帰国中のテレビ問題をどう解消しようかと思案した結果、録画時間の制約という根本的な問題の解決を求めてTivoを購入した。Tivoとは、いわゆるデジタルビデオレコーダー(DVR)にネット接続された番組予約システムが提供された商品で、アメリカではDVR市場を席巻している、DVR市場のipodのような商品だ。
他のDVRデッキが普通のビデオデッキのように製品単品売りで、番組表サービスはオマケのようなものだったのに対し、Tivoは、番組予約システムを主として録画機能を補完的な扱いでサービスを構成して展開した。そのため、セールスアプローチは携帯電話のセールスのように、月額いくらのサービスを売って、ハードは販売奨励金で価格を下げて提供する形をとっている。おかげで、DVRデッキ自体は50ドルほどで買えた。最大80時間録画で、裏番組同時録画ができるデュアルチューナー搭載。
Bon Jovi as rock classic
今シーズンも好調な歌手オーディション番組「アメリカンアイドル」は、ベスト6となった。先週のチャリティースペシャルでは、企業分と一般視聴者分トータルで約7000万ドル(約84億円)もの寄付を集めたとアナウンスしていた。全米最高視聴率の番組のパワーをうまく使いながら、チャリティーを番組のマーケティングにも活かしている。
番組では、毎週アメリカの有名ミュージシャンがメンターとなって、そのミュージシャンにちなんだテーマで選曲することになっている。今週は、ボンジョヴィがゲストメンターで、挑戦者たちはボンジョヴィの曲を一曲選んで、ジョン・ボンジョヴィから個別レッスンを受けて、ステージで歌を披露するという流れだった。R&B系の歌手には厳しいテーマだったものの、それぞれの持ち味で料理していて楽しめた。ゲストメンターは新曲を出してプロモーションしたい有名ミュージシャンが出てくるのが通例で、ボンジョヴィも出したばかりのシングルのプロモーションで出てきている様子。
それにしても、ボンジョヴィは20年以上もトップアイドルとして君臨し続けていてすごい。世界的にブレイクしたYou Give Love a Bad Nameを出した当時はこんな感じだった。それはもう、見事に80年代メタル。当時はみんなこんな格好で、こんな風なのが最高にカッコよいビデオの演出だった。
高校の文化祭でやったなぁ。懐かしい・・でもこの頃の彼らよりも自分が歳をとってしまったのかと思うとなんともいえない気分がしてくる。
そして最近の彼らの「Have a Nice Day」のビデオ。40代半ばになった今でもカッコよい。
ところで、このビデオの版権を持っているユニバーサルミュージックは、昨年YouTubeと提携した。YouTubeを著作権侵害の温床と敵視するのではなく、ポジティブにプロモーションメディアとして利用し始めた。YouTubeのビデオ掲載者のプロフィールをクリックすると、ユニバーサルミュージックのページに飛んで、売り出し中のアーティストのビデオが流れ、過去から現在の同社所属のアーティストのビデオが自由に見られる。ナイトレンジャーやスコーピオンズなど、懐かしいビデオがたくさんあって、気がつくとあっという間に時間が過ぎている。これは危険。
でも、どうせ版権持っていてもこんな古い音源のプロモーションなんてできないのだし、こうしてユーザーが自由に聴けるところに置いていてもらった方がよほど音楽振興になる。今ではこれを聴いて、ちょっとほしいなと思ったら、iTunesなどでその曲をさくっと買える環境が整っているわけだし、結果的に業界の利益につながるだろう。大手音楽出版各社はすでに提携を結んでいるようだし、この方向でどんどん進んでほしいものだ。
最高なネットラジオ局
最近の仕事中のBGMは、iTunesに登録されているネットラジオ。ロック系のいいラジオ局が見つからず、最近までクラシックギターやソロピアノのクラシック系の専門局を流していることが多かった。
