東京での暮らしもようやく落ち着いてきた。生活用品が揃っていなかったり、机といすの高さがあってなかったり、サブのスペックの低いノートパソコンを使っていたりと、自宅の仕事場ほどには快適ではないのだが、だいたい同じようなペースで仕事ができるようになってきた。今回の滞在は、あちこち出回ることは極力避けて、今目の前にある仕事を進めることに集中している。
飯を食べながらテレビを見ていて、けっこうおもしろくて、つい長いこと見てしまっている。アメリカでテレビを見るときは、慣れたとはいえ外国語なので、ある部分はがんばって集中してみないと理解できない。それが日本語になるとそのがんばっていた分の負荷がなくなり、自然と頭に入ってくる感じが新鮮でよい。そんなこともあって、テレビを見る時間は結構多い。
テレビを見ていて思うのは、アメリカのテレビと日本のテレビは、どちらが劣っているというのではなく、単にそれぞれの制約のもとで異なる発達の仕方をしていて強みや弱みが異なる、ということだ。日本のテレビ番組は、特にドキュメンタリー系と情報系のつくりが面白い。番組の表現手法やコンテンツの掘り下げ方は、アメリカのテレビ番組では発達していないノウハウがある。
昼の情報番組は、辛口の司会や人のよさげなタレントや文化人がぞろぞろといて、健康やグルメ、軽めの社会問題をひとしきりやって、というのをちょっとフォーカスを変えて、同じような感じのを各局でいくつもやっている。フォーマットが画一的で、このタイプの番組ばかり見ているとすぐに飽きてくるが、構成そのものはよくできていると思う。単体ではパワー不足でしゃべりももう一つなタレントでも、多数使うことで、なんとなくにぎやかな感じにして間を持たせている。創造性に欠けるところはややあるものの、制作側も出ている人たちも、毎日毎日よくやっているなあと感服するものがある。
ドキュメンタリー系は、プロジェクトXやガイアの夜明け辺りから派生したような、見ていると元気になる感じの、普通の人ががんばる様子にスポットをあてたものがずいぶん出てきた感じがする。ディスカバリーチャンネルやヒストリーチャンネルの趣向とはまた違ったものがある。話の掘り下げ方や、展開のさせ方はうまく、30分や45分で見ごたえ感のあるものにするノウハウは相当なものだと思う。
ドラマも、「24」や「ザ・ホワイトハウス」のような作りこんだ複雑なドラマはないにしても、大河ドラマの「功名が辻」や、マンガ原作の「のだめ」などは違ったよさがあって、毎週その時間が楽しみになってくる。日本のドラマも捨てたものではないと思う。
最近、テレビのメディアとしての力の低下が問題視されているようだが、それでもテレビの持つメディアとしての力は相当なものがあると思う。これだけの量を日々制作し続けるノウハウと体力というのはものすごいし、この点はネット業界はまだ足元にも及んでいない。テレビ、雑誌、新聞など、日々発行し続けることを求められるメディアは、質を保ちながらその数をこなすことを求められる中でそのノウハウを培ってきた面があると思う。そこには業界特有の過酷さや歪みもあると思うが、数をこなしながら継続する、というのは何事においてもその基盤を作るための基本となる営みなのだろう。数をこなせるキャパシティがなければ普及もしないし継続もできないのであって、新しいメディアでも企業でも、そういう課題を乗り越えていかないと続いていかない。そういう点において、テレビのような確立された既存メディアの業界から学ぶことは多いと思う。
Jasagレポート
怠けていてお知らせが遅くなりましたが、先日の立命館大学での日本シミュレーション&ゲーミング学会記念シンポジウムでの模様がメディアで紹介されています。ついでに発表資料も公開していますのであわせてご覧ください。
日本シミュレーション&ゲーミング学会シンポジウム(資料とレポート)
https://anotherway.jp/seriousgamesjapan/archives/000795.html
東京に移動しました
午後、大阪から新幹線で東京に移動。駅弁食べてビール飲んで、モーニング読みながらウトウトしていたら、もう着いてしまった。
