アメリカン・インベンター

 つい最近、発明家オーディション番組の「アメリカン・インベンター」(ABC)が始まった。一言で言えば、アメリカン・アイドルの発明家版といった内容。アメリカン・アイドルのジャッジの一人であるサイモン・コーウェルがエグゼクティブプロデューサーに名を連ねていて、番組フォーマットはアメリカン・アイドルとほとんど同じで、地方予選で勝ち残った発明家が自分の発明をブラッシュアップしていって、最後まで勝ち残った一人がアメリカン・インベンターに選ばれ、100万ドルの賞金と、発明品の商品化の栄誉に預かることができる。今はその地方予選をやっているところ。
 地方予選の回はアメリカン・アイドルもかなり面白いが、この番組の方が挑戦者のユニークさの幅が広いので格段に面白くなっている。いろんなレベルの街の発明家が挑戦してきて、ジャッジにけちょんけちょんにけなされたり、発明への想いを訴えて感動の場面を生んだりして、楽しさの幅が広い。こんな全国ネットのテレビで自慢の発明を公開してもいいのかなと思いつつやり取りを聞いていると、どうやら全部ではないと思うが、出てくる発明の多くは特許をすでに取っているようである。すごくくだらない発明品や、王様のアイデアに売ってそうなアイデア商品もどきのものもあれば、ホントに売れそうななかなかの発明までさまざま出てくる。全財産つぎ込んでこの番組に賭けているという挑戦者が何人かいたが、あっさり落とされた人も、次に進めた人もいた。アメリカンアイドルと同じく、挑戦者達の熱意と自信はものすごいものがあって、発明家という人々の持つある種の胡散臭さも相まって、出てくる人々の人物描写が番組の一つの売りになっている。
 まだ番組は始まったばかりなので、これから次のステージに進んで、決勝ラウンドまでどういう風に進むのか楽しみである。

ネットメタルラジオ放送終了

 昨年9月に開局したプライベートネットラジオステーション「ライフロングメタル」は、残念ながら今月で休止することにした。理由は資金難なのと、当面やりたいことはやって満足したので。
 約半年の間に、世界中のメロディックパワーメタル・プログレメタルファンがリスナーになってくれて、ささやかな盛り上がりを見せていた。メタル系ラジオステーションが300近くある中で最高60位台まで上昇した。今年に入ってからは忙しくてほとんど更新できなかったためにだんだん下降していったけど、プリセット登録してくれた人は120人を超えた。
 日本とアメリカはもとより、ヨーロッパ、南米、アジア、アフリカと文字通り世界中にリスナーがいて、毎日どこの国から聞いてくれてるのかをチェックするのが楽しみだった。ただ好きな曲を選んでかけるだけではあるのだけど(やろうと思えばプロのラジオ局並みのこともできる)、ささやかながらも個人で世界に向けてラジオ局をやって、自分の想像を超えたところからの反応を得るというのは、なかなか素敵な体験だった。
 今回はこれで休止だが、いつかまた機会があればやって見たい。なにせステーション名からして生涯学習ならぬ、「生涯メタル」なので、年取って余暇が増えた時にでも、またやってみたい。ラジオDJが趣味のじいさんなんてなかなか楽しげでいいではないか。
 自分はたぶん仕事辞めてリタイヤしても、やりたいことがたくさんあるので、燃え尽きて急に老け込んだり、目標を見失ったりするようなリタイア生活とは無縁な気がする。というか、早くリタイアして、のんびり過ごしたいんですが。あるいは別の見方をすれば、仕事と遊びの境界があまりないので、むしろ朽ち果てるまで果てしなく仕事しているような気もして、なかなか悩ましい。そこはどうであれ、生涯メタルの鋼鉄魂なのは変わらないでしょう。

