実社会で役立つ知識と学校的な教育

 年度末が近づいて、年度区切りの日本からの仕事が一つ大詰めになっている。その仕事に関連して、なぜゲームやシミュレーションが教育のためのツールとして有効なのか、を検討する資料を作成している。
 昔から、学校や研修への期待として「実践的なスキル」や「社会で役立つ知識」を身につけることが期待されてきたものの、期待される成果をあげることが少ないままで今日に至っている。その期待がそもそも現実的でない場合もあるという議論も必要だが、それはここでは置くとして、学校での教え方が「役に立つ」という点においてかみ合っていないことにまず留意する必要がある。
 多くの場合、学校で教えられる知識・スキルが実社会で役に立たないのは、それが利用される文脈を無視して、知識だけ抜き出して教えられているからだ。新しい知識を説明して、練習させ、身についたかどうかを確認するテストを行う。これが学校での基本的な教育方法だが、知識は利用される文脈や、うまく利用するための振る舞いや目のつけ方のような周辺的な要素と共に身につけなければ役に立たない。これはいわゆる「状況的学習論」の考え方で、この考え方に立つと、今の学校の教育方法の延長線上では、役に立つ知識習得も実践的な専門家の養成も困難で、教え方やカリキュラムの組み方を大きく変える必要があるという認識を持つに至る。
 学校で役に立つ知識というのは、テストでよい評価を得るためのテクニック、評価者からの覚えのよい生活を送る振舞い方であって、学校にいる限りにおいては、学校で教えられている知識とは役に立つ知識である。また、試験で昇進やその人の評価が決まる学校的なシステムにいる場合にも、テストでよい点を挙げるための知識は役に立つ。しかし、学校を一歩外に出ると、いかに教えられている知識が仕事や生活に関係する知識であっても、その文脈で役立たせるためには、学習者本人が知識を使うための周辺的な要素を身につけるまではその知識は役に立たない知識のままとなる。
 知識が役に立つためには、その知識が使われる文脈のなかで理解されて、その使われ方のところから身につけていく必要がある。ゲーム・シミュレーション型教材は、知識を使う、知識を使う役割を演じる、というアプローチで教える際にとても有効な要素を多く持っている。この状況的学習論の文脈でゲーム・シミュレーション型教材の有効性が議論されるようになって、その立場で開発された教材が出てきている点は、この分野が従来の取り組みから進展しているところだ。この辺りを整理していくと、最近のシリアスゲームの盛り上がりも、教育工学分野でのゲーム・シミュレーション型教材への関心も、学習理論の発達の中で位置づけて理解できて面白い。

教育テクノロジーのトレンド予測レポート

 ニューメディアコンソーシアムとEDUCAUSEが共同して毎年出している教育テクノロジーのトレンド予測レポート「2007 Horizon Report」が公開された。
2007 Horizon Report
http://www.nmc.org/horizon/
 このレポートでは、近い将来にどのようなテクノロジーが教育分野で大いに利用されるようになるかを予測して、6つのテクノロジーを短期・中期・長期で二つずつ取り上げて解説する形でまとめられている。
★1年以内に採用
・User-created content
・Social networking
★2~3年で採用
・Mobile phones
・Virtual worlds
★4~5年で採用
・New scholarship and emerging forms of publication
・Massively multiplayer educational gaming
 最初の二つは、Web2.0の話題でよく取り上げられるし、ユーザーレベルでは定着していて生徒・学生たちは普通に利用している。これらがもっと学校で公式的に教育や研究のために利用されるようになるでしょう、という話だろう。携帯電話も教育利用の研究があちこちで進んでいるようなので、妥当な線なのかもしれない。5つ目のNew scholarship and emerging forms of publicationはわかりにくいかもしれないが、研究活動のやり方や成果の発表方法がよりテクノロジーベースドで新しいものに変わっていくでしょう、という話。
 トレンド予測というのは、消費者的な発想で当たり外れを云々しているうちは平和でよいのだけど、メディアリテラシーの観点から見ると、それでは少し危なっかしい。この手の書き物には、書き手の「そうなってほしい」という願望や意図が含まれているのが常なので、純粋な予測として見るには少し割り引いて考える必要がある。しかしそれと同時に、書き手の側の「これを流行らせたい」という意思表示でもあるので、割り引いた分以上にこれから普及に向けて力が入れられるだろうと見た方が良い。
 このレポートでは、「バーチャルワールド」と「教育用多人数参加型オンラインゲーム」が入っているところに、この書き手の願望や意欲が表れているように見える。その分野の研究をしている身としては、単純に歓迎しておいてもよいのだけど、この分野を知っているだけになおのことそう能天気でもいられない。この二つは別に一つにくくっても構わない性質のもので、わざわざ分けて書いているところは、他に手ごろなネタがなかったのか、よほどこのテーマで書きたかったのかどちらだろう。実際、このレポートの書き手の一方のニューメディア・コンソーシアムは、最近話題のMMO「セカンドライフ」の教育利用に力を入れているので、このテーマで書きたいことがたくさんあるのには違いない。
 「未来とは予測するものでなく、自ら創り出すもの」と考えれば、自分たちの創りたい未来を描いて語ることは間違いではない。むしろ大いにやって、それをたたき台にして、どんな未来に向かって進みたいのかを議論する方が健全だと思う。
 だがその一方で、テクノロジーの普及というのは、ある段階から非常に政治性を帯びた活動が多くなる。特に学校や行政のような旧来的なシステムへの導入のような場合には、さらにその色合いが強くなる。テクノロジーの良し悪しや、そのテクノロジーを使ったシステムのデザインの良し悪しよりも、「オカネの流れと掴み方を知っているかどうか」、「そのテクノロジーであおりを食うことを心配している人たちをいかに丸め込むか」といった泥臭い話になってくる。
 この手のトレンドレポートもそのような政治的活動におけるツールの一つとして機能する面が大きい。だが、だからといって忌むべきものでもない。なぜなら、研究者の立場でテクノロジーを普及させようとした場合、必ずしも得意ではない泥臭い政治活動を回避するための有効なツールとして使えるからだ。なぜそのようなことを考える必要があるかは、書き出すと長くなるのでまたあらためて書こうと思う。
 デジタルゲームやMMOの教育利用の推進は、こんなところで取り上げられていることでも、米国ではすでに気楽な研究レベルの段階を超えて、政治的な動きを伴う段階に入っていることを示している。どんな意図かはわからないが、このレポートもある意図の中でどこかに位置づけられているのだろうということに思い至る。そんなわけで、単純に歓迎もしていられない面をやや感じている。

