バトルフィールド2

  ところで、何でそんなにバトルフィールド2をやっているかというと、以前スウェーデンのゲーム研究者とメールをやり取りしてて、「北欧はそんなにゲーム作ってないのに何でゲーム研究が盛んなのか」と聞いたところ、「日本やアメリカほどではないが、いいゲーム出してる会社は結構あるよ」と言って示された例がダイスという会社。この会社の代表作にはバトルフィールド1942があり、最近リリースされたのがバトルフィールド2。せっかくなので北欧産のゲームも試してみようと思ってやってみたところ、かなり面白くてハマっているという次第。
 題材はよくある戦争シューティングゲームなのだが、設定がカザフの油田をめぐるNATO軍と中国軍の紛争という現代的なものになっていて、出てくる兵器は多岐でハイテク。徒歩だけでなく、ヘリや戦車や揚陸ボートも駆使する。特徴的なのは、プレイするキャラクターの切り替えができて、途中で他の場所にいるキャラクターに切り替えて、そのままそいつをプレイできるというゲームシステムになっている。他のシューティングゲームのように、単独のキャラクターを操作して、そいつが死んだら振り出しに戻る、というのではなく、一人が死んでも、他のキャラクターに切り替えてミッションを継続できる。視点切り替え、という感じではなく、魂が転移して、乗り移るようなプレイ感覚なのが新鮮。オンライン対戦はまだ試してないが、やってみるとまた違ったものが見えてくるだろうと思う。こういうゲームを幼い頃からやって育つと、世界の見方が違うだろうなと思う。
 メダルオブオナーをやったときは、ノルマンディ上陸作戦の(あるいはプライベートライアンの)兵士の視点でゲームをプレイする感覚が新鮮だったが、このゲームの新鮮さはこのゲームシステムから来ている。中国軍とNATO軍の両方を交互に進めるシナリオもよくできてるし、シナリオごとの目的も、敵掃討に、基地爆破に、司令官暗殺と、多岐にわたっている。そんなところにいちいち感心しながらプレイしている。ゲームデザイナーの創造性と、そのアイデアを実現するゲーム会社の開発力には驚かされるばかりである。

論述試験終了

 16時間にわたる論述試験は無事終了。4科目中一つだけ、問題選択を誤って、やたらできの悪いものになってしまったけども、書いたものが今の自分の実力であって、それ以上のものを期待してもしようがない。そもそも短時間に英語でこんなものを書けるようになっただけでも上出来だし、今できる以上のものを求められていれば、それはそれで仕方がない。いろいろ考え出すと欲が出て、もっとできたのにとか、もしこうだったらどうしようとか、自分の至らなさに気の滅入る思いがしてくるが、これ以上は逆さにして振っても出てこないのだし、自分のできるものでやっていくしかない。
 とりあえず解放されることをしようと、論述を一緒に受けたスタディグループの連中と一緒に、映画を観に行ってきた。映画はブロークバック・マウンテン。ゲイのカウボーイのラブストーリー。お祝い気分で観る映画ではなかったが、なかなかいい映画だった。夜中に帰ってきてさあたっぷり寝るぞーと思っても、神経が疲れすぎてて逆に眠れない。かといって生産的なことをする気にはなれないので、やりかけのバトルフィールド2をひたすらやって、疲れたところで寝た。
 翌朝(昼)起きて、朝飯を食おうとしてキッチンに行ったら、ルームメイトの奥さんの手作り餃子が置いてあった。そういえば今週末は旧正月で、日本人以外のアジアンはみんなお祝い気分で過ごしてるのだった。中国人はみんなで餃子作って食べて年越しを祝うそうだ。きっとあちこちの家に集まってみんなパーティしていることだろう。そういうアジアの隣国の人々の様子を見るにつけ、日本人は不思議なほど旧正月って祝わないよなと思う。ともかく、美味い餃子を分けてもらったのだし、テストの終わった土曜の午後だし、ということで天気のよい外の景色を眺めながら、昼間から餃子をつまみつつビール飲み、くつろいだ至福のひとときを過ごした。

