経験やカンに頼って何が悪い?

 日本のインストラクショナルデザインを取り巻く状況は、私が留学する前と比べて、進んだ面もあれば、ほとんど変わってない面もある。日本のID推進者の人たちがよく使う売り文句で、以前から違和感を持っていたのは、「経験やカンに頼った教育への批判」と「科学的アプローチとしてのID」というところである。
 そこで唱えられるのは、教育の質を高めるには、経験やカンだけに頼っていてはダメで、きちんと系統だった方法論を用いて適切にコースや教材をデザインしないといけない、アメリカではインストラクショナルデザインという方法論が普及していて云々、という感じである。ここでのメッセージは、経験やカン「だけ」に頼って教育を組み立てることや、それを評価改善せずに作りっぱなしにしていることが問題だということなのだが、「経験やカン」の部分が浮いてしまって、経験やカンに頼って教育することがいけないことのように曲解されているところがみられる。情報の出所たるIDの教科書などでは、経験やカン「だけ」に頼るのが問題、と言及されているはずだが、生かじりな知識でIDを単なる売り文句として使っている人たちは、この「だけ」の部分が消えてしまっていて、経験やカンに頼ることが悪いことのように誤解してしまっている(グーグル検索すると、ほんとにいろんな教育機関や企業でそういう言及がされている)。
 また、IDが科学的アプローチだという理解についても大きな誤解がある。ID自体は諸科学の知見を取り入れて系統だてて確立された方法論ではあるけれども、実践の場においては専門的な知識を専門家としての「経験やカン」を駆使しながらデザインするのであって、実践面においては科学というよりも、アートに近い技術の面が強い。なのに、何やら定められた手順に沿ってデザインすれば、効率よく質の高い講座が出来上がるんです、何しろ科学的ですから、という変なニュアンスで捉えられているところがある。そんなわけはない。これも売り文句としてIDを利用している人に共通する曲解である。
 こういう誤解が広まってしまうことの一つの理由として、IDのプロセスモデルばかりが注目されていて、その先になかなか進んでいないことがあると思う。IDプロセスモデルというのは、例のAnalysis-Design-Development-Implementation-Evaluationのいわゆる一般的なADDIEモデルのことを指していて、これに沿って教育をデザインすること=インストラクショナルデザインである、という風に捉えられても仕方がないような扱われ方をしている。これはあまり正しくない。IDプロセスに沿ってデザインするというのは、IDの「イロハ」、基本中の基本であって、それを習得したからといって、いい教育がデザインできるわけではない。
 いうなれば、IDプロセスモデルは、パイのパイ生地の焼き方の手順のようなものである。生地だけ上手に焼いて、はい、パイですよ、と出しても、誰もうまいパイだとは思わない。食べる人(学習者)にしてみれば、パイとはブルーベリーやパンプキンやアップルなどの具(コンテンツ)のでき具合の方が気になるのであって、具が美味ければ、生地をどう焼くかはあまり問題ではない。たとえ生地の出来が多少悪くても、具と合わせてトータルで美味ければそれでいいのである。しかし現時点での日本のIDの知識は、パイ生地を焼く手順のところしか教えていないので、スーパーで売っている出来合いのもの以上のものは焼けず、そこから先は作り手の属人的能力に頼ることになってしまう。当然ながら肝心なのは、パイの具、コンテンツをどう料理するか、である。プロセスモデルの表面だけなぞって、「IDってツマンネ」などと考える人がいたら、その人は生地だけを味見して、パイを評価しているのと変わらない。具の料理の仕方、具にあわせた生地の焼き加減の調整が、インストラクショナルデザイナーの技の部分であって、そこがデザインワークの一番楽しいところである。