教育評価の7つの落とし穴

 どの分野の研究でも似たようなものだと思うが、教育分野の研究においては、新たな教育方法や、開発した教材、デザインした学習環境のもたらす効果に対する評価が問題となる。評価の観点は、その教育・学習活動に参加した学習者の学習の成果、デザインされた環境や制作物の使い勝手や利用者の満足度、得られた成果と実施にかかる費用の対比、などがよく取り上げられる。
 新たにデザインした教育方法や学習環境が優れていることを説明するには、これらの評価項目において何らかの優れた点を実証することが求められる。新しい教育方法、教材への批評はまず、評価面が指摘される。「どうやってその効果を測定して評価しているのか?」と質問すれば、とりあえずは形になるので、その質問を言い放って威張っているだけの人たちも学会に行けばたくさんいる。だが、だいたい評価云々しか言うことのない人のほとんどは、自分自身が評価というものを理解しているわけではないことが多い。
 教育評価は簡単ではない。複雑な要素が絡み合っていて、一般に考えられているほど簡単には適切な評価を行うことはできない。さらに今までにないような教育方法を評価しようとすると、なお困難が伴う。それは次のような状況から生じている。とりあえず、「教育評価の7つの落とし穴」と名づけて列挙してみる。
<教育評価の7つの落とし穴>
1. 評価(Evaluation)を行うには、測定(Measurement)を適切に行う必要があり、測定を適切に行うには、評価の軸を明確に持っておく必要がある。評価の軸を持たずに測定を行っても、評価に必要な材料は集まらないし、そもそも適切な評価などできない。
2.測定は、測定者の想像力の及ぶ範囲のことしか測定できない。デザインした時にはやや漠然としていて測定項目に仕立て上げられなかったことや、想定していなかったことは、測定指標には盛り込まれず、予期していなかったよい効果が生じてもそれを学術的な正統性を主張できる形で説明するのは困難になる。これは評価全体について言えることで、評価者の想像力の及ぶ範囲のことしか評価できない。そのため、評価者がヘボければ、ヘボい人の頭で理解できることしか評価されない。
3.測定は、測定・評価者のスキルの及ぶ範囲のことしか測定できない。評価する側が学力テストや質問紙しか測定方法を知らなければ、その方法で測定できるものだけを測定して、そこからあぶれてしまう学習者の質的変化や相互学習の質のような要素は説明できない。授業観察などの手法を取り入れる場合も同様で、観察者の技量を超えるデータは得られない。
4.測定は、測定を行う人が得意な方法や、評価者が好む方法で行われる傾向にある。そのため、テスト理論の専門家ならペーパーテスト、質問紙調査の専門家なら質問紙による学習者調査、と自分の得意分野でメインの仕事が行えるように研究自体が設計される。そのため、研究の趣旨によって純粋に測定方法や評価項目を決めるのではなく、測定しやすいことや評価者が扱いやすいことに影響されて決められてしまうことが多い。
5.ある研究分野の専門家は、必ずしもその分野の教育測定の専門家とは限らない。むしろ測定の専門知識と経験を持った人は稀少であり、学部でかじった程度の素人知識を頼りにぶっつけで測定を行うことのほうが多い。テスト理論はある程度ノウハウが普及しているので信頼性や妥当性の安定を図ることができるが、質問紙調査の方は専門性がなくてもできそうな気がしてしまうため、いい加減に実施されることが多い。
6.測定は、その活動の状況に依存する要素が大きく、科学的再現性を証明するのは困難が常に伴う。教室の気温がちょっと寒いとか、教師が使うマイクの電池が途中で切れたせいで教室の緊張感も切れたとか、ちょうど昼飯前で学習者の腹が減っていたとか、昼飯後に実施したのでみんな眠かったとか、パソコンが原因不明のフリーズを起こしたとか、翌日に何かイベントが入っていて、学習者が気もそぞろだったとか、成果を変動させる要素は無数にある。そのため、たまたまコンディションのよいときと悪い時で、測定結果は大きく変わる。ゆえにその結果を基にした評価の結果もブレが大きくなる。統計的手法は、より科学的に分析してそういうブレを小さくするために用いられるが、多くの場合、統計的有為というのは、論文が学会誌で採択される程度の説得力を与える存在に過ぎない。
7. 高度なハードウェアを使用した測定方法は、それだけで信頼性ある測定ができているような「科学への過信」に影響される傾向がある。何でも脳をスキャンすればよいわけでもないし、スキャンした結果の解釈も、多くの要素を考慮に入れて行われる必要があるので、誰が見ても一つの解釈に落ち着くとも限らない。それに高度な設備が利用できる場合、そういう設備を利用することを前提に評価方法が決まり、それに影響されて研究そのものが設計されてしまって本末転倒になることもある。
 今はとりあえず思いつくのは7つだが、おそらく考え出せばもっとあると思う。問題は、一般人はもとより研究者も、こういう落とし穴があることを考えず、とりあえず評価、評価と言っていれば何か仕事をしたような気になっていることだ。測定も評価も専門知識が必要で、必要な知識を持った研究者というのは驚くほどに少ない。
 数千万、数億円規模の研究プロジェクトにおいて、必要な評価の知識を持った人がいないまま、適当な測定とお茶を濁すような評価が行われて、何となく使えない研究成果に終わるような例も見受けられる。というか、残念ながら大学の研究プロジェクトというのは、耳障りのよい研究計画書を書いて資金獲得してきて、プロジェクトメンバーに予算配分されたら、そこでやれやれひと段落、というものばかりで、成果として社会で何かの役に立つようなまともなものが出てくることはほとんどないといった方がよい。
 そうなってしまう事情は、大学というシステムに起因する問題から生じている面が大きく、研究者は両手を縛られた状態でいい成果を出しなさいと言われているような状況にある。なのでこれは個々の研究者を責めてもしょうがない性質の問題だと考えた方がよい。誰だって外部資金の無駄遣いをしたいわけではないし、自分で選んだキャリアにおいてよい仕事がしたいという想いは変わらないだろう。
 このような寒い研究環境から抜け出すための方策としては、評価の専門知識をもった人材を適切に配置できるようにすることで、そのためには評価に対する世の中の甘い認識を変えていく必要があると思う。少なくとも、今の研究者育成環境の中では、適切な知識を持った評価者が生まれることはなくて、たまたま評価に関心を持った研究者が一部いるだけである。特に質的測定や評価がまともにできる人となるとさらに数は限られる。きちんとした教育評価の知識を持った人が一定数以上世の中で活躍するように手を打っていけば、そこから教育分野の研究の質も上がり、各分野の教育活動の改善にもつながるだろう。

