「がんばった自分」の評価尺度

 帰国まであと1週間ちょっと。合宿生活にもかなりへばってきた。ずっと自分のできないことに挑戦する生活は、体力的には続いても、精神力がなかなか持たない。やっと帰国できるのでせいせいしている。帰国してすぐに工芸大の担当授業が始まるし、長くかかった翻訳書が4月20日に出るのがとても楽しみだ。
 今はひたすら研究を進める毎日が続く。何事も作業に慣れてくると、一度やったことのある作業や頭を使わないで済む事務作業はいくらでも進む。一方で知恵と創造性を働かせて新しいことを考える作業、たとえばデザイン案の修正や研究枠組の設定のような作業はなかなかそうも行かない。自分の能力の限界までやって、筋肉に乳酸がたまったような状態が続くと、ある時点で脳みそが降参して、頭が考えようとしなくなる。
 知的な活動も身体的な運動と同じようなもので、普段頭を使わないで急にやると筋肉痛になるし、負荷の高い状態が続くとパフォーマンスが下がる。スポーツ選手ならコーチがモニターしてくれて、ちょうどよいさじ加減をチームで探ることができるけども、研究活動のような頭の中で作業が進むものは、そういう状態を作るのが難しい。書いたものや何やのアウトプットから多少は成果を評価できるものの、普段1キロ何分で走ってて今日は何分だから調子が悪いとかいった風に、そのときの調子を客観的な指標で理解することが難しい。書いたものの質が評価できるのはその分野にいる一部の研究者でしかないし、その評価者の信頼性確保の手段自体がかなり怪しいこともある。量で評価するのがとりあえずは客観的な指標にしやすくても、研究を量で評価するのはそれはそれで別の問題がある。
 なので、自分がどれだけがんばったかというのは、至極主観的な、そのときの感覚でしかない。「オレ、今日はがんばったなぁ」と自分をほめてあげる評価ラインの設定も、尺度自体は客観的な目標にしていても、設定根拠は至極主観的なものだ。「これくらいやったらいいだろう」だったり「これくらいやらないとダメ」だったり、それぞれにいろいろな意図が入って決まる。何かに参加しただけでそんな気になれる人もいれば、ノーベル賞とか金メダルとか、そういうのを受賞してようやくそんな気になれる人もいる。
 自分自身のがんばり具合を振り返ってみると、いつもその時々でそれなりに自分の限界には挑戦していた気がする。でも、今からみれば、3年前の自分も去年の自分も、半年前の自分も、全力というにはあまりに気合不足で、技術的にも未熟だったと思う。それなりに余暇の時間はあってゲームやマンガやテレビを楽しむ時間はあったし、ちょっと疲れたら気分転換と言い訳してはこんな風にブログを書いたり、人に頼まれた仕事をダシに、急ぎだからとそっちを優先して肝心なことから逃避していたり、そういうムダや下手くそな時間の使い方も含めて、そのときの自分は「これだけがんばったんだからちょっとぐらいいいじゃんか」と思っていたし、その感覚は今でも変わらない。
 多分変わったのは、自分のスキルが上がったことで、同じように力を使ってやったことがもう少しよい成果につながっているということと、これだけがんばった、と感じる基準がいつの間にか上がっていたということだろうか。余暇時間が減ったとか、行動として現れている部分で少しは把握できても、微妙な内的な変化は傍目にはわからない。状況としては、心の病などで気持ちが弱っている状態が外からは見えにくいのと似ているかもしれない。
 後で振り返ってみて、あの時もう少しやれたんじゃないか、と思うこともあるし、いつもそのがんばっている最中には、実はまだ余力があったと感じることが多い。さっき書いたように、スポーツなら自分の状態をモニターしながら限界まで力を出し切るようにサポートしてくれるコーチやセコンドがいるわけだけども、そういう存在はいないので、面倒だと思った時点で切り上げたり、どうしても自分のがんばりへの評価にはばらつきがでる。
 あまり根本的な解決策ではないけども、そういう状況を少しはマシにするために、とりあえず「今の自分がまだがんばれることを知っている未来の自分」をそういう存在にして「まだやれる。甘い」という未来の自分の心の声を聞きながら、経験のある過去の自分に能力的なバランスを見てもらって無理をし過ぎないようにするということだろうか。これで少しはコーチ代わりになるかなというところ。夢に日付を入れるとか、客観的な数字で小目標を立てるとかよく聞く方法は、この未来の自分を外部化するテクニックだろう。そういうものと組み合わせて考えるのは良い方法かもしれない。そういうのもやり過ぎは身体に悪いのでほどほどにした方がよいのだけど。
 まあ、長々書いたけれども、疲れた頭から出てくることを手が勝手に打っているような状態なので、あまり真に受けず適当に流してください。