先日、ふと気分を変えてみたくて、ロック系のラジオ局のリストを見直してみたら、プログレッシブロック専門局のMorow.comというのがあるのを見つけた。聴いてみたらこれが最高に気に入った。”The best progressive rock of yesterday and today”というキャッチフレーズの通り、一日中いつ聴いても新旧のプログレがかかっている。
初期のジェネシスやピンクフロイドのような大御所から、ペンドラゴンやマリリオンのようなポンプロック、ドリームシアターやACTのような最近のプログレメタルまでカバーしている。日本にはほとんど流通していないような、聴いたことのないバンドも山ほどかかっている。そしてそれらもまたよかったりする。イエスのフォロワーバンドで、10年以上前に一度ラジオで聞いたきりで名前のわからないバンドが、Starcastleということを知ることもできた。
マイナーすぎるせいか、まだこのラジオでもかかっていないドイツのプログレハードバンドで、Everonという僕のお気に入りのバンドがいる。大学時代に中古CD屋で手に入れて聴いた「Flood」は10年以上経った今でも一番よく聴くアルバムのままでいる。少し前にアマゾンで買った「Bridge」と「Flesh
」もお気に入りのアルバムに加わった。Everonが好きだという人には今まで会ったことがないし、そんな人どこにいるだろうと思いつつ、たった今何気にMixiのコミュニティを検索したら・・・Everonコミュニティが存在した!たまげた。Mixiすごい。とりあえず入ってみた。15人目。
そんなことを書いている間もイエスがかかり、何曲か後にスターキャッスルが続く。スターキャッスルは再結成して昨年新譜を出したということもこのラジオをきっかけに発見した。自分で買ってまで聴きたいとは思わなかった辺りのバンドが大量にかかって、試聴の機会となってうれしい。曲が変わるたびにバンドと曲名を確認しているので、仕事のジャマになっているんじゃないかという気もしてくるが、それもまたいい。
セカンドライフのメディア露出
テレビのチャンネルを適当に変えていたら、CNBCで「The Business Of Innovation」という番組をやっていた(日本の日経CNBCでもやっていたらしい)。人工知能研究や教育工学の分野では「Goal-based Scenarios」などで著名なロジャーシャンク博士がメインコメンテーターとしてしゃべりまくっていたので見入っていたら、セカンドライフのCEOのフィリップ・ローズデール氏がゲスト出演していた。
まもなく帰国
研究のセットアップやらビザの更新やらで5月半ばからひと月ちょっとの間一時帰国しています。東京近辺でしたら時間の許す限りどこへでも参上しますので、御用の方はご一報ください。今回もいろんな方とお会いできるのを楽しみにしています。
「The Active Senior: これからの人生」発刊
当サイトで運営している生涯学習通信「風の便り」の編集長、三浦清一郎氏の新刊「The Active Senior:これからの人生―熟年の危機と「安楽余生」論の落とし穴」が学文社より上梓された。昨年上梓された、「子育て支援の方法と少年教育の原点
」、編著の「市民の参画と地域活力の創造―生涯学習立国論
」に続く3作目となった。
「安楽な余生」は幸福にはつながらず、社会との関わりを失って生きがいを失った老人は「自由の刑」に処された状態で活力を失っていく。にもかかわらず、福祉行政も生涯学習行政も「元気老人」を増やすのではなく、社会コストの増大をもたらす「厄介老人」を増殖させる誤った施策をとり続けている。老いていない研究者の高齢社会の研究はまるで的を外している。といった論点がわかりやすく説かれている。
引退後も老人たちが社会と関わりを持ち、社会の役に立てる機会を提供することが社会保障コストの増大を抑え、社会の活力維持につながる、という提言が本書の主要なメッセージとなっている。また、老人は安楽に生きて衰えて社会の厄介になって生きながらえるのではなく、頭も身体も衰えないように使い続けなさい、そのためにもっと社会と関わりを持ちなさい、という主張には、高齢者の年齢に達して老いを実感している著者だからこその迫力がある。