今回の宿は両国。エリア的には少し目先を変えたところにしてみようと思って選んで、しばらく滞在するし、物書き系の仕事が多く、家で作業する時間が結構必要なので、キッチンがあって、ある程度快適に過ごせそうなところを選んだ。快適度は合格だったのだが、自炊して過ごすには想像していたよりも結構難があった。まず、周囲には食べ物屋が豊富にあって、自炊のモチベーションがとても下がる。アメリカでの生活は、自炊した方が美味いものが食べられるし安いので、がんばってやる気にもなったが、日本ではその辺りの状況がずいぶん変わる。しかも調理器具とか生活用品を一式揃えないといけないので、それも結構な出費になって本格的にはなかなかできない。しばらく滞在するといっても3週間である。とりあえず100円ショップで調達できるものを調達して、あとはどうしようかなと少し悩みつつ東京での初日を過ごした。
三十三間堂でプロジェクトについて考える
せっかく観光名所に来ているのに学会だけではもったいないと思い、一日観光をすることにした。宿は大津で琵琶湖の近くだったので、午前中は琵琶湖を散策、午後は京都を見て回ることにした。琵琶湖の畔を散歩して和んだ後、京都に移動した。数時間しかないので、たくさんは見て回れない。そこで、蓮華王院三十三間堂と清水寺の二つに絞って見に行くことにした。どちらも中学の修学旅行で一度だけ行ったことがあって、当時はあまりありがたみを感じた気がしなかったが、今それをどう感じるかを確かめてみたいと思った。
三十三間堂は、数ある京都の名所の中でも個人的に一番好きなところである。あの大量の仏像が並ぶ姿は壮観であり、心静かに歩きながら、一体一体をじっくり見たり、全体を概観したり、視点を切り替えながらいくらでも楽しめる。120メートルという長さもちょうど良い。何か人が滞留するポイントが少なく、写真撮影が出来ないために人の流れが循環しており、人が多くてもストレスは他の名所よりも少なくてよい。
一方で、清水寺は個人的にそれほど好きな名所ではない。土産物屋の通りは見ていて楽しいが、商業的に過ぎており、人も多くてそのうち疲れてくる。写真撮影やら何やらであちこちに人が立ち止まり、人の流れが悪くてストレスになる要素が多い。折りしも清水寺が新世界七不思議の最終選考に残ったことが話題になっており、清水寺周辺にもキャンペーンの幟が目立っていたが、個人的には他の世界の名所に比べると不思議度としては劣るんじゃないかとやや思う。まあ、この手の名所認定は、観光キャンペーンの一環という面が大きいので、こうして地元が盛り立てたりしてうまく利用したいところがやればいいという気もする。
清水寺も三十三間堂も、20年近く前に一度見たきりだったのにも関わらず、意外によく覚えていた。もしかしたら高校の修学旅行の時にも見ているかもしれないとも思ったが、私は京都でのグループ観光をサボって一人で商店街で買い物や中古レコード屋巡りをしていて、京都の名所見物は全くしなかったはずなので、おそらく中学以降は一度も見に行っていない。なのに周囲の情景も、どこに何があったかもくっきり印象が蘇ってきた。不思議なものである。
清水寺もまあよかったのだが、三十三間堂からはなぜかものすごくインスパイアされるものがあった。それがなぜなのかをずっと考えていたが、おそらく自分の持つものづくり志向の中でも、コンテンツ作りを志向する琴線に触れるものが多かったからだと感じた。端的に言えば、こういう仏像のようなものを自分も作りたいと、思わせるものがここにはある。といっても、別に仏師になりたくなったということではなく、この仏像を作るような精神でものを作りたいということである。個々の仏像の細部に、作り手の気合がこもっており、そこに神ならぬ仏が宿っている。こういうコンテンツの細部にこだわった仕事にロマンを感じる。
他の名所と同様、三十三間堂は、その歴史の過程で様々なプロジェクトを経てきて今日に至っている。建物の建築、仏像づくり、庭や塀のデザイン、通し矢ブームや焼失と修理を経てきた歴史、それぞれの出来事にはそれぞれに大規模なプロジェクトがある。
最初の建立時の構想立案、資金確保や建築家の選定、コンテンツとなる仏像を作る仏師の手配など、それは今日で言うところの開発プロジェクトであり、全体のコーディネーションはプロデューサーの仕事である。そしてそのプロジェクトの中で、建築ディレクターやアートディレクター、景観ディレクター、イベントディレクターなど、さまざまなディレクターが働き、その下でそれぞれの分野のデザイナーやエンジニアが働く。一つ一つが大きなプロジェクトであり、いずれもさぞやりがいのある仕事だっただろうと想像できる。
