セカンドライフのメディア露出

 テレビのチャンネルを適当に変えていたら、CNBCで「The Business Of Innovation」という番組をやっていた(日本の日経CNBCでもやっていたらしい)。人工知能研究や教育工学の分野では「Goal-based Scenarios」などで著名なロジャーシャンク博士がメインコメンテーターとしてしゃべりまくっていたので見入っていたら、セカンドライフのCEOのフィリップ・ローズデール氏がゲスト出演していた。

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まもなく帰国

 研究のセットアップやらビザの更新やらで5月半ばからひと月ちょっとの間一時帰国しています。東京近辺でしたら時間の許す限りどこへでも参上しますので、御用の方はご一報ください。今回もいろんな方とお会いできるのを楽しみにしています。

マーケティングと満足度

 今住んでいるアパートは、結構居心地が良く、家賃が少し値上がりする以外は特に不満はないので来年も住むことにした。このアパートは築年数が古くて設備も質素、とりたててスペック面で魅力があるわけではないけれども、管理人やメンテナンススタッフは感じの良い人たちで、何か修理を頼めばすぐに来てくれるし、問題があれば丁寧に対応してくれる。ゲストが気軽に駐車場を利用できるのも良い。廊下や共用設備は手入れが行き届いている。何かプラスがあるというよりも、マイナス要素が少ないのが居心地の良さに貢献している感じだ。他の住人も同じように感じているのか、一度越してきたらそのまま居ついてしまうのか、新規の入居はすぐに一杯になってしまうらしい。
 (ちなみにアパートというと、日本では2階建てくらいの小規模なものをイメージするけど、アメリカのアパートは一般にサイズはそれよりずいぶん大きい。うちのアパートは6階建てのホテルのような建物に全部で150室くらいある。日本で言うところのマンションの方がイメージが近い。念のため、英語でマンションと言うと、大豪邸のこと。日本の分譲マンションを英語でアメリカ人に説明したい時は「コンドミニアム」「コンドゥ」と言っておけばだいたい近いイメージを共有できる感じ。賃貸はマンションもアパートも同じく「アパートメント」。)
 一方、近所にもう一つ、留学生がよく入っているアパートがある。家賃はほぼうちのアパートと同じくらい。ただそちらのアパートはフィットネス施設や住人専用の送迎バスなど、設備やサービス面でこちらにはないものをいくつも提供している。入居者募集パンフレットも立派なものを作っていて、グループでまとめて申し込むとグループ割引で家賃が安くなるサービスもある。傍目にはそっちのアパートの方が快適そうで、そのせいもあって新入生には人気が高い。ただ、翌年には転出する人が多いので、毎年結構空きが出る様子。
 そこの住人に話を聞くと、あまりいい話は出てこない。管理人やスタッフは感じが悪く、メンテナンスは十分でない。バスは勝手にサボったりするので当てにならない。挙句には転出時にあれこれ難癖をつけられて敷金をずいぶん差し引かれるので、入ってから出るまで気分の悪いことが多いそうだ。
 そのアパートとうちのアパートとを比べてみると、いわゆる学校で習うようなマーケティング戦略の観点で見ればそのアパートの方があれこれ工夫をしているし、実際に客は集まっている。しかし満足度は低く、非継続率が高いためにその分マーケティングコストはかさむ。ついた先から客が去って行ってしまうので、その分集客に力を入れる必要が生じる。口コミでは「あそこはやめとけ」という悪評は常に広まっている。
 かたや、うちのアパートはその点全くと言ってよいほどマーケティングらしいことはしている様子はない。集客の目玉になるような設備は何もない。特に目新しいことをするわけでもなく、余計なことをせず、当たり前のオペレーションをやっているだけ。それでも住人は居心地のよさを感じて住み続け、口コミでよい評判を聞いて他のアパートが嫌になった客が流れてくるほどだ。
 アパートでも何でも、ユーザーの満足度のツボというのがどこかにあって、それを外さなければ余計なことをしなくても満足してくれるのだろうと思う。そのツボを外していれば、どんなに見た目をよくしてもダメで、本質的でない工夫や集客のためのコスト増の必要に迫られる。顧客満足度向上だ何だとマーケティングのテクニックや知識を駆使しても、ツボを外していては空回りするし、かえって逆効果の場合もある。そういうテクニックをこれ見よがしに振りかざす人ほど、ツボの掴み方をよくわかってなかったりする。そんな状況ではパンフだウェブサイトだとやみくもに金を掛けてもダメで、むしろサービスの目先を変えて、リソースの配分を考える方に力を入れた方がよい。どんな分野もビジネスが複雑化しているように見えて、実は案外そういうシンプルなところに本質があると思う。