進むメリケン体質

 今日はふだんより早めの夕食にして、酒を飲みながら昨日作った生春巻の残りなどつまんで、ちょうどやってたプリズンブレークとかテレビを見ながらくつろいでいた。早い時間からくつろぐのは悪い気はしないのだけど、その後やることがあるときには面倒くささが倍増する。美味い酒なぞ飲んで緩んだ精神には、普段は耐えていることが果てしなく面倒なことに思えてきて、何をするのも嫌になってくる。面倒くささが極まったところでベッドに倒れこんでふて寝したら、中途半端な時間に目が覚めた。頭はすっきりしているので仕事はできるのだけど、また生活時間が不規則になるのでなかなか悩ましい。
 ところで、時々ふと自分の食行動などを冷静になって見てみると、自分のメリケン体質化がいろいろと目に付いてくる。こちらに来た当初は食えなかったような、スーパーに売ってる甘くて不味いケーキを、この間もらって食べたら、結構美味いなと、でかい一切れを普通に食しているし、インターンの職場ではフリーソーダなのをいいことに、日本ではおそらく売ってないであろう、ダイエットドクターペッパーとかダイエットマウンテンデューなんていう意味不明な飲み物をウマーと飲んでいたりする。ウェンディーズのトリプルバーガー(肉が三枚重ね)のような普通の人の食べ物ではないようなものを、時々すごく食べたくなったりする(そこはさすがにダブルで抑えている)。日本にいる頃はフライドポテトはほとんど手をつけなかったのだが、今ではわざわざ買い求めて食べている。日本食に対しても、以前はとんかつ定食とか牛丼とか、いろいろむしょうに食べたくなったりすることはあったけど、今は自炊する分で事足りていて、特に日本食が恋しいという感覚もほとんどなくなってしまった。普段は気にしてなくても、あるときふと振り返ると、そんな感じで自分のメリケン体質がかなり進行していることに気づく。
 アメリカの食生活というのは普通にしているとすごく不健康で、不健康なものほどものすごく安い。健康志向にすると金が余計にかかるので、余裕のない人たちはそういう不健康なものを日々食べざるをえない。健康に気をつけない人は、普通にアメリケンな食生活をして、普通に太っている。ウォルマートみたいな大衆スーパーに行くと、もはや人間の形を呈していなくて、自分の体重も支えられないような人たちがたくさんいる。そうかと思えば、朝も晩もあちこち走っていたり、食事に気をつけすぎる人も多くて、ちょうどよく健康的な生活を送るのが非常に大変なところである。
 そんな中で、ちょうど自分に合った食生活というのを見出して、やっと定着してきたという感じなのだけど、ここまでメリケン体質化してしまうと、今度は日本に帰ったときが問題になってくる。ダイエットドクターペッパーは売ってないだろうし、牛肉は高いし、ケーキやお菓子は逆に美味過ぎてやばいし(日本の空港のお土産売り場とか行くと、日本のお菓子文化の素晴らしさにマジで感動する。アメリカの空港にはまともなお菓子屋はなくて、あってもせいぜいゴディバみたいなヨーロッパ系な感じ)、また逆に適応するのが大変な気がして先が思いやられる。

