せっかく観光名所に来ているのに学会だけではもったいないと思い、一日観光をすることにした。宿は大津で琵琶湖の近くだったので、午前中は琵琶湖を散策、午後は京都を見て回ることにした。琵琶湖の畔を散歩して和んだ後、京都に移動した。数時間しかないので、たくさんは見て回れない。そこで、蓮華王院三十三間堂と清水寺の二つに絞って見に行くことにした。どちらも中学の修学旅行で一度だけ行ったことがあって、当時はあまりありがたみを感じた気がしなかったが、今それをどう感じるかを確かめてみたいと思った。
三十三間堂は、数ある京都の名所の中でも個人的に一番好きなところである。あの大量の仏像が並ぶ姿は壮観であり、心静かに歩きながら、一体一体をじっくり見たり、全体を概観したり、視点を切り替えながらいくらでも楽しめる。120メートルという長さもちょうど良い。何か人が滞留するポイントが少なく、写真撮影が出来ないために人の流れが循環しており、人が多くてもストレスは他の名所よりも少なくてよい。
一方で、清水寺は個人的にそれほど好きな名所ではない。土産物屋の通りは見ていて楽しいが、商業的に過ぎており、人も多くてそのうち疲れてくる。写真撮影やら何やらであちこちに人が立ち止まり、人の流れが悪くてストレスになる要素が多い。折りしも清水寺が新世界七不思議の最終選考に残ったことが話題になっており、清水寺周辺にもキャンペーンの幟が目立っていたが、個人的には他の世界の名所に比べると不思議度としては劣るんじゃないかとやや思う。まあ、この手の名所認定は、観光キャンペーンの一環という面が大きいので、こうして地元が盛り立てたりしてうまく利用したいところがやればいいという気もする。
清水寺も三十三間堂も、20年近く前に一度見たきりだったのにも関わらず、意外によく覚えていた。もしかしたら高校の修学旅行の時にも見ているかもしれないとも思ったが、私は京都でのグループ観光をサボって一人で商店街で買い物や中古レコード屋巡りをしていて、京都の名所見物は全くしなかったはずなので、おそらく中学以降は一度も見に行っていない。なのに周囲の情景も、どこに何があったかもくっきり印象が蘇ってきた。不思議なものである。
清水寺もまあよかったのだが、三十三間堂からはなぜかものすごくインスパイアされるものがあった。それがなぜなのかをずっと考えていたが、おそらく自分の持つものづくり志向の中でも、コンテンツ作りを志向する琴線に触れるものが多かったからだと感じた。端的に言えば、こういう仏像のようなものを自分も作りたいと、思わせるものがここにはある。といっても、別に仏師になりたくなったということではなく、この仏像を作るような精神でものを作りたいということである。個々の仏像の細部に、作り手の気合がこもっており、そこに神ならぬ仏が宿っている。こういうコンテンツの細部にこだわった仕事にロマンを感じる。
他の名所と同様、三十三間堂は、その歴史の過程で様々なプロジェクトを経てきて今日に至っている。建物の建築、仏像づくり、庭や塀のデザイン、通し矢ブームや焼失と修理を経てきた歴史、それぞれの出来事にはそれぞれに大規模なプロジェクトがある。
最初の建立時の構想立案、資金確保や建築家の選定、コンテンツとなる仏像を作る仏師の手配など、それは今日で言うところの開発プロジェクトであり、全体のコーディネーションはプロデューサーの仕事である。そしてそのプロジェクトの中で、建築ディレクターやアートディレクター、景観ディレクター、イベントディレクターなど、さまざまなディレクターが働き、その下でそれぞれの分野のデザイナーやエンジニアが働く。一つ一つが大きなプロジェクトであり、いずれもさぞやりがいのある仕事だっただろうと想像できる。
後白河法皇のようなイニシアチブを取る親分がいて、平清盛のようなリーダーがいて、その下には全体を統括プロデュースする誰かがいたのだろうし、寄付金集めのプロもいただろうし、納めた仏像を保護するメンテナンスのプロもいたことだろう。後に火事で焼失した際には、その火事場から仏像を運び出す消防団のリーダーのような人もいただろうし、江戸時代に流行った、建物の端から端まで弓矢を通すスポーツイベントの「通し矢」も、その仕掛け人がいたことだろう。歴史の中で、さまざまなリーダーがいて、プランナーやデザイナーが活躍して、それが歴史となっているのである。
そういう三十三間堂の歴史にまつわる様々なプロジェクトの中で、自分だったらどういうプロジェクトにロマンを感じるか、ということが自分のキャリアを考える上でのヒントになると思った。大金を動かして新たな歴史を始める道筋を作ることやそういうことができる権力を持つことにロマンを感じるのか、建築物のようなシステム的なデザインに興味を持つのか、仏像のようなコンテンツのデザインがしたいのか、大勢の仏師をアレンジする編集者的な仕事が好きなのか、通し矢のようなみんなでワイワイやるイベントを企画するのが好きなのか、通し矢に選手として参加し、記録を塗り替えることに燃えるのか、お守りや破魔矢のような三十三間堂ブランドを活かした商品開発に興味があるか、建物や仏像のメンテナンスのような地味だが重要な仕事にしびれるのか。自分はどれが一番好きなのか。
そう考えたときに私自身が最もひかれるのは、仏像のようなコンテンツのデザインなのではないかと思う。あるいは、一つの部屋に千体の仏像を一つの部屋に置いて壮観さを演出するというコンセプトのデザインの方かもしれない。大規模チームのマネジメントよりも個人または少数のチームでの創造性追求に関心があり、規模の大きさや表面的な派手さよりも、一つ一つの仕事の質と他にない価値を追求することに意味を感じる。自分の関心はおおよそそんなところだろうと思う。逆に言うと、それとかかわりの無いことは、いかに規模が大きかろうと、人々の注目を集めようと、自分には向いていないことが多いし、そもそもあまり関心が無い。それぞれの仕事には必要な能力や知識は異なり、その人の向き不向きも関係する。
これは世の中で必要とされているから、世のトレンドに合っているから、安定しているから、成功しやすそうだから、と頭の中だけで考えてキャリアを選んでも、途中で息切れしやすいし、そんなに思うようにはいかない。また、世にある職業のラインナップだけを眺めてみても、しっくり感じるものが見当たらないこともあるだろう。その時に、自分がどういうものにしびれたりロマンを感じたりするか、どういうことが嫌いでやりたいとも思わないか、そういう身体の内側からくる感情的な反応に耳を傾けることが一つのヒントを得るきっかけになるかもしれない。
私の二度目の三十三間堂体験はまさにそんな機会だったと思う。中学の時の自分は何を想ったのかは思い出せないが、今回については以前に一度見ていることの意味は大きかったと思う。なのでありがたみもわからないうちであっても、修学旅行で子どもたちに寺や仏像を見せておくこともあながち悪いことではないなと思った。