 日本のIDの普及状況は、進んでいるところとそうでないところの濃淡はあれ、全体としてみると、最近の構成主義や学習科学の知見を取り入れて変化しつつある米国のID分野の状況からは大きく遅れているように見える。日本で理解されているIDは、構成主義登場以前の、行動主義の影響の強い頃の知識が最新のもののように理解されているところがまだある。おそらくおおざっぱに言って、これはライゲルースの緑本の第二作出版以前の状況、つまり日本のIDは米国よりも10年遅れていると考えると、当たらずとも遠からずだと思う。米国でも構成主義以前は、IDを手順に沿って設計すれば高品質の安定した教育を開発できると考えられていた面はあったし、今もたぶんある(基本的にIDは、高品質の教育ではなくて、質の安定した教育開発を可能にするものである)。当時はデザインといっても、エンジニアリング的な発想の方が強かった。この頃の考え方が日本に広まっているために、経験やカンを否定したり、科学的であることを重宝がったりする面が見られると考えると合点がいく。
 今日の米国のID教育・研究は、90年代以降に構成主義や学習科学の影響を色濃く受けて、よりエンジニアリング発想からデザイン発想にシフトしており、ID教育において行動主義的なIDアプローチは基礎として学ぶけれども、むしろライゲルースの緑本に取り上げられているような構成主義的アプローチをデザイン実践にどう取り入れていくか、ということに力点が置かれてきている(少なくともペンステートやインディアナ等のID分野主要校のプログラムでは)。
 IDが使えないという批判や議論は、以前から米国でも散々されてきており、「ISDへの攻撃」と題した記事が出たりして、手順がまどろっこしいとか、世の中の優れた教育は、IDとは関係ない人たちが生み出している、といった手厳しい批判が繰り返されてきた。また、方法論的なシフトについても、ライゲルースやメリルといったリーダー的研究者を中心に、激しい議論が重ねられてきて、現在に至っている。
 日本でのIDの知識普及が遅れていて、なかなか進んでこなかった理由として、知識創造の担い手が余りにも少なかったことがある。ゆえにこれまではある意味仕方がない面はあった。しかし幸いなことに、この春から熊本大学にID教育・研究の拠点が誕生し、IDの知識を創造し、蓄積していくための砦ができた。たとえ今、日本が10年遅れていたとしても、日本が米国と同じ道をたどる必要はなくて、米国なりヨーロッパなりの動向をきちんと追っていけば、数年は圧縮してキャッチアップし、独自のID研究に基づいた知識創造も可能である。
 何年後かに日本で「ISDへの攻撃」のような記事が出るのを見たくはない。米国で試行錯誤されてきた部分をショートカットするには、プロセスモデル以上の知識の普及を早めていくことである。学習者は、構成主義的アプローチや学習科学の知見もどんどん取り入れながら、デザイン実践の数をこなして、経験を積み、その経験をよりどころにした専門家としてのカンを磨いていくことが必要だ。それによって、その分野の長年の経験やカンを持った専門家と対等に議論しながら、デザインを主導していくことができるようになる。逆に言えば、経験もカンもないインストラクショナルデザイナーは現場のプロ教師や主題専門家に一蹴される。知識ばかり持っていてデザインをしないインストラクショナルデザイナーは、陸サーファーみたいなもので、肝心なところではあまり役には立たない。頼りにする経験やカンを持っていないデザイナーは当てにならないし、経験やカン「だけ」の「だけ」が見えないような人の言うIDは、単なる売り文句なので、そういうところとは一緒に仕事をしないことである。
過去の関連記事:
「IDやってます」の有効期限

