロジェクトにしっかりコミットできる。そういうところがあります(もちろん、いい面ばかりではないですが)。
アメリカの教育システム変革論では、システム思考をベースとした組織変革のアプローチを中心に教えています。研究者と実践者だけでなく、新しいテクノロジーや教え方を導入する際に、その変化がその組織や周辺に及ぼす影響をシステム的に捉えて、全体のバランスを取って最善の状態に持っていくためには何をしていく必要があるのかをセオリーとして学びます。Hutchinsの「Systemic Thinking」や、Havelock & Zlotolowの「Chenge Agent’s Guide」などは長年、基礎文献として読まれていて、そうした知識を持った人が学区レベルや学校レベルで働いているというのはずいぶん違うだろうなと思います。
> 今度ぜひご帰国なさったときは、ゲームのことならず、ISDの研究動向などご教示
> いただければと思います。ポリティクスについてもお話ししましょう。
それはぜひとも。書き出したらきりがなくて、だいぶはっしょって書いてますので、また続きをじっくり議論できればうれしいです。それにこちらこそ日本の事情をいろいろお伺いできればと思います。
帰国の楽しみが一つ増えました。

アイトーイ:キネティック12週メニュー終了

 運動不足解消のために12月の後半から続けていた「EyeToy:Kinetic」の12週メニューをめでたくクリアした(キネティックの評価は以前のエントリ参照)。最後のところでごほうびに、インストラクターのお姉さん(またはお兄さん)のお色気サービスカットが。。。あったりはしない。終わったところで、また12週間のメニューを始めるかと聞かれて、はいと答えると少し回数とボリュームが増えたメニューが提供されて、また翌日から新たなメニューで坦々ととエクササイズが続く。この坦々さがキネティックのいいところでもある。おかげで日々のエクササイズが見事に習慣化した。最初は週3日でも面倒な感じだったのが、今では週5日でもへいちゃらで、やらないと何か物足りない気がするくらいである。
 体重は1.5キロくらいしか落ちてないのだが、上体の筋肉のつき方が明らかに変わった。肩の筋肉がモリっとなるくらいになった。もう少しがんばれば、胸筋も動かせるようになるかも。でもお腹周りのコーティングは取れない。。それは運動することで飯が美味くなって、もりもり食べたりしているからだ。やはり食べる量を調整しないとダメらしい。以前は軽くウェイトダウンできていたんだけどね。。これも歳のせいか。。
 エクササイズの習慣化にはかなりの威力を発揮するので、日本でも発売されたら、ぜひお試しあれ。