あと二日

 最初の試験の日まであと残り二日を切った。今日寝て明日寝て起きたら、二日間で計16時間の論述試験が待っている。今まで読みきれなかった論文の中で重要そうなものを読み漁っているのだが、いかんせんスピードが遅くてはかどらない。息抜きにやっているバトルフィールド2の方がよっぽどはかどっているというのは、我ながらどうかと思う。でもアイトーイキネティックのおかげで、不健康な生活の中、運動はコンスタントにできていたりする。
 今回は、一緒に試験を受ける仲間たちとスタディグループを組んでいて、過去問をやったり、一緒に議論しながらノート作ったりしている。同じ頃に博士課程に入った連中で、インド人、中国人、台湾人、ガイアナ人、と日本人の多国籍部隊だ。みんなそれぞれ得意分野が違うので、準備を分担しつつ、知識を共有して、お互いにカバーし合っている。そのおかげで独りで準備するよりも格段に質の高い準備ができつつある。もしうまく一回でパスできたら、このスタディグループのおかげだと思う。学習コミュニティの重要性を改めて認識した。

アメリカンアイドル-シーズン5

 大人気ドラマ24に引き続き、こちらもFOXの看板番組として名高い、歌手オーディションリアリティショー「アメリカンアイドル」のシーズン5が始まった。十万人以上が全米各地の予選会場に詰め掛けたというのはすごい。このオーディションでは、トップ12の最終オーディションで視聴者の電話投票で結果が決まるのが売りだが、その投票数が100万を超えるというのもすごい。初回放送の推定視聴者数が5500万人というのは、いくらなんでもサバ読み過ぎだろと思うが。
 このオーディション番組は、プロセス自体がプロモーションを兼ねていて、最後に優勝者が決まる頃にはもう露出十分で、CDを出せばヒット間違いなしの状態になっている。そして、それに応えられるだけの実力を備えた歌手が優勝する。優勝できなくてもトップ12のうちの数人はCDを出せるし、残りの人たちの人生もそれまでとは別の道が開ける。それを見て憧れた人たちが我も我もと参加する。人が集まるので地元メディアも取り上げる。みんな注目して、地元からの参加者が勝ち残ると盛り上がってみんなで応援する。その盛り上がりを見てまた憧れる人が増える、という感じで好循環で盛り上がっている。マーケットの大きさがその受け皿になっているし、そこで育ってプロになる素質を持つ人の層も自然と厚くなる。どの分野にしてもアメリカの産業は、このマーケットの大きさというのがものを言っている。
 ところで、この番組はそんな規模なので、おそらくこの日のコカコーラのCMで、グラスにアイスクリームを入れて、その上からコーラを注ぎこむのを見て、試してみたくなった人も何十万人もいることだろう。購買行動に直結する美味そさ感満点のCMだった。

24 シーズン5

 24のシーズン5が始まった。2時間特番を2日連続で、4時間分が放送された。これを観てしまった人は完全に今シーズンも虜となってしまったことだろう。よくもまあこんなにテンションの高さが続きっぱなしのストーリーが書けるなと感心させられる。日本での放映はしばらく先だと思うので、内容については書かないけど、24ファンの皆さん、期待してていいよ。