「IDやってます」の有効期限


追記:過去の似たような記事をひいてみたら、驚いたことにちょうど一年前だった。何か変な周期があるのかもしれない。2007年版をお楽しみに。

小学校の英語教育導入について

 小学校の英語教育必修化の議論があちこちで盛り上がっているようなので、何が問題になっているのか、少し考えてみた。まずどんな経緯で今のような導入案になったのかを知るために、中教審の議事録や資料を読んでみた。たとえば、公開されている最新のものは次のページに掲載されている。
中央教育審議会初等中等教育分科会 教育課程部会 外国語専門部会(第14回)議事録・配付資料
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/015/06032708.htm
 議事録を読むと、いろいろと面白いことがわかってくる。何よりも、そもそも現状認識としてものすごく間違っているところも散見される。たとえば、「外国語専門部会におけるこれまでの主な意見(論点ごとに整理)(第10回まで)」という資料の中に、次の記述がある。
「○ 教育課程実施状況調査のアンケート調査でも,英語が嫌いな子どもは他の教科に比べて少ないという結果が出ており,日本の英語教育は比較的成功していると考える。過去の学習指導要領の改訂,入試についても,望ましい形に改善されてきている。
○ 様々な社会的な要素などを考えれば,日本の英語教育は成功してきていると考える。それであれば英語教育の基本的な方向性について急激な変更をする必要はない。子供たちにいかにして豊かなコミュニケーションの場面を体験させるかが重要な課題である。」
 会議の委員たちは、英語教育業界のエライ人たちなので、現状の英語教育を批判することは自己否定につながるにしても、これはいくらなんでも自画自賛しすぎである(実際、第12回の資料から、この部分の表現は丸められて通りのよい表現に修正されている)。
 会議では、現状分析や必要性の是非の部分は、他国の例や、先行的に導入されている小学校へのアンケートなど、導入すべき、という意見をサポートするデータを丁寧にあげて議論されているようである。しかし詳細を見ていくと、「英語学習によって、言語能力自体があがる」といったようなポジティブな面ばかりが詳細に取り上げられてて、ネガティブな部分は「。。といった課題がある」とさらりと言及されているだけである。
 導入の方法論や具体的な施策の検討の議論はさらにひどくなって、非常にスカスカなむにゃむにゃした議論になっている。「・・・が重要である」「・・・でなければならない」のような文言が並び、たいして詰めて考えてないんだなということがよくわかる。しかし、エライ人を集めた諮問会議なんてのはそういうものである。猪瀬直樹氏が道路公団民営化でやったように、データをもとに反証したり、具体的な施策案のシミュレーションをやったりということを本来やるべきなのだが、そういうことはまず起こらない。単なるエライ人の「私の教育論」談義を2年間も毎月やる必要はなく、そんなのはざっくり減らして、その分教育方法の開発や教員支援の施策の詳細を整備する作業にリソースを充てる必要がある。それが欠落しているのは、教育行政の改革論議の方法論的な問題によるところが大きいと思う。
 別な観点としては、そもそもこの議論は2年前から進められていて、すでに議論の入口の時点で、小学校に英語教育を導入する、ということが方針として存在している。委員の人選もおそらくそれを推進するのに都合のよい人で構成されていると考えるのが自然である。そしてこの2年間に会議で「ぜひやりましょう」という議論が進行しているので、報道だけを見ると急に出てきた話のように見えるかもしれないが、主導する側からすれば、「入念に議論を尽くした状態」なのである。議論が終わったところで報道されて、その報道をもとにあれこれ巷で議論したところで、残念ながら何の変化も起こせない。教育行政に限らず行政の動きというのはこういうやり方なのであって、総合的学習やゆとり教育も同じようなプロセスで決められている。本気で反対する気があれば、議論の最初のところであやしい動きをキャッチして、綿密な作戦のもとに議論の方向を修正していくしかない。教育行政の愚策に対して、反対の人々が手遅れになってから毎度同じような反応を繰り返すのを見るにつけ、みんな本気じゃないのか、失敗から学んでいないかのどちらかなのだろうという気がしてくる。
 小学校の英語教育導入自体の是非については、普通に考えればやった方がいいことだと思うが、今出されている案のような形では目指す効果はまずあげられないだろう。週一時間では何の練習にもならないし、学習経験の強度も弱すぎて、やっている意味がない。英語教育を担任が担当するべきだという考え方はありでも、実際に教えられるかは全く別の話である。「教員の支援には十分に配慮する必要がある」という方針は、何の具体性もなく、ここから一段階も二段階も展開して、やっと導入可能な施策になる。総合的学習の時間や情報科目の導入でもそうだったが、そこまで落とし込む作業が抜けたままになっている。
 この問題は、教育行政の進める改革活動のシステム的な欠陥を露呈していると共に、反対者側の無策さ、ナイーブさも同時に露呈している。こうした行政の動きに反対するには、ただ口を開けばいいというのではなく、綿密な戦略に基づいた、手足を使った面倒な作業が必要なのであって、それが伴わない反対は、実効性のある反対とはなり得ないと思う。