シリアスゲームと教育学研究の政治性

 昨日の教育工学とシリアスゲームのエントリについて、東大の中原さんからコメントをいただいたので、またそれをネタにしつつ、関連するところを書きます。
 中原さんの記事:ゲームと教育工学
 http://www.nakahara-lab.net/blog/2006/03/post_108.html
> まぁ、僕は学習研究者なので、上記のようなテーマを聞くと、あいかわらず「それは学習だよなぁ」
> と思ってしまいますが(笑)。「箸が転がっても」、「それは学習の問題だよなぁ」と思ってしまう、
> 「学習バカ」の僕は、このさい、放っておきましょう。なるほど、了解しました。
いや、その点では僕も相当なバカものなので、意味するところはわかります。
この場合は、学習も密度の濃さや状況の違いによっていくつかレイヤーがあって、それを「経験」と呼んだり、「認知」や「態度変容」や「動作習得」、あるいは「刷り込み」のようなものもあると思います。それを僕らのような教育研究者の側からすると「学習」と捉えればしっくり来るし、マーケティングの人は「宣伝」だったり、社会活動家のような人からすれば「啓蒙」なのかも知れないですが、そういう形でそれぞれの立場で別のくくり方をしてシリアスゲームを捉えていることも、コミュニティにおける相互の学習にはプラスに作用している面は大きいし、学習という概念についての理解を深める上でもプラスに働くと見ています。
> 要するに、「ポリティカルなもの」をそのまま伝達しても、子どもや大人には獲得できない。だから、
> ゲームという形式をつかって、彼らが楽しんでいる間に、獲得させちゃおう、正当化させちゃおう、
> という開発者のねらいみたいなものを感じます。
これはおっしゃるとおりで、教育的意図で作られたゲームであっても、扱う題材によっては政治的な意図が含まれることを避けられないと思います。シリアスゲームのメーリングリストでも、政治的な意図をユーザーに楽しませながら伝えられるという効果に対して、懸念する意見や慎重論も出ていて、継続的に議論されています。
たとえば、このことを考えるちょうどいい例として、September12というゲームがあります。
September 12th
http://www.newsgaming.com/newsgames.htm
 数分プレイすれば、このゲームが伝えんとするメッセージが伝わってくると思います。これを「テロに対するミサイル攻撃がいかに無意味か」と理解するか、「たちの悪い政府批判だ、けしからん」と理解するかは、それぞれの政治的立場で解釈が変わってきます。また、米陸軍が志願兵のリクルート用に作ったシューティングゲームもあります。これもプレイしているうちに、就職先として軍も悪くないなと若者たちに考えさせることを意図して作られたマーケティングツールです。他にも、中国の政府系機関がスポンサーになって、南京大虐殺のゲームを作ったというあからさまな例もあります。
 こういう微妙なテーマを扱えば扱うほど、そのゲームの持つ政治的な意図が問題になってきます。これは昔からいかなるテクノロジー、メディアにおいても同じような議論がされてきていますが、ゲームもそのインタラクティブな特性によって、他のメディアとは異なるパワーを持ったメディアとして避けられない問題だと思います。そういう意味では、たしかに社会学とかメディアスタディとか、いろんな立場の人が研究テーマとして取り上げて、理解を深めていくのが望ましいと思います。
 僕個人は、この問題については「いかにポジティブや中立であろうとしても、悪意や利己心を持った受け手がメッセージを歪めて捉えようとするのは避けられない」という前提で、そういうセコい悪意など無力化できるくらいにポジティブさを維持していこう、というスタンスを取ります。自分たちのやることが影響力を持てば持つほど、権力やオカネの問題が絡んできて、積極的に自分たちの立場を守らなければ、悪用されてしまうケースも出てくると思います。そう考えた場合に、メディアとしてのゲームの使い方についても、慎重に進んでいくよりは、どんどんトライアルを繰り返して試行錯誤する中で、十分な経験や知識を獲得しておく方向で進む方が、あとあと助かるだろうなと。
 関連する話で、インストラクショナルシステムデザイン(ISD)の研究者達が、教育システム変革論に関心を持つようになった、という流れがあります。ISDは教育現場のデザインが主要な関心なのですが、それをうまくやろうとしたり、学校全体やさらに広範に普及させようと考えた際には、どうしても学校や学区、より上位の教育システムといったマクロなシステムの動きを考慮した取り組みが必要になります。ISD分野きっての理論家であるライゲルースはISD研究における教育システム変革論の第一人者でもあるし、ペンステートのISD研究者カイル・ペックは、地域のチャータースクール開設の際に重要な役割を果たしました。日本で「インストラクショナルデザイン入門」という訳書が出ているウィリアム・リーも、「企業は研修の改革で組織も改革できるような幻想を抱いているけど、ISDのアプローチだけではそういうニーズには応えられない。より上位の教育システムへのアプローチ手法を身につけないといけないことを後になって理解した」と指摘しています。「より上位の教育システムへのアプローチ」には、そのシステムにおける文化的、政治的な状況把握と、それに基づいたある種の政治的な動きというのは当然含まれてきます。政治的動きというと、何やら怪しげな感じがしますが、状況を望ましい状況に持っていくため手段の一つとして捉えればいいと思います。
(建前は政治的でない日本のアカデミックな世界が、その中での各自の行動は、暗黙の政治的配慮とかルールに縛られていて、エライ人ほどすごく政治的だったりするわけですし、その中で研究の中立性を保つには、時には積極的な防御手段も必要になってくるのかなと懸念してます。)

