再来週に「イノベーション普及と導入」の期末テストがあるので、クラスで手分けして文献読みの作業をここしばらくやっている。日本にいるときにちょっとかじったチェックランドのソフトシステムズ方法論(SSM)の文献「Systems Thinking, Systems Practice (新しいシステムアプローチ)」がリストに入っていたので、これ幸いと担当した。前にちょっと読んでるから楽だろうとたかをくくっていたら、それがどうにも難しくてここ数日はずっとこの本と格闘していた。
自分が読むだけでなくて、クラスメートと知識を共有するためのメモを作成していたのだけど、これがまた難しい。自分が理解できた気がすることと、それを表現できることは別であって、表現できるためにはより深い理解が必要になる。立て付けの悪いドアに体当たりして無理やり開こうとしているような感じで、ぶつかってぶつかって、ようやくドアが開いて前に進めるという状況が続いた。こういう作業をしていると、ほんとに自分は学者向きじゃないなとつくづく思う。
SSMはだいぶ理解したつもりでいたのだけれども、今回読んでみるとわかり方がだいぶ違う。読むたびに新たな学びがあるという感じがする。システム思考の部分は、今回の授業で周辺的知識をだいぶ得たことによって、以前はピンと来てなかったことがずいぶんと理解できるようになった気がする。それでもまだ全部は読めてない。その読めてない部分はまた次の機会に読めるようになる部分なのだろう。難しい本は何度も挑戦して、ようやく制覇できる感じで、すらすらと読めたためしがない。
本だけでなくて、何かを習得しようとする際には、自分の上達に応じて、知覚できることが変わってくる。最初に重要だと思っていたことは、自分の上達によって重要度が下がる。そして次の課題が見えてくる。その時に知覚できることや気づくことは最初の段階では見えなかったことである。たとえば、ゴルフの練習をしていて、以前は力いっぱいでまっすぐ飛ばすことばかりに気をとられていたのが、最近はクラブごとの距離感に気が回るようになって、各クラブの自分の距離を身体におぼえさせようという練習課題を意識するようになった。ゲームをやってて、相手を倒すのに必死で気づかなかったアイテムの使い分け方や画面上の機能に気づいたのは、だいぶゲーム自体に慣れてきてからのことだった。身体技能でも認知能力でも、一回の学習だけではすべて習得できず、学習のサイクルをまわすことで学習の中身や濃度が変わっていく。身につけた知識やスキルを使って問題に取り組んで、その過程でまた新たな課題を見つけ、また余裕ができたことで最初は見えなかったことが見えるようになる。そしてまたその次の課題に取り組む。
ところが、教育の文脈で提供されている学習機会は、学習のサイクルに配慮した形では提供されていないことが多い。一日セミナーや短期のワークショップのようなものはたいてい一つのことを学んで、一回試したら終了、という一サイクルだけで終わってしまい、確実に定着するまでには至らない。カリキュラムも、知識のチャンクが並んでいるだけで、スパイラル的に繰り返し学びながら力を伸ばしていくようにはなかなかデザインされていない。いろいろ制約があるのは確かだが、その教育の場から離れてしまうと学習のサイクルが止まってしまうようでは、十分な機能を果たしているとはいえない。学習のサイクルをまわし続けるための補助輪を提供して、それが外れても回り続けるようにするのが、教育の重要な機能だと言える。この点はインストラクショナルデザインを考える上でも重要だが、一講座、一教材のデザインだけ考えていると見落としてしまいがちである。ペンステートやインディアナでIDの理論と共にシステム変革の方法論が教えられているのも、IDだけでは個別の講座や教材の改革にとどまってしまいがちなのに対し、よりマクロの組織全体や教育システムを意識した改革を行なう力をつけるためだろう。
なんか最近、何書いててもこんな感じのしめになってワンパターンな気がしてきた。それに気づくということは、たぶん学習のサイクルが回って成長しているのだろうと好意的に解釈しつつ。