バージニアでの事件の影響

 テレビのニュース番組ではこの事件のことばかりやっているし、すぐ近くの州のそんなに遠くないところにある大学での事件ということもあって、ここも何となく重苦しい空気に包まれている。事件直後、ペンステートでは学長名で、犠牲者を悼むメッセージと大学のセキュリティ面や緊急時対応の説明のメールが全学に向けて発せられた。おそらく同様のことが全米の各大学で行われただろう。ペンステートの卒業生にも犠牲者が出たこともあって、ローカルニュースでもその家族の悲しみが報道され、キャンパス内の教会でもこの事件の犠牲者を追悼する会が行われている。
 アジア系だからといって直接的に悪影響などは自分の身の回りには全くないのだけれども、誰もが何となく嫌な重たい空気は感じているだろう。この事件は何系人が起こしたからどうとかいう問題ではなくて、犯人個人の不適応や精神疾患の問題だということはみんな理解している。でも、道を歩いていて、犯人に似た人相の見知らぬアジア人が目つき悪く歩いているの見ると何となく怖くなるし、アジア系以外の人たちからすれば、アジア系というだけでそんな気持ちを持つかもしれない。それは不適切でナンセンスだとわかってはいても、頭をよぎってしまう、そういう重苦しさがキャンパスに漂っている気がしてくる。出歩くのが何となく億劫な気もして、微妙な居心地の悪さがある。でも少しすれば、世の中のそういう過剰な恐怖心も落ち着いていくだろう。
 事件について大学側の対応の不備が批判されているが、適切に対応していれば未然に防げた云々の話はナンセンスだと思う。何万人もの学生がいるキャンパスを、こんな極端なケースが起こることを想定して管理するのはマイナスが大きすぎる。学生の環境不適応やメンタルヘルスの問題は大学運営共通の問題であって、大なり小なりどこの大学で起きても不思議はないし、日本でも同様の性質の凶悪事件は起こる。ただ、事件が起きた時にここまでの大惨事に至るのはひとえに銃規制の問題であって、アメリカ社会そのものの問題だ。大学のセキュリティや緊急時対応を見直す必要は当然あるにしても、銃規制の問題を棚に挙げて、大学や地域の警察を過剰に非難することには意味はないだろう。
 こういうことが自分の目の前で起きたら、自分の関わる組織で起きたらどうするか、恐怖や重圧に押しつぶされずに適切な行動が出来るのだろうか、何が適切な行動なのだろうか、危険に瀕した人を自分の身を挺して守れるのだろうか、そんな考えが頭の中を霞のように覆っている。

情報格差の壁を乗り越えるには

 前回のエントリーの査読の話に関連して、情報格差についてふと考えたこと。お金はお金を持っている人のところに集まって、経済的な格差は縮まらないという考え方は、情報についても同じか、それ以上に真だと思う。
 シリアスゲームの研究を始めて3年半ほどになる。シリアスゲームジャパン設立はたしか2004年5月だったのでそこからカウントしてももうすぐ丸3年になる。この間ずっとシリアスゲームの情報を収集、吟味する作業を続けてきた。最初の頃はたいして話題にもなってなくて、研究者の間ではゲームの研究などイロモノ扱いだったし、ゲーム業界ではシリアスゲームはビジネスにならないからすぐ消えるだろうというのが一般的な見方だった。その頃から活動を続けてきて、今はずいぶんと状況が変わって、関心を持つ人の層が広がった。
 たった3年程度の活動で、すでに自分のいるところにはシリアスゲームに関する情報の太い流れができていて、放っておいても情報は集まってくる。今回の査読のような形で、まだどこにも出ていないような最新の研究動向にもいち早く触れられる。講演などで招かれて話をする機会には、その準備のためにさらに情報収集をするので、また情報の蓄積が増える。もうこのサイクルの中にいる限りは、後から始めた人にそう簡単に追いつかれることはない。そんな感じで、身を持って情報格差はどんどん広がるというのを経験している。
 このような状況に至るのにわずか3年しか要していないのは、新しい分野(あるいは今までうまく行ってなかった分野)だということが大きい。新しいことや人がやっていないことを追求するのは、情報格差の構造の中で持たざるものから持てるものへ移行するには良い方法だと思う。誰もが価値のあることとわかっていることを追いかけるのは無難だが、その中で付加価値を見出すことは難しく、情報格差の壁を越えるための競争も激しい。もっとも、シリアスゲーム自体が価値ある分野でないとみなされてしまえば、この格差の付加価値はなくなるし、新しいことであっても誰も価値を見出さないままであればその情報を持っていることの付加価値は高まらない。この点は、新しい分野だと持たざるものから持てるものへの移行が早く行える分、その価値が無力化されやすいというコインの裏表になっていることに気をつける必要がある。
 人のやっていないことや誰も価値を見出していないことをやるのはなかなかしんどい。寄って立つ強い信念や、同じ想いを持った仲間の存在を支えにしていかないと途中で力尽きてしまう。自分ひとりの意志だけで続けられることなどそれほど多くない。前々回のエントリーで触れたように、何かを学びやすくするには、自分なりのシステムを作ったり、継続しやすい文化のなかに自分の身を置くことだ。何事も最後の最後は自分のモチベーション(気合い)が頼みになって、そのモチベーションをいかに保てるかが肝になるものの、モチベーションを保ちやすくすることは可能だ。そんなことに気をつけつつ自分が大事だと思うことを継続して追求していけば、情報格差の壁は乗り越えられる。いったん乗り越えてしまえば、その後の展開はずいぶん変わってくる。

