前の2回分サボってしまったので、3回分まとめての授業日誌。連休前の第3回授業では、前半に「シリアスゲームの対象と領域」について解説をして、後半に「シリアスゲームの発想」と題してのミニワークショップを実施。学生たちに「学校」の意味を考えてもらい、ワークシートを埋めながらゲームの企画アイデアの頭出しをしてもらうという内容。
どうもシリアスゲームというのは、一般的には「つまらなそうなゲーム」という印象を持たれるようで、学生たちの多くはつまらないのを覚悟してあまり期待せずに履修してくれたみたいなのだが、いろんな事例を知って、企画の練習をしていくにつれて、「遊ぶのも作るのも面白そう」という反応が返ってくるようになったのがうれしいところ。
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サントリー山崎蒸留所に行ってきた
「DS」で自作教材配信:この仕組みをどう考えるか?
自主制作した教材をニンテンドーDSへ配信して授業やイベントなどで利用できる仕組みが提供されるそうだ。同じく、少し前に施設ガイドサービスの記事も出ていた。
任天堂、「DS」の用途拡大 学校で自作教材を配信 (Nikkei net)
東京ディズニーリゾート内の商業施設、DSが「ガイド」 (Nikkei net)
使ってみたわけではないので、どう評価するかは使い勝手や何かを加味した上で考える必要があるのだけれども、この仕組みについてどう考えるかは、教育メディア研究のテーマとして面白いと思う。ケータイでも同様のことはできるだろうし、普及の度合いから見ればケータイの方がまだやりやすいところはあるかもしれない。この手の話は、使いやすいツールがパッケージとして提供されるかというところと、現場で利用する際の使い勝手にかなりのところ影響される。
用途として、これで何ができるかを考えるのも面白い。授業の確認クイズだけやってもあまり面白くない。従来型の教室授業をやる中で補助的に取り入れるやり方は、実際には思うようにはうまくいかないと思う。授業中に質問を送るとかいったことはケータイでもやっている事例はあるものの、このスタイルが普及しないのは入力端末としての使いにくさや教育する側がうまく使いきれてないところにある。目新しさとデータの処理のしやすさ以上の付加価値を出すには、学習活動のデザイン自体にかなり手を入れる必要が出てくる。授業の時に配布して、授業の後に回収するというやり方だと制限が大きく、そういう形であればミュージアム見学やフィールドワークのような教室外活動での利用の方がまだやりやすい。
教育メディアの普及の観点からみると、もともと教育の場で利用するモバイルメディアが「DSでないといけない理由」はない。むしろこういうサービス提供やそのニュースを通じたパブリシティによって「DSを使う理由」が積み上がっていって、気がつくといつの間にかDSが教育メディアとしてご指名を受ける状態になるのかもしれない。もともと敵視されていたゲーム機が教育の場に入り込んできて、逆により実用的な携帯電話が学校で必要な学習メディアとして認識されるチャンスを逸しつつあり、最近では持ち込み禁止などと敵視されるようになってきているのは対照的だ。
こういうものについて「面白いことができそうだなぁ」とは誰でも考えるし、一つ二つアイデアを思いつくことはできるかもしれない。しかし実際にそれを実行して成功するのはものすごい労力が要る。それにたとえ一つの事例がうまくいったとしても次になかなかつながらない。今までそうやって「面白いこと」が出てこないままに消えて行ったメディアやサービスも数知れない。用途開発にも普及にもいろいろと障壁があるわけで、それらを乗り越えるには研究開発の努力が必要になる。この事実は教育の世界で軽視されがちだと思う。
シリアスゲームフォーラムと授業のこぼれ話
今週は水曜にスリーロックさんのところで開催しているシリアスゲームフォーラムの2回目と、木曜に工芸大で担当している「シリアスゲーム論」の2回目の授業があった。シリアスゲームフォーラムについてはシリアスゲームジャパンの方に記事を掲載した。