後白河法皇のようなイニシアチブを取る親分がいて、平清盛のようなリーダーがいて、その下には全体を統括プロデュースする誰かがいたのだろうし、寄付金集めのプロもいただろうし、納めた仏像を保護するメンテナンスのプロもいたことだろう。後に火事で焼失した際には、その火事場から仏像を運び出す消防団のリーダーのような人もいただろうし、江戸時代に流行った、建物の端から端まで弓矢を通すスポーツイベントの「通し矢」も、その仕掛け人がいたことだろう。歴史の中で、さまざまなリーダーがいて、プランナーやデザイナーが活躍して、それが歴史となっているのである。
そういう三十三間堂の歴史にまつわる様々なプロジェクトの中で、自分だったらどういうプロジェクトにロマンを感じるか、ということが自分のキャリアを考える上でのヒントになると思った。大金を動かして新たな歴史を始める道筋を作ることやそういうことができる権力を持つことにロマンを感じるのか、建築物のようなシステム的なデザインに興味を持つのか、仏像のようなコンテンツのデザインがしたいのか、大勢の仏師をアレンジする編集者的な仕事が好きなのか、通し矢のようなみんなでワイワイやるイベントを企画するのが好きなのか、通し矢に選手として参加し、記録を塗り替えることに燃えるのか、お守りや破魔矢のような三十三間堂ブランドを活かした商品開発に興味があるか、建物や仏像のメンテナンスのような地味だが重要な仕事にしびれるのか。自分はどれが一番好きなのか。
そう考えたときに私自身が最もひかれるのは、仏像のようなコンテンツのデザインなのではないかと思う。あるいは、一つの部屋に千体の仏像を一つの部屋に置いて壮観さを演出するというコンセプトのデザインの方かもしれない。大規模チームのマネジメントよりも個人または少数のチームでの創造性追求に関心があり、規模の大きさや表面的な派手さよりも、一つ一つの仕事の質と他にない価値を追求することに意味を感じる。自分の関心はおおよそそんなところだろうと思う。逆に言うと、それとかかわりの無いことは、いかに規模が大きかろうと、人々の注目を集めようと、自分には向いていないことが多いし、そもそもあまり関心が無い。それぞれの仕事には必要な能力や知識は異なり、その人の向き不向きも関係する。
これは世の中で必要とされているから、世のトレンドに合っているから、安定しているから、成功しやすそうだから、と頭の中だけで考えてキャリアを選んでも、途中で息切れしやすいし、そんなに思うようにはいかない。また、世にある職業のラインナップだけを眺めてみても、しっくり感じるものが見当たらないこともあるだろう。その時に、自分がどういうものにしびれたりロマンを感じたりするか、どういうことが嫌いでやりたいとも思わないか、そういう身体の内側からくる感情的な反応に耳を傾けることが一つのヒントを得るきっかけになるかもしれない。
私の二度目の三十三間堂体験はまさにそんな機会だったと思う。中学の時の自分は何を想ったのかは思い出せないが、今回については以前に一度見ていることの意味は大きかったと思う。なのでありがたみもわからないうちであっても、修学旅行で子どもたちに寺や仏像を見せておくこともあながち悪いことではないなと思った。
Jasagとシリアスゲームの違い
日本シミュレーション&ゲーミング学会の最終日のセッションに参加してきた。理論研究あり、デモあり、その中で参加者の人々の熱心さやこの分野へのこだわり、さまざまなものを見てきた。
この学会のよいところは、実践志向が強く、研究発表であっても参加型のデモがあって実際に試せるセッションが用意されていることだ。メリハリがあって終日参加していても疲れを感じずに楽しめた。東工大の出口先生の研究グループの発表は、開発したシミュレーションツールについてだったが、実際にその場で来場者のPCをLANで同時接続してのゲーム大会となった。まだこの学会コミュニティの全体が見えてないので違っているかもしれないが、こういう作業を厭わずにデモをやってのけるフットワークのよさは、この学会のカルチャーなのかなという気がした。
セッションに参加しながら、この学会とシリアスゲームのこれほどの接点の無さ加減の理由は一体どこにあるのかを考えていた。シミュレーション・ゲーミングを教育に利用するという関心は共通だし、コンピュータを使った取り組みもこの学会でも行なわれている。なのになぜここまで接点がなかったのか。まだ完全な答えではないが、一番大きいのは、関心の向いている方向や開発するゲームの前提にかなり明確な違いがあって、そこに起因している気がしている。
