日本の機関から依頼が入って、シリアスゲームについての論文を書いているのだが、書いていて一つ気づいた。以前は書き進めるのがたいへんと感じていた内容を書くのがすごく楽になっている。もう2年もこの分野をメインにしているわけだから知識の蓄積が増えてきたという面もあるのだが、それ以上に、最近やっている翻訳作業によるところが大きいように感じている。翻訳している本はこの分野について書いているものなので、知識自体を吸収しているということはもちろんある。だがそれ以上に、翻訳作業というのは一文一文をかみしめながら、その意味を念入りに吟味しつつ読むことによる効果を感じている。丁寧に訳しながら読み進め、翻訳がある程度進むと、その著者の思考の流れとシンクロするようになり、自分の思考の一部になったような気がしてくる。単に本を読んだだけなのとは知識の吸収の状態が異なり、思考力もその過程でついているようである。よく駆け出しの研究者が自分の専門分野の翻訳出版に取り組むのはこういう意味があるのだなと理解した。
大学受験のときの英語の勉強で、速読やパラグラフリーディングのようなテクニックばかり追っていたら力がつかなくて、精読をきっちりやることで基盤になる力がついて、大幅にレベルアップができた経験をしたのも、たぶん関連がある。寺の坊さんが修行の一環で写経をするのも、宗教的な意味がなんらかあるにしても、おそらく学習の側面としては、落ち着いて一字一字かみしめながら経を読むことで、より理解が深まるという効果を期待する面があると思う。
一般的にISDの世界で追い求められる学習効率とは発想の異なる学習方法だが、専門家を育てるための方法として昔から経験則的に利用され、有効に機能していると言える。一文一文訳しながら読むのは語学学習方法としては非効率と考えられがちだが、難しい文献を読み解く訓練や、思考訓練の上ではむしろ効率的な面があるようである。「急がば回れ」ということか。駆け出しの研究者の一人として、きっちり力をつけつつ翻訳をやり遂げようと思った。