現在の高齢者医療・福祉政策の方向性はすでに限界がきており、本書は生涯学習を軸としてその方向転換の考え方を提示している。社会教育、生涯学習分野の研究者の立場からの社会問題の分析とその解決のための考え方が示されている。教育学分野には社会の役に立たないかむしろ害悪な「学者のたわごと」があふれているなか、本書は教育学者の社会のためになる知識や見識を示しており、その示し方は一つのお手本と言ってよい。
その年代、世代だからこそわかることや感じられることがあって、何でも若ければよいというものではない。歳をとったからこその感性や発達、時には衰えがその人の世界観や物事の捉え方に影響を与える。若いからできる仕事もあれば、歳をとってからの方がよくできる仕事もある。本書は著者にはそんな仕事であり、歳をとったからできた仕事なのだろうと思う。
なお、著者は次回作もすでに執筆中で、学校教育の問題を「教育公害」というテーマで論じた内容とのこと。すでに生涯学習通信「風の便り」にこのテーマで書かれた論文も掲載されているので、関心のある方はご参照ください。
★「The Active Senior: これからの人生」 目次
1 「親孝行したくないのに親は生き」/2 熟年の不覚/3 熟年の「危機」、熟年の「生きる力」―「元気老人」と「厄介老人」への二極分解/4 「ひとりぼっち」(情緒的貧困化)の危機/5 「頭の固さ」(精神的固定化)を自覚せよ/6 「変わってしまった女」と「変わりたくない男」―「男女共同参画」を学ぶのは基本的に男性です/7 熟年の体力維持とストレス・マネジメントの方法―助言の論理矛盾/8 「安楽余生」論の「落し穴」―“読み、書き、体操、ボランティア”/終章 『三屋清左衛門残日録』(藤沢周平)の教訓―熟年の覚悟と生涯学習の意義
マーケティングと満足度
今住んでいるアパートは、結構居心地が良く、家賃が少し値上がりする以外は特に不満はないので来年も住むことにした。このアパートは築年数が古くて設備も質素、とりたててスペック面で魅力があるわけではないけれども、管理人やメンテナンススタッフは感じの良い人たちで、何か修理を頼めばすぐに来てくれるし、問題があれば丁寧に対応してくれる。ゲストが気軽に駐車場を利用できるのも良い。廊下や共用設備は手入れが行き届いている。何かプラスがあるというよりも、マイナス要素が少ないのが居心地の良さに貢献している感じだ。他の住人も同じように感じているのか、一度越してきたらそのまま居ついてしまうのか、新規の入居はすぐに一杯になってしまうらしい。
(ちなみにアパートというと、日本では2階建てくらいの小規模なものをイメージするけど、アメリカのアパートは一般にサイズはそれよりずいぶん大きい。うちのアパートは6階建てのホテルのような建物に全部で150室くらいある。日本で言うところのマンションの方がイメージが近い。念のため、英語でマンションと言うと、大豪邸のこと。日本の分譲マンションを英語でアメリカ人に説明したい時は「コンドミニアム」「コンドゥ」と言っておけばだいたい近いイメージを共有できる感じ。賃貸はマンションもアパートも同じく「アパートメント」。)
一方、近所にもう一つ、留学生がよく入っているアパートがある。家賃はほぼうちのアパートと同じくらい。ただそちらのアパートはフィットネス施設や住人専用の送迎バスなど、設備やサービス面でこちらにはないものをいくつも提供している。入居者募集パンフレットも立派なものを作っていて、グループでまとめて申し込むとグループ割引で家賃が安くなるサービスもある。傍目にはそっちのアパートの方が快適そうで、そのせいもあって新入生には人気が高い。ただ、翌年には転出する人が多いので、毎年結構空きが出る様子。