インタビュー記事掲載

 年末に受けたシリアスゲームのインタビュー記事が掲載されました。
シリアスゲームジャパン藤本徹氏インタビューと今後の展望(株式会社シナジーWebサイト)
http://syg.co.jp/seriousgame/gfh4_1.html
記事の内容は、インストラクショナルデザインとシリアスゲームを絡めた内容になっていて、たぶんそんなのは他では読めない楽しい内容になっていると思うのだが、なにより顔写真デカすぎ。想定外、という言葉はこういうシチュエーションで使うんだなと、このページを見た時思った。でも世の中的にはたいしたことではないなと気を取り直した。こういうシチュエーションには慣れていないので、今いち居心地が悪くて困るけど、シリアスゲームが次の段階に進んでしまった感があるので、そうも言っていられないのかもしれない。
 あまり関係ないのだけど、ふと、徒然草の説経を学びそこねた法師の話(第百八十八段)を思い出した。その男は法師になったらあちこちに呼ばれるので、馬の一つもうまく乗れないと恥ずかしいと、乗馬を習い、酒席に呼ばれて芸の一つもできないと恥ずかしいと、早歌を習った。それらが上手くなった頃には説経を学ぶには手遅れなほど歳を取ってしまっていた、という話。ちなみに徒然草は好きなエピソードが結構ある。学校で古典を学んでよかったと思う数少ないことの一つだ。
 何かをやろうとするとあれこれ雑念が入って、本来やろうとしていることがおろそかになりやすい。うまくいきはじめて状況が変わってくると、なおさらそうなのだろうと思う。ちょっと取り上げられだすと、お肌や髪型なんかが気になりだし、いい服もほしくなる。金が入れば車やら家やらも気になり始める。それはそれでいいことなのだろうし、そもそも身なりくらいはちゃんとしておけよという話なのだけど、それでも何が一番重要なのかを忘れてしまうと、この法師みたいに、肝心なところにたどり着けないで終わってしまう。馬に乗れて歌が歌えれば、法師としては平凡でも十分幸せな人生には違いないし、うまくやればそうしたものが本業の深みを増すということもあると思うけど、バランスを失ってしまって、肝心なことがダメになったら残念だろうなと思う。
 たぶんこの話を思い出したのは、自分自身にそういう雑念の気配を感じたからなのだろうと思う。
 これからいろんなことが動いていきそうですが、そんな中でも引き続き、一番大事なことに注力して、弛まず精進して仕事に励みたいと思います。

シリアスゲームサミットGDC終了

 サンノゼで開催されたシリアスゲームサミットGDCに参加。もうシリアスゲームサミットも5回目。昨年のGDCはちょうど春休みと重なっていたし、スピーカーパスでGDCのセッション全部見れたので最後まで参加したが、今年はシリアスゲームパスしかなかったのと休みではなかったのもあって、シリアスゲームサミットのみ。もともとGDCでのシリアスゲームサミットは、ゲーム開発者向けの内容になっていることもあるが、今回は研究面での発表はやや物足りない感じがした。その代わり、ビジネス関連のセッションは活気があった。ゲームの事例も増えてきて、ビジネスとして成功する企業や新たに挑戦する企業が出てきたことで、自信と重みが出てきた感がある。詳しくはシリアスゲームサミットレポートで後日。今回はゲームニュースサイトのSlash gamesへ寄稿予定です。
 サミットが終わって、帰宅したところでスクエニと学研がシリアスゲームの会社を立ち上げるというニュースが入ってきた。
スク・エニと学研、学習・職業訓練ソフト開発で提携(Nikkei NET)
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20060322AT1D200DA21032006.html
今までのシリアスゲームのニュースはゲーム関連メディアにとどまっていたが、今回はこの日経や毎日のような一般メディアでも取り上げられていて、「シリアスゲーム」がこうした形で日本の一般メディアのニュースとして広く取り上げられたのはおそらくこれが最初だと思う。次の普及段階へ進むには、何かを仕掛ける必要があると思っていたが、その必要はなくなった。こちらから流す情報も、今までよりずいぶん伝わりやすくなると思う。
 タイミングというのは、その兆候は読めても、実際にいつやってくるかわからないものだとつくづく思った。そしてそのタイミングをチャンスとして活かせるかどうかは、それまでに準備ができているかどうかにかかっていて、幸運なことに今回はその準備ができている。今やっていることのペースを少し速めて、計画通りに仕事を進めれば、かなり面白いことになる。来年はどういう状況になっているかとても楽しみだ。少しゆっくりクラゲのように緩んでいようと思っていたが、そんな気分でもなくなってきた。

