京都入り

 どうにか日本に到着し、先ほどホテルにたどり着きました。
 デトロイトで5時間待ちだったのに加えて、関空行きがいったん乗り込んだ機体の不具合で別の機に乗り換えて、結局5時間遅れ。京都のホテルは満杯で予約ができなかったので京都は通り過ぎて、予約を入れた大津のホテルに着いたのは夜中の12時過ぎ。木曜の早朝にうちを出て、実時間で30時間近く移動し続けてようやく宿に着いた。しかも明日は朝一で出番だったりする。でもこれでなんとか出番に穴を開けずにすみそう。
 今日は荷物を開けるのもほどほどに、疲れたのでもう寝ます。明日はがんばります。

ブレンデッドラーニングと聞いたら逃げろ

 ここ最近、オンライン教育と教室での対面教育を組み合わせた「ブレンデッドラーニング」が、新しい教育ソリューションであるかのように取り上げられている。しかし、eラーニング界の大御所であるロジャー・シャンクはそうした状況を「ブレンデッドラーニングと聞いたら逃げろ」と批判している。
 シャンクの考えを要約すると次のようになる。
「ブレンデッドラーニングという時、教室での対面教育は対人的なインタラクションが必要な教育を行ない、eラーニングは人を介する必要がない部分に利用される。人を介する必要がない学習とは、個人でできるスキル練習のような学習になるが、スキル練習にはシミュレーションのような手間とコストを掛けた教材が必要である。もしそういう教材をきちんと作れば、教室での教育は不要になるのでブレンデッドである必要はなくなる。そのため、わざわざブレンデッドと称している講座のeラーニング部分は、コストをかけずに作った退屈な暗記クイズの類が提供されている場合が多い。だから、ブレンデッドという言葉を聞いたら、逃げるに限る。」
 「ブレンデッドラーニング」は、新しい教育手法でもなんでもなく、eラーニングと言っても売り文句としてあまり効かなくなったので、その代わりの売り文句として登場したにすぎない。「ブレンド米」や「ブレンドコーヒー」のように、「ブレンド」という言葉は、単品では売れないクオリティの低いものを混ぜてラベルを張り替えて売る時によく利用される。eラーニング業界がブレンデッドという売り文句に飛びついているのは、ブレンドしないと売れない商品ばかりがあふれていることを示しているようにも見える。質の悪いものはいかにブレンドしても最高級品にはなり得ず、よくある「最高級品風」ブレンドでしかない。「~風」というラベルをつけて聞こえを良くすることは簡単だが、そんなことではユーザーの目はごまかせない。そもそもブレンドしていること自体が売りになる状況というのは、どこかおかしいのである。
 時にブレンドの妙で質が多少上がることもあるかもしれないが、それも質のよい素材を使った方がそのブレンド技術も活きてくるわけで、であればその前に質のよいeラーニング教材を開発することに注力した方がよい。たいして手間をかけずに作ったような、単なるテキスト教材を焼き直した退屈な「紙芝居+クイズ」のeラーニングがあたかも標準的なeラーニングだと考えるのは間違いである。そこには教材開発の工夫はたいしてされておらず、いかに「インストラクショナルデザインで開発しました」などと称しても、その底の浅さは学習者から見れば一目瞭然である。単純な話、そんなことをしているから売れないし、評判も悪いのだ。
 ブレンデッドラーニングの流行りもこのままいけばすぐに冷え込んで、また次の売り文句が注目されるだろう。そうして、教育の質は上がらず、バズワードが次々と消費されていくだけに終わる。だが、eラーニングの作り手たちがそういう状況に喜んで甘んじているとは決して思わない。きっと作り手の誇りと想いを胸に秘めながら、すごいものを作ろうとたくらんでいる人々もあちこちにいると思う。そしてそうした人たちが望みを捨てずにがんばっていれば、誰が作ったかわからないような粗悪なブレンド品ではなく、その作り手の名前自体がブランドとなるような質の高い製品が世に送り出されてくることだろう。そう信じたいし、私はそういう想いを抱えた人たちの力になれるような仕事をしていきたい。
 とりあえず今は、シャンクの言うように「ブレンデッドラーニング」と聞いたら逃げておくのが無難である。ブレンデッドラーニングで劇的に教育効果が上がるなどと吹聴しているベンダーからはどんどん逃げるとよい。わざわざブレンドなどと言わなくてもそのよさが伝わるものを提供すべきなのであって、ブレンドであることを売りにせざるを得ないような質の悪いものはユーザーには通用しないという認識を、早くみんなで共有するのが日本の教育のためである。
 なお、引用したシャンクの本はこちら。eラーニングの現状をバサバサと切って捨てていて、ではどうすればよいのかもわかりやすく書いてあって、読んでいてとても楽しい一冊である。
Schank, R. C. (2005). Lessons in learning, e-learning, and training: Perspectives and guidance for the enlightened trainer.San Francisco: Jossey-Bass.