強みの落とし穴

 何においても自分の得意なことや強みを持つことは基本的にはよいことだ。それは特定分野の知識や技術、芸、身体的能力などの形式で示され、いざという時に頼りになる武器になったり、勝ちパターンとなる自分の型を形成したり、心理的な安定をもたらしたりと、いろいろな効用がある。
 しかし強みというのは、時に自分の弱みや問題から目をそらす誘因となってしまって、自分の状態を正しく認識する目を曇らせ、その強みのせいで足をすくわれることにもつながる。圧倒的なトークの才能を持った人は、そのトークを軸にした仕事の仕方をするし、ルックスや肉体が自慢であればそれを活かした形でうまくやろうとする。腕っぷしの強い人はケンカに持ち込んで勝とうとするし、細かい作業が得意な人はその細かさを売りにする。基本はそれでよい。ところが、安易にその強みに頼る姿勢が身についてしまうと、その強みが足かせになってしまい、伸び悩んだり、その人の持つ潜在能力を出し切れなかったりすることになる。トークに頼らない方がよい局面で、他の手段を準備するのを面倒くさがってトークで乗り切ろうとしたり、ケンカはまずい局面でケンカしたり、新たなネタを仕込む手間を惜しんで、安易に自分の使い古しの得意ネタでお茶をにごしたり、そういうことをやっていると、自分を伸ばせない状態から抜け出せない悪循環に陥る。自負心や、ここまでできるはず、という自分のパフォーマンスへのイメージが邪魔して、新しいものを身につけにくくなる。そうなると何も強みのない人が一から何かを身につけるよりもしんどい状態になる。
 一方で、これぞという強みのない人というのは日々なかなか浮かばれないが、逆に強みのないことが強みになることもある。強みがない中で何とかしようと工夫することで、思いもつかないようなユニークな強みを見出すことになったり、気がついたらほどほどの強みがいくつもできていたりといったことも起こる。強みのある人が負けだすと脆かったり、チヤホヤされない状態に耐えられなかったりする一方で、強みのない人は、ある意味負け慣れていて、多少の負けはまるで平気だったり、注目されなくても気にならなかったりと打たれ強いことが多いのではないかと思う。なので特に強みのないこともうまく活かせば強みにもなる。
 この強みとは、能力的なことだけでなく、「慣れ」とも言い換えられる。慣れた仕事の仕方、慣れた言語、慣れた環境、慣れた人間関係、慣れ親しんだ中で生きていく方がうまくやっていくのは容易で、成果も出し易い。しかし、その慣れの外に何か可能性を感じたとしても、その慣れを捨てて新しい状況に飛び込むのは誰にとっても不安だし、面倒である。それはその慣れに自分の強みを見出す状況であればあるほどその不安や面倒さは高まる。停滞を避けるには、ある局面でその慣れへの見切りが必要だが、その見切りのタイミングを見定めるのはとても難しい。
 なので、よって立つ強みを持っている人の方が逆に躓いた時はダメージが大きかったりするので気をつけたほうがいいということと、人に誇れるような強みを持ってない人も嘆いてないでいろいろ試行錯誤していけば、ありきたりの強みなどどうでもよくなるようなはるかにユニークで、誰も及ぶところでない強みを持つチャンスはあるよ、というところに話は落ちてくる。
 忙しい時に限ってまったく関係ないことがいろいろ頭をよぎってくる。このエントリーもその全く関係ないことの一つだったりする。書いて満足したのでもう寝る。