一つには、このJasagコミュニティの「自分たちで作り、実践することへのこだわり」がある気がする。Jasagコミュニティは手作り志向が強く、各科目や分野の教師や専門家が自らの手でゲームを作り、それを現場で実践することにその熱意が向けられている。シリアスゲームコミュニティには、そうした手作り志向は弱く、各分野の教師や専門家はエンタテインメントゲーム開発者のプロの力を借り、そのゲームに意味を見出すスポンサーからの資金提供を受けたりして開発を行なう。汎用性の高いゲームを開発して、普及させるための体制を作るか、という関心が強い。ある発表者の「開発したゲームのデジタル化も考えたが、手に負えないので進んでない」というコメントがこの点を端的に示していて、自分で手に負えない部分をどう扱うか、という点にJasagとシリアスゲームの志向の違いが一つ明確があるように思われた。
また、このJasagコミュニティのシミュレーションやゲームは、インストラクター・ファシリテーター主導型で利用されるものが中心で、シリアスゲームにおいては教室で利用するタイプのゲームもあるが、コンシューマが個別にプレイすることを想定したゲームの方が割合としては多い。
この点を端的に言えば、シリアスゲームとJasagの違いは、フルグラフィックなエンターテインメントゲームのプレイヤーと、テーブルトークRPGやボードゲーム、あるいはMUDのようなテキストベースのゲームのプレイヤーの違いに近い。シリアスゲームはエンターテインメントゲームで発達した技術をどう利用するかに関心があり、JasagはテーブルトークゲームやMUDの良さにこだわり、ワイワイとテーブルを囲むのが好きで、そのゲームのロジックを自分で作ることを志向している。ゲームの性質に違いがあるのであって、両者の関心が片方に集約されるということはない。
それと、Jasag会長の市川先生の講演を聞いていて、このJasagのエンターテインメントゲームとの距離は、「ゲームがシリアスでないもの」だという社会的な認識と闘うことを余儀なくされた反作用として生じている面があるという印象を持った。昔のエンターテインメントゲームは、シリアスなものと呼ぶには厳しい単純なものが多かったわけで、そういうものを教育に利用しようというのはあまり意味のある話にはならなかった。そういうエンターテインメントゲームもJasagのゲームも、同じゲームという言葉を使っているので、いかにゲームのシリアスさを主張しても社会的には誤解される面が大きかった。なのでゲーミングという言葉に変えて区別しようとしてみたりとか、さまざまな苦闘をするなかで、エンターテインメントゲームとの距離が広がり続けたのだろうと思われる。しかし、エンターテインメントゲームも最近になって状況が変わり、ゲームの持つ複雑さや、その複雑なシステムにプレイヤーを取り込んでいくノウハウへの関心がシリアスゲームの動きにつながった。ここに両者の歴史的な経緯の違いがある。
これまでのこのJasagコミュニティが蓄積しているゲーム作りや教育実践のノウハウは相当なものである。特に教育実践についてはシリアスゲームの分野では未発達なところが多く、このコミュニティから学ばない手はない。一方で、シリアスゲームの開発プロジェクトの組み方や普及させ方については、Jasagコミュニティが参考にできるところが大いにあると思う。
参加してとても楽しかったし、今まで疑問に思っていた点が、実際に参加してみたおかげでかなり解消できてすっきりした。多くの熱心な人々と知り合うことができたことも収穫だった。
Jasag初日の個人的な出来事
日本シミュレーション&ゲーミング学会に参加してきた。出番は朝一のシンポジウム。会場にコーエーのファウンダーご夫妻がいて、開始直前にご挨拶した。あのシブサワ・コウ氏である。握手してもらうんだった。後で話すチャンスがなかったのがとても残念。
先日レーザーポインタ付のペンを入手したので、それをプレゼン中に使おうと思って胸ポケットから取り出したら、なんと同じ色の普通のボールペンと間違えて持ってきていて、発表しながら愕然とした。当然普通のペンからはレーザーは出ず、モデレータの細井先生が様子を察してレーザーポインタを貸してくれたので、ポインタ自体は使えたのだが、自分の間抜けさ加減にかなり萎えた。