中間選挙前夜

 明日は中間選挙。投票日前夜の今日は、テレビをつけると各候補のCMがラストスパートで大量に流れている。さわやかキャンペーンCMもたまに見るが、今日は特に対抗候補を徹底的にこき下ろすネガティブキャンペーンCMが目立ち、選挙CMの合間に普通のCMをやっているような時間帯もある。
 予算潤沢な候補は、選挙期間中何種類かのCMを使い分けて、自分の実績を誇りつつ相手を貶めたり、相手のネガティブキャンペーンに対抗したりして選挙戦を進めている。今まで見なかったのにやたら今日だけ見かける候補のCMをもいて、今日だけ集中的にCM予算を投下しているらしい。しかもそれがすごく品のないネガティブCMだったりするのが笑える。
 どちらかがネガティブCMを始めると、相手も反撃してネガティブCMを打ち始めて、泥仕合のようになる。あいにく投票権はないのだが、そういうのを見ているとどちらにも投票したくなくなる。支持者から集めた選挙資金をそうやって自分たちを貶めあうのにじゃぶじゃぶと使っているのを見るのはなかなかやるせないものがある。双方が大量にCMを投下することで、見ている側にすればだんだんどうでもいい感じになってきて、CM効果そのものが無力化していく。それも広報戦略の一つなのだろうが、無力化させるにも大量の資金が必要というのが虚しいところである。
 実績のある候補者はそれを示せば見ている人の心に残るのでPRもしやすいが、何も売りにするものがない候補は、中身のないさわやかCMだけでは大して効果もないので、結局はネガティブCMによって相手を貶めて勝ち残ろうとする戦略に出る。自分に売りがない候補ほど、やり方も品がなくなってくる。政治家を目指そうとする人は、たいていたたけばほこりの一つも出てくるような人たちばかりらしく、ネガティブキャンペーンのネタには困らないようだ。ただし、ネガティブ合戦に陥ると自分のさわやかイメージにも傷がつくので手加減しがちな候補もいる。テレビCMを見ていると、そんな各候補の事情や思惑が見えてくるところがあって面白い。