試験勉強中

 今週から新学期が始まった。気温が穏やかで、ゴルフでもできそうな気候なのだが、修了試験が2週間後なので、ひたすら準備で読書と資料作成に追われている。試験は、まず二日間の筆記試験で、一科目4時間で4科目、試験の日は朝8時から夕方5時までラボのマシンに向かう。科目は学習理論、インストラクショナルデザイン、リサーチデザイン、システム&チェンジの4つである。それにもう一つ、副専攻の課題が出される。筆記試験の二週間後に口頭試験があり、4科目の回答と副専攻の課題で書いた内容についての質疑応答がある。
 今までに授業の課題で出された文献を読み直していると、前に読んだときにはさっぱり理解できなかったものが理解できるようになっていたりする。予備知識もなくいきなり一回読んだくらいではものになってないんだなと思うと同時に、これがわかってなかったとしたら、当時は何をわかった気になっていたんだろうかとやや情けない気がしてくる。試験勉強は苦手だが、これまで3年半で学んだことを復習する機会としてはありがたい。
 ここ数日は学習科学の文献を中心にカバーしている。EduTechマガジンで、学習科学とISDの共通点と違いについて、両分野を代表する研究者たちが議論するという特集がちょうどいいネタになりそうだったのでカバーした。それぞれの立場から、学習科学はこういう特徴があって、ISDはこんなところが違う、というのをそれぞれに指摘し合っている。その中で、インディアナ大のBarabとかDuffyのようにISDプログラムがあるところにわざわざ学習科学プログラムを作っている人たちは「ISDはこういうところが弱いけど、そこは学習科学はこんなにすごいんだぞ」という主張をする傾向があって、それをISD側の代表エディターCarr-Chellmanが「そんなことはISDでもカバーしてきているので、イシューではない」と釘を刺していたり、逆にインストラクショナルシステムズプログラムの一員になったHoadleyやSmithのような学習科学者たちは、「違いはあるし今まで不思議と接点がなかったけど、どっちがすごいとかいう話ではなくて、これからはもっとコラボレーションしないと」という主張をしているところは面白い。違いを示すことで自分達の存在意義を示そうとがんばる人もいれば、細かいことはこだわらずにうまくやっていこうという人もいれば、自分達の領域にあまりよく知らない人たちがいるのに気づいて、居心地が悪いので相手を自分の中でどこかに位置づけたいという感じの人もいて、この辺は純粋に学問領域の話をしているというよりは、研究者同士の政治的な状況とか、研究者自身のアイデンティティの問題が反映されているようである。
 学習科学とISDには、お互いの出所とフォーカスと研究アプローチの違いが若干あるにしても、それらは別に相容れないものではない。この特集で示されているメッセージは、よりよい学習環境を作るという点で目指すところは一致しているのだし、今後はもっとお互いの領域でうまく協力していきましょう、というところで、それは全くその通りだと思う。領域の中にいると違う気がしても、外から見ればそんな違いは違いとして認識できない。言ってみれば県民性の違いを云々しているようなもので、千葉県人と埼玉県人はこんなに違うと言っても、九州人にはそんなものはよくわからないし、関西人と関東人の違いだって、アメリカ人からすれば同じ日本人にしか見えないわけで、所詮はその程度の違いである。
 行動主義と構成主義の間や、実証主義者と質的研究者の間でも論争が起こってきたが、それらもつまるところは研究者の政治とアイデンティティと個人のメンツの問題で、議論の中心にあまり柔軟でない人や強硬に自分達の存在意義をアピールし続ける人がいることでこじれているだけのことである。アカデミズムのディベートはちょっと見るには面白いけれども、メンツをかけてやる人たちがいるから話がめんどくさくなる。ディベートで論点が明確になったらあとはパーソナルに取らずに、感情的にもならずに、いいところはお互い取り入れつつ、仲良くやっていきましょうよ、というところで。