今日はあいにくの雨模様で全体的に時間が押し気味だったこともあって、時間を気にしつつだったのと、帰国翌日の出番だといつものことで発表用の言葉が出にくく、全体的にしゃべりがすべり気味。帰国後すぐの発表はいつもこんな感じなので、ここは少し何とかしないといけない。
話のネタ的に、今回は新しいものを3分の一ほど追加したのだが、その部分が今ひとつなじんでなかった。スライドにビデオのキューを入れ忘れて、タイミングを通り過ぎてしまってビデオも流し損ねた。
そんなこんなで、あたふたとしながら出番は無事終了(本日の発表資料はこちら)。会場の反応としては、これまでにやったセッションの中では最も面白くなさそうな人やむかついている人が多かったという印象を受けた。物議を醸せること自体は悪いことではないが、もうちょっとアレンジの工夫が必要だなと反省した。開発者向けや一般向けにはそのままでOKだとしても、研究者向けの仕様になっていなかったというのをやった後に気づいた。私の発表の後、立命館大の稲葉先生の事例発表があって、その後ディスカッションに移ったのだが、もうほとんど時間は残っておらず、たくさん言いたいことがある人がたくさんいるのに、会場との質疑応答の時間は取れずに終了。全体的にやや消化不良な感があったのは残念だったが、個人的にはいろんな意味でよい経験ができた。
今日はシブサワ・コウ氏に会えたことに加えて、よかったことが2つあった。一つは、一緒にプロジェクトをしている立命館の中村先生のグループと打ち合わせする時間が持てたこと。オンラインでは連絡が取れても、やはり顔を合わせて話せると意思疎通の度合いが違うし、その機会が持てたおかげでやりやすくなった。
もう一つは、同門の先輩である産能の長岡先生と慶應の加藤先生にものすごく久しぶりにお会いできたこと。私から見て、二人とも伯父弟子とでもいうような存在で、いずれもとんがった研究者である。シンポジウムのディスカッションの時間に、私は場を気遣った当たり障りのない発言をしたのだが、その当たり障りのなさをこの二人にはすっかり見抜かれていた。それじゃあダメだろうと叱られた。「学習」についての理解も、この二人にはまだ私は遠く及ばないことがよくわかったし、言われて気づいたことがたくさんあったので、今日一番の学びの機会となったと言ってもよい。
他にも、シンポジウムで稲葉先生のカリフォルニアでのゲーム利用事例から大いに得るところがあったし、午後のシミュレーション体験セッションで、リアルのシミュレーションに触れたことからもインスパイアされることがあった。シリアスゲームの中で蓄積されてないノウハウがこの学会を中心に積みあがっていて、うまく交流を進めていくことで得られることが多いことがよくわかった。セッションを運営していた若い学部生たちがよく働いていたことにも大いに感銘を受けた。
こういう場でシリアスゲームについて話すたびに、「シリアスゲームとわざわざ言う必要はあるのか」、「そんなことは昔からとっくにやっている」という意見を耳にする。そういう意味では、シリアスゲームとわざわざ言う必要はないし、昔からやっているのはこちらも承知している。ただ、その中でシリアスゲームがこれだけ注目されていることには意味があるのであって、大事なのはその意味をどう捉えて、どう対応するかである。使えるものはうまく使えばよいし、問題のあるところはきちんと議論していけばよい話である。個別に話が出来た人たちはその辺りの認識は共有していたのでよかったが、それを共有できてない人たちもたぶん結構いるだろう。これからもいろいろと気を遣いそうな局面が多そうである。
京都入り
どうにか日本に到着し、先ほどホテルにたどり着きました。
デトロイトで5時間待ちだったのに加えて、関空行きがいったん乗り込んだ機体の不具合で別の機に乗り換えて、結局5時間遅れ。京都のホテルは満杯で予約ができなかったので京都は通り過ぎて、予約を入れた大津のホテルに着いたのは夜中の12時過ぎ。木曜の早朝にうちを出て、実時間で30時間近く移動し続けてようやく宿に着いた。しかも明日は朝一で出番だったりする。でもこれでなんとか出番に穴を開けずにすみそう。
今日は荷物を開けるのもほどほどに、疲れたのでもう寝ます。明日はがんばります。
ブレンデッドラーニングと聞いたら逃げろ