好きな仕事に掛ける時間

 帰国の日程も近づいてきた。木曜の早朝には出発だ。一つ目の仕事は学会のシンポジウムで発表するのでその準備もあるのだが、もう一つ今回の日本での別の仕事でeラーニングとシミュレーション教材開発についての論文を書いている。自分の専門分野の発表のスライド作成や論文を書く作業は、とても楽しくてストレスが少ない。楽しいのは、自分の興味のあることを仕事としているおかげであり、ストレスが少ないのは、自分の力量に合っていてしかも時間的にも追われていないおかげだろう。
 たとえ好きな仕事であっても、自分の納得行く形でやれなければ楽しくないし、自分の力量を大幅に越えていたり、時間が十分に掛けられなかったりして、満足のいくものができないのは非常にストレスを感じる。今のところはそうしたストレスなく、楽しく仕事ができているし、ワークスタイル的にも気に入っているので、実は今はとても恵まれている状態にあるのだなということをあらためて思う。
 最近、本や論文の執筆作業をしていて、当然書いている途中ではすごく苦労しているし、まだ力不足な点は意識しているものの、少なくとも自分で意味があると思えるアウトプットが出せている手ごたえがある。少し前はこの感覚はなかった。いつの間にかできるようになっていたのだが、それがいつなのかはわからない。知識のインプットや必要なスキルの修得がある時点で閾値に達したようだ。
 身につけた力で対応できて、しかもほどよいチャレンジがあるという仕事はとても楽しめる。しかしそれを楽しむには必要な時間を掛けられるという前提があってのことだ。組織で仕事をしているとなかなかそれが思うようにいかないし、必要な時間を掛けられるというのはある意味贅沢なことだ。だからこそ、自分の好きな仕事に必要な時間を掛けられるというのは尊重すべき条件の一つである。特に創造的な仕事を志向していく上では重要な要素となると思う。

シリアスゲームサミットD.C.終了

 シリアスゲームサミット二日目。朝一のセッションはMMORPG「シティ・オブ・ヒーローズ」のリードデザイナー、ジャック・エマート氏によるキーノートスピーチで、「ゲームデザイナーには朝8時半はつらい」とぼやきつつ、デザイナーの立場から教育とMMO世界の接点や可能性についてシティ・オブ・ヒーローズのゲーム世界で起こっている事例を交えつつ語ってくれた。
 午後、事前にアレンジを手伝った韓国のウィ助教授の研究グループによる発表には、40人以上の聴衆が集まり、発表内容も素晴らしくて大成功。教育用途のMMO研究の動きが活発化している中、ウィ先生のグループの取り組みはすでに実証研究を何度も行なっている点で先行しており、聴衆からの関心も高かった。
 この他にも今回のサミットは、MMO関連のセッションが豊富だった。博士研究でやろうとしていたテーマもだいぶカバーされていたり、抜けていた要素が見つかったりで、だいぶ練り直しが必要なことを認識した。プロポーザル提出を帰国後に延期したのは好判断で、最初の計画通りに無理やり終わらせていたら、かなり面倒な手戻りが発生していたことだろう。いい研究をやるには時間と手間がかかるし、自分がちょっと考えて思いつくようなことはすでに誰かがやっている。しかも、自分よりずっと勤勉で優秀な人たちが手間と時間を掛けてすでに取り組んでいるので、励みになるし張り合いがあってよい。これで日本から戻ってきたら、冬休みはまた文献に埋もれて生活する毎日となりそうだ。
 今回も結構な人数の参加者と話をしたが、海外でもシリアスゲームジャパンの知名度もずいぶんと上がっているのがわかって嬉しかった。それに来年東京で開催されるDigra(Digital Games Research Association)カンファレンスも、みんなすっかり楽しみにしている様子。特にヨーロッパからの参加者の意欲は高く、Digraはヨーロッパ中心の学会なのだなという印象を受けた。
 もう一つ今回のサミットで大きかったのは、研究、開発、会社経営とも、すでに成功したり軌道に乗ったりした経験をもとにしたセッションが出てきたことだ。シリアスゲームの動きが始まってから3年ほど経っているので、2003年辺りに着手された大規模プロジェクトやスタートアップ企業の成果も出始めている。その中で得た経験が共有されながら、次の成功プロジェクトにつながっていくことだろう。
 あいかわらず参加者の中には、「ほんとうに具体的で、すごい成果が出たという研究事例がないのが不満だ」という声もあるのだが、そんなすごい事例が出てきて、みんながいけると確信を持った頃に腰を上げるようでは遅いのである。すごい事例が出てないことに対して、「だからその分野が当たりかどうか確信が持てない」という姿勢の研究者は、残念ながら半分終わっている。何かすでに確立された安定分野の職業に鞍替えした方がよい。「その程度の研究で発表なんかしやがって、このやろう」ということであれば、研究者としてはまあ普通。別にこのやろうと思う必要は無い。まだ誰もやってなかったり、みんなが寄ってたかって研究しているのにブレイクスルーがないところでこそ研究でもビジネスでもやっていく意味があるのであって、その意味がわからない人はどんなに偉そうなことを言っていてもあまりたいしたことは無いと思った方がよい。そういうところは日本でもどの国でも同じなんだなと感じた。
 二日間通して新しいネタが充実していたので、今書いている本にもだいぶ追加したいことが増えた。もう原稿をあげているのでいろいろと悩ましいのだが、構成の中で無理の無い部分だけ追加して、後はまた別の機会に、という感じになりそうだ。