アールグレイティーとドメインナレッジ

 少し前から、何となくアールグレイ紅茶がマイブームになって、ここ数ヶ月のうちに結構な種類の銘柄を試した。そういうと品がいい風に聞こえるが、紅茶通のように高級な茶葉を買って、専用茶器を使って上品にたしなんでいるわけではなく、単にティーバッグで売っているものをあれこれ飲んでいるといった程度なので、たいしたものではない。今のところ、Tazo(スタバで売ってる銘柄)やNumiのエイジド・アールグレイがお気に入りである。
 特に気を使って飲んでいるわけではないけど、ほとんど毎朝のように飲んでいると、それまでには気づかなかった微妙な味わいや食べているものとの組み合わせでの味の違いに気づくことがある。その日の体調によって味の感じ方も変わってくる。オーガニックな高級紅茶が必ずしもいいお味というわけでもないし、ベルガモットオイルのダブルショットを売りにした銘柄は、お湯を注ぐまではすごいよい香りなのだけど、飲んでみるとそんなでもなかったりする。甘いものと飲むのは楽しいけど、アイスクリームとはイメージほどには合わなかったりする。
 そうやって、気づくことが多くなってくるほどに、だんだんとこちらも気をつけて飲むようになる。そしてあれこれ試したくなって、店に行って違う銘柄を見つければ買ってみたくなるし、ネットで調べてみたくなったりもする。するとだんだんとアールグレイにまつわる知識がたまってくる。これは立派に、アールグレイの領域に関する知識(ドメインナレッジ)である。今の時点ではたいして深みも広がりもないが、大げさに言えば、アールグレイ紅茶についての専門性を高めていくための知識の軸と、自主的に学習を進めるモチベーションの核が形成された状態になったと言ってもいい。その専門性をどこまで高めていくかは、本人の志向や他のテーマとの兼ね合いということになる。隠居して暇だったら、さらに高度なことを始めるかもしれないが、今はせいぜいいくつかの銘柄を飲み比べるくらいで満足である。
 ドメインナレッジは、専門家にとっては頼みとする知識の軸であって、その軸がなかったり、細かったり短かったりすると、その人はたいした専門家ではないということになる(職業としての専門家と、力量が専門家レベルであるということは必ずしも一致しない。これは楽しいテーマなのでまた別の機会に議論する)。ドメインナレッジを軸にすることによって、自分の目で人の意見やものの品質を評価できるのであって、それがいわゆる目利きということになる。客観的な尺度に頼らないと評価できない人と、自分のドメインナレッジを頼りに評価する人とでは、その評価の重みに差が出てくる。
 ドメインナレッジは、やらされながらでもある程度のところまではベースはできるが、ある時点で本人が意志を持って構成しようと努めないと積みあがっていかない。逆に言えば、本人の学習の意志が弱くても、とにかく続けさせればある部分は知識として積みあがっていく面がある。アールグレイの話で始めたので、お茶をたとえとして続ければ、私は幼い頃からずっと緑茶党で、緑茶は二十数年飲み続けていることになる。普段は考えもなしに飲んでいるので知識の軸も何もないが、ある時何かのきっかけで、緑茶の味について意識するようになるとする。するとそれまでの緑茶を飲んだ経験のある部分は知識化されて、判断の軸が形成される上、それまでに味覚としては緑茶を知覚するセンサーがある程度鍛えられているはずである。あるいは緑茶を飲み続けたおかげで、アールグレイ紅茶の味を判別する力が蓄積されたという面もあるかもしれない。
 なので、ドメインナレッジを身につけるには、本人の自発的な学習意欲の形成に頼る部分は大きいが、その一方では有無を言わさず教え込む環境が果たす役割もある。特に高度な自発性が形成されていない子どものうちは、とにかく大事と思うことを教え続けることも必要だと思う。そういう点で、子どもの学習環境と成人の学習環境を考える際には、一緒くたにはできない。一方的に教え込む要素と、自発的に学習テーマを形成させるための学習支援的な要素のブレンドが全く違うからだ。
 子どもの学習環境では、暗唱やドリルなどの教え込みも重要な要素になるが、成人の学習においては、そういう学校的な教え込み発想はあまり望ましくない(「脳を鍛える」ゲームは、大人の頭の体操であって、学習ではない)。日々の生活の中で学習テーマを形成できるきっかけと、そのきっかけから派生してドメインナレッジの形成へと導く自然な流れをどうつくるか、ということが学習環境デザインにおいて重要なコンセプトになる。そのコンセプトを実現した学習環境が普通に提供されるようになったら、専門家がたくさん生まれて、さぞ豊かな社会になることだろう。