ここ最近、オンライン教育と教室での対面教育を組み合わせた「ブレンデッドラーニング」が、新しい教育ソリューションであるかのように取り上げられている。しかし、eラーニング界の大御所であるロジャー・シャンクはそうした状況を「ブレンデッドラーニングと聞いたら逃げろ」と批判している。
シャンクの考えを要約すると次のようになる。
「ブレンデッドラーニングという時、教室での対面教育は対人的なインタラクションが必要な教育を行ない、eラーニングは人を介する必要がない部分に利用される。人を介する必要がない学習とは、個人でできるスキル練習のような学習になるが、スキル練習にはシミュレーションのような手間とコストを掛けた教材が必要である。もしそういう教材をきちんと作れば、教室での教育は不要になるのでブレンデッドである必要はなくなる。そのため、わざわざブレンデッドと称している講座のeラーニング部分は、コストをかけずに作った退屈な暗記クイズの類が提供されている場合が多い。だから、ブレンデッドという言葉を聞いたら、逃げるに限る。」
「ブレンデッドラーニング」は、新しい教育手法でもなんでもなく、eラーニングと言っても売り文句としてあまり効かなくなったので、その代わりの売り文句として登場したにすぎない。「ブレンド米」や「ブレンドコーヒー」のように、「ブレンド」という言葉は、単品では売れないクオリティの低いものを混ぜてラベルを張り替えて売る時によく利用される。eラーニング業界がブレンデッドという売り文句に飛びついているのは、ブレンドしないと売れない商品ばかりがあふれていることを示しているようにも見える。質の悪いものはいかにブレンドしても最高級品にはなり得ず、よくある「最高級品風」ブレンドでしかない。「~風」というラベルをつけて聞こえを良くすることは簡単だが、そんなことではユーザーの目はごまかせない。そもそもブレンドしていること自体が売りになる状況というのは、どこかおかしいのである。
時にブレンドの妙で質が多少上がることもあるかもしれないが、それも質のよい素材を使った方がそのブレンド技術も活きてくるわけで、であればその前に質のよいeラーニング教材を開発することに注力した方がよい。たいして手間をかけずに作ったような、単なるテキスト教材を焼き直した退屈な「紙芝居+クイズ」のeラーニングがあたかも標準的なeラーニングだと考えるのは間違いである。そこには教材開発の工夫はたいしてされておらず、いかに「インストラクショナルデザインで開発しました」などと称しても、その底の浅さは学習者から見れば一目瞭然である。単純な話、そんなことをしているから売れないし、評判も悪いのだ。
ブレンデッドラーニングの流行りもこのままいけばすぐに冷え込んで、また次の売り文句が注目されるだろう。そうして、教育の質は上がらず、バズワードが次々と消費されていくだけに終わる。だが、eラーニングの作り手たちがそういう状況に喜んで甘んじているとは決して思わない。きっと作り手の誇りと想いを胸に秘めながら、すごいものを作ろうとたくらんでいる人々もあちこちにいると思う。そしてそうした人たちが望みを捨てずにがんばっていれば、誰が作ったかわからないような粗悪なブレンド品ではなく、その作り手の名前自体がブランドとなるような質の高い製品が世に送り出されてくることだろう。そう信じたいし、私はそういう想いを抱えた人たちの力になれるような仕事をしていきたい。
とりあえず今は、シャンクの言うように「ブレンデッドラーニング」と聞いたら逃げておくのが無難である。ブレンデッドラーニングで劇的に教育効果が上がるなどと吹聴しているベンダーからはどんどん逃げるとよい。わざわざブレンドなどと言わなくてもそのよさが伝わるものを提供すべきなのであって、ブレンドであることを売りにせざるを得ないような質の悪いものはユーザーには通用しないという認識を、早くみんなで共有するのが日本の教育のためである。
なお、引用したシャンクの本はこちら。eラーニングの現状をバサバサと切って捨てていて、ではどうすればよいのかもわかりやすく書いてあって、読んでいてとても楽しい一冊である。
Schank, R. C. (2005). Lessons in learning, e-learning, and training: Perspectives and guidance for the enlightened trainer.San Francisco: Jossey-Bass.