シリアスゲームサミットD.C. 開催中

 シリアスゲームサミットD.C. 2006に参加のため、昨日からワシントンD.C.に滞在中。先月愛車のメンテをして、先日洗車もしたので、とても快適なドライブで、しかも今回初で一度も迷わずにたどり着いた。研究室の同僚も一緒なのでナビがいたのと、もう何度もD.C.エリアに来ているので単に慣れてきただけというところはある。
 さて、サミットの方は、詳しい内容はまた別の機会に譲るが、今回もたいへんな盛況である。参加者はさらに増加していて、セッション数も増えている。今回は東大の馬場先生や韓国のウィ先生をはじめ、アジアからの参加と思しき顔ぶれが十数人は増えた。ヨーロッパ各国からの参加者もそこここで見かけたし、全体的にインターナショナル度が前回よりも高まっている印象を受けた。
 内容も進化している。ヘンリー・ジェンキンスやジム・ジー、ベン・ソーヤーといったリーダーたちが着々と次のステップに進んでおり、多くの優秀な人々が熱心に進める開発や研究がそれに続き、ネタは尽きない。
 出版準備中の本で述べているが、今のシリアスゲームの概念は、現在のゲームがシリアスなものと考えられていないためにわざわざシリアスだと言っているだけで、将来ゲームに対する社会的認識が変わるにつれてこの概念は進化していくと思われる。
 そして今回のシリアスゲームコミュニティのリーダーたちの発表には、すでにその進化の兆候が現れていた。今回のサミットで示された一つの方向性は、シリアスなゲーマーが生み出すゲーム文化が鍵となり、ゲーム文化によってインスパイアされて展開するシリアスゲームである。これはシリアスゲームがある程度普及して、次の段階に向けたビジョンとして機能するだろう。