今回のフォーラムは、僕は司会進行で、ゲストスピーカーのコーエンさんが話す内容にその場で訳と注釈を入れるという役回りで参加した。こういう形でセッションをやったのは初めてだったのだけども、これはなかなか忙しかった。自分が理解していないものはその場では訳せないし、聞いている人に馴染みのない話題にどこまで注釈を入れればよいかというさじ加減も推し量りながら話す必要があって、いろいろと気を遣う。職業で通訳やっている人というのは大変だなとつくづく思った。よかった点としては、ゲストを呼んで話してもらって自分は進行役として参加するスタイルだと、自分が内容を用意して話すのと違って自分独りではカバーしきれないことを学習できるし、その分野の知識を持った人の考えによい形で触れることができる。今回はその良さを存分に味わった。
フォーラムの翌日は工芸大で「シリアスゲーム論」第2回。厚木キャンパスまで通勤に2時間近くかかるのが厄介なのだが、週1回だし夕方の授業なのでそんなに電車もバスも混んでないのがありがたい。今回はゲームと学習についての授業。教育方法にあれこれ工夫を盛り込もうとしているのだが、まだ慣れてないこともあって工夫すればするほど手間がかかる状況でイメージしているところまでは準備が追い付かない。やりたいことをザクザクとリストラしながら授業に臨む。
こんな風にある程度の人数を教える教師の立場になってみると、ラーニングマネジメントシステム(LMS)のありがたみを感じる。LMS自体は直接教育の質を高めなくても、作業を効率化して質を高めるための活動に時間が使えることで、結果的に提供する教育内容の質は上がる。LMSを使う意味の第一歩はそういうことなのだろうと思う。当然その前提として、教育の質をよくしたいという意欲とビジョンがないとダメなのだけども。今は全部紙で書かせて運営するスタイルなので手元の紙が増えて困るし、その管理に時間をとられるために提供できる教育内容に影響しているような状態だ。
いろいろと知恵の絞りどころがあって、授業は準備も実践もとても楽しく担当させてもらっている。今までは学習活動の青写真を描いたり教材を開発したりという活動が中心で、自分が直接教える場にいる機会は少なかったために味わえなかった楽しさがここにある。講義しているだけだと学生の反応は見えにくいのだけども、ワークショップで議論するスタイルにすると様子はずいぶん変わる。ワークシートで自分の考えを書かせて見ると、学生たちは意外とよく物事を考えていてモチベーションもあるし、みんな結構見どころがある。教えるこちら側にすれば、反応がいちいち新鮮なので、どこをとっても楽しさがある感じ。
レクチャーが少し長くなると寝てしまう学生もいることはいるのだけども、自分の学部生時代を思い起こせば文句を言う気にもならない。自分自身、どんなに話のうまい先生の講義でも聞くだけの状態では持たずに寝てしまう学生だったので、気持ちはよくわかる。それにデジタルネイティブの話にも出てくるように、楽しいインタラクションは今の学生にはさらに重要な要素なのだろう。
授業はこれから、シリアスゲームの企画やデザインの話に入って行きながら、並行してグループプロジェクトの活動やゲストセッションが続いていく。ただハードなだけではお互い苦痛だし、だからと言って手を抜くととたんにつまらなくなってしまうので、教える側にも学ぶ側にもハードファンな授業の場にしていこうと思う。
「デジタルゲーム学習」発売
先日もご紹介した拙訳書「デジタルゲーム学習―シリアスゲーム導入・実践ガイド」がアマゾンほかのオンライン書店に並び始めました。シリアスゲームジャパンに訳者前書きと目次を掲載してます(「デジタルゲーム学習」の内容紹介)。
これでシリアスゲーム書3部作が完結して、このテーマに取り組みたい人のための入口となる日本語文献がある程度のボリュームで提供できるようになったことをうれしく思っています。企画段階から早3年、3作まとめて面倒見ていただいた出版元の東京電機大学出版局さん、特に編集をご担当いただいた松崎真理さんには長期にわたり大変お世話になり、大変感謝しております。
本書はこの分野に関心のある方にはとても充実した一冊となっております。既刊の拙著とあわせてお読み頂くとさらに理解も深まりますので「シリアスゲーム―教育・社会に役立つデジタルゲーム」、「テレビゲーム教育論―ママ!ジャマしないでよ勉強してるんだから」(重版になりました)ともどもよろしくお願いいたします。
「シリアスゲーム論」開講
東京工芸大学芸術学部アニメーション学科ゲームコースで担当している「シリアスゲーム論」の1回目の授業を行いました。授業は主に3年生が対象(3年生がコース1期生)で、ちょうど裏番組のない遅い時間帯のせいか、対象の学生の大半(50人くらい)が出席してくれました。