教育工学とシリアスゲーム

 東大の中原さんがフードフォースとシリアスゲームについて書いていて、教育工学とシリアスゲームについてを掘り下げて考えるのにちょうどよいなと思ったので、呼応したエントリを書きます。
 フードフォースについては、シリアスゲームジャパンの方にいくつか関連エントリがあるので、ゲームの内容や開発の経緯などの詳細はこちらを参照のこと。
シリアスゲームサミットDCダイジェスト:フードフォースによって飢餓と闘う国連
https://anotherway.jp/seriousgamesjapan/archives/000641.html
Food Force紹介記事
https://anotherway.jp/seriousgamesjapan/archives/000634.html
 私も教育分野、中でも教育工学の領域で研究をする立場なので、基本的にはシリアスゲームを教育メディア、あるいは教育方法として捉えている。そういう人間がシリアスゲームを語ると、どうしても教育的側面が中心になるが、もともとシリアスゲームは「教育をはじめとする社会の諸領域の問題解決のために利用されるデジタルゲーム」がそのコンセプトになっている。なので、教える・学ぶためのゲームというだけでなく、啓蒙のためのゲーム、広報・宣伝のためのゲーム、政治的メッセージを伝えるためのゲーム、治療のためのゲームなども含まれる。教育工学において、ゲームを使った教育が(すごく小さな)一つの領域であるように、シリアスゲームにおいては、学校で使える教育ゲームの研究は、シリアスゲーム全体の中の一つの領域である。
 中原さんの記事で述べられている中に、二つの興味深い指摘がある。「ゲームを使った教育は、ずいぶん昔から取り組まれてきたテーマだ。」ということと、「教育ゲームを批評したりするのは簡単だけど、開発はすごい大変で、ものすごいエネルギーが要る。」ということだ。
 ゲームを使った教育、教育のためのゲームの開発は、たしかに別に新しいアイデアでもなんでもなく、ずいぶん昔から取り組まれてきている。20年も前に初代ファミコンをプラットフォームに、東京書籍や福武書店(現ベネッセ)が学習ゲームのタイトルを出しているし、エデュテインメントというコンセプトが盛り上がったのも少し前の話で、教育ゲーム自体はずっと世に送り出されている。ただ、そのほとんどは子ども向けのコンテンツだった。「MBAビジネスゲーム」みたいな対象層が上めのコンテンツも中にはあったが、主流は子ども向け。全米教育工学会(AECT)でも、教育ゲームへの関心が高まっているところなのだが、そこでも学校教育でゲームをどう利用していくか、という議論が中心。一方、シリアスゲームのコミュニティにおいては、子ども向けのコンテンツはさほど主流な存在でもなく、むしろマイナーな存在といってよいかもしれない。
 2点目の指摘も涙が出るくらいよくわかる。私も自分で開発プロジェクトをやる時には、毎度鼻血が出そうなしんどい日々を過ごして、やっとできたプロトタイプを他の人にデモして見せたら、こちらの苦労も知らずに容赦なくここが悪い、あそこが変だと注文をつけられる。直したら直したで、受け手もアイデアが刺激されたりして、もっとこうした方が面白くなる、みたいな話になってまた泣く思いをして修正する。概してそんなことの繰り返しである。
 残念なことに、昔から取り組まれ、多くの人の苦労がにじむ歴史を経てきた割には、教育メディアとしてのゲームは、プレゼンスが弱く、研究分野としても定着していない。その大きな理由として、3つほど考えられる。
1.ゲームに関心のある研究者がいろんなコミュニティに分散していて、それぞれの勢力が弱いままで推移してきたこと。
2.しっかりした研究成果がでるまで研究が継続されてこなかったこと。
3.教育デザインのスキルとゲームデザインのスキルは、互換性がありそうで実はそれほどないという点を理解されずにきたこと。
1.については、教育工学研究者のコミュニティだけでなく、他にもたとえばシミュレーション&ゲーミング学会という歴史ある学会があり、教育ゲームの研究の蓄積もあるのだが、デジタルゲームの研究をしている人は多くない。ゲーム学会というゲーム研究者のコミュニティもあるが、そこでも教育のためのゲームというのはマイナーな存在である。医学や経営学やその他それぞれの研究者コミュニティにそれぞれゲームに関心がある人がいたにせよ、一人二人か、せいぜい数人である。
2.については、研究費が尽きたとか、たまたま研究室にいた開発担当の院生が卒業したとか、年度内に成果が出せなかったとか、研究者のモチベーションが下がったとか、さまざまな理由で研究がストップしてしまい、理論や方法論を成果として出す前に終わってしまうことが問題となる。Anchored Instructionを生み出したJasperのようなプロジェクトは、相当な研究費と優れた研究者チームが複数年取り組んだプロジェクトで、あれだけの成果が出せたのである。小額の研究費で、研究室のサブプロジェクト的な規模でやったとしても、後に続くような成果を出すのは難しい。
3.は教育工学者やインストラクショナルデザイナーからよく誤解される点である。テクノロジーの知識があって、教育をわかっていても、アイデアをゲームのメカニズムに落とし込んで、イメージどおりに動作するものを必ずしも開発できるわけではない。教育ゲームといえどゲームなのであって、ゲームとしてのよさを出すためにはそれ相応にゲームデザインについても知識と経験が必要となる。多くの場合、それがないままに開発する状況になってしまうので、苦労の割には成果が出なかったり、途中で疲弊して挫折してしまったりする。
 シリアスゲームのコミュニティは、これまでのエデュテインメントや教育ゲーム研究が乗り越えられなかった上記のような問題点に対応した、研究と実践のコミュニティである。シリアスゲームのコンセプトで、これまで各分野に分散していた研究者や開発者、ユーザーとしての教師、プロジェクトのスポンサーたちが結集し、お互いの知識やリソースを共有して、成果をあげようとしている。今までそれぞれマイナーな存在だった開発会社も研究者も、中心的存在としてモチベーションを高めて活動している。コミュニティを形成することによって、勢力としてプレゼンスが高まり、資金や人材の流れも生まれた。ゲーム開発者が知識を提供するので、教育工学の研究者達もゲームデザインの知識を理解したうえで開発プロジェクトに臨めるようになってきた。欧米においては、こうした流れの中でここ数年のうちに基盤が形成されて、今の盛り上がりに至っている。
 日本のシリアスゲームは、シリアスゲームという言葉自体はここ最近、人の口の端に上るようにはなってきてはいるが、いまだ一つの分野というところまではきておらず、欧米の勢いには程遠い。しかしゲーム業界からの関心は高まっていて、あといくつかのきっかけを作れば、欧米並とはいかずとも、研究やビジネスの領域の一つとして定着するくらいのところまではいけるだろうという手ごたえを、最近感じているところである。