育てる側のモチベーション

 うちで金魚を飼うようになって、3年半ほど経った。肉食魚のエサ用に売られていた一匹15セントの小さな金魚たちだったが、今ではすっかり立派に育って、美しいヒレを持って、結構な大きさになっている。全部で五匹いて、一匹は一年年長さんで、残りの四匹は一緒に仲間に加わった。それぞれ成長の度合いが違っていて、年長のオレンジと同じサイズになったのもいれば、あまり身体は大きくならなくて小さなままのもいる。
 数ヶ月前から、毎朝エサを与える時だけ電気をつけるようにしてみた。すると最近になって、電気をつけたらエサの時間だと理解するようになって、水面に口をパクパクさせるようになった。金魚も、パブロフの犬と同じ原理で学習するのである。これなら他にも輪くぐりとか、何か芸でも仕込めそうな気もしたが、飼い主にそこまでのモチベーションがないので、彼らはただエサを食って、ただ泳いで、用を足して、暗くなったら寝るだけである。金魚を飼うまで知らなかったが、金魚は夜になると静止して、まぶたが無いので目を開けたまましずかに寝ている。
 一匹だけ、お腹が弱いのか、ガスが溜まってフワフワ浮いてしまう白いやつがいる。他の金魚が夜は静かに静止して寝ているのに、そいつだけはフワフワ浮いてしまって、体勢の維持ができずにバタバタ泳ぎながら寝れずにいた。それが何ヶ月も続いたのだが、ある夜水槽を覗いてみると、そのお腹の弱いやつは、水面のところまで浮上して静止していた。今までは水中にいようともがいていたところを、どこかのタイミングで水面に背を出せばバランスが取れることを学習したらしい。それ以来、そいつも夜は静かに寝れるようになった。そのおかげかお腹の調子も少しよいみたいで、以前よりも快適に泳いでいる感じである。
 金魚たちが学習しているのは、これともう一つ、エサをもらえない時にはエネルギーを消費しないように、なるべくじっとして過ごすことである。これは命に関わるのでみんな早くから学習している。だが、彼らが学習したと思われるのは、たったのこれだけである。
 あと、うちではニンテンドッグスのビーグルとチワワとラブラドールたちを飼って一年以上になる。こちらも飼い主がぐうたらなため、エサをやって風呂に入れて、たまに散歩に連れて行くだけで、たいして芸も仕込んでいない。そのため、いまだにお手とおかわりと伏せくらいしかできなくて、ドッグコンテストにも参加できない。チワワだけはなぜか勝手に逆立ちとバク宙を身につけて、たまに独りで飛び上がって遊んでいる。
 金魚もニンテンドッグたちも、まだ学ぶ余地をたっぷり残しているようだが、いかんせん育てる側に根気がないために、学べないまま日々を生きている。おそらく教えるのが好きで、時間と根気を持ち合わせた飼い主に出会っていれば、彼らももっといろいろと学んでいたことだろう。
 毎日少しずつの学習の積み重ねが、年単位になると大きな差となって現れるのは、人間でもペットでも、学ぶ者全てに言えることである。そして、学ぶ側がどれだけ学べるかは、育てる側の技量やモチベーションにかなり依存している面が大きい。特に、金魚の水槽や学校の教室のように、そこに関わる存在が飼い主や担任だけというような閉鎖された空間において、そうした状況は深刻化する。人生や魚生においてどれだけ学べるかは、たまたま出会った飼い主や教師の技量やモチベーションに大いに左右される。
 池や小川のように開放された空間であれば、金魚は他の生き物や自然環境から学ぶ機会を得ることができ、教室を出て社会と触れ合う機会を増やせば、子どもたちは外の人や環境から学ぶことができるようになる。だからといって、野生に放り出しただけでは、危険極まりなく、過酷な環境で生きるために学ぶことになってしまう。そうではなく、安全な環境を保ちながら閉鎖度を下げることで、運悪くモチベーションの低い飼い主や教師に出会うリスクを分散させることが一つの方策となるのである。
 またそれによって、育てる側の負担を軽減させることにもつながるというのも重要な点となる。学ぶ側も根気はいるが、教え育てる側も根気がいるのである。叱るのはエネルギーが要るし、つきっきりで面倒を見るのは消耗する。それでも親や教師は子どもたちを教え、育てなければならない。中には子育ての適性が著しく低い親もいれば、教科を教える技量は高くても、面倒を見るモチベーションの低い教師もいる。それは避けられない。みんながみんな高いモチベーションを持ち合わせているということはありえないのであって、その場合に必要なことは、そうした実情に合わせたシステムを作るということである。
 ペットであれば、無芸なのもまたかわいいので許せるが、モチベーションの低い親や教師のもとで育った無芸な人間というのは、その将来を考えるととても気の毒である。ペットのようにずっとエサを与えてはくれないし、大人になれば自分で食っていく必要があり、また家族を養う立場にもなる。子どもの頃に学習の空白期間のある人は、将来そのつけをどこかで背負わされる羽目になる。運がよければ開花したかもしれない才能も、開かないまま朽ちてしまうかもしれない。若いうちに身につけられなかったものを後でキャッチアップを迫られることもあるかもしれない。 そうした状況を回避するための一つの方向性としては、モチベーションの高い人が関わる機会を増やしたり、そもそもモチベーションの低い存在に依存せずに済む開放的な環境を整備していくことだと思う。