「写経」の効果

 日本の機関から依頼が入って、シリアスゲームについての論文を書いているのだが、書いていて一つ気づいた。以前は書き進めるのがたいへんと感じていた内容を書くのがすごく楽になっている。もう2年もこの分野をメインにしているわけだから知識の蓄積が増えてきたという面もあるのだが、それ以上に、最近やっている翻訳作業によるところが大きいように感じている。翻訳している本はこの分野について書いているものなので、知識自体を吸収しているということはもちろんある。だがそれ以上に、翻訳作業というのは一文一文をかみしめながら、その意味を念入りに吟味しつつ読むことによる効果を感じている。丁寧に訳しながら読み進め、翻訳がある程度進むと、その著者の思考の流れとシンクロするようになり、自分の思考の一部になったような気がしてくる。単に本を読んだだけなのとは知識の吸収の状態が異なり、思考力もその過程でついているようである。よく駆け出しの研究者が自分の専門分野の翻訳出版に取り組むのはこういう意味があるのだなと理解した。
 大学受験のときの英語の勉強で、速読やパラグラフリーディングのようなテクニックばかり追っていたら力がつかなくて、精読をきっちりやることで基盤になる力がついて、大幅にレベルアップができた経験をしたのも、たぶん関連がある。寺の坊さんが修行の一環で写経をするのも、宗教的な意味がなんらかあるにしても、おそらく学習の側面としては、落ち着いて一字一字かみしめながら経を読むことで、より理解が深まるという効果を期待する面があると思う。
 一般的にISDの世界で追い求められる学習効率とは発想の異なる学習方法だが、専門家を育てるための方法として昔から経験則的に利用され、有効に機能していると言える。一文一文訳しながら読むのは語学学習方法としては非効率と考えられがちだが、難しい文献を読み解く訓練や、思考訓練の上ではむしろ効率的な面があるようである。「急がば回れ」ということか。駆け出しの研究者の一人として、きっちり力をつけつつ翻訳をやり遂げようと思った。

試験終了!

 無事パスしました。しかもコンディションなしの完全合格。
 会場の予約がなぜかできてなくて、途中で部屋を移動するハプニングもあったけど、試験自体はとてもいい雰囲気で終始した。コミッティーの教授たちのコメントとかアドバイスとかいろいろうれしかった。何も追加課題なしでパスできたのは、コミッティーに恵まれたおかげ。その場で引き続き博士論文のコミッティーになってくれと頼んで快諾をもらえた。いい流れになってきた。
 さあ次は論文のプロポーザル。とりあえず力抜けたので、週末のサンノゼ出張まではちょっとクラゲのように浮遊していようと思ったら、この間受けた仕事の原稿があった。。なのでクラゲはとりあえず来週末までお預け。

子どもたちへのゲームの影響が心配な方のための本

シリアスゲームジャパンのエントリと同じものですが、こちらでもご紹介します。
デジタルゲームベースド・ラーニング」の著者マーク・プレンスキ氏の新刊 “Don’t Bother Me Mom — I’m Learning” (「ママ、勉強してるんだからジャマしないでよ」)が発売されました。
この本は、子どもがゲームで遊ぶのを心配する大人のための、ゲームとポジティブに、かしこく付き合うための解説書です。ゲームは有害ではなく、むしろ子どもたちや若者たちの成長を助け、能力を高めているという研究事例を引用しながら、ゲームを子どもの学習環境の中にうまく取り込むことで、子どもたちがデジタル技術の進化した社会でよりよく生きていくためのリテラシーを身につけながら成長していくことができるという考え方を提示しています。
ゲームで遊ぶ子どものことを心配する大人たちの多くは自分でゲームをプレイしないため、ゲームプレイを通して子どもたちが身につけているリテラシーについてを理解できず、そのためにゲームが有害であるとする誤った二次情報によって翻弄されています。
この本ではそうした情報がいかに誤っているかを指摘しながら、ゲームの持つポジティブな効能を実際の事例に基づいて解説し、ゲームについて子どもたちとよりよい関係を築いていくための考え方や方法を紹介しています。
ゲームの世界がどんな感じで、子どもたちがその中でどういう経験をしているのか、子ども達の身につけているスキルがどんなもので、どんな風に社会で役に立っているのか、子どもたちがゲームを通した経験を学習に活かしていくには子どもたちとどういう会話をすればよいのか、といったことに関心のある「非ゲーム世代」の方にお勧めの一冊です。
過去の関連エントリ:親と教師のためのゲームガイド