ダメ論文と優れた論文

 ある学会の発表論文の査読を頼まれて、論文読みの日々が続いている。国際学会なので論文は英語。この分野の査読ができる研究者がつかまらなかったからか、日本でやるから日本人の査読者も入れた方がよい、ということでお呼びがかかったのかどうかはわからないが、とりあえず声が掛かってきて、結構な本数の論文を任されたので、知り合いの研究者仲間にも査読に加わってもらい、手分けをして読んでいる。
 今までに読んだ論文は、概ねレベルが高く、読んでいて面白くてつい役目を忘れて読み込んでしまう論文が結構ある一方で、文献レビューも研究方法もお粗末で、読んでいてイライラして血圧が上がってくるような論文もある。そういう時には、容赦ない手厳しいコメントを返したい衝動に駆られる。でも、提出する側の表情が浮かんでくると、そのまま抜いた刀を振り下ろすことはできなくなる。できの悪い論文は必ずしもその筆者のできの悪さを反映しているとは限らず、一つのできの悪い作品の背景にはさまざまな事情があるものだ。
 この手の学会の論文査読というのは、査読者の手元には匿名の形で渡される。匿名でなければいろんな政治や人間関係が絡むので、客観的に評価することはできなくなる。だから匿名なのは査読者にも投稿者にも都合が良い。相手が誰だかわからないおかげでこちらもコメントしやすい。なかには書かれている内容から筆者がどこの人かを容易に推測することも可能な場合もあるが、今のところどの論文も実際に誰が書いたかはよくわからない。今手にしているできの悪い論文も、たぶん大学院生か、教員になりたての若手研究者だろうとか、引用文献からどこの国の研究者だろうとか、そのくらいのことが推測できる程度だ。
 世の中には匿名なのをいいことに、容赦なく非建設的な批評を書き連ねる査読者もいるという話をよく聞く。でも、受け取る相手のことを少しでも想像できるなら、ボロカスに書いたコメントを自分が受け取ることを思い浮かべることができるなら、とてもそんなことはできない。かといって、ダメなものをそらぞらしくほめても仕方がないし、建設的にコメントするにも限度がある。明らかにレベルの低い論文を受け入れては、学会のクオリティが保てない。「この程度でも通るんだ、へへッ楽勝♪」とは思ってもらいたくない。そういう腐ったミカンを放っておくと、あっという間に周りの良いミカンも腐らせてしまう。なので、そういう時は少し知恵を絞って、建設的でありつつもその論文のダメさ加減をわかってもらうような形でコメントするよう心掛ける。
 なかには、ものすごくレベルが高く、ほめる以外コメントのしようがない論文もある。了見の狭い査読者は、そういう論文でも重箱の隅を上手につついて、瑣末な批判をあれこれ書き立てるのかもしれないが、いい論文はいい論文であって、気づいたところは指摘しつつも、素直にほめれば良い話だ。査読者とは学会のクオリティを保つための門番的な存在か、成長過程の研究者を支援する存在以上のものではないと思う。間違っても、査読者が無駄にごちゃごちゃと研究者を惑わしながら存在感をアピールする場ではない。
 それに、優れた論文を読むと身が引き締まる思いがして、自分もこういう研究をしないといけないなと励まされる。論文が栄養源となって、論文を読んだあとの仕事のノリも違ってくる。「なるほど、こういうまとめ方があるのか」と感心させられることや、読んでなかった重要文献が見つかることも多い。査読をしながら多くの気づきや学習がある。
 査読を引き受けた時はやや面倒な気がしていたが、査読者というのは吸収できることが多くて、良い論文からもダメ論文からも学ぶところがあって、なかなか楽しいものだと思った(そうでも思わないとやってられないので、半分空元気で言ってはいるけれども)。ただそう思えるのは、ちょうどよいボリュームで、良い論文が読めるから楽しめるのであって、どうしょうもないダメ論文を大量に査読させられることになったら、楽しみようがない。今回もたまたま手伝ってくれる研究者が確保できたからよかったものの、下手をすると今の3倍の本数の論文を読まされるところだったので、そうなると状況はずいぶん違っただろう。
 実際に関わってみると、査読というシステムを保つのも大変なのだなとよくわかった。多くの学会で査読なしで申し込めば誰でも発表できる形にしているのも、査読のシステムを保てないからで、そんなところで無理して査読付きにしても、学会という体裁自体が保てなくなるということなのだろう。