ブレンデッドラーニングと聞いたら逃げろ

 ここ最近、オンライン教育と教室での対面教育を組み合わせた「ブレンデッドラーニング」が、新しい教育ソリューションであるかのように取り上げられている。しかし、eラーニング界の大御所であるロジャー・シャンクはそうした状況を「ブレンデッドラーニングと聞いたら逃げろ」と批判している。
 シャンクの考えを要約すると次のようになる。
「ブレンデッドラーニングという時、教室での対面教育は対人的なインタラクションが必要な教育を行ない、eラーニングは人を介する必要がない部分に利用される。人を介する必要がない学習とは、個人でできるスキル練習のような学習になるが、スキル練習にはシミュレーションのような手間とコストを掛けた教材が必要である。もしそういう教材をきちんと作れば、教室での教育は不要になるのでブレンデッドである必要はなくなる。そのため、わざわざブレンデッドと称している講座のeラーニング部分は、コストをかけずに作った退屈な暗記クイズの類が提供されている場合が多い。だから、ブレンデッドという言葉を聞いたら、逃げるに限る。」
 「ブレンデッドラーニング」は、新しい教育手法でもなんでもなく、eラーニングと言っても売り文句としてあまり効かなくなったので、その代わりの売り文句として登場したにすぎない。「ブレンド米」や「ブレンドコーヒー」のように、「ブレンド」という言葉は、単品では売れないクオリティの低いものを混ぜてラベルを張り替えて売る時によく利用される。eラーニング業界がブレンデッドという売り文句に飛びついているのは、ブレンドしないと売れない商品ばかりがあふれていることを示しているようにも見える。質の悪いものはいかにブレンドしても最高級品にはなり得ず、よくある「最高級品風」ブレンドでしかない。「~風」というラベルをつけて聞こえを良くすることは簡単だが、そんなことではユーザーの目はごまかせない。そもそもブレンドしていること自体が売りになる状況というのは、どこかおかしいのである。
 時にブレンドの妙で質が多少上がることもあるかもしれないが、それも質のよい素材を使った方がそのブレンド技術も活きてくるわけで、であればその前に質のよいeラーニング教材を開発することに注力した方がよい。たいして手間をかけずに作ったような、単なるテキスト教材を焼き直した退屈な「紙芝居+クイズ」のeラーニングがあたかも標準的なeラーニングだと考えるのは間違いである。そこには教材開発の工夫はたいしてされておらず、いかに「インストラクショナルデザインで開発しました」などと称しても、その底の浅さは学習者から見れば一目瞭然である。単純な話、そんなことをしているから売れないし、評判も悪いのだ。
 ブレンデッドラーニングの流行りもこのままいけばすぐに冷え込んで、また次の売り文句が注目されるだろう。そうして、教育の質は上がらず、バズワードが次々と消費されていくだけに終わる。だが、eラーニングの作り手たちがそういう状況に喜んで甘んじているとは決して思わない。きっと作り手の誇りと想いを胸に秘めながら、すごいものを作ろうとたくらんでいる人々もあちこちにいると思う。そしてそうした人たちが望みを捨てずにがんばっていれば、誰が作ったかわからないような粗悪なブレンド品ではなく、その作り手の名前自体がブランドとなるような質の高い製品が世に送り出されてくることだろう。そう信じたいし、私はそういう想いを抱えた人たちの力になれるような仕事をしていきたい。
 とりあえず今は、シャンクの言うように「ブレンデッドラーニング」と聞いたら逃げておくのが無難である。ブレンデッドラーニングで劇的に教育効果が上がるなどと吹聴しているベンダーからはどんどん逃げるとよい。わざわざブレンドなどと言わなくてもそのよさが伝わるものを提供すべきなのであって、ブレンドであることを売りにせざるを得ないような質の悪いものはユーザーには通用しないという認識を、早くみんなで共有するのが日本の教育のためである。
 なお、引用したシャンクの本はこちら。eラーニングの現状をバサバサと切って捨てていて、ではどうすればよいのかもわかりやすく書いてあって、読んでいてとても楽しい一冊である。
Schank, R. C. (2005). Lessons in learning, e-learning, and training: Perspectives and guidance for the enlightened trainer.San Francisco: Jossey-Bass.