「写経」の効果

 日本の機関から依頼が入って、シリアスゲームについての論文を書いているのだが、書いていて一つ気づいた。以前は書き進めるのがたいへんと感じていた内容を書くのがすごく楽になっている。もう2年もこの分野をメインにしているわけだから知識の蓄積が増えてきたという面もあるのだが、それ以上に、最近やっている翻訳作業によるところが大きいように感じている。翻訳している本はこの分野について書いているものなので、知識自体を吸収しているということはもちろんある。だがそれ以上に、翻訳作業というのは一文一文をかみしめながら、その意味を念入りに吟味しつつ読むことによる効果を感じている。丁寧に訳しながら読み進め、翻訳がある程度進むと、その著者の思考の流れとシンクロするようになり、自分の思考の一部になったような気がしてくる。単に本を読んだだけなのとは知識の吸収の状態が異なり、思考力もその過程でついているようである。よく駆け出しの研究者が自分の専門分野の翻訳出版に取り組むのはこういう意味があるのだなと理解した。
 大学受験のときの英語の勉強で、速読やパラグラフリーディングのようなテクニックばかり追っていたら力がつかなくて、精読をきっちりやることで基盤になる力がついて、大幅にレベルアップができた経験をしたのも、たぶん関連がある。寺の坊さんが修行の一環で写経をするのも、宗教的な意味がなんらかあるにしても、おそらく学習の側面としては、落ち着いて一字一字かみしめながら経を読むことで、より理解が深まるという効果を期待する面があると思う。
 一般的にISDの世界で追い求められる学習効率とは発想の異なる学習方法だが、専門家を育てるための方法として昔から経験則的に利用され、有効に機能していると言える。一文一文訳しながら読むのは語学学習方法としては非効率と考えられがちだが、難しい文献を読み解く訓練や、思考訓練の上ではむしろ効率的な面があるようである。「急がば回れ」ということか。駆け出しの研究者の一人として、きっちり力をつけつつ翻訳をやり遂げようと思った。

熊本大学御一行様来訪

 修了試験のラストの課題を片付けたタイミングで、熊本大学の教授システム学プログラムの皆さんがペンステートを来訪。キャンパスツアーを間に挟みつつ、ペンステートの教授システム学プログラムの教授陣や院生とのミーティングを通して、こちらの様子を見ていただいた。
 ミーティングのセッティングは知恵の使いどころだったのだが、日本初のISDプログラムを立ち上げる人たちがわざわざやってくるということにどういう意味があるか、やぼな説明をせずともみんな理解してくれるので、さほど苦労せずにセッティングできた。どんな内容になるかなとやや気をもんだが、手前味噌ながらこれ以上は想像できないくらいにいい内容になった。教授陣や院生達の一言一言に、ペンステートのINSYSプログラムのよさが凝縮されていた。熊大の皆さんに、このプログラムのノリの一番いいところに少しでも触れてもらえた点だけでも、セッティングした甲斐があった気がしている。
 ISDは技術や手順な部分ばかりに目を向けられがちだが、ISDの専門家の持つ気合いというのがあって、ISDの専門知識が思考の奥深くに根付いている人には、表面的にISDを学んだ人だけの人にはない気合いのようなものがその言葉にのっている。まあこれは、ISDに限らずどんな分野でも専門家全般に共通する類のものではある。ミーティングの中で「インストラクショナルデザイナーにとって重要な能力は」という話になり、柔軟性や理解力がその中の要素の一つとして挙げられていた。たしかに、私がISDを学んできた中で、これらは特に重要な要素だなと実感した。これらは、インストラクショナルデザイナーに限らず、人の間に立って仕事をする性質の専門家に共通する要素である。ISDは認知領域のインストラクションが主で、態度や意志の形成のような情意領域については、さほど研究が進んでいない。米国のISDの専門教育においても、情意領域は考慮されていないか、学習の過程で自然に身につくことを期待しているところがある。そのような中では、そういう気合を持った人のもとで学ぶことが最も有効であり、そういう人がいない場では学習者の属人性に頼ることになる。ペンステートには、意志と気合を持った善意ある専門家が研究コミュニティを形成していて、そのもとで学ぶことで院生たちもそうした情意領域が高められる。ここで言う気合というのは、精神論的な話ではなく、専門性や経験に根ざした自信や自己効力感といったものから形成される。気合だーと叫ぶのは、一時的なモチベーション高揚をもたらす。それも部分的な局面では有効だが、継続的に維持できる気合というのは、そうした気合のモデルに触れながら、技術の習得や場数を踏むことによって形成される。知識の詰め込みや、受身の学習では身につかない。そういう意味において、熊大のプログラムがLearning by Doing的アプローチを重視していることは重要で、そのアプローチがどういった形で具現化されるかをとても楽しみにしている。難度が高くて一朝一夕にはいかない課題だが、粘り強く少しずつ形にしていって、熊大独自のISD教育方法論のようなものが確立されることを期待している。
 夕飯とお土産ごちそうさまでした。