今回は初回なので、簡単なガイダンスと、ウォーミングアップとして「自分自身のゲーム経験を掘り起こす」ミニワークショップを行いました。帰国前後の研究の合間にバタバタと準備せざるを得なかったこともあって、ねらった通りの反応をしてくれるかヒヤヒヤしていましたが、学生たちの様子を見る限りでは期待した感じの反応をしてくれました。
コース主任の岩谷先生のリードもあって、リハビリゲームの例などみんなよく知っていてシリアスゲームへの関心は思った以上に高く、自分のゲームアイデアのネタを増やしたい、自分の幅を広げたいと意欲を持った学生たちの意気込みはこちらの期待以上でした。教える側としては張り合いがあって、かなり楽しめそうです。
これまで教育方法についていろいろと研究してきた身としては、いろいろ試したいアイデアがたくさんある一方で、面倒なお仕着せの学習を強いられるのが嫌いな性分なので、そういう学習者としての自分のテイストというか好みの部分を反映した授業作りをしていこうと考えてます。いろいろな面で初の授業なのでまだ手探りながらも、シリアスゲームについて見識をもったゲームクリエイターに育つきっかけを得てもらえるよう、いろんな工夫を取り入れながら楽しんで学んでもらおうと思います。
「デジタルゲーム学習」完成
昨日帰国しました。研究活動も次の山を一つ越えてきました。まだ山脈のように山が連なっているようで、今年また何度か渡米することがありますがいずれも短期で済ませるので、今後は何週間も海外で過ごす予定はありません。
帰宅したら出版元から「デジタルゲーム学習」が届いてました。ぼちぼちオンライン書店各店で掲載がはじまっていて、アマゾンでは予約開始前の状態です。一般書店にも今週からそろそろ店頭に並び始めるようです。また後日内容もご紹介します。
それから、シリアスゲームジャパンでも告知してますが、来週22日にシリアスゲームフォーラムを開催します。セカンドライフが注目を集めた後に急速に盛り下がって以降も、仮想世界における学習実践活動はあちこちで行われています。それらの事例について詳しいゲストスピーカーにお越しいただいて、仮想世界プラットフォームを利用した学習活動の可能性について議論します。このテーマに興味のある方はぜひご参加ください。
家路に着く男たちのテーマ
こちらでの活動も一区切りついて、ようやくあさって帰国できる。何はともあれ、健康で無事に帰れるのはありがたい。自分のような留学も含めて、単身赴任とか異国での支援活動とか、いろんな事情で遠くから国に帰る人たちには、そんな気持ちを歌った曲が心にしみる。なので今回は、そういう家路に着く人のためのテーマソング特集。
まずは、イラクやアフガンに派遣された若い米兵たちも少なからず聴いているらしいこの曲。アメリカンアイドル出身のChris Daughtryのファーストアルバムからの曲。
次は、30代後半以上の年長の洋楽ファンのお兄さんたちにはこちらの方が馴染みがありそうなこの曲。
この曲は、アメリカンアイドル出身のカントリー歌手にカバーされていて、モトリーのコアなファンからは非難の嵐なのだけども、結構悪くない感じなのでよかったらこちらもどうぞ。
最後におまけで僕が大学時代に帰宅のテーマで聞いていた、80年代後半~90年代に人気を博していた(その後もシンガーが代わり人気は続いてる)ドイツのメタルバンド、Helloweenの曲。オリジナルはもっとうるさいのだけども、このオリジナルを歌っていたシンガー、マイケル・キスクが昨年、セルフカバーのアコースティックアルバムを出していたというのを今知った。この曲を聴いてると懐かしさと同時に、いろんな痛い思い出がよみがえってくるのでなんとも複雑な心境になるのだけども、それはそれで音楽というのはいいものだと思う。
ジャンルが偏っててすみませんが、どのジャンルにもこういうテーマの曲はあると思う。こういう選曲って仕事で接する時とかには触れられないようなその人の趣味が出ると思うので、そういうことを話す機会があるといいのになと普段思うのだけども、社会に出て仕事ばかりしている日常ではそういう機会ってなかなかないなと思う。まあ、自分が聞いてる音楽があまりメジャーでないせいで、そうそう人と音楽ネタで盛り上がれたりはしないのだけども。
「がんばった自分」の評価尺度