そこの住人に話を聞くと、あまりいい話は出てこない。管理人やスタッフは感じが悪く、メンテナンスは十分でない。バスは勝手にサボったりするので当てにならない。挙句には転出時にあれこれ難癖をつけられて敷金をずいぶん差し引かれるので、入ってから出るまで気分の悪いことが多いそうだ。
そのアパートとうちのアパートとを比べてみると、いわゆる学校で習うようなマーケティング戦略の観点で見ればそのアパートの方があれこれ工夫をしているし、実際に客は集まっている。しかし満足度は低く、非継続率が高いためにその分マーケティングコストはかさむ。ついた先から客が去って行ってしまうので、その分集客に力を入れる必要が生じる。口コミでは「あそこはやめとけ」という悪評は常に広まっている。
かたや、うちのアパートはその点全くと言ってよいほどマーケティングらしいことはしている様子はない。集客の目玉になるような設備は何もない。特に目新しいことをするわけでもなく、余計なことをせず、当たり前のオペレーションをやっているだけ。それでも住人は居心地のよさを感じて住み続け、口コミでよい評判を聞いて他のアパートが嫌になった客が流れてくるほどだ。
アパートでも何でも、ユーザーの満足度のツボというのがどこかにあって、それを外さなければ余計なことをしなくても満足してくれるのだろうと思う。そのツボを外していれば、どんなに見た目をよくしてもダメで、本質的でない工夫や集客のためのコスト増の必要に迫られる。顧客満足度向上だ何だとマーケティングのテクニックや知識を駆使しても、ツボを外していては空回りするし、かえって逆効果の場合もある。そういうテクニックをこれ見よがしに振りかざす人ほど、ツボの掴み方をよくわかってなかったりする。そんな状況ではパンフだウェブサイトだとやみくもに金を掛けてもダメで、むしろサービスの目先を変えて、リソースの配分を考える方に力を入れた方がよい。どんな分野もビジネスが複雑化しているように見えて、実は案外そういうシンプルなところに本質があると思う。
バージニアでの事件の影響
テレビのニュース番組ではこの事件のことばかりやっているし、すぐ近くの州のそんなに遠くないところにある大学での事件ということもあって、ここも何となく重苦しい空気に包まれている。事件直後、ペンステートでは学長名で、犠牲者を悼むメッセージと大学のセキュリティ面や緊急時対応の説明のメールが全学に向けて発せられた。おそらく同様のことが全米の各大学で行われただろう。ペンステートの卒業生にも犠牲者が出たこともあって、ローカルニュースでもその家族の悲しみが報道され、キャンパス内の教会でもこの事件の犠牲者を追悼する会が行われている。
アジア系だからといって直接的に悪影響などは自分の身の回りには全くないのだけれども、誰もが何となく嫌な重たい空気は感じているだろう。この事件は何系人が起こしたからどうとかいう問題ではなくて、犯人個人の不適応や精神疾患の問題だということはみんな理解している。でも、道を歩いていて、犯人に似た人相の見知らぬアジア人が目つき悪く歩いているの見ると何となく怖くなるし、アジア系以外の人たちからすれば、アジア系というだけでそんな気持ちを持つかもしれない。それは不適切でナンセンスだとわかってはいても、頭をよぎってしまう、そういう重苦しさがキャンパスに漂っている気がしてくる。出歩くのが何となく億劫な気もして、微妙な居心地の悪さがある。でも少しすれば、世の中のそういう過剰な恐怖心も落ち着いていくだろう。
事件について大学側の対応の不備が批判されているが、適切に対応していれば未然に防げた云々の話はナンセンスだと思う。何万人もの学生がいるキャンパスを、こんな極端なケースが起こることを想定して管理するのはマイナスが大きすぎる。学生の環境不適応やメンタルヘルスの問題は大学運営共通の問題であって、大なり小なりどこの大学で起きても不思議はないし、日本でも同様の性質の凶悪事件は起こる。ただ、事件が起きた時にここまでの大惨事に至るのはひとえに銃規制の問題であって、アメリカ社会そのものの問題だ。大学のセキュリティや緊急時対応を見直す必要は当然あるにしても、銃規制の問題を棚に挙げて、大学や地域の警察を過剰に非難することには意味はないだろう。
