ブレンデッドラーニングと聞いたら逃げろ

 ここ最近、オンライン教育と教室での対面教育を組み合わせた「ブレンデッドラーニング」が、新しい教育ソリューションであるかのように取り上げられている。しかし、eラーニング界の大御所であるロジャー・シャンクはそうした状況を「ブレンデッドラーニングと聞いたら逃げろ」と批判している。
 シャンクの考えを要約すると次のようになる。
「ブレンデッドラーニングという時、教室での対面教育は対人的なインタラクションが必要な教育を行ない、eラーニングは人を介する必要がない部分に利用される。人を介する必要がない学習とは、個人でできるスキル練習のような学習になるが、スキル練習にはシミュレーションのような手間とコストを掛けた教材が必要である。もしそういう教材をきちんと作れば、教室での教育は不要になるのでブレンデッドである必要はなくなる。そのため、わざわざブレンデッドと称している講座のeラーニング部分は、コストをかけずに作った退屈な暗記クイズの類が提供されている場合が多い。だから、ブレンデッドという言葉を聞いたら、逃げるに限る。」
 「ブレンデッドラーニング」は、新しい教育手法でもなんでもなく、eラーニングと言っても売り文句としてあまり効かなくなったので、その代わりの売り文句として登場したにすぎない。「ブレンド米」や「ブレンドコーヒー」のように、「ブレンド」という言葉は、単品では売れないクオリティの低いものを混ぜてラベルを張り替えて売る時によく利用される。eラーニング業界がブレンデッドという売り文句に飛びついているのは、ブレンドしないと売れない商品ばかりがあふれていることを示しているようにも見える。質の悪いものはいかにブレンドしても最高級品にはなり得ず、よくある「最高級品風」ブレンドでしかない。「~風」というラベルをつけて聞こえを良くすることは簡単だが、そんなことではユーザーの目はごまかせない。そもそもブレンドしていること自体が売りになる状況というのは、どこかおかしいのである。
 時にブレンドの妙で質が多少上がることもあるかもしれないが、それも質のよい素材を使った方がそのブレンド技術も活きてくるわけで、であればその前に質のよいeラーニング教材を開発することに注力した方がよい。たいして手間をかけずに作ったような、単なるテキスト教材を焼き直した退屈な「紙芝居+クイズ」のeラーニングがあたかも標準的なeラーニングだと考えるのは間違いである。そこには教材開発の工夫はたいしてされておらず、いかに「インストラクショナルデザインで開発しました」などと称しても、その底の浅さは学習者から見れば一目瞭然である。単純な話、そんなことをしているから売れないし、評判も悪いのだ。
 ブレンデッドラーニングの流行りもこのままいけばすぐに冷え込んで、また次の売り文句が注目されるだろう。そうして、教育の質は上がらず、バズワードが次々と消費されていくだけに終わる。だが、eラーニングの作り手たちがそういう状況に喜んで甘んじているとは決して思わない。きっと作り手の誇りと想いを胸に秘めながら、すごいものを作ろうとたくらんでいる人々もあちこちにいると思う。そしてそうした人たちが望みを捨てずにがんばっていれば、誰が作ったかわからないような粗悪なブレンド品ではなく、その作り手の名前自体がブランドとなるような質の高い製品が世に送り出されてくることだろう。そう信じたいし、私はそういう想いを抱えた人たちの力になれるような仕事をしていきたい。
 とりあえず今は、シャンクの言うように「ブレンデッドラーニング」と聞いたら逃げておくのが無難である。ブレンデッドラーニングで劇的に教育効果が上がるなどと吹聴しているベンダーからはどんどん逃げるとよい。わざわざブレンドなどと言わなくてもそのよさが伝わるものを提供すべきなのであって、ブレンドであることを売りにせざるを得ないような質の悪いものはユーザーには通用しないという認識を、早くみんなで共有するのが日本の教育のためである。
 なお、引用したシャンクの本はこちら。eラーニングの現状をバサバサと切って捨てていて、ではどうすればよいのかもわかりやすく書いてあって、読んでいてとても楽しい一冊である。
Schank, R. C. (2005). Lessons in learning, e-learning, and training: Perspectives and guidance for the enlightened trainer.San Francisco: Jossey-Bass.

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