少し前から、何となくアールグレイ紅茶がマイブームになって、ここ数ヶ月のうちに結構な種類の銘柄を試した。そういうと品がいい風に聞こえるが、紅茶通のように高級な茶葉を買って、専用茶器を使って上品にたしなんでいるわけではなく、単にティーバッグで売っているものをあれこれ飲んでいるといった程度なので、たいしたものではない。今のところ、Tazo(スタバで売ってる銘柄)やNumiのエイジド・アールグレイがお気に入りである。
特に気を使って飲んでいるわけではないけど、ほとんど毎朝のように飲んでいると、それまでには気づかなかった微妙な味わいや食べているものとの組み合わせでの味の違いに気づくことがある。その日の体調によって味の感じ方も変わってくる。オーガニックな高級紅茶が必ずしもいいお味というわけでもないし、ベルガモットオイルのダブルショットを売りにした銘柄は、お湯を注ぐまではすごいよい香りなのだけど、飲んでみるとそんなでもなかったりする。甘いものと飲むのは楽しいけど、アイスクリームとはイメージほどには合わなかったりする。
そうやって、気づくことが多くなってくるほどに、だんだんとこちらも気をつけて飲むようになる。そしてあれこれ試したくなって、店に行って違う銘柄を見つければ買ってみたくなるし、ネットで調べてみたくなったりもする。するとだんだんとアールグレイにまつわる知識がたまってくる。これは立派に、アールグレイの領域に関する知識(ドメインナレッジ)である。今の時点ではたいして深みも広がりもないが、大げさに言えば、アールグレイ紅茶についての専門性を高めていくための知識の軸と、自主的に学習を進めるモチベーションの核が形成された状態になったと言ってもいい。その専門性をどこまで高めていくかは、本人の志向や他のテーマとの兼ね合いということになる。隠居して暇だったら、さらに高度なことを始めるかもしれないが、今はせいぜいいくつかの銘柄を飲み比べるくらいで満足である。
ドメインナレッジは、専門家にとっては頼みとする知識の軸であって、その軸がなかったり、細かったり短かったりすると、その人はたいした専門家ではないということになる(職業としての専門家と、力量が専門家レベルであるということは必ずしも一致しない。これは楽しいテーマなのでまた別の機会に議論する)。ドメインナレッジを軸にすることによって、自分の目で人の意見やものの品質を評価できるのであって、それがいわゆる目利きということになる。客観的な尺度に頼らないと評価できない人と、自分のドメインナレッジを頼りに評価する人とでは、その評価の重みに差が出てくる。
ドメインナレッジは、やらされながらでもある程度のところまではベースはできるが、ある時点で本人が意志を持って構成しようと努めないと積みあがっていかない。逆に言えば、本人の学習の意志が弱くても、とにかく続けさせればある部分は知識として積みあがっていく面がある。アールグレイの話で始めたので、お茶をたとえとして続ければ、私は幼い頃からずっと緑茶党で、緑茶は二十数年飲み続けていることになる。普段は考えもなしに飲んでいるので知識の軸も何もないが、ある時何かのきっかけで、緑茶の味について意識するようになるとする。するとそれまでの緑茶を飲んだ経験のある部分は知識化されて、判断の軸が形成される上、それまでに味覚としては緑茶を知覚するセンサーがある程度鍛えられているはずである。あるいは緑茶を飲み続けたおかげで、アールグレイ紅茶の味を判別する力が蓄積されたという面もあるかもしれない。
なので、ドメインナレッジを身につけるには、本人の自発的な学習意欲の形成に頼る部分は大きいが、その一方では有無を言わさず教え込む環境が果たす役割もある。特に高度な自発性が形成されていない子どものうちは、とにかく大事と思うことを教え続けることも必要だと思う。そういう点で、子どもの学習環境と成人の学習環境を考える際には、一緒くたにはできない。一方的に教え込む要素と、自発的に学習テーマを形成させるための学習支援的な要素のブレンドが全く違うからだ。
子どもの学習環境では、暗唱やドリルなどの教え込みも重要な要素になるが、成人の学習においては、そういう学校的な教え込み発想はあまり望ましくない(「脳を鍛える」ゲームは、大人の頭の体操であって、学習ではない)。日々の生活の中で学習テーマを形成できるきっかけと、そのきっかけから派生してドメインナレッジの形成へと導く自然な流れをどうつくるか、ということが学習環境デザインにおいて重要なコンセプトになる。そのコンセプトを実現した学習環境が普通に提供されるようになったら、専門家がたくさん生まれて、さぞ豊かな社会になることだろう。