育てる側のモチベーション

 うちで金魚を飼うようになって、3年半ほど経った。肉食魚のエサ用に売られていた一匹15セントの小さな金魚たちだったが、今ではすっかり立派に育って、美しいヒレを持って、結構な大きさになっている。全部で五匹いて、一匹は一年年長さんで、残りの四匹は一緒に仲間に加わった。それぞれ成長の度合いが違っていて、年長のオレンジと同じサイズになったのもいれば、あまり身体は大きくならなくて小さなままのもいる。
 数ヶ月前から、毎朝エサを与える時だけ電気をつけるようにしてみた。すると最近になって、電気をつけたらエサの時間だと理解するようになって、水面に口をパクパクさせるようになった。金魚も、パブロフの犬と同じ原理で学習するのである。これなら他にも輪くぐりとか、何か芸でも仕込めそうな気もしたが、飼い主にそこまでのモチベーションがないので、彼らはただエサを食って、ただ泳いで、用を足して、暗くなったら寝るだけである。金魚を飼うまで知らなかったが、金魚は夜になると静止して、まぶたが無いので目を開けたまましずかに寝ている。
 一匹だけ、お腹が弱いのか、ガスが溜まってフワフワ浮いてしまう白いやつがいる。他の金魚が夜は静かに静止して寝ているのに、そいつだけはフワフワ浮いてしまって、体勢の維持ができずにバタバタ泳ぎながら寝れずにいた。それが何ヶ月も続いたのだが、ある夜水槽を覗いてみると、そのお腹の弱いやつは、水面のところまで浮上して静止していた。今までは水中にいようともがいていたところを、どこかのタイミングで水面に背を出せばバランスが取れることを学習したらしい。それ以来、そいつも夜は静かに寝れるようになった。そのおかげかお腹の調子も少しよいみたいで、以前よりも快適に泳いでいる感じである。
 金魚たちが学習しているのは、これともう一つ、エサをもらえない時にはエネルギーを消費しないように、なるべくじっとして過ごすことである。これは命に関わるのでみんな早くから学習している。だが、彼らが学習したと思われるのは、たったのこれだけである。
 あと、うちではニンテンドッグスのビーグルとチワワとラブラドールたちを飼って一年以上になる。こちらも飼い主がぐうたらなため、エサをやって風呂に入れて、たまに散歩に連れて行くだけで、たいして芸も仕込んでいない。そのため、いまだにお手とおかわりと伏せくらいしかできなくて、ドッグコンテストにも参加できない。チワワだけはなぜか勝手に逆立ちとバク宙を身につけて、たまに独りで飛び上がって遊んでいる。
 金魚もニンテンドッグたちも、まだ学ぶ余地をたっぷり残しているようだが、いかんせん育てる側に根気がないために、学べないまま日々を生きている。おそらく教えるのが好きで、時間と根気を持ち合わせた飼い主に出会っていれば、彼らももっといろいろと学んでいたことだろう。
 毎日少しずつの学習の積み重ねが、年単位になると大きな差となって現れるのは、人間でもペットでも、学ぶ者全てに言えることである。そして、学ぶ側がどれだけ学べるかは、育てる側の技量やモチベーションにかなり依存している面が大きい。特に、金魚の水槽や学校の教室のように、そこに関わる存在が飼い主や担任だけというような閉鎖された空間において、そうした状況は深刻化する。人生や魚生においてどれだけ学べるかは、たまたま出会った飼い主や教師の技量やモチベーションに大いに左右される。
 池や小川のように開放された空間であれば、金魚は他の生き物や自然環境から学ぶ機会を得ることができ、教室を出て社会と触れ合う機会を増やせば、子どもたちは外の人や環境から学ぶことができるようになる。だからといって、野生に放り出しただけでは、危険極まりなく、過酷な環境で生きるために学ぶことになってしまう。そうではなく、安全な環境を保ちながら閉鎖度を下げることで、運悪くモチベーションの低い飼い主や教師に出会うリスクを分散させることが一つの方策となるのである。
 またそれによって、育てる側の負担を軽減させることにもつながるというのも重要な点となる。学ぶ側も根気はいるが、教え育てる側も根気がいるのである。叱るのはエネルギーが要るし、つきっきりで面倒を見るのは消耗する。それでも親や教師は子どもたちを教え、育てなければならない。中には子育ての適性が著しく低い親もいれば、教科を教える技量は高くても、面倒を見るモチベーションの低い教師もいる。それは避けられない。みんながみんな高いモチベーションを持ち合わせているということはありえないのであって、その場合に必要なことは、そうした実情に合わせたシステムを作るということである。
 ペットであれば、無芸なのもまたかわいいので許せるが、モチベーションの低い親や教師のもとで育った無芸な人間というのは、その将来を考えるととても気の毒である。ペットのようにずっとエサを与えてはくれないし、大人になれば自分で食っていく必要があり、また家族を養う立場にもなる。子どもの頃に学習の空白期間のある人は、将来そのつけをどこかで背負わされる羽目になる。運がよければ開花したかもしれない才能も、開かないまま朽ちてしまうかもしれない。若いうちに身につけられなかったものを後でキャッチアップを迫られることもあるかもしれない。 そうした状況を回避するための一つの方向性としては、モチベーションの高い人が関わる機会を増やしたり、そもそもモチベーションの低い存在に依存せずに済む開放的な環境を整備していくことだと思う。

英語を学ぶための環境

 晩ご飯時に、何となくテレビのチャンネルをザッピングしていたら、ゴルフチャンネルで全米女子プロ選手権の二日目をやっていた。宮里藍がスコアを伸ばして首位タイにつけ、ちょうどホールアウト後のインタビューが始まるところだった。インタビュワーが冒頭で気遣って、通訳無しのインタビューは3回目ですか、という質問から入っていたが、彼女の受け答えはたいしたもので、(米ツアー参戦前にどうだったかは知らないけれど)、英語でのコミュニケーション力は相当に高まっている様子だった。決して難しいことは言っていなくても、期待される答え方をしていたと思う。
 彼女の受け答えを聞いて感じたのは、彼女は英語を使いながら身につけていて、変に頭でこねくり回して学ぶんでなく、耳から吸収したもので消化できたものを使っている感じで、そのため発音もよかった。
 若いので吸収が早いということもあると思うけど、彼女の場合、多分に英語力というよりは、コミュニケーションに対する姿勢からくる面が大きくて、英語ができるというよりは、人の話を聞いて、きちんと自分の言葉で答えようする意志や態度からきているという印象を受けた。別の言い方をすれば、英語に対するコンプレックスがない、ということによる面が大きいと思う。逆に彼女の英語について、すごいすごいともてはやす日本のメディアの様子は、英語コンプレックスの裏返しな気もする。
 彼女自身、言葉の壁を意識しているそうだが、単に日本ツアーで強くなるための修行やハク付けとして米ツアーを捉えるのでなく、本格的に自分のフィールドとしてやっていこうと考えているところで、英語に対する姿勢や準備も他の日本人プロ達と違っているように思う。
 周りから入ってくる英語は、いわゆるホンモノの英語であって、コミュニケーションをとるには自分もスキルを身につけなければならないという環境は、言うまでもなく英語を学ぶにはよい環境だ。その中でわからないことを気兼ねせずに聞いて、次々学んでいくのが一番はやい。彼女はキャディーや周りのプロたちからそうやって学んでいるらしい。
 そういう環境があるとしても、英語でコミュニケーションすることが自分にとってどれだけ必要で重要なことかを認識しているかどうかで、その環境の活かせ方も変わってくる。また、そういう環境がなかったとしても、目的意識が高ければ、自分で環境を作り出す方向に動くことは可能である。
 人に教材を与えてもらった範囲で受身に学んで、できるようになってから使おうという姿勢では、環境があろうとなかろうと学習成果はなかなかあがらない。趣味のお勉強であればそれでも構わないし、英語教育をビジネスにする人たちは、英語ができない人ができないままで学び続けてくれる方が好都合な面があるので、英語ビジネスのマーケティングの売り文句は、100%鵜呑みにはしない方がよい。
 自分に必要な英語力というのは、目的に応じてそのレベルや内容が変わってくるので、それを身につけるための学習環境も、そのニーズに合わせて自分仕様に組み立てていくことが必要になってくる。人にお膳立てしてもらったレッスンや、市販の教材だけでは、自分のやりたいこととずれが出てくるのは必然で、そのずれをどうやって調整するかを考えていくことが、自分仕様の環境作りの第一歩となる。