アイトーイ・キネティック

 冬休みの運動不足解消にと思って買ってきたアイトーイ・キネティック、思った以上によくできていて、とても活躍している。アイトーイ・キネティックは、PS2用のカメラの前で身体を動かしてコントロールするタイプのゲームシリーズ「アイトーイ」を使った、エクササイズツールだ。他のアイトーイ製品と一緒にゲーム売り場で売っているが、ゲーム的な要素は限りなく薄めてあって、あくまでもマジメにエクササイズをやるためにデザインされているので、ゲームではなくエクササイズツールとでも呼んだ方がしっくりくる。
 このツールのメイン機能であるパーソナルトレーナーを選択すると、年齢や普段の運動量などの簡単な質問に答えて、自分のプロファイルを作成する。トレーニングに進むと、ウォーミングアップに始まり、カーディオゾーン(ボクササイズ系の有酸素運動)、コンバットゾーン(やや激しめの打撃系運動)、マインド&ボディゾーン(ヨガと太極拳っぽいバランス運動)のそれぞれの用途でデザインされたミニゲームが日替わりで提供される。最初の週は二つでだんだん増えて行って、最終12週目には4、5つのゲームが課される。ミニゲームの後はトーニングゾーン(筋トレ系とヨガ・太極拳系)の運動、最後にストレッチ、という流れの個人メニューが12週分作成される。毎回アクセスするたびに個人トレーナーが現れて、今日はこれこれをやりましょう、と指示をもらいながら、流れに沿ってエクササイズができる構成になっている。
 デザインがいろんな面から見てとても優れていて、この手の独習教材としての完成度は群を抜いているんじゃないかと思う。まず、「ゲーム機を使って運動する」という、何となくイケてない印象を払拭するために、徹底したスタイリッシュ路線でデザインされている。ナイキブランド、本格的なフィットネスメニュー、フィットネスジムっぽいグラフィックデザインを駆使していて、ゲームというよりは、インタラクティブなフィットネスビデオ教材に仕上がっている。マーケティングをきっちりやって、ターゲットとなるユーザー層を明確に捉えていることがうかがえる。
 個人的には、淡々としたペースなのがとても気に入っている。この手のフィットネス教材にありがちな、過度なハイテンションさがない。ひたすらブリティッシュアクセントの女性トレーナー(男性トレーナーも選べる)が落ち着いたトーンでフィードバックしてくれるので、うるさくなくてちょうどいい感じでトレーニングできる(個人的にブリティッシュアクセントで話す女性に弱いのも好感度に若干影響してる気もするが)。
 プレイするゲーム自体は、アイトーイ・プレイのゲームと基本的には大差ないのだが、ゲーム技術を使ったインタラクティブ教材のようになっていて、デザイン次第でプレイ感がまるで変わることが実感できる。また、インストラクターのデモ部分は、この部分だけ見るとビデオやDVDの教材みたいなのだが、ゲームのインタラクション、カメラで自分の姿を見ながら調整できること、それにトレーニングの履歴に応じてメニュー内容やレベルの調整がされること、それらの組み合わせのバランスの良さによって、ビデオ教材以上の付加価値を生み出している。
 このアイトーイ・キネティックが向いている人は、独習OKな人。たとえば、フィットネスクラブ行って下手なインストラクターや周りに合わせたりするくらいなら、独りでやるわ、という人。あるいは、あまり運動してるところを人に見られたくなくてこっそりやりたい人。逆に、エクササイズに人との交流やコミュニティを求める人、フィットネスは仲間と一緒でなくちゃ、という人には向いていない。あと、ある程度のスペースが必要なので、テレビの前にすぐソファがあったりベットがあったりする部屋では物理的にプレイできないのが難点。広いリビングでプレイするか、これをプレイするために部屋のレイアウト変更が可能な人でないと使えない。ちなみにうちはベッドルームに設置してあって狭いのだが、少しレイアウトを変更することでかろうじて最低限のスペースが確保できた。
 そういう向き不向きや物理的制約はあるが、指示に沿ってエクササイズすれば、ペースが保てるし、やってることは本格的なので効果は高い。飽きっぽい性格な自分がいいペースで続けられている。最初はあちこち痛くなって仕方なかったが、今では鈍りのとれた筋肉が身体をサポートする心地よい感じを得られるくらいにエクササイズできているので、このためにPS2買ってもいいくらいお勧め。それにインストラクショナルメディアデザインのよい例でもあるので、マルチメディア教材の研究や開発をしている人は、デザインを見るためだけに試してみても損はない。