中間選挙前夜
明日は中間選挙。投票日前夜の今日は、テレビをつけると各候補のCMがラストスパートで大量に流れている。さわやかキャンペーンCMもたまに見るが、今日は特に対抗候補を徹底的にこき下ろすネガティブキャンペーンCMが目立ち、選挙CMの合間に普通のCMをやっているような時間帯もある。
予算潤沢な候補は、選挙期間中何種類かのCMを使い分けて、自分の実績を誇りつつ相手を貶めたり、相手のネガティブキャンペーンに対抗したりして選挙戦を進めている。今まで見なかったのにやたら今日だけ見かける候補のCMをもいて、今日だけ集中的にCM予算を投下しているらしい。しかもそれがすごく品のないネガティブCMだったりするのが笑える。
どちらかがネガティブCMを始めると、相手も反撃してネガティブCMを打ち始めて、泥仕合のようになる。あいにく投票権はないのだが、そういうのを見ているとどちらにも投票したくなくなる。支持者から集めた選挙資金をそうやって自分たちを貶めあうのにじゃぶじゃぶと使っているのを見るのはなかなかやるせないものがある。双方が大量にCMを投下することで、見ている側にすればだんだんどうでもいい感じになってきて、CM効果そのものが無力化していく。それも広報戦略の一つなのだろうが、無力化させるにも大量の資金が必要というのが虚しいところである。
実績のある候補者はそれを示せば見ている人の心に残るのでPRもしやすいが、何も売りにするものがない候補は、中身のないさわやかCMだけでは大して効果もないので、結局はネガティブCMによって相手を貶めて勝ち残ろうとする戦略に出る。自分に売りがない候補ほど、やり方も品がなくなってくる。政治家を目指そうとする人は、たいていたたけばほこりの一つも出てくるような人たちばかりらしく、ネガティブキャンペーンのネタには困らないようだ。ただし、ネガティブ合戦に陥ると自分のさわやかイメージにも傷がつくので手加減しがちな候補もいる。テレビCMを見ていると、そんな各候補の事情や思惑が見えてくるところがあって面白い。
好きな仕事に掛ける時間
帰国の日程も近づいてきた。木曜の早朝には出発だ。一つ目の仕事は学会のシンポジウムで発表するのでその準備もあるのだが、もう一つ今回の日本での別の仕事でeラーニングとシミュレーション教材開発についての論文を書いている。自分の専門分野の発表のスライド作成や論文を書く作業は、とても楽しくてストレスが少ない。楽しいのは、自分の興味のあることを仕事としているおかげであり、ストレスが少ないのは、自分の力量に合っていてしかも時間的にも追われていないおかげだろう。
たとえ好きな仕事であっても、自分の納得行く形でやれなければ楽しくないし、自分の力量を大幅に越えていたり、時間が十分に掛けられなかったりして、満足のいくものができないのは非常にストレスを感じる。今のところはそうしたストレスなく、楽しく仕事ができているし、ワークスタイル的にも気に入っているので、実は今はとても恵まれている状態にあるのだなということをあらためて思う。
最近、本や論文の執筆作業をしていて、当然書いている途中ではすごく苦労しているし、まだ力不足な点は意識しているものの、少なくとも自分で意味があると思えるアウトプットが出せている手ごたえがある。少し前はこの感覚はなかった。いつの間にかできるようになっていたのだが、それがいつなのかはわからない。知識のインプットや必要なスキルの修得がある時点で閾値に達したようだ。
身につけた力で対応できて、しかもほどよいチャレンジがあるという仕事はとても楽しめる。しかしそれを楽しむには必要な時間を掛けられるという前提があってのことだ。組織で仕事をしているとなかなかそれが思うようにいかないし、必要な時間を掛けられるというのはある意味贅沢なことだ。だからこそ、自分の好きな仕事に必要な時間を掛けられるというのは尊重すべき条件の一つである。特に創造的な仕事を志向していく上では重要な要素となると思う。