バージニアでの事件の影響

 テレビのニュース番組ではこの事件のことばかりやっているし、すぐ近くの州のそんなに遠くないところにある大学での事件ということもあって、ここも何となく重苦しい空気に包まれている。事件直後、ペンステートでは学長名で、犠牲者を悼むメッセージと大学のセキュリティ面や緊急時対応の説明のメールが全学に向けて発せられた。おそらく同様のことが全米の各大学で行われただろう。ペンステートの卒業生にも犠牲者が出たこともあって、ローカルニュースでもその家族の悲しみが報道され、キャンパス内の教会でもこの事件の犠牲者を追悼する会が行われている。
 アジア系だからといって直接的に悪影響などは自分の身の回りには全くないのだけれども、誰もが何となく嫌な重たい空気は感じているだろう。この事件は何系人が起こしたからどうとかいう問題ではなくて、犯人個人の不適応や精神疾患の問題だということはみんな理解している。でも、道を歩いていて、犯人に似た人相の見知らぬアジア人が目つき悪く歩いているの見ると何となく怖くなるし、アジア系以外の人たちからすれば、アジア系というだけでそんな気持ちを持つかもしれない。それは不適切でナンセンスだとわかってはいても、頭をよぎってしまう、そういう重苦しさがキャンパスに漂っている気がしてくる。出歩くのが何となく億劫な気もして、微妙な居心地の悪さがある。でも少しすれば、世の中のそういう過剰な恐怖心も落ち着いていくだろう。
 事件について大学側の対応の不備が批判されているが、適切に対応していれば未然に防げた云々の話はナンセンスだと思う。何万人もの学生がいるキャンパスを、こんな極端なケースが起こることを想定して管理するのはマイナスが大きすぎる。学生の環境不適応やメンタルヘルスの問題は大学運営共通の問題であって、大なり小なりどこの大学で起きても不思議はないし、日本でも同様の性質の凶悪事件は起こる。ただ、事件が起きた時にここまでの大惨事に至るのはひとえに銃規制の問題であって、アメリカ社会そのものの問題だ。大学のセキュリティや緊急時対応を見直す必要は当然あるにしても、銃規制の問題を棚に挙げて、大学や地域の警察を過剰に非難することには意味はないだろう。
 こういうことが自分の目の前で起きたら、自分の関わる組織で起きたらどうするか、恐怖や重圧に押しつぶされずに適切な行動が出来るのだろうか、何が適切な行動なのだろうか、危険に瀕した人を自分の身を挺して守れるのだろうか、そんな考えが頭の中を霞のように覆っている。