 ところで、この全米女子プロは上位に韓国勢が目立っていた。優勝した朴セリを筆頭に、上位に韓国人プロが数人、タイガーウッズ並みの注目を集めている16歳のミッシェル・ウィーも韓国系アメリカ人だ。ESPNの中継を見る限りでは、韓国勢はすっかり米女子ツアーの主力選手として扱われていた。その中で、宮里もアメリカでのメディア受けがよい様子で、この調子で行けば米ツアーの人気選手として活躍できそうな勢いだ。停滞気味の日本男子ゴルフの方も、丸山茂樹選手に米ツアーでがんばってもらいたいなと思う。

不便さが方向付ける学習

 最近、うちのデスクトップマシンの自動データバックアップがうまく作動しないので、少し設定を変えて手動でバックアップを取った。古いデータを消したので、一からデータを取り直すためにやたら時間がかかる様子。走らせながら作業してもいいのだが、うまくバックアップが取れてなかったら嫌なので、そのまま放置して待つことにした。ラップトップの方に必要なデータを移して作業するという手もあったが、余計な手間が発生するので、とりあえずコンピュータ無しでできることに時間をとることにした。
 いざコンピュータ無しの作業をやろうとすると、選択肢が激減していることに気づく。日常的にこなしている暗黙のToDoリストの上位にあるもののほとんどは、「メールの返事を書く」「ブログを書く」「XXの文書をまとめる」「ネットで調べ物をする」など、いずれもコンピュータとインターネットが必要なもので占められている。音楽やゲームやスポーツの結果を見たりするのも、コンピュータを使う。それらのうちで、疲れていてもできるやり易いものや、気の向き易いものをこなしているうちに一日が終わるので、リストの下の方にあるものはいつも下の方でそのままたまっている。
 時々プロバイダーがダウンして、インターネットが使えなくなることがあるのだが、その時はネットがないとできないものがToDoリストから消える。さらにコンピュータそのものが使えないとなると、ToDoリストの下の方でおとなしくしている項目が選択肢の上位に入ってくる。それでもモチベーションの低い日は、普段見ないテレビを観るとか、書類の整理をするとか、とりとめなく時間を消費することになる。今回は夕方少し寝てしまったこともあって、何かをやろうという元気が多少残っていた。
 日ごろやらなきゃと思っていてタイミングを逃していた作業の中から、「日本の学会誌の論文をチェックする」というのを選んで、うちに届いたまま本棚に眠っていた学会誌を積み上げて、今進めている研究に関連しそうなものに一通り目を通した。論文というのは、面白い研究について書いてあっても、読むとなると非常に労苦が伴う。端的に言えば、面倒くさい。
 英語の論文は、急いでチェックしようにも字面を追っているだけでは意味がなくて、結局じっくり読まないといけなくなり、ものすごい時間がとられて一向にはかどらない。日本語の論文は拾い読みというのが可能で、要らない情報はザクザク飛ばしていけるのでまだましだが、それでもすぐに興味を失って、投げ出したくなる。普段はそういう時に「ちょっとメールを」なんてコンピュータに向かってしまい、それっきり戻ってこなくなるのだが、今回はそれができない。それが幸いして、4時間半ほどは論文読みの作業に集中でき、積み上げた学会誌の山はだいたい片付いた。
 テクノロジーやメディアには、人の行動を方向付ける性質があり、学習行動も人の行動の一部なので、テクノロジーやメディアの影響を受ける。調べ物という作業は、いまやネットがないとできない作業になり、部屋の本棚には立派な事典のようなものは並んでいない。原稿書きという作業も、メモや概念図は手書きで作ったりもするけど、最終的に文章にする作業は、コンピュータなしにはできなくなってしまった。
 コンピュータに向かっていて、メールで飛び込んでくるリンクや添付ファイルの方がアクセスし易く、本棚に並んでいる書籍や論文は、いかに手がすぐ届く位置にあっても、すぐには手が伸びない。いつでも読みたいときには読めるという安心感からくる面と、自分の情報行動がコンピュータによって規定されていることによって生じている面がある。
 なので、コンピュータやケータイなど、日頃頼っているテクノロジーが使えない状態で、自分の行動がどう変わり、何をしようとするかをモニターしてみると、そのテクノロジーが持つ強みや、どういう使われ方をしているかといったことが見えてきて面白い。
 たとえば私の場合、ブログを書くことは、面倒な作業をやっている途中で嫌になって、ある種の現実逃避としてやっている面が結構ある。なので、ブログが書けなくなると、面倒で後回しにしている仕事が進むという面もある一方で、書くという行為によって生じる気分転換の機会が失われて、長期的には生産性が下がりそうだ。
 そうなってくると、一概に封印すればいいわけでも、野放図に使わせればいいわけでもない。どちらでもなく、「ほどよい不便さ」というところに、案外ちょうど良い落としどころがありそうな気がする。