2006年を迎えて

 新年明けましておめでとうございます。
旧年中にお世話になった皆さまへ心より御礼を申し上げつつ、2006年が皆さまにとってよい年であることを願っております。

 このブログを書き始めて3度目の新年を迎えた。こうして書き続けていくと、自分の成長や変化がわかって面白い。記憶というのは薄れて行ってしまうが、その時々に振り返って記したことは、その時の感覚のままに残っているので、読み返すことで良くも悪くもその時に考えたことや感じたことがかなりクリアによみがえってくる。その時の勢いや集中度によって創造力も高まっているようで、素の状態の自分ではとても考え付かないことを書いていたりする。年を追うごとにその質は上がっているように思える。かたや、その時はすごく入れ込んで書いたつもりのネタだったのに、今読むとすごくしょぼく感じるものもあったりする。そういう振り返りのための素材を提供してくれるという点でブログは自分にとって有効に機能している。では、今年もまずは昨年を振り返りつつ、今年の計画や目標などを記しておきたい。

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アプレンティスの仕掛けの上手さ

 ドナルド・トランプの弟子の座を競うリアリティショー「アプレンティス」(NBC)も先日4シーズン目が終わった。それに今シーズンは、監獄から出てきたばかりのマーサ・スチュワート版アプレンティスも初登場して、同じく成功裏に終了した。このアプレンティスは、数あるコンテスト形式のリアリティショーの中でも他にはない圧倒的な強さを持っている。それはこの番組自体が壮大な「インフォマーシャル」として機能していることで、スポンサーや仕掛ける側の満足度は、他の番組に比べて群を抜いて高いことが見てとれる。
 番組のフォーマットは、挑戦者が二チームに分かれて毎週異なる課題に挑み、負けたチームのうちで敗因となったメンバーが一人ずつ脱落していって、最後に残った一人がドナルドやマーサに雇われる、というもので、この点はさほど他のコンテスト形式のリアリティショーと大差ない。大きく違うところは、挑戦者が取り組む課題の仕掛け方である。毎回、その週のメインスポンサーにちなんだ課題が課される。たとえば、大手電気スーパーのベストバイ店頭での新作ゲームのショーケース展示制作、ペプシの新製品ボトルのデザイン、M&Mの新発売チョコの街頭プロモーション、ピザハットの移動店舗営業、などである。また、非営利財団のチャリティオークション企画のようなものもあれば、トランプの新事業のプロモーションや、所有不動産のリノベーション、マーサの会社の出版企画のような自前企画も入ってくる。いずれの課題においても、番組中でそのスポンサー名や商品が露出し続け、CMも番組中で出てくる商品のCMを流すので、番組からの流れでCMへの視聴者の関心も高まる。このように他番組に比べて、広告への投資対効果の非常に高い番組となっている。なので、広告枠販売もやりやすいはずで、しかも番組内で使用するリソースもスポンサーから確保できる。
 この広告効果を一番象徴的に現していたのが、マーサ版の最終回である。勝利した女性は、年収2000万円以上のエグゼクティブ待遇で雇われ、オファーされた仕事は、「ボディ&ソウル」というマーサの会社の健康系雑誌のビジネスである。この雑誌の露出はほんの数秒だったが、どんな広告媒体にコストをかけるよりもはるかに効果的な形でプロモーションすることに成功した。この雑誌の存在は全米に知れ渡り、アプレンティスで勝った彼女が手がけるということで、普段この雑誌を手にしない人も店頭で手にとって見させるだけのプレゼンスも得ることができた。ドナルドとマーサが喜々としてこの番組を引き受けているのは、自社と自身のプロモーションに大いに貢献しているためであることは間違いない。
 単に面白おかしい番組を作るという発想ではこの番組のような仕掛けは作れない。プロデューサー、あるいは日本で言うところの放送作家たちの仕事の組み方が違う。スポンサーや関係者の満足度を高めつつ、視聴者をひきつける番組作りを行なう発想で企画している。単に人々を金で釣るのでなく、ドナルドやマーサを客寄せとして使うのでなく、過剰な演出に頼るのでなく、関わる人たちのお互いの利害の一致するところをうまく企画に落とし込んで番組化している。まさに、プロデューサーの仕事とはこういうものだ、というお手本を示しているような番組である。