帰国まであと1週間ちょっと。合宿生活にもかなりへばってきた。ずっと自分のできないことに挑戦する生活は、体力的には続いても、精神力がなかなか持たない。やっと帰国できるのでせいせいしている。帰国してすぐに工芸大の担当授業が始まるし、長くかかった翻訳書が4月20日に出るのがとても楽しみだ。
今はひたすら研究を進める毎日が続く。何事も作業に慣れてくると、一度やったことのある作業や頭を使わないで済む事務作業はいくらでも進む。一方で知恵と創造性を働かせて新しいことを考える作業、たとえばデザイン案の修正や研究枠組の設定のような作業はなかなかそうも行かない。自分の能力の限界までやって、筋肉に乳酸がたまったような状態が続くと、ある時点で脳みそが降参して、頭が考えようとしなくなる。
知的な活動も身体的な運動と同じようなもので、普段頭を使わないで急にやると筋肉痛になるし、負荷の高い状態が続くとパフォーマンスが下がる。スポーツ選手ならコーチがモニターしてくれて、ちょうどよいさじ加減をチームで探ることができるけども、研究活動のような頭の中で作業が進むものは、そういう状態を作るのが難しい。書いたものや何やのアウトプットから多少は成果を評価できるものの、普段1キロ何分で走ってて今日は何分だから調子が悪いとかいった風に、そのときの調子を客観的な指標で理解することが難しい。書いたものの質が評価できるのはその分野にいる一部の研究者でしかないし、その評価者の信頼性確保の手段自体がかなり怪しいこともある。量で評価するのがとりあえずは客観的な指標にしやすくても、研究を量で評価するのはそれはそれで別の問題がある。
なので、自分がどれだけがんばったかというのは、至極主観的な、そのときの感覚でしかない。「オレ、今日はがんばったなぁ」と自分をほめてあげる評価ラインの設定も、尺度自体は客観的な目標にしていても、設定根拠は至極主観的なものだ。「これくらいやったらいいだろう」だったり「これくらいやらないとダメ」だったり、それぞれにいろいろな意図が入って決まる。何かに参加しただけでそんな気になれる人もいれば、ノーベル賞とか金メダルとか、そういうのを受賞してようやくそんな気になれる人もいる。
自分自身のがんばり具合を振り返ってみると、いつもその時々でそれなりに自分の限界には挑戦していた気がする。でも、今からみれば、3年前の自分も去年の自分も、半年前の自分も、全力というにはあまりに気合不足で、技術的にも未熟だったと思う。それなりに余暇の時間はあってゲームやマンガやテレビを楽しむ時間はあったし、ちょっと疲れたら気分転換と言い訳してはこんな風にブログを書いたり、人に頼まれた仕事をダシに、急ぎだからとそっちを優先して肝心なことから逃避していたり、そういうムダや下手くそな時間の使い方も含めて、そのときの自分は「これだけがんばったんだからちょっとぐらいいいじゃんか」と思っていたし、その感覚は今でも変わらない。
多分変わったのは、自分のスキルが上がったことで、同じように力を使ってやったことがもう少しよい成果につながっているということと、これだけがんばった、と感じる基準がいつの間にか上がっていたということだろうか。余暇時間が減ったとか、行動として現れている部分で少しは把握できても、微妙な内的な変化は傍目にはわからない。状況としては、心の病などで気持ちが弱っている状態が外からは見えにくいのと似ているかもしれない。
後で振り返ってみて、あの時もう少しやれたんじゃないか、と思うこともあるし、いつもそのがんばっている最中には、実はまだ余力があったと感じることが多い。さっき書いたように、スポーツなら自分の状態をモニターしながら限界まで力を出し切るようにサポートしてくれるコーチやセコンドがいるわけだけども、そういう存在はいないので、面倒だと思った時点で切り上げたり、どうしても自分のがんばりへの評価にはばらつきがでる。
あまり根本的な解決策ではないけども、そういう状況を少しはマシにするために、とりあえず「今の自分がまだがんばれることを知っている未来の自分」をそういう存在にして「まだやれる。甘い」という未来の自分の心の声を聞きながら、経験のある過去の自分に能力的なバランスを見てもらって無理をし過ぎないようにするということだろうか。これで少しはコーチ代わりになるかなというところ。夢に日付を入れるとか、客観的な数字で小目標を立てるとかよく聞く方法は、この未来の自分を外部化するテクニックだろう。そういうものと組み合わせて考えるのは良い方法かもしれない。そういうのもやり過ぎは身体に悪いのでほどほどにした方がよいのだけど。