今日の教訓-継続性と文化と

 今日ふと考えたことをいくつか。
★続けることの大切さ
 「Don’t Bother Me Mom-I’m Learning」の翻訳書の初校ゲラが出版社から届いて、現在校正作業中。分厚い原稿の束を目の前にすると、ほんとに自分でこんなに訳したのかという気になってくる。でも一日数ページ、毎日続けて100日もやれば本一冊分の分量には達する。当たり前のことながら、「継続は力なり」で、ものすごい馬力を持ってなくてもコツコツやれば結果につながるということだ。
★グズグズも人生の一部
 夕方、半年近くぶりに大学のジムのプールに泳ぎに行ってきた。すごく気持ちが良くて、なぜもっと早くに再開しなかったのかという気になった。プールに限らず、少し面倒くさいけども自分のためになるとわかっていることは、行動を起こせば必ず、なぜもっと早くやらなかったのだろうという気分にさせられる。だからもっと早く行動すべきなのはわかっているけれども、やっぱりグズグズと行動を起こさないでいる時間が長い。そんなグズグズしている自分も自分、その時間も自分の人生の一部であって、そんな自分とどう折り合いをつけていくかというのは一生ついて回る人生の課題なのだなと思う。ちょっとした方向修正も、長い目で見れば進んでいく道も大きくずれていく。何事もちょっとしたことの積み重ねか。
★文化とは「当たり前にできること」が織り合わさったもの
 期末が近い週末のガラガラのプールで、泳ぎながらふと習慣について考えた。温暖な南の方で育った僕には、泳ぎは結構身近なもので、学校でも夏の間の体育はずっと水泳だったりして、泳ぐ機会は普通にあった。とても上手いとはいえないけれども、何か運動を選ぶとしたら上位に入るくらいには好きだし、趣味として楽しめる。一方で、スキーは高校卒業まで一度もやる機会がなかった。大学の時に一度行ったきりでまるでダメ。もうおそらく一生やりたいとは思わない。ゴルフは身近だったのでずいぶんやったけれども、テニスはさっぱりだ。
 こんな風に、自然と周りに合ったから始めたり、縁遠かったからやらなかったりしたことの組み合わせが、一人の人間の文化を形成する。その人が存在する環境、あるいはコミュニティにも複数の要素が組み合わさる形で文化となっている。何かの芸やスキルを仕込まれるにしても、それは無理やりではなく、何かその集団において必然的な理由があったり、身近だったりすることでそこで仕込まれる何かが選択される。新入社員に裸踊りを仕込むのが伝統となっている商社があったとして、その伝統もたどっていけば何らかの理由や環境的な要因がそこに存在するのだろう。
 「学びの文化」と言った場合、そこでの学びは構成員が学ばされる性質のものではなく、自然と何かが学ばれていて、自然と何かが身についていることがその集団の持つ性質となる。学ぶ意志がそこに介在する場合もあれば、介在しない場合もある。だが、その集団の中にない要素を無理やり学ばせようとするのは、学びの文化たり得ない。学習と実践の乖離は往々にしてその集団にとって不自然なことを学ばせようとする、あるいは学ぼうとすることによって生じる。企業内研修部門の担当者が企画する研修が現場の社員に評判が悪いことが多いのは、この学習と実践が乖離したものを義務的に押し付けようとするためだという見方ができる。その集団なり組織なりにはすでに文化が形成されており、その文化にとって必然的なものや自然なものが受け入れられ、不自然なものは受け入れられにくい。必然性が見えにくいものを取り入れる時の対立は、システム内のコミュニケーション、またはネゴシエーションの問題であり、導入の仕方の駆け引きもまたその集団の文化的要因の影響を受ける。
 何が継続できて、継続できないかは、その人の意志の問題であると同時に、その人が所属する集団や生活する環境の持つ文化の影響の帰結でもある。デブだらけのコミュニティに育てば、デブになりやすいし、車が不要な地域で生活すれば、車の運転技術は向上しにくい。そんな感じで、学びとは文化の影響下にあるし、文化と切り離された学びというのは定着しにくい。そのような意味において、学校とは、学習者を既存の文化と切り離して、独自に文化を作ることで、意図したものを学びやすくする存在だと言える。