子育て支援の方法と少年教育の原点

 当サイトでオンライン版を運営している、生涯学習通信「風の便り」の編集長、三浦清一郎氏の新刊「子育て支援の方法と少年教育の原点」が学文社よりめでたく上梓された。
 この本は、九州四国中国地方を中心に生涯学習研究者として活動されている氏のこれまでの講演、執筆、自治体等へのコンサルティング活動の成果をまとめたものである。タイトルの通り、子育てと少年教育に焦点を当てつつ、高齢化問題、男女共同参画、家庭保教育、学校の地域貢献、ボランティア振興など、地域が抱えている課題を分析的に捉え、状況改善の方向性を提示している。
 とても参考になるのは、「教育学者としてどう社会に関わり、社会のために貢献していくか」という課題に、一つのモデルを示してくれていることである。三浦氏は社会教育の分野で長年研究を続けていて、社会教育行政にも、社会教育事業デザインにも明るい。最近の学校教育に関わる問題についても、そこらの教育書のようにごにょごにょと論点をにごしたりせずに、非常に明快に論じている。自治体での事業実践においては、教育システム変革論で言うところの、システミックなアプローチを取っていて、教育システムを全体的に捉えながら、システムの中の諸要素が調和して機能していくような形で改善策を導入している。「寺子屋」というコンセプトで導入された事業が、子育ても学校開放も高齢化対策も地域コミュニティ形成も、さまざまな問題に対応したパワフルなソリューションとして機能している。同書で紹介された寺子屋事業のその後は、生涯学習通信「風の便り」で継続的に紹介されている。
 私も教育分野の研究者として今後の活動を考える上で参考にしているし、研究者としての専門性を活かして、こういうパワフルな仕事をいずれはぜひやってみたいと思う。