ファンタジースポーツな徒弟制

 先月からずっと、NBAバスケットボールのプレーオフをほぼ毎晩見ている。あっという間に終わってしまう日本プロ野球のパリーグのプレーオフと違って、NBAはチームも多くて、4月下旬に始まって、長々とトーナメント戦をやっている。
 今までほとんど関心もなかったところを、今年に入って急に見るようになったきっかけは、現在参加している研究プロジェクトである。私の指導教官であるDr. ブライアン・スミスが、ファンタジーバスケットボールコミュニティにおけるインフォーマルラーニングに関する研究で、結構な額の研究費を獲得してプロジェクトが始まった。
 ファンタジーバスケットボールとは、与えられたポイントの範囲内で、各ポジションの選手を選んで自分のチームを作り、実際の試合結果をもとに各選手の得点を計算して、その合計得点を競うというゲーム。ゲームと言っても、ビデオゲームのようなグラフィックや音のあるゲームではなく、Webデータベース上で、試合結果のデータや選手リストなどの数字と文字情報をだけで行なわれる。
 ファンタジースポーツのプレイグラウンドは、スポーツ放送局のESPNやYahooなどがウェブサイトの呼び水として提供している。バスケだけでなく、野球やアメフトやサッカーやゴルフなどの各スポーツのファンタジーゲームが提供されている。日本でも、Yahooがファンタジーサッカーを、どこかの企業がファンタジープロ野球を提供しているのを見かけた。
ESPNファンタジースポーツ
http://games.espn.go.com/frontpage?&lpos=globalnav&lid=gn_Fantasy_Fantasy
 プロジェクトの研究対象は、このゲームをプレイしている一般プレイヤーたちで、彼らがオンライン掲示板上で交わすコミュニケーションの中に含まれる、数学や統計のスキルの使い方、意思決定の仕方、相互学習のプロセス、といったものを質的に分析して、プレイにおける情報処理や意思決定の支援ツールのモデルを作る、というのがこのプロジェクトの方向性である。
 ここしばらくは、実際にファンタジーゲームをプレイしながら、膨大なオンライン掲示板の質的データをひたすら読み込んで、インタラクションのパターンやアクションの性質を抽出していく作業をやってきた。その過程で、ファンタジーゲームをプレイするだけでなく、NBAの試合を見ていないと文脈がつかめないところが多く、もっと深く理解するために、可能な限りNBAをテレビ観戦するようになった。研究のためにオンラインゲームをプレイして、さらにまた別の研究のためにバスケの試合を見るという、なんともお得なような野暮ったいような微妙な身分だ。
 このプロジェクトは、Dr. スミスの研究者としての創造性と聡明さあってのプロジェクトとして推移している。彼はノースウェスタン大時代のロジャー・シャンクの直弟子で、学習科学のPh.Dを取得した後、MITメディアラボに研究員として身をおいて、その後ペンステートにやってきた。インフォーマルラーニングにおけるテクノロジーデザインを研究関心としており、ユビキタスラーニングに関してはかなりの見識を持っている。毒っ気の強いお笑いトークが得意で、どこに行ってもひたすらバカ話をして油を売っているだけかと思えば、学習科学の分野の知識の引き出しは豊富、着眼点も創造的で、アウトスタンディングな研究者というのは良くも悪くもこういう人なのだなという感じの人である。
 このプロジェクトは、周囲からはかなりイロモノ扱いされている。周りの人間に話をすれば、興味は示しながらも、何でそんな研究でNSFが75万ドルも出すんだという反応をされる。Dr. スミスも周りの教員のあきれる様子を話のネタにしているので、彼自身もそういう風当たりを受けているのだろう。プロジェクトメンバーの我々も、時々こんな調子で何か成果が出るんかな、と不安になることもあったが、Dr. スミスは毎回手ごたえを感じている様子で、最近やっと彼の目に何が見えているのかがおぼろげながら見えてきた。
 私は以前に質的データ分析の授業で学んだフォーマットを踏襲して、手順に沿って作業を進めようとするのだが、Dr, スミスはフォーマットにはこだわらず、彼のセンスのままに必要なところは立ち止まり、不要なところはどんどんはしょって作業を進める。質的研究のフォーマットに沿わなければ、と考えながらやっていたらかみ合わなくてややストレスだったのだが、よく考えたらこのプロジェクトは質的研究のプロジェクトではないことに気づいたのと、最近は、彼の考え方を少しずつ吸収できているのか、ペースが飲み込めてきて、やりやすくなってきた。
 ちなみにこのプロジェクトは、Research Apprenticeshipという名称の演習科目として進められている。文字通り、徒弟制的に教員のもとでプロジェクトに従事しながら、研究者としてのものの見方や思考の仕方を身につけていくことをねらいとしている。徒弟制的な考え方をカリキュラムに組み込もうという実験的な取り組みで、すでに3年目に入り、うちのプログラムの各教員の個性を活かしたプロジェクトが展開されている。そこでは、日本の大学院で繰り広げられているような、閉鎖的で、時に理不尽な徒弟制ではなく、徒弟制の学習面の効果に注目し、フォーマルな学習の場にそうした師弟の関係を持ち込もうという発想が基本にある。日本の大学院に関する議論でも、徒弟制は悪だから一掃、という短絡的な見方ではなく、徒弟制の学習面での効果を考慮した方がよい。徒弟制という関係自体の問題ではなく、講座制の制度問題に起因するところが多いように思われるのだが、報道を目にする限りは、少し焦点を取り違えている気がする。
 Dr.スミスのプロジェクトは、他のプロジェクトに比べても、彼のユニークさが抜群に現れており、単なる教育目的での演習科目では作れない学習環境が形成されている。教員が自分のプロジェクトとして進めていることで、その持ち味が出やすいという点も大きいと思う。天才の天才たる部分は学べないのだが、思考やものの見方の型のようなものであれば、ある程度は吸収できる。その型は、授業のような「教える人と学ぶ人」という関係性の中ではなかなか掴みにくく、教員と学生が同じ方向に向かって一緒にチャレンジする中で、繰り返しその考え方に触れていくことで徐々に吸収できる性質のものである。半期でさくっと学べることというのは限りがあって、こうやって腰を据えて長期間にわたって時間を共にして、ようやく学べることも多いことにも目を向けていくべきだと思う(合宿のような機会は、短期間でそうした効果を出すために有効)。
 プロジェクトのミーティングでは、NBAの選手の話やオンライン掲示板上のおかしな用語の話にかなりの時間が費やされていて、いわゆる学習の場とは違ったユニークなノリで進んでいる。Dr. スミスのプロジェクトに最初に参加したのは2年前になるが、当時はチンプンカンプンだったことが、いろいろとつながってきて、ようやくわかることが増えてきた。プロジェクトがどういう成果を出していくのかということと共に、自分がDr. スミスからどんなことを吸収していけるかを楽しみにしている。

経験やカンに頼って何が悪い?