まあ、長々書いたけれども、疲れた頭から出てくることを手が勝手に打っているような状態なので、あまり真に受けず適当に流してください。
ペンシルベニアとペンシルバニア
週末の夕食後の息抜きに軽い話題で、Pennsylvaniaの日本語表記は、「ペンシルベニア」か「ペンシルベニア」か、という話。
僕が留学してきた2002年頃は、表記としてはペンシルバニアの方が一般的だったような気がしたのだが、最近のネット上の大手メディアのニュース記事などでは、ペンシルべニアに統一しているような感じで、ペンシルベニア、の方の表記が目立つようになってきた気がする。
昔ペンステートやペン大に留学した人の略歴などを見ると、たいがいはペンシルバニア州立大学、ペンシルバニア大学、という表記を使用している。州政府の日本代表事務所というのがあって、ここでも以前はペンシルバニアという表記をしていた。なので慣用的な表記はペンシルベニアで、固有名詞化しているものにはペンシルバニアが標準かなと思いつつ使っていた。まあ、どちらでもいい感じで特に気にしてなかったのだが、この話、変化の動きがある様子。
まず上記の日本代表事務所は、サイトリニューアルか何かのタイミングで、いつの間にか「ペンシルベニア州政府日本代表事務所」になっていた。それと、Wikipediaでも以前から「ペンシルバニア」の表記を採用しているのだが、よく見てみるとペンシルベニアへの表記変更提案がまさに現在形で進行していたらしい。そして、どうやら表記変更が採用されたようで、今見たら主だったページはペンシルベニアに変更されている(このWikipediaの件は、ごく一部のこのテーマに関心のある人たち、あるいは表記を統一しないと気持ち悪いと感じる人たちが議論に参加して、それで決定してしまうという意思決定プロセスが別の意味で興味深い)。
発音がどちらかと言えばペンシルベニアの方が近い、というのはそうなんだけども、べかバかよりは、音的に正確に表記しようとすると「ペンシルヴェィニア」という感じで、間にある「ィ」の発音の方が大事だったりするので、話し言葉の時はこっちの方を気をつけた方がよい。基本的にはペンシルバィニア(イギリス英語風)でもペンシルベィニア(アメリカ英語風)でも普通に通じる。そういえばConference の表記が「カンファレンス(アメリカ英語風)」と「コンファレンス(イギリス英語風)」で以前は並存していた気がするけども、最近は「カンファレンス」の表記が主流になってきたのと似たようなもんかなと思う。
まあそんなわけで、最近は「べ」派が勢いがあるのかなと思いつつ、じゃあそっちに切り替えようかなとも思ったのだけど、グーグル検索してみると、66万件対1万3800件で、実は「バ」派が圧倒しているという状況をどうするかという問題が残る。戦艦ペンシルバニアやペンシルバニアホテルなど、昔から使われている固有名詞はみんなペンシルバニア表記なのだからそれもそうかという気もしてくる。
で、結局のところは振り出しに戻って、日常の慣用表記はペンシルベニアで、大学名とか固有名称にはペンシルバニアをしばらく使っておくかという結論で、とりあえずはこのままにしておくことにした(変えるのが面倒くさいだけという話もある)。
ついでに話題にしておくと、ペンシルバ(べ)ニア大学とペンシルバ(べ)ニア州立大学、というのも普通の人には紛らわしい。前者はUniversity of Pennsylvaniaでこちらは私立大学、後者はPennsylvania State Universityで州立大学。全く系列違い。いろんな機会によく間違われて「ペンシルベニア大学」と書かれることが多いのだが、国内に置き換えれば県名を付けた○○大学というのと、○○県立大学を一緒くたにしているようなものでで、べとバの話よりは州立が入ってるかどうかの間違いの方がむしろ大きかったりする。自分もこの大学と関係ない人だったらたぶん間違えるだろうなと思うので、間違えられてもしれっと直してるだけで普段はたいして気にしない。
こういうまどろっこしくて面倒な話は、小ネタにしてもやっぱりまどろっこしくて書いててもすっきりしない。それに疲れてるときの方がこういうのはつい悪ノリして長くなってしまうので、今日はこの辺で。