こういうことが自分の目の前で起きたら、自分の関わる組織で起きたらどうするか、恐怖や重圧に押しつぶされずに適切な行動が出来るのだろうか、何が適切な行動なのだろうか、危険に瀕した人を自分の身を挺して守れるのだろうか、そんな考えが頭の中を霞のように覆っている。
情報格差の壁を乗り越えるには
前回のエントリーの査読の話に関連して、情報格差についてふと考えたこと。お金はお金を持っている人のところに集まって、経済的な格差は縮まらないという考え方は、情報についても同じか、それ以上に真だと思う。
シリアスゲームの研究を始めて3年半ほどになる。シリアスゲームジャパン設立はたしか2004年5月だったのでそこからカウントしてももうすぐ丸3年になる。この間ずっとシリアスゲームの情報を収集、吟味する作業を続けてきた。最初の頃はたいして話題にもなってなくて、研究者の間ではゲームの研究などイロモノ扱いだったし、ゲーム業界ではシリアスゲームはビジネスにならないからすぐ消えるだろうというのが一般的な見方だった。その頃から活動を続けてきて、今はずいぶんと状況が変わって、関心を持つ人の層が広がった。
たった3年程度の活動で、すでに自分のいるところにはシリアスゲームに関する情報の太い流れができていて、放っておいても情報は集まってくる。今回の査読のような形で、まだどこにも出ていないような最新の研究動向にもいち早く触れられる。講演などで招かれて話をする機会には、その準備のためにさらに情報収集をするので、また情報の蓄積が増える。もうこのサイクルの中にいる限りは、後から始めた人にそう簡単に追いつかれることはない。そんな感じで、身を持って情報格差はどんどん広がるというのを経験している。
このような状況に至るのにわずか3年しか要していないのは、新しい分野(あるいは今までうまく行ってなかった分野)だということが大きい。新しいことや人がやっていないことを追求するのは、情報格差の構造の中で持たざるものから持てるものへ移行するには良い方法だと思う。誰もが価値のあることとわかっていることを追いかけるのは無難だが、その中で付加価値を見出すことは難しく、情報格差の壁を越えるための競争も激しい。もっとも、シリアスゲーム自体が価値ある分野でないとみなされてしまえば、この格差の付加価値はなくなるし、新しいことであっても誰も価値を見出さないままであればその情報を持っていることの付加価値は高まらない。この点は、新しい分野だと持たざるものから持てるものへの移行が早く行える分、その価値が無力化されやすいというコインの裏表になっていることに気をつける必要がある。
人のやっていないことや誰も価値を見出していないことをやるのはなかなかしんどい。寄って立つ強い信念や、同じ想いを持った仲間の存在を支えにしていかないと途中で力尽きてしまう。自分ひとりの意志だけで続けられることなどそれほど多くない。前々回のエントリーで触れたように、何かを学びやすくするには、自分なりのシステムを作ったり、継続しやすい文化のなかに自分の身を置くことだ。何事も最後の最後は自分のモチベーション(気合い)が頼みになって、そのモチベーションをいかに保てるかが肝になるものの、モチベーションを保ちやすくすることは可能だ。そんなことに気をつけつつ自分が大事だと思うことを継続して追求していけば、情報格差の壁は乗り越えられる。いったん乗り越えてしまえば、その後の展開はずいぶん変わってくる。
ダメ論文と優れた論文
ある学会の発表論文の査読を頼まれて、論文読みの日々が続いている。国際学会なので論文は英語。この分野の査読ができる研究者がつかまらなかったからか、日本でやるから日本人の査読者も入れた方がよい、ということでお呼びがかかったのかどうかはわからないが、とりあえず声が掛かってきて、結構な本数の論文を任されたので、知り合いの研究者仲間にも査読に加わってもらい、手分けをして読んでいる。