「プロジェクト型学習」と「教育プロジェクト」

 複数のメンバーでプロジェクトをやっていると、いろんなタイプの人がいることがわかる。計画立てて順序良くやりたがる人、先のことは考えずにとりあえずノリで前に進もうとする人、誰かが指示を与えてくれないと動けない人、人の意見に柔軟な人、自分の考えに沿わないものを受け入れるのが苦手な人などさまざまである。どういうタイプの人であっても、とりあえず重要なのは、問題に対応する力である。企業で求められる人材として、問題解決能力のある人、などがあげられるが、解決とはその環境になじんでいて経験も持っていないと困難なので、問題解決よりはむしろ、問題対応能力という方が適切なんではないかと思う。
 では、問題に対応できることとはどういうことか考えてみると、何かをやろうとしていて、始めてみてぶつかるであろう問題点に事前に気づくこと、やっている途中で問題が生じた時に問題を解消あるいは軽減すべく方向修正することであったり、事後に活動を振り返って、問題があった点を次回は改善できるように処置できること、だいたいその3点に集約される。事前に問題点に気づく力は、斉藤孝の言うところの「段取り力」とも言い換えられる。さらに平たく言えば、「よく気の利く人」は事前、あるいは最中に問題点に気づく能力の高い人である。事後に振り返りのできる人はやや特性が異なるが、簡単に言えば、反省する態度と能力の高い人、というところだろう。
 これらの能力は、いずれもフォーマルな学校教育のカリキュラムの中では扱われていない。生きる力だ問題解決能力だとセールストークとしては使われていても、実際のカリキュラムに落とし込んでしっかり実践できている例というのはほとんどない。問題解決型学習を取り入れたプログラムと言ってもたいていは、取ってつけたようなグループ学習であったり、部分的に実際の事例を使ってちょっとだけ演習しているようなものだったりする。
 その程度の教育では問題対処できる人を育てることはできない。学校教育の中で対応できているものがあるとすれば、「ヒドゥンカリキュラム」として扱われている領域で、フォーマルな教育の枠外である。たとえば、指導教官が口やかましい人で、何か作業をするたびにあれこれ至らない点をガミガミ指摘されながら「オレって気が回んないんだな」と打ちひしがれつつも何とか認められるように努力する状況であったり、サークル活動や学園祭などでイベントを企画して、本物の聴衆や客を相手にしながら苦労する場面で鍛えられる。リーダーシップ教育とかコミュニケーションスキルトレーニングのクラス内で行なわれるロールプレイや演習には、そういったリアルの状況下にあるようなシリアスさに欠けるため、そうしたカリキュラム外のシリアスな活動の中での学習機会には到底及ばない。もちろん、対処のために役立つ知識は得られるので、何もやらないよりははるかにましである。ただし知識は得られても、その知識を実際の状況下で使いこなすための練習機会は少ない。しかしこの学習課題において一番重要なのはその練習である。
 それゆえ、そうした問題対応能力に関わる教育を行なうには、どんな知識を教えるか、ということではなく、その学習者の問題意識にあった形でいかにシリアスな練習機会を提供するか、ということがデザインの肝になる。おそらく従来のクラスで完結する集合研修の枠組で考えていては不十分で、その枠組からは得られない機会を作っていく必要がある。よく用いられるのは、コンテスト形式で学習者同士を競争させるスタイルや、実際のクライアント向けに仕事をさせるスタイルなどがあるが、それらもマスメディアとタイアップして露出を高めたり、学校や会社で参加するコンペと連動させたりすることで効果を高めることができる。そうなってくるとすでに学校単体、企業の教育部門だけで片付く話ではなくなり、他の関係機関も巻き込んだものになる。そうなると面倒くさい。しかしその面倒くささがよいのであって、学習者個人だけではなく、その組織への刺激にもなり、一石数鳥のプロジェクトとなる。
 書いているうちに、だんだん問題対応能力だけの話ではなくなってきたが(Xマスパーティで大酒飲んだ後なので勘弁)、本当に実践に即した能力を学ぶ環境を提供したいと思ったら、標準カリキュラムや、一クラス、一講師だけで完結する教育という制約から離れて、学習目標に対して、一番必要な学習機会は何かを考えて、それに必要なものはどんどん取り入れるつもりで考えることだ。教育プログラム、というよりはむしろ、教育プロジェクトという方がしっくり来るかもしれない。教育の質を劇的に高めようと思ったら、教育・研修の枠組で行なうプロジェクト型学習ではなく、本物のプロジェクトをやる中で派生的に教育も行なえるプロジェクトを企画して主導していく方向で考えることが一番のショートカットになる。これは間違いない。