今シーズンのお気に入りTV番組

 今週は少しスローダウンして、休み休み過ごした。先週まで気合でカバーしていて気づかなかった精神的な消耗がどっと出た感じで、頭はずっと曇っていた。週の後半には疲れが抜けて、また復活した。
 今一番大事なのは、重要な仕事に集中して、コンスタントに続けることだ。無理してその後続かないとか、何となくはかどらない時間を費やさずに、生産性の高い時間を確保して、仕事を着実に前に進めること。それを続けるためには、きちんと休んで、気分転換となることを日々入れていく必要がある。
 日常の中での気分転換の手段は、週2回程度ジムのプールに水泳に行くことと、テレビを見ること。あまり前後にロスの時間が少ない活動ほど望ましくて、そういう意味では、テレビというのは案外有効だったりする。ただそれもいい番組をやっていることが条件なので、これも日本ではそれほどうまく行かなくて、この部分はマンガが取って変わるのだろうと思う。
 今シーズンは、リアリティショー系の番組はあまり気に入ったのをやってなくて、レギュラーで観ているものは、ドラマが中心。毎週、次のようなものを観ている。
Prison Break (FOX)
 副大統領の罠にはまって死刑囚にされた兄を救うために、銀行強盗未遂で同じ刑務所に入った弟が、仲間と脱獄するという話。日本でもDVDが出ているそうだが、これはお勧め。今やっているシーズン3は、みんなで脱獄しての逃亡中のところ。毎週目が離せない。24がシーズンを重ねるごとにストーリーよりもスピード感と刺激の強度に依存する展開となる中、こちらはまだストーリー展開がゆっくりめで、安心してみていられる。
Heroes (NBC)
 今シーズンのNBCの一番の主力ドラマ。普通の人が特殊能力に目覚めて、予知能力や飛行や瞬間移動や不死身の身体をもった人々が、数週間後にニューヨークに核爆弾が落とされるのを未然に防ごうとするというSFもの。テーマはB級SF風だが、優れたライターの手にかかると、こんなに面白くなるんだなという感じで、これも毎週目が離せない。日本人のヒロとその同僚の日本語の掛け合いがかなり笑える。ヒロ役の方は日本生まれの日系人みたいで、ちゃんとした日本語なのだが、同僚の方はあきらかに日系ではなく、微妙な日本語を話している。主役の配役は、エスニシティのバランスが考えられているところはアメリカのドラマらしいところ。インド人と日本人がフィーチャーされているところは、アメリカのマイノリティの中でも、特に何かヘンな能力が使えそうというイメージなんだろうか。
Studio 60 on the Sunset Strip (NBC)
 「ウェストウィング(ザ・ホワイトハウス)」の後発的なドラマで、舞台をホワイトハウスからテレビ局に移して、サタデーナイトライブをモデルとした人気コメディ番組の制作舞台裏の話。ウェストウィングの作家Aaron Sorkinが書いていて、話の展開や演出のテイスト的に、ウェストウィングと共通するところが多い。フレンズのチャンドラー役で有名なMatthew Perryと、ウェストウィングでJosh役だったBradley Whitfordの二人が放送作家とプロデューサーのコンビで、その二人を中心に展開。テレビ局の社長役のAmanda Peet がとてもよい感じ。英語はウェストウィングと同様、早くて難しい。英語リスニング上級編という感じ。観ていて疲れるし、一回では十分楽しめないので、ビデオに録って翌週の放送までにもう一回観ている。
 最近ネットでかなり長めなダイジェスト映像を流している番組が増えたが、この番組は、ネットで前の週のエピソードを全部観れるようにしてある。ネットで見られるようにすることで生じるロスよりも、見逃した人がドロップしてしまうロスを大きいと判断してのことなのか、いずれにしても視聴者にはありがたい。ある意味、ネットとテレビの融合によるサービスの変化の過程とも言えそうだ。
Friday Night Lights (NBC)
 テキサスの田舎にある、高校のアメフトチームの話。必勝のプレッシャーの中で闘うコーチと選手達、それにケガで選手生命を絶たれたスター選手の日々の葛藤や人間模様を中心に展開する。テーマ的には、青春スポーツもので、あまり興味を惹かれなかったものの、これもNBCの今シーズンの主力ドラマで、さすが力が入っているだけに面白い。
Boston Legal (ABC)
 3シーズン目に入り、今期も快調な弁護士ドラマ。前にも書いたけど、このドラマは私のAll-time favorite。
 いずれも、英語の難易度が少しずつ違っていて、英語力の維持のための程よい教材になっている。最近日本語での仕事が増えたので、テレビから得る英語の重要度がちょっと上がっているが、面白い番組が豊富にあるのがありがたい。