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土壇場の集中力

 修了試験の口答試験が明後日に迫ってきたので、論述試験の時に自分が書いた回答を読みながら、最終調整をしている。読んでてやれやれと思う部分もあるのだが、ところどころにどうやってこんな言い回しを思いついたんだろうというような、素の自分では思いつかないことを書いていたりする。時間制限のある中で持てる知識を総動員して必死になって書いているので、火事場力というか、土壇場の集中力のなせる業なのだろう。試験であれ舞台であれスポーツの試合であれ、成功をかけた勝負の場というのは、よく言われるように水ものである。その場面でタイミングよく力を出し切れるように心身を調整して、コンディションをちょうどよいところに持っていかないといけない。運も作用する。たまたま出掛けに階段で躓いてこけたとか、朝のコーヒーで口の中をヤケドしたとか、そんな些細なことで集中力というのは簡単に削がれてしまう。その誤差というのが結構大きい。テンションの差一つで結果は大きく変わる。実力十分と思ったのに結果が芳しくないこともあれば、望み薄だったのが結果は大金星となったりする。
 この試験の結果で、今後の予定がうんと変わってしまうので、なんとか一発でパスしたいものだが、こればかりはなんとも言えない。自分自身の感触としては、実は知識的にはあまり足りてなくて、その場のテンションとか、土壇場の集中力に頼らないといけないところがかなりある。論述試験の時はそれがある程度うまく行っていたのだなと、自分の回答を読んで理解したが、さて今度はどうだろう。