Learning by doing

 シリアスゲームワークショップ「コンピュータゲームで英語を学ぶ」も二週目に入り、参加者の皆さんとのやり取りも順調に続いている。参加者の方々が熱心に取り組んでいただいているおかげもあり、自分としては期待以上の手ごたえを感じている。学習の場をデザインする専門性を磨くには、実際にやってみるのが一番力がつくということをあらためて実感した。
 インターネットラジオステーション「ライフロングメタル」も2回目の更新を行なった。選曲時にそのバンドの出身地を確認したり、ラジオのシステムの機能を使いこなせるようになったり、いろいろと学ぶことが多い。アメリカと日本だけでなく、ノルウェーやスウェーデン、ブラジルやペルーにまでリスナーがいる。聴取時間も述べ100時間を超えた。アメリカの片田舎にいる日本人がかけているスカンジナビアンメタルやジャーマンメタルの曲を、その本場の国の人々がわざわざ聴いてくれているというのは、なんとも素敵な経験である。
 肝心の論文とか学会発表の準備がはかどらなくて、自分の好きでやっていることばかりはかどっているのは、ややマネジメント上の問題はあるが、やはり何事も実践を絡めていかないといけないなということを実感している。大学院に身をおいていると、読書で吸収することが中心になって、実践といっても教室でのディスカッションや小プロジェクト程度の日々が続く。学習の場をデザインする勉強をしていて、理屈の勉強ばかりでデザインする回数は多くはない。デザインの練習だけでなく、デザインしたものを実際に導入するところまでやった方が、断然身につくものが多い。IDの講座で、評価の部分が弱くなりがちなのは、本気で導入のところをやらせてないからである。形成的評価も総括的評価も、理論の表面をなぞっただけでおしまい、ということになりがちだ。分野は違うが、高校日本史で、原始時代や中世はしっかり教えるのに、近現代は駆け足で終わらせがちなのに似ている。理屈に沿って教えるとそうなる。実践を通して教えれば、実践の中で一番重要なことから学ぶことができるし、理論の吸収もよい。教室や単位数という学校的な枠組は、実践には障壁となる面が大きい。IDも実践重視で教えれば、早いサイクルで形成的評価までたどり着いた方が、タスク分析や学習者分析の質が上がるし、インターフェースの調整の手間も減るということが身にしみてよくわかる。教室でテキストに沿って、分析フェーズから丁寧に教えていくと、事前の分析から手順を追ってきちんと進めるのが大事です、みたいな話になって、時代遅れのウォーターフォールなインストラクショナルデザイナーばかりが育ってしまう。熟練デザイナーはADDIEのようなIDモデルをメタ知識化していて、いちいち参照して手順どおりに進めていたりはしない。その熟練の域に近づくためには、デザインの数をこなしながら足りない知識を補足していくトレーニングをどこかに織り込んでいなければならない。座学で知識を得てから、演習科目や教育実習をやったのでは、演習の頃には座学で学んだことなど忘れてしまっていて、学び直すことになって効率が悪い。何を教えるにしても、学んだことをきちんと使いこなせるようにすることを考えれば、実践の機会は不可欠であるし、それができているところはまだ少ない。