頭はからっぽ

 原稿を書き終えて、一夜明けた。頭がからっぽになって、昨日までとは全く精神状態が違う。全部出せるものは出し尽くした感じで、この空っぽ感はとても心地がよい。これからの作業がどうあれ、ここまでたどり着いた達成感は変わりない。
 頭が空っぽになったおかげで、冷静になっていろいろと考えることができた。いくつかここしばらくの計画について重要な意思決定をした。切羽詰って欲張って考えた時の自分の判断は、あまり当てにならないものだと思った。いくつかスケジュールの再構成をしたおかげで、昨日までの生き急ぎ感や、頭痛の種はどこかへ行ってしまった。少なくとも、自分の手がけるものにリスペクトを持って臨むことにして、そのためのリソースをきっちり確保することにした。時に数をこなすことが大事な局面もあるが、今はその時ではない気がしている。この判断のおかげで、またがんばれそうな気がしてきた。これからやること自体は同じなのに、全く気の持ちようが変わるというのは不思議なものだ。
 たぶん個人に限らず、組織のモチベーションがあがったり下がったりするのも、これと似たようなものなのだろうと思う。どれも重要だから全部うまくやれ、というのは経営判断でもなんでもない。組織の向かうべき方向と力量を見極めて、それにあった形で大事なものを選ぶのが、組織の意思決定だと思うし、それは個人レベルの意思決定の延長線上にあると思う。それができない経営者や上司の下で働いていると、果てしなく遠泳をしているような息苦しさが続くし、よい経営判断の仕方など学べない。それに運が悪いと、いつかは力尽きて沈んでしまうかもしれない。
 日本でサラリーマンをやっている頃は、そういう働き方を余儀なくされることばかりだったし、そういう環境で真面目に働いて具合を悪くした友人が何人もいるので、ついそんなことを思うのかもしれない。自分が日本で何かを始めるときは、間違っても自分がそういうデスマーチな組織を作ってはいけないし、流されずに物事を決めていく感覚を大事にしたいと思う。

ついに脱稿

 つい今しがた、シリアスゲームの書き下ろしをようやく脱稿。疲れたー。
 原稿の体裁を整えながら全体を見直すと、最初の方に書いたものほど、いろんな問題が見えてきて、直したいところがたくさん出てきてイヤになってくる。ソロワークの厳しさは、やはり最後の詰めのところで一番顕著になって、いろいろやる踏ん張りがきかなくなって、とにかく力尽きる前に終わらせたい気持ちで一杯になった。必要最低限のところを直しながら、何とかまとめはしたものの、自分の頭が飽和してしまっていて、原稿の出来とか判断できない状態。昨日までは、ものすごいノリで書いていたのに、疲れた頭で見直したとたん、なんだか気持ちがしぼんでしまった。
 とにかく一休みして、元気を回復してからいろいろ考えたいと思う。日本に帰る前にやる仕込が山積しているので、頭が痛い。とりあえず今日は寝る。