松坂vs.イチローの中継での扱い

 日本でも多くの人が観ていたことだと思うけど、今日はマリナーズ対レッドソックスの試合をスポーツ専門テレビ局のESPNでライブ中継していた。
 とにかく日本語があふれていた。番組開始早々いきなり「成功」という日本語の解説から入って、球場内のあちこちに看板や、ファンの着たTシャツに日本語が書かれているのを映し出していた。さらに極めつけに、イチローの3打席目だったか、NHKの中継の音声がそのまま流されて、対戦の間1分間ほどNHKのアナウンサーと解説者の元マリナーズ長谷川さんのやりとりが全米の電波に流れていた。
 松坂・イチローのへ注目や二人の存在感は大変なものだったが、試合自体はマリナーズのヘルナンデス-城島のバッテリーがすっかり主役を食ってしまっていた。この試合の球場は満員でえらく盛り上がっている感じだったが、その後やっていた他の試合の中継では客の入りがいまいちだった。この辺りの勢いの違いには、レッドソックスの松坂への投資が余裕でもとが取れるというのがなるほどと思わされる。パイレーツの桑田投手への期待が高いのもよくわかる。
 最近のアメリカのメディアは日本のものや日本語がずいぶんよく出てくると思っていたのが、松坂人気でさらに盛り上がって、どこまで加熱するのか気になるところだ。

目の前の難題とブログ

 何か難しい問題に取り組んでいると、ふとブログで書きたいネタが浮かぶ。そういう時は頭がさえているので、自分の納得のいくものが書けることが多い。取り組んでいる問題が難題で厄介なものほど、その傾向は高まる。
 でもそうやってブログを書くことに時間を使っていて気づくと、肝心な目の前の難題は片付かないまま時間は過ぎていく。これではマズイと思って、どんなにブログネタが思いつこうが目の前の問題に集中することにした。
 するとブログの更新頻度は下がるものの、問題の方はその分前進するというわけではなく、停滞して生産のない時間だけが累積していく。
 ブログを書くのは頭のさえてない時間にしようと思って実行してみると、頭のさえない時間というのはそもそも生産的でないので、たいした物は書けない。ネタをストックしてあってもそれを形にできないほどに頭がさえてない。仕事が一区切りして暇な時にブログを書こうとしても、難題から逃げて書いている時ほどによいものがかけないことが多い。
 そんなことの繰り返しで、結局のところは仕事のできる頭で、現実逃避でブログに向かっている時が一番ましなものが書けるという状態になっている。こんなことをグダグダ書いている今は、書き出すと時間がかかるものに手をつけるとマズイ、でも目の前の仕事は進まないので何か他のことをやりたい、というせめぎ合いの状況にいる。こういうときにぐずぐずせずに、目の前の難題に集中して仕事が進むようになりたいものだ。生産性でもう一歩レベルを上げるための今の自分の課題だ。

やったつもりになってやってないこと

 最近ふと思うのだが、何かふとアイデアが浮かんで、やろうと思っていてやらずに忘れていて、そのまま脳内で完結してやったつもりになってしまっていることがよくある。
 特にブログのネタを思いついた時にその傾向が多い。あ、これブログに書こう、と思いつくことは日々結構あるのだが、忙しくなって書けない時や、書きかけてうまくまとまらずに下書きのまま放置してしまうことがよくある。
 困るのは、再び同じことを思い出した時に、実際に行動したかどうか自分ではっきりしないことだ。ブログであれば、本当に書きたいものなら過去ログの検索でもして書いていないことを確認してでも書くのだが、そうでもないものはどっちだったか悩んでいるうちに面倒くさくなってやめてしまう。そんな感じでボツになったネタは結構ある(ブロガーの皆さんはそんな経験ないでしょうか?)。
 今もこういうネタで前に何か書いた気が少ししながら書いている。これは普段考えていることが多すぎるのか、それとも生活が単調なせいなのか。あるいはこれは老化の始まりか!?いずれにしても、思いついたことはメモなり何なりして、脳の外で管理する習慣をつけた方が間違いなさそうだ。