ツンデレなシェリー

 もう授業はほとんど取り終わったので、今学期は授業らしい授業を取っていないのだが、水曜の夜にゲームデザインを教えているMagyのゲームデザインセミナーに出ている。先学期までは、ゲームデザインについて語るインフォーマルなミーティングだったのが、今期から授業化された。毎週、デザイン分析のフレームワーク、物語手法、ゲーム音楽、といったテーマでディスカッションやワークショップをやる。参加者は学部生と院生が半々くらいで、私以外は情報科学、コンピュータサイエンス系の人たちである。
 先週はゲームにおける物語手法のセッションで、グループに分かれたワークショップをやった。課題は、「ギリシャ神話のペルセポネの話をもとに物語を作って発表する。手法は自由。制限時間50分。」というもの。私は学部生のジェームズとシェリーと一緒のグループになって作業を始めた。

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ディール・オア・ノー・ディール

オリンピックが終わって、テレビも通常編成に戻ってきたが、今週はNBCではゲームショー「ディール・オア・ノーディール」を一週間連続特番でやっている。
このショーは、一般参加の挑戦者が、1セントから250万ドルまで26種類の金額が入った26個のスーツケースのうちから一つをキープしておいて、残りの25個のうちから安い金額だと思うスーツケースものから選んで外していく。途中でバンカーから金額のオファーがあり、その金額を受けるか、さらにスーツケースを選んで外していくかを選ぶ。オファーされる金額と、残された金額の価値のバランスを見ながら、どこでストップしてディールするか、というゲームである。番組ウェブサイトにこのゲームのルールそのままに作られたミニゲームがあるので、これを試してもらった方がわかりやすいだろう。
ゲームの原理はロシアンルーレットの派生形で、当たり外れの大きな賭けでの一か八かのスリルが、ゲームを盛り上げる要素になっている。ショーの演出は「ミリオネア」の延長線上にあって、番組のホストが一回一回の意思決定の過程を煽ったりもったいぶったりしながら盛り上げていく。クイズ要素をなくしたミリオネアをイメージしてもらえばだいたいそんなイメージだ。そのような構成で、一般参加の挑戦者とその応援の人たちが、大金への欲と理性のせめぎあいで盛り上がっている様を見て楽しむ番組である。この手のゲームショーのお約束で、スーツケースを開けるのはアシスタントの女性なのだが、スーツケース一個に一人ずつ派手なモデルのおねえさんたちがついてずらっと並んでいて、無駄に豪華さを演出しているのが笑える。
グーグルでこのショーのことを調べたら、ウィキペディアにやたらと詳しい解説があった。この番組はオーストラリアで最初に放送され、その後38カ国で各国のバージョンが制作されていて、ルールはそれぞれ若干違うそうだ。この番組の面白さは、意思決定のリスク変動をエンターテイメント化した点にあって、そのリスクの動きと挑戦者の行動を分析した論文まで出ている。
番組のフォーマットはいたってシンプルであり、クイズすらやらず、単純に大金をかけて箱を開けるだけである。それだけでゴールデンの時間帯で視聴者を集め、スポンサーも広告に大金を払う。いかにもテレビ的な大衆向けコンテンツなのだが、変にゴテゴテ盛り込まず、シンプルでわかりやすく、切れ味のあるフォーマットを作れるのは、テレビ業界のクリエイターのすごさだなと思う。

記憶の引き出し

 最近、ふと何でこんなことを思い出すんだろうというようなことを、変なタイミングで思い出すことが結構ある。あまり生産的でない時間が増えただけなのかもしれないが、歳を重ねれば、それだけ記憶の引き出しに入っているものも蓄積されていて、何かのきっかけでその引き出しを開けているのだろう。楽しいことを思い出す分には楽しくていいのだが、どうでもいいことだったり、あまり楽しくないことだったりすることもある。家の押入れのように、たまに大掃除して物を捨ててしまえるのであればいいのだが、頭の中というのはなかなかそうもいかない。思い出そうとしている時には思い出せず、どうでもいいタイミングでどうでもいいことが記憶の引き出しから飛び出してくる。
 昼飯のラーメンをゆでている時、何の弾みでスイッチが入ったのか、ふと高校の頃バンド絡みで知り合った人のことを思い出した。その人の名は、ここでは斉藤さんとしておこう。高校2年の時に知り合って、彼は二十歳くらいの色白の小柄な男で、地元の高校を卒業して、近くの工場で働いていた。何のきっかけだったかは忘れたが、どこかで知り合って、いつの間にか高校の同級生で組んでいたバンドの練習に顔を出してくるようになっていた。

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