今までに読んだ論文は、概ねレベルが高く、読んでいて面白くてつい役目を忘れて読み込んでしまう論文が結構ある一方で、文献レビューも研究方法もお粗末で、読んでいてイライラして血圧が上がってくるような論文もある。そういう時には、容赦ない手厳しいコメントを返したい衝動に駆られる。でも、提出する側の表情が浮かんでくると、そのまま抜いた刀を振り下ろすことはできなくなる。できの悪い論文は必ずしもその筆者のできの悪さを反映しているとは限らず、一つのできの悪い作品の背景にはさまざまな事情があるものだ。
この手の学会の論文査読というのは、査読者の手元には匿名の形で渡される。匿名でなければいろんな政治や人間関係が絡むので、客観的に評価することはできなくなる。だから匿名なのは査読者にも投稿者にも都合が良い。相手が誰だかわからないおかげでこちらもコメントしやすい。なかには書かれている内容から筆者がどこの人かを容易に推測することも可能な場合もあるが、今のところどの論文も実際に誰が書いたかはよくわからない。今手にしているできの悪い論文も、たぶん大学院生か、教員になりたての若手研究者だろうとか、引用文献からどこの国の研究者だろうとか、そのくらいのことが推測できる程度だ。
世の中には匿名なのをいいことに、容赦なく非建設的な批評を書き連ねる査読者もいるという話をよく聞く。でも、受け取る相手のことを少しでも想像できるなら、ボロカスに書いたコメントを自分が受け取ることを思い浮かべることができるなら、とてもそんなことはできない。かといって、ダメなものをそらぞらしくほめても仕方がないし、建設的にコメントするにも限度がある。明らかにレベルの低い論文を受け入れては、学会のクオリティが保てない。「この程度でも通るんだ、へへッ楽勝♪」とは思ってもらいたくない。そういう腐ったミカンを放っておくと、あっという間に周りの良いミカンも腐らせてしまう。なので、そういう時は少し知恵を絞って、建設的でありつつもその論文のダメさ加減をわかってもらうような形でコメントするよう心掛ける。
なかには、ものすごくレベルが高く、ほめる以外コメントのしようがない論文もある。了見の狭い査読者は、そういう論文でも重箱の隅を上手につついて、瑣末な批判をあれこれ書き立てるのかもしれないが、いい論文はいい論文であって、気づいたところは指摘しつつも、素直にほめれば良い話だ。査読者とは学会のクオリティを保つための門番的な存在か、成長過程の研究者を支援する存在以上のものではないと思う。間違っても、査読者が無駄にごちゃごちゃと研究者を惑わしながら存在感をアピールする場ではない。
それに、優れた論文を読むと身が引き締まる思いがして、自分もこういう研究をしないといけないなと励まされる。論文が栄養源となって、論文を読んだあとの仕事のノリも違ってくる。「なるほど、こういうまとめ方があるのか」と感心させられることや、読んでなかった重要文献が見つかることも多い。査読をしながら多くの気づきや学習がある。
査読を引き受けた時はやや面倒な気がしていたが、査読者というのは吸収できることが多くて、良い論文からもダメ論文からも学ぶところがあって、なかなか楽しいものだと思った(そうでも思わないとやってられないので、半分空元気で言ってはいるけれども)。ただそう思えるのは、ちょうどよいボリュームで、良い論文が読めるから楽しめるのであって、どうしょうもないダメ論文を大量に査読させられることになったら、楽しみようがない。今回もたまたま手伝ってくれる研究者が確保できたからよかったものの、下手をすると今の3倍の本数の論文を読まされるところだったので、そうなると状況はずいぶん違っただろう。
実際に関わってみると、査読というシステムを保つのも大変なのだなとよくわかった。多くの学会で査読なしで申し込めば誰でも発表できる形にしているのも、査読のシステムを保てないからで、そんなところで無理して査読付きにしても、学会という体裁自体が保てなくなるということなのだろう。