 日本のインストラクショナルデザインを取り巻く状況は、私が留学する前と比べて、進んだ面もあれば、ほとんど変わってない面もある。日本のID推進者の人たちがよく使う売り文句で、以前から違和感を持っていたのは、「経験やカンに頼った教育への批判」と「科学的アプローチとしてのID」というところである。
 そこで唱えられるのは、教育の質を高めるには、経験やカンだけに頼っていてはダメで、きちんと系統だった方法論を用いて適切にコースや教材をデザインしないといけない、アメリカではインストラクショナルデザインという方法論が普及していて云々、という感じである。ここでのメッセージは、経験やカン「だけ」に頼って教育を組み立てることや、それを評価改善せずに作りっぱなしにしていることが問題だということなのだが、「経験やカン」の部分が浮いてしまって、経験やカンに頼って教育することがいけないことのように曲解されているところがみられる。情報の出所たるIDの教科書などでは、経験やカン「だけ」に頼るのが問題、と言及されているはずだが、生かじりな知識でIDを単なる売り文句として使っている人たちは、この「だけ」の部分が消えてしまっていて、経験やカンに頼ることが悪いことのように誤解してしまっている(グーグル検索すると、ほんとにいろんな教育機関や企業でそういう言及がされている)。
 また、IDが科学的アプローチだという理解についても大きな誤解がある。ID自体は諸科学の知見を取り入れて系統だてて確立された方法論ではあるけれども、実践の場においては専門的な知識を専門家としての「経験やカン」を駆使しながらデザインするのであって、実践面においては科学というよりも、アートに近い技術の面が強い。なのに、何やら定められた手順に沿ってデザインすれば、効率よく質の高い講座が出来上がるんです、何しろ科学的ですから、という変なニュアンスで捉えられているところがある。そんなわけはない。これも売り文句としてIDを利用している人に共通する曲解である。
 こういう誤解が広まってしまうことの一つの理由として、IDのプロセスモデルばかりが注目されていて、その先になかなか進んでいないことがあると思う。IDプロセスモデルというのは、例のAnalysis-Design-Development-Implementation-Evaluationのいわゆる一般的なADDIEモデルのことを指していて、これに沿って教育をデザインすること=インストラクショナルデザインである、という風に捉えられても仕方がないような扱われ方をしている。これはあまり正しくない。IDプロセスに沿ってデザインするというのは、IDの「イロハ」、基本中の基本であって、それを習得したからといって、いい教育がデザインできるわけではない。
 いうなれば、IDプロセスモデルは、パイのパイ生地の焼き方の手順のようなものである。生地だけ上手に焼いて、はい、パイですよ、と出しても、誰もうまいパイだとは思わない。食べる人(学習者)にしてみれば、パイとはブルーベリーやパンプキンやアップルなどの具(コンテンツ)のでき具合の方が気になるのであって、具が美味ければ、生地をどう焼くかはあまり問題ではない。たとえ生地の出来が多少悪くても、具と合わせてトータルで美味ければそれでいいのである。しかし現時点での日本のIDの知識は、パイ生地を焼く手順のところしか教えていないので、スーパーで売っている出来合いのもの以上のものは焼けず、そこから先は作り手の属人的能力に頼ることになってしまう。当然ながら肝心なのは、パイの具、コンテンツをどう料理するか、である。プロセスモデルの表面だけなぞって、「IDってツマンネ」などと考える人がいたら、その人は生地だけを味見して、パイを評価しているのと変わらない。具の料理の仕方、具にあわせた生地の焼き加減の調整が、インストラクショナルデザイナーの技の部分であって、そこがデザインワークの一番楽しいところである。
 日本のIDの普及状況は、進んでいるところとそうでないところの濃淡はあれ、全体としてみると、最近の構成主義や学習科学の知見を取り入れて変化しつつある米国のID分野の状況からは大きく遅れているように見える。日本で理解されているIDは、構成主義登場以前の、行動主義の影響の強い頃の知識が最新のもののように理解されているところがまだある。おそらくおおざっぱに言って、これはライゲルースの緑本の第二作出版以前の状況、つまり日本のIDは米国よりも10年遅れていると考えると、当たらずとも遠からずだと思う。米国でも構成主義以前は、IDを手順に沿って設計すれば高品質の安定した教育を開発できると考えられていた面はあったし、今もたぶんある(基本的にIDは、高品質の教育ではなくて、質の安定した教育開発を可能にするものである)。当時はデザインといっても、エンジニアリング的な発想の方が強かった。この頃の考え方が日本に広まっているために、経験やカンを否定したり、科学的であることを重宝がったりする面が見られると考えると合点がいく。
 今日の米国のID教育・研究は、90年代以降に構成主義や学習科学の影響を色濃く受けて、よりエンジニアリング発想からデザイン発想にシフトしており、ID教育において行動主義的なIDアプローチは基礎として学ぶけれども、むしろライゲルースの緑本に取り上げられているような構成主義的アプローチをデザイン実践にどう取り入れていくか、ということに力点が置かれてきている(少なくともペンステートやインディアナ等のID分野主要校のプログラムでは)。
 IDが使えないという批判や議論は、以前から米国でも散々されてきており、「ISDへの攻撃」と題した記事が出たりして、手順がまどろっこしいとか、世の中の優れた教育は、IDとは関係ない人たちが生み出している、といった手厳しい批判が繰り返されてきた。また、方法論的なシフトについても、ライゲルースやメリルといったリーダー的研究者を中心に、激しい議論が重ねられてきて、現在に至っている。
 日本でのIDの知識普及が遅れていて、なかなか進んでこなかった理由として、知識創造の担い手が余りにも少なかったことがある。ゆえにこれまではある意味仕方がない面はあった。しかし幸いなことに、この春から熊本大学にID教育・研究の拠点が誕生し、IDの知識を創造し、蓄積していくための砦ができた。たとえ今、日本が10年遅れていたとしても、日本が米国と同じ道をたどる必要はなくて、米国なりヨーロッパなりの動向をきちんと追っていけば、数年は圧縮してキャッチアップし、独自のID研究に基づいた知識創造も可能である。
 何年後かに日本で「ISDへの攻撃」のような記事が出るのを見たくはない。米国で試行錯誤されてきた部分をショートカットするには、プロセスモデル以上の知識の普及を早めていくことである。学習者は、構成主義的アプローチや学習科学の知見もどんどん取り入れながら、デザイン実践の数をこなして、経験を積み、その経験をよりどころにした専門家としてのカンを磨いていくことが必要だ。それによって、その分野の長年の経験やカンを持った専門家と対等に議論しながら、デザインを主導していくことができるようになる。逆に言えば、経験もカンもないインストラクショナルデザイナーは現場のプロ教師や主題専門家に一蹴される。知識ばかり持っていてデザインをしないインストラクショナルデザイナーは、陸サーファーみたいなもので、肝心なところではあまり役には立たない。頼りにする経験やカンを持っていないデザイナーは当てにならないし、経験やカン「だけ」の「だけ」が見えないような人の言うIDは、単なる売り文句なので、そういうところとは一緒に仕事をしないことである。
過去の関連記事:
「IDやってます」の有効期限
http://www.anotherway.jp/archives/000528.html
追記:過去の似たような記事をひいてみたら、驚いたことにちょうど一年前だった。何か変な周期があるのかもしれない。2007年版をお楽しみに。

