前回のエントリーの査読の話に関連して、情報格差についてふと考えたこと。お金はお金を持っている人のところに集まって、経済的な格差は縮まらないという考え方は、情報についても同じか、それ以上に真だと思う。
シリアスゲームの研究を始めて3年半ほどになる。シリアスゲームジャパン設立はたしか2004年5月だったのでそこからカウントしてももうすぐ丸3年になる。この間ずっとシリアスゲームの情報を収集、吟味する作業を続けてきた。最初の頃はたいして話題にもなってなくて、研究者の間ではゲームの研究などイロモノ扱いだったし、ゲーム業界ではシリアスゲームはビジネスにならないからすぐ消えるだろうというのが一般的な見方だった。その頃から活動を続けてきて、今はずいぶんと状況が変わって、関心を持つ人の層が広がった。
たった3年程度の活動で、すでに自分のいるところにはシリアスゲームに関する情報の太い流れができていて、放っておいても情報は集まってくる。今回の査読のような形で、まだどこにも出ていないような最新の研究動向にもいち早く触れられる。講演などで招かれて話をする機会には、その準備のためにさらに情報収集をするので、また情報の蓄積が増える。もうこのサイクルの中にいる限りは、後から始めた人にそう簡単に追いつかれることはない。そんな感じで、身を持って情報格差はどんどん広がるというのを経験している。
このような状況に至るのにわずか3年しか要していないのは、新しい分野(あるいは今までうまく行ってなかった分野)だということが大きい。新しいことや人がやっていないことを追求するのは、情報格差の構造の中で持たざるものから持てるものへ移行するには良い方法だと思う。誰もが価値のあることとわかっていることを追いかけるのは無難だが、その中で付加価値を見出すことは難しく、情報格差の壁を越えるための競争も激しい。もっとも、シリアスゲーム自体が価値ある分野でないとみなされてしまえば、この格差の付加価値はなくなるし、新しいことであっても誰も価値を見出さないままであればその情報を持っていることの付加価値は高まらない。この点は、新しい分野だと持たざるものから持てるものへの移行が早く行える分、その価値が無力化されやすいというコインの裏表になっていることに気をつける必要がある。
人のやっていないことや誰も価値を見出していないことをやるのはなかなかしんどい。寄って立つ強い信念や、同じ想いを持った仲間の存在を支えにしていかないと途中で力尽きてしまう。自分ひとりの意志だけで続けられることなどそれほど多くない。前々回のエントリーで触れたように、何かを学びやすくするには、自分なりのシステムを作ったり、継続しやすい文化のなかに自分の身を置くことだ。何事も最後の最後は自分のモチベーション(気合い)が頼みになって、そのモチベーションをいかに保てるかが肝になるものの、モチベーションを保ちやすくすることは可能だ。そんなことに気をつけつつ自分が大事だと思うことを継続して追求していけば、情報格差の壁は乗り越えられる。いったん乗り越えてしまえば、その後の展開はずいぶん変わってくる。