研究者とポリティクス

 先日のエントリに対し、さらに東大の中原さんからコメントをいただいたので、こちらもさらにコメントを続けます。
中原さんの記事:研究の場ではたらくポリティクス
http://www.nakahara-lab.net/blog/2006/03/post_110.html
> 「あるものがポジティブなものなのか、ネガティヴなものなのか」ということを、
> 根拠をもって判断する基準はないんじゃないかなと思うんですね。そこでいう
> <ポジティブ>は、「藤本さんの考えるポジティブ」という意味で、まさに藤本さん
> 自身も、政治力学の渦中にいますね。
それはご指摘の通りです。
完全無欠なポジティブとか100%客観的な中立などあり得ないですし、僕自身が政治力学のどこかにプロットされるのは避けられないと思います。良かれと思ってやったことが誰かにとっての不都合になることもあるでしょう。でも、そこは自分の信念やビジョンに基づいて、ベストエフォートでやっていくしかないと思っています。いろいろ考え出してもきりがないので、ごく単純に、お天道様に顔向けできないような仕事の仕方はしないということと、自分の意図に対して常にリフレクティブであり続けながら、自分の判断のブレを抑えていく、くらいで考えています。僕がポリティクスを意識するのは、自分が大事だと思う仕事を、自分の納得のいくレベルでやるために必要な範囲においてで、それを超えることには関心はありません。そうは言っても、間違うことや壁にぶち当たることもあると思います。でも、その時々で全力で考えて最善と思うことをやっていくしかないと思います。中原さんの研究に絡むポリティクスへの考え方にはとても共感しています。
> で、いわゆる「振り付け」をされたり、ポリティカルな悪意をもった人々に利用される
> 可能性が格段にあがる。正直に「自分にわからないことは、データがないのでわからない」
> というべきです。
 これはとても身につまされる話です。自分がどうでもいいと思うことや嫌いな相手に対しては、「そんな話をオレに振るな(怒)」というニュアンスを込めて遠慮なく「わからん」と言えますけど、「これをわからんと言い切ってはちょっと気まずいな」という局面はいろいろ出てきます。気をつけてはいても、その場のノリで言い過ぎてしまうこともあります。たぶんコミュニケーションのとり方の問題で何とかできることが多いだろうと思っていて、僕はこの点はちょうどよい身の処し方を求めて試行錯誤しているところです。
> ともすれば、世に流布する言説は、何でもかんでも、クソミソ一緒にして、教育のせいに
> します、教育が何でも解決出来ると持っている。「教育にできること」「教育にできない
> こと」の線引きは、必要だと思っています。
まったくおっしゃるとおりだと思います。苅谷剛彦先生あたりがずっと前に指摘されていたのを読んで以来、そう考えてきました。大学院のクラスでも、事例を聞いて「そもそもこれは教育問題なのか?」を議論する機会が何度かありました。そういう議論をする機会は必要だと思います。少しずれますが、日本の一般的な風潮は、万能薬か魔法のような解決法を専門家に期待するところがありますよね。あるいは、誰かすごい人が何とかしてくれるよ、オレ負け組だからシラネ、みたいな体のいいあきらめというか。普通の人たちの地道な努力で成果を積み上げていって、状況を変えていくしかない、ということを理解していない。そういう中で自分がどうやっていくべきなのかなと考えています。
> 上位の教育システムのリデザインですか。
> このあたりは、いわゆる学習科学(learning science)でも似たようなところがあって、
> WISEのグループとか、ノースウェスタンのグループとか、もっとマクロレヴェルの教育
> システムのリデザインに着手しているようですね。
学習科学の研究者の方が、Scienceという名前がついていながらも、デザイン重視でアプローチが柔軟なところがあるなと思います。ISD研究者の方が逆にサイエンスを意識しすぎて柔軟さに欠ける(そんなことやって何の足しになるかわからないような)研究をしてたりするのが時に気になったりします。最近では、学習科学とISDの研究者の間のコラボレーションやディベートがやや盛り上がっています。まあ、もはやどちらがどうだという話でもなくて、実質的にはかなりクロスオーバーが進んでいて、お互いの優劣を云々しているのは保守的な人とラディカルな人たちだけのような印象です。その辺の話は前に少し書きました。日本にはそもそもディベートが盛り上がるほどこの分野に人がいないというのが寂しいところですが。
http://www.anotherway.jp/archives/000609.html
> 結論からいうと、大学研究者と現場のあいだをつなぐ媒介的な組織がなければ、
> なかなか教育システムの変革まで手がまわらないと思うのですね。
>  いったん教育学者が普及ということを意識した場合には、どうしたってマンパワーが
> 必要です。でも、そのマンパワーをどう獲得し、どういう仕組みで、その「マンパワー」を
> マネージしていくかについては、議論がナイーブすぎると思っています。
同感です。日本の大学組織だとどうしても、研究者にかかる負荷が大きくて、失敗するか無茶して身体壊すかで、そういうのを避けて大部分は尻込みして動かない、みたいな世界になるのも仕方がないと思います。アメリカの大学組織の強みは、専門教育を受けたスタッフの層が厚いところかなと思います。何かやろうとした時に頼れるスタッフがいる。大学院生も経済的支援があるおかげで、プロジェクトにしっかりコミットできる。そういうところがあります(もちろん、いい面ばかりではないですが)。
アメリカの教育システム変革論では、システム思考をベースとした組織変革のアプローチを中心に教えています。研究者と実践者だけでなく、新しいテクノロジーや教え方を導入する際に、その変化がその組織や周辺に及ぼす影響をシステム的に捉えて、全体のバランスを取って最善の状態に持っていくためには何をしていく必要があるのかをセオリーとして学びます。Hutchinsの「Systemic Thinking」や、Havelock & Zlotolowの「Chenge Agent’s Guide」などは長年、基礎文献として読まれていて、そうした知識を持った人が学区レベルや学校レベルで働いているというのはずいぶん違うだろうなと思います。
> 今度ぜひご帰国なさったときは、ゲームのことならず、ISDの研究動向などご教示
> いただければと思います。ポリティクスについてもお話ししましょう。
それはぜひとも。書き出したらきりがなくて、だいぶはっしょって書いてますので、また続きをじっくり議論できればうれしいです。それにこちらこそ日本の事情をいろいろお伺いできればと思います。
帰国の楽しみが一つ増えました。