小学校の英語教育導入について

 小学校の英語教育必修化の議論があちこちで盛り上がっているようなので、何が問題になっているのか、少し考えてみた。まずどんな経緯で今のような導入案になったのかを知るために、中教審の議事録や資料を読んでみた。たとえば、公開されている最新のものは次のページに掲載されている。
中央教育審議会初等中等教育分科会 教育課程部会 外国語専門部会(第14回)議事録・配付資料
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/015/06032708.htm
 議事録を読むと、いろいろと面白いことがわかってくる。何よりも、そもそも現状認識としてものすごく間違っているところも散見される。たとえば、「外国語専門部会におけるこれまでの主な意見(論点ごとに整理)(第10回まで)」という資料の中に、次の記述がある。
「○ 教育課程実施状況調査のアンケート調査でも,英語が嫌いな子どもは他の教科に比べて少ないという結果が出ており,日本の英語教育は比較的成功していると考える。過去の学習指導要領の改訂,入試についても,望ましい形に改善されてきている。
○ 様々な社会的な要素などを考えれば,日本の英語教育は成功してきていると考える。それであれば英語教育の基本的な方向性について急激な変更をする必要はない。子供たちにいかにして豊かなコミュニケーションの場面を体験させるかが重要な課題である。」
 会議の委員たちは、英語教育業界のエライ人たちなので、現状の英語教育を批判することは自己否定につながるにしても、これはいくらなんでも自画自賛しすぎである(実際、第12回の資料から、この部分の表現は丸められて通りのよい表現に修正されている)。
 会議では、現状分析や必要性の是非の部分は、他国の例や、先行的に導入されている小学校へのアンケートなど、導入すべき、という意見をサポートするデータを丁寧にあげて議論されているようである。しかし詳細を見ていくと、「英語学習によって、言語能力自体があがる」といったようなポジティブな面ばかりが詳細に取り上げられてて、ネガティブな部分は「。。といった課題がある」とさらりと言及されているだけである。
 導入の方法論や具体的な施策の検討の議論はさらにひどくなって、非常にスカスカなむにゃむにゃした議論になっている。「・・・が重要である」「・・・でなければならない」のような文言が並び、たいして詰めて考えてないんだなということがよくわかる。しかし、エライ人を集めた諮問会議なんてのはそういうものである。猪瀬直樹氏が道路公団民営化でやったように、データをもとに反証したり、具体的な施策案のシミュレーションをやったりということを本来やるべきなのだが、そういうことはまず起こらない。単なるエライ人の「私の教育論」談義を2年間も毎月やる必要はなく、そんなのはざっくり減らして、その分教育方法の開発や教員支援の施策の詳細を整備する作業にリソースを充てる必要がある。それが欠落しているのは、教育行政の改革論議の方法論的な問題によるところが大きいと思う。
 別な観点としては、そもそもこの議論は2年前から進められていて、すでに議論の入口の時点で、小学校に英語教育を導入する、ということが方針として存在している。委員の人選もおそらくそれを推進するのに都合のよい人で構成されていると考えるのが自然である。そしてこの2年間に会議で「ぜひやりましょう」という議論が進行しているので、報道だけを見ると急に出てきた話のように見えるかもしれないが、主導する側からすれば、「入念に議論を尽くした状態」なのである。議論が終わったところで報道されて、その報道をもとにあれこれ巷で議論したところで、残念ながら何の変化も起こせない。教育行政に限らず行政の動きというのはこういうやり方なのであって、総合的学習やゆとり教育も同じようなプロセスで決められている。本気で反対する気があれば、議論の最初のところであやしい動きをキャッチして、綿密な作戦のもとに議論の方向を修正していくしかない。教育行政の愚策に対して、反対の人々が手遅れになってから毎度同じような反応を繰り返すのを見るにつけ、みんな本気じゃないのか、失敗から学んでいないかのどちらかなのだろうという気がしてくる。
 小学校の英語教育導入自体の是非については、普通に考えればやった方がいいことだと思うが、今出されている案のような形では目指す効果はまずあげられないだろう。週一時間では何の練習にもならないし、学習経験の強度も弱すぎて、やっている意味がない。英語教育を担任が担当するべきだという考え方はありでも、実際に教えられるかは全く別の話である。「教員の支援には十分に配慮する必要がある」という方針は、何の具体性もなく、ここから一段階も二段階も展開して、やっと導入可能な施策になる。総合的学習の時間や情報科目の導入でもそうだったが、そこまで落とし込む作業が抜けたままになっている。
 この問題は、教育行政の進める改革活動のシステム的な欠陥を露呈していると共に、反対者側の無策さ、ナイーブさも同時に露呈している。こうした行政の動きに反対するには、ただ口を開けばいいというのではなく、綿密な戦略に基づいた、手足を使った面倒な作業が必要なのであって、それが伴わない反対は、実効性のある反対とはなり得ないと思う。