インストラクショナルデザイナーに向いてる人

 インストラクショナルデザイン(ID)という名称も少しずつ一般に普及してきて、そのうちIDをご指名で勉強したい分野として志す人も少しずつ増えてくることと期待している。IDの理論を学ぼうとも学ばずとも、インストラクションを設計して、学ぶ仕組みを作る人はインストラクショナルデザイナーである。これは前にも書いた
 では、インストラクショナルデザイナーに向いてる人はどういう人か。間違いなく、勉強が好きではない(嫌いな)人、あるいは楽をして勉強することばかり考えている人に適性の高い職種だ、と私は思う。基本的にインストラクショナルデザイナーとは、何か学ばないといけないことがあったら、それを教える人ではなくて、効率的効果的に学ぶ方法を考えて仕掛けを作る人のことである。効率的とは、習得スピード向上や手間の軽減のことで、効果的とは、同じことを学んで、より深く学べるとか、余計に力がつくということを意味する。なので乱暴に言えば、「手間をかけずに、よりよく学ぶ」ということを追求するのがインストラクショナルデザイナーの仕事の重要な側面である。手間をかけずに学ぶには、手間をかけずに学ぶことを常日頃から考えている人の方が、感度は鋭いはずなので、その点において適性がある。インストラクショナルデザイナーの努力のしどころは、「無駄な努力をせずにすませる方法」を考えることである。これは「努力をしない人」とは違う。無駄な努力をせずに済ませることを考える人は、楽をするためにはある程度の手間が必要だということを知っていて、必要な手間は惜しまない。その点が努力をしない人との違いである。

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学びは果てしなく

 再来週に「イノベーション普及と導入」の期末テストがあるので、クラスで手分けして文献読みの作業をここしばらくやっている。日本にいるときにちょっとかじったチェックランドのソフトシステムズ方法論(SSM)の文献「Systems Thinking, Systems Practice (新しいシステムアプローチ)」がリストに入っていたので、これ幸いと担当した。前にちょっと読んでるから楽だろうとたかをくくっていたら、それがどうにも難しくてここ数日はずっとこの本と格闘していた。

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変化を起こすための学問

 2週間にわたる「イノベーション普及と導入」の集中コースが終わった。このコースのテーマは、いかにシステムに変化を起こすか、組織変革や新しい技術の導入を成功させるには、何に気をつけないといけないか、ということである。講師は今期でプログラム長の任を終えるDr. Ali Carr-Chellman。彼女が初日の冒頭に言ったことがこのコースの存在意義を示している。曰く、「インストラクショナルデザインは、分析もデザインも開発も評価も、どれも研究が進んでいるし、専門家も多いけど、導入は研究が進んでいなくてとても弱い。問題の分析はよくできるし、出来上がってくるプロダクトやコンテンツはとてもいい、評価もきちんとした手法でみんないろいろやってる。学会でもすごいのを作りましたとみんな発表している。でもそれをうまく導入するにはどうすればいいかについて考えている人はとても少ない。」このコースはその、いかに導入を成功させるか、